last up date 2006.05.11

不自然な死への欲求


1.死はしばしば甘美である
2.人は何故死を恐れるか
3.それでも抱く、死の魅力とは
3-1.逃避
3-2.永遠不変のため
3-3.主張の手段
3-4.他者の救済
3-5.感情の収束点
3-6.自らの認識への攻撃
4.生と死との相克に於いて

余談 個人的には
蛇足 死を恐れないことを謳う状態−戦争


1.死はしばしば甘美である

 死は、人間にとって、しばしば甘美である。
 すべての生命体にとって、死は、究極的には必ず訪れる終焉である。時間とともに組織が衰え、やがて死ぬ。こうした老化は、個体の新陳代謝によって進化を促すため、あるいは個体数を調整し、近親交配を抑制するため、遺伝子に刻まれたプログラムである。こうした緩慢な自然死は人間にとっても他の生物同様、いつかは必ず訪れる。だが、そうした老化・衰弱の末の死ではなく、何らかの突発的要因による死もあり得る。打撃によって体組織を破壊される。あるいは体組織を引き裂かれる。外傷によって血液を失う。酸素を摂取することが出来ず細胞が壊れる。こうした突発的な原因による不自然な死に対しては、あらゆる動植物、原始生物に至るまで、本能に於いてそれを忌避し、あらゆる能力でもってそれを回避しようと試みる。人間も例外ではない。だが、人間はしばしば、こうした不自然な死に対して憧憬を抱くことがある。ある者は、実際に自らの手によって、己が体組織の生命活動を停止させてしまう。最も恐れられ、避けようとするものであるはずに死を、なぜ人は甘美なものと思うことがあるのか。
 ここでは死そのものを目的とする人間の心理・思考について考察する。その為、自殺を仄めかすことによって何らかの目的を果たそうとする未遂や予告はまったく別の事象として捉え、ここでは扱わない。また、宗教的な輪廻転生や死後の世界とやらについては、一切触れない。宗教的見地を度外視して、考えていきたい。さらには、特に理由らしきものもなく、それにもかかわらず死以外に選択肢がないような発想に陥る病理的精神状態についてもここでは触れない。


2.人は何故死を恐れるか

 何故、人は死を恐れるか。本能と言えばそれまでだが、その内容を分解していくと次のような要因を見出せる。
 まず、痛み、苦しみへの恐怖。不自然な死には、痛み・苦しみが伴うことが多い。もちろん一酸化炭素中毒など、眠るように意識が混濁してそのまま死に至るパターンもあるが、刃物で組織を切り裂かれたり、鈍器でぶっ叩かれたり、高所からの墜落、自動車事故など、死をもたらす要因の多くは痛み・苦しみを伴う。痛みや苦しみが、生命の危険を知らせるための信号であることを鑑みれば、苦痛への忌避が死への忌避に結びつくのは当然のことだ。死の危険を前にして人が突発的に思うことは、痛いのは嫌だ、苦しいのは嫌だ、ということではなかろうか。
 だが、さほど痛みを伴わない死もある。前述の一酸化炭素のように、さほど苦しみを伴わないが人体に極めて有害な物質もある。工場や実験室で、そのような有毒物質が充満していると気づき、意識が混濁し始めてきたとき。痛み苦しみはなかろうとも、やはり人は死を恐怖する。痛みだけでは、死への恐怖の説明にはならない。


 次に、自分の今後の可能性が閉ざされることへの恐怖。例え、日々同じようなことをやり、艱難に堪え、面白いことの一つもないような気分で暮らしていたとしても、いざ死の危険に直面すると(この場合は、やや緩慢な危険かもしれない)、ごくごく些細な日常がとても大切なもののような気がしてくる。日常の雑多なことをまたやりたい、生きて今まで出来なかった、しなかったことをしたい。こういう思いもまた、死を回避し、生きようとするエネルギーとなり得る。


 そして、自己の死が及ぼす他者への影響も、死への忌避要因に数えられる。自分が死んだら、親兄弟や親しい人々が悲しむであろう。経済的にも精神的にも支柱を失って困窮することであろう。死に直面したとき多くの人間は、このように家族のことを考えるのではなかろうか。
 例えば私が今ここで何らかの原因で死んだとする。会社は無断欠勤が続く、電話にも出ないとして不審がられるであろう。家族もまた連絡がつかないと、次第に不安になってくる。会社から実家へも、いずれは無断欠勤の連絡が入る。そして、家族が合い鍵を持って私の部屋までやってきたとき、私が倒れていたら。まさかと思いつつ、家族は私に駆け寄る。手に触れた私の身体は冷たいばかりではなく、安物の合成樹脂のような堅さだ。この感触は、家族を絶望させるに十分なものである。
 ・・・こんな様を考えただけで、決して家族をそのような目に遭わせてはならぬとの思いを抱く。


 あと、自己の存在がなくなることそのものへの恐怖・・・というものも考えたが、これは上の「自己の可能性」「他者への影響」に分類されるのではなかろうか。


3.それでも抱く、死の魅力とは

 前述のように、死を忌避する理由は複数あるが、それでも人はしばしば死を甘美なものと思いたがる。そして実際に、不自然な形で脳の活動を停止せしめる者もいる。こうした人々は、死に対して何を見出しているのか。死に至るまでの痛みや苦しみに耐え、あるいはそれを最小限にするための工夫を凝らし、自らの今後一切の可能性を捨てて、自己の死が他者にいかような影響を与えるかまで覚悟して、それでもなお死に向かう原動力は何か。あるいは、自己の今後の人生についての思索や、他者がどのような情念を抱くか想起そのものさえ放棄させる、死の魅力とは何か。


3-1.逃避

 簡単に考えられる理由は、逃避。
 死ねば、あらゆる艱難から逃れられる。他者の暴力に苛まされることも、金銭の工面に悩むことも、期待や責任に押し潰されることもなくなる。恥や罪といった自己の情緒も、自己の存在ごと消滅せしめることができる。例えば、すべてを失い素寒貧になって、物乞いをしつつ路上生活という惨めな暮らしが嫌だから死ぬ。罪を犯して逃げ切れないと悟ったとき、刑罰を受け報道にさらされるのが怖くて死ぬ。敵国に占領されたら、自分たちは陵辱され奴隷化されるからその前に死ぬ。失敗に対しては自らの死を持って償うことこそ潔いという社会に於いて、臆病者との汚名をかぶっていき続けるよりは死ぬ。こうした逃避は非常にわかりやすい。
 だが、明日の水泳の授業が嫌だとか、大勢の前でバカな間違いを犯して恥をかいたとか、容姿が気に入らないとか、他者から見ればどうでもいいようなことでも、人を死に走らせるほどの苦痛となりえる。そして、他者から見れば理解も共感もしがたいことで首を吊り、ビルから飛び降りる者もしばしば存在する。しかし、理由が他者にとって難解であろうと些細であろうと、何事かから逃れたいと思って死ぬ人間は、まだわかりやすいと言える。


3-2.永遠不変のため

 それでは、逃避ではない自裁の理由とはいかようなものか。その1つに、「現在の自己の保存」というものが考えられる。つまり、永遠不変のための死である。これは自分の於かれた状況や自己そのものにはそれほど不満がなく、それどころか大変な自信と誇りさえ持っている者が、変化の兆しに対して考えそうなことである。こうした人間にとっては生活の上で諸問題があったところで、問題のもたらす一次的な艱難辛苦の為に尊い自己を死に至らしめるなど考えられない。ただ唯一許せないことは、自己の変化である。例えば貧乏の為死んだとしても、それは貧乏がもたらす苦労そのものへの不満故に死ぬのではない。貧しさに慣れる自分や、貧しさの中で知性や美貌を失うことが許せなくて死ぬのである。
 もっと簡単な、恐ろしく単純な例を挙げよう。美しい外見を誇る女性(別に男性でもいいけど)が、年齢を重ねるごとに皮膚細胞が衰えてきていると自覚するとき。これ以上、自分の容貌を損なわないうちに、自己の時間を止めてしまう。自分が老いて醜くなる前に、命を絶つ。こういうことも考えられる。この場合、別に遺骸を美しくするための努力が為されるとは限らず、永久凍土の一端として氷結するようなロマン趣味な死を迎えるとは限らない。死ねば、それでいいのである。少なくとも、自分自身は醜く老いる姿は見ないし、他者に醜く老いた姿を見られることもない。あとは、菌の作用で自分の遺骸が腐敗しようとも、あんまり関係がない。
 このような、自己が変質しつつあるのが不満で、せめて今の状態に留め置く、ということもまた、自決の理由として考えられる。不正や悪事に対して鈍感になっていく自己に気づいたときや、能力や品性にそぐわない職場や集団の中で自分が衰え、下劣になっていくと感じられたとき。そんな場合にも、人は自己保存のための死を選ぶかもしれない。


3-3.主張の手段

 また、何かの「主張の手段」としての死も考えられる。
 死、それも刃物で血管を傷つけ、あるいは銃器で脳髄をシャッフルし、当分は生き続ける体組織を強引に死に至らしめる出来事は、万人にとって最も凄絶な事象である。誰もが少なからず想像して、恐怖を抱き、出来るだけ回避したいと願う事象である。それを敢えて行う。やりたいこともあるし、家族も残される。痛みや苦しみも恐ろしくないわけはない。しかし敢えて、それらを乗り越えて自己の生命を断つ。そのことによって、自らの意志が強烈であるとアピールするのである。もっとも、自分にとっては文字通り決死の覚悟でも、他者にとって他者の死は、それほど大したことがないことも少なくないのだが。
 政府の政策に抗議し、往来の真ん中でガソリンを被って焼身自殺。学校で自分を疎外・迫害し続けた同級生や教師を告発するために首を括る。大衆の軽佻浮薄な根性に対し、目を覚まさせるために腹を切る。不名誉な嫌疑をかけられた自己の、潔白を主張するために頸動脈を切り裂く。これらはすべて、主張のための死といえる。逃避としての側面もあるかも知れないが、それを取り除いても尚「主張の手段」という意図を抽出することが出来る。
 あと、自らの意志による殉死も、ここに組み込めるかも知れない。主君と来世でも忠誠を尽くしたいという宗教的側面を除外すれば、殉死は主君が死んでなお自らが生きながらえることを拒否すること。主君と同じ状態、すなわち死に自らを置くことである。他者に対して何かをアピールする側面は薄いが、少なくとも亡き主君に対して自らの思いをアピールする意味は持ち合わせる。


3-4.他者の救済

 あるいは、自分が死ねばうまくいく、との思いから選ぶ死もあり得る。他者への働きかけを意図する意味に於いては「主張」に近いが、「主張」は他者や社会に対する自己の不満や鬱積が最大の問題であり、他者や社会の在り方を正すことまでをも視野に入れている。しかしこの「自分が死ねばうまくいく」という発想に於いては自己の不満・鬱積はさほど問題ではなく、自己の死が及ぼす残された者への影響こそが第一とされている。そこに差異がある。もちろん両者が重なる事例も存在することであろうけど。
 最もわかりやすい例は、借金で首が回らない人が死んで、家族のために保険金によって返済を果たす事例。これはまさに、自己の死によって支払われる保険金によって、家族を救済することを目的としている。もちろん自殺によって保険を引き出すことは法や契約で制限されているのだが、出るケースもある。保険以外のケースとしては、例えば何らかの事件を起こした人物が、自分が死んでしまえば追求が家族に及ぶこともなくなるだろう、といった期待から自裁する。やくざ者や犯罪集団の恨みを買った者が、家族にまでその手が及ぶ前に死ぬ。敗軍の将が、部下への寛大な措置を求め、また自民族や自軍の名誉を守るために潔く死ぬ。などということが考えられる。
 まあこれは、「他者への働きかけ」を想定しているだけであって、結局自己完結的な場合が少なくなかろう。自分の死が家族などの残された者のためになるかどうか、その効果の程は疑問である。


3-5.感情の収束点

 さらに考えられるのは、ある感情が高まった末に、至る所としての死と言うものがある。陶酔のための死というか。自己の死をもって、他者に何かをアピールするのに極めて近い面もあるのだが、まったくもって他者への影響を想定しない死−自己完結的な死というものも考えられなくはない。
 感情、情緒というのは脳内物質のバランスとシナプスの電気信号の在りようによって決まる、というか電気信号そのものなのだが、怒りや悲しみといった感情は、かなり快楽を伴う状態と言える。喜びと異なって、健康に有害な状態であり、本人も望んでいない感情であるのにもかかわらず、だ。怒り狂った人間は、目に入ること耳に入ることに対して何度も怒りをたぎらせ、過去の記憶なんかにも腹を立て、長時間興奮状態が続くことがある。また、悲嘆に暮れる人間もまた、思い浮かぶことのすべてが災いや悪意であるかのように捉え、どこまでも落ち込み続けることがある。これらはすべて、怒りや悲しみを司る麻薬物質が与える脳神経への刺激を追い求めてのこと。自ら本気でそれを望んでいないのにもかかわらず、しばしば怒りや悲しみを追い求め、冷静な状態に戻るのを拒否するのは、怒りや悲しみの依存性のため、と言える。
 こうした過激な状態は大抵いつしか冷めるが、感極まって自らの生命を断ち切ってしまう場合もたまにある。自分の怒りを他者に見せつけるため、自分が悲惨な状態であると他者に知らしめるために死ぬ、という側面ももちろんあろうけれども、こうした突発的な死には、他者への影響を想起しない、自己完結的な部分も抽出できるのではなかろうか。冷静に考えれば、これからやりたいことはいくらでもあるし、生活にそれほど大きな不満もない、自分が死したら家族がいかように思うか考えるだけで胸が痛む・・・という人間でも、突発的に怒りを矛先を自分自身に向けて、あるいは悲しみのあまりすべてが無価値に思えて、腹でもぶっ割いたり窓から飛び降りたり・・・ということは考えられることである。おそらく、自らに刃物をめり込ませた刹那、手すりを飛び越えて落下状態に入った刹那、凄まじい後悔をするような気もするが。
 余談だが、「どうせ死ぬのにどうして生きているのだろう。生きているのって気持ち悪い」とかつぶやいて死ぬ、無気力故の死。人生そのものを無価値、生命そのものを無意味と見なす死。これらの死は、こうした悲しみに沈んでゆく陶酔状態故の死としての側面を、色濃く持っていることであろう。


3-6.自らの認識への攻撃(2006.03.20追加)

 そしてさらに、「自らの認識への攻撃」の結果としての死もまたあり得る。これは、自分自身が認識している他者や社会への攻撃である。怒りの矛先を向ける相手が既にいなかったり、あるいは相手が巨大すぎて攻撃できない場合、あるいは怒りや不快感をもたらすものが実際には存在せず、脳内の認識でしかないと認識しているとき。やり場のない怒りが自己の記憶や認識そのものの抹消に向くことがある。これは自殺というよりも、自分の脳内の記憶や認識を攻撃した結果として、自分が死ぬだけである。
 これは限りなく3-1で挙げた逃避に近い。確かに、自己の記憶や認識がもたらす怒りや哀しみからの逃避の面もある。だが、逃避が死ぬことによって現在生じている、あるいは将来起こりえる問題を回避するのに対し、この「認識への攻撃」はむしろ過去にあった経験や過去に知った情報と、それらによって構築されている自分自身の観念からの自己の解放を目的としている。
 既に、他者が認識できるような問題は起きていない。もしかしたら、過去に於いてさえ他者が認識できる類の問題はなかったかもしれない。しかしそれでも人間は、脳内に怒りや哀しみのタネを抱えてしまうことがある。それから解放されることは容易なようで難しい。他者の暴力に苛まれているのならば、別の場所への転進や司直の介入によって解決することも出来る。学校や職場の環境が劣悪な場合も、いくらでも別の場所へ移ることも可能だ。だが、何故か持ってしまった自分自身の認識に苛まれている場合、敵は自分自身の中枢神経に出来た、電気信号回路の短絡のクセ以外にありえない。一次的な逃避さえも、深酒などで一次的に脳神経の機能を低下させることぐらいしか方法がない。
 ならば、脳神経そのものを死滅させるしかないかもしれない。そして、脳への血液の供給を停止させ、あるいは銃弾で脳髄を破砕して、自らの認識を消滅せしめることは、自らの認識でしかない「憎い存在」への最大の攻撃でもある。この発想が、やり場のない怒りを晴らす快楽のように思えることもあるであろう。ラスコーリニコフは他殺によって自らの死としたが、この場合は逆に、自殺によった他殺とすることとも言えよう。何はともあれ、高等な思索(すばらしい、という意味ではない)をする人間でなければ至ることのできぬ境地と言えよう。


4.生と死との相克に於いて


 艱難からの逃避。変化の兆しを見せる自己の現状保存。他者への主張。自己の死による他者の救済。感情が自己完結的に高る陶酔。自己の持つ認識への攻撃。もちろん自死の理由は、様々な動機が入り乱れる。だが敢えて類型化すれば、人はこうした動機のために当分は生き続ける自己の肉体と精神に終止符を打つのかもしれない。宗教的見地を加えれば、天国や極楽浄土に行かんがための死、つまり逃避ではなく「よりよい場所」を求めての死というものもあるかも知れないが。
 人はこれらへの強い欲求と衝動によって、自らの首を縄にかけ、剃刀を頚動脈まで食い込ませ、ビルの屋上から飛び降り、自動車の排ガスを吸い込む。もちろん、痛いのも苦しいのも嫌だろうし、自分がメシを食うとか、テレビを観るといったような他愛もないことでも出来なくなると思うと悲しい。残された人間に大変な影響を及ぼすことも頭をよぎろう。しかしそれでも尚、一瞬、ほんの一瞬だけでもそうした恐怖や悲しみ、遺伝子レベルで刻み込まれた死への拒絶をねじ伏せて、1つの強烈な感情が他の感情を殺して、生命を絶つ。凄まじく不自然な行為である。(自殺をするのは人間だけではないのだが)人間が、高度な知性と複雑な情緒を持ったが故に行われることなのであろうか。
 ここまで「自殺」について考えてきたが、逆の発想として、なぜ怒り憎しみの最終終着点として「殺し」があるのかという問いも湧き上がってきた。殺しにせよ自殺にせよ、生と死との相克に於いて人間が何を思い、いかに自己や他者の生命を絶つか、自己や他者の生命を永らえようとするか。これは、人類永遠の問題として続くことであろう。「生への絶望なしに、生への愛はありえない」。アルベール・カミュの「表と裏」のコトバである。これらの問題に対して、ひとつの示唆になるかもしれぬコトバではある。


余談 個人的には

 余談になるが、私は死に魅力を覚える者に対して「死ぬな」と言うつもりはない。自分にとって重要な人間ならば別だが。また、背中を蹴りつけて死への階段を上らせるつもりもない。気に入らない人間に対してはするかもしれないが。また、自分にとって重要な人間ならば、「死ね」と言い放つことによって思い留めさせることはするかもしれないが。私は「生きること」こそが至高で、「死ぬこと」は絶対悪以外の何者でもないという発想を持つ気も、そうした発想を他者に押し付けるつもりもない(繰り返すが、家族や重要な友人に対しては別)。あらゆる遺伝的プログラミングを1つの意志と情緒によってねじ伏せてまで死を選ぶ者、そうしなければならないほど過酷な状況にある者に対して、私は言うべき言葉を持たない。などと言いつつ、見ず知らずの他人でも、靴をそろえて橋の手すりに足をかけていたら、思わず袖を引っ張って「余計なお世話」をするかもしれないけど。


 もちろん私も、25年の間に「死」への衝動がなかったと言うつもりはない。宗教的見地を別にすれば、上で挙げた5つの動機すべてが頭をよぎったことはある。義務教育に上がる前から割と最近まで、幾たびかよぎったことはある。だからこそ、類型化して挙げることができる。もちろん今もなお私は生き続けているし、頭をよぎることぐらいは別に異常だという認識はない。


 私は俗物なので、くだらんことで死への欲求を持っても、来月に読んでいるマンガの新刊が出るとか、観ているアニメが来週どうなるとか、作っているサイトがまだまだ未完成だとか、飼っている猫に明日も触りたいとか、他の欲求の方を優先させてしまう。そうした保留しているうちに、抱えていた問題(というかそれへの情念)は薄れていく。さらに言えば、鋭痛も鈍痛も御免こうむりたいし、呼吸困難や血液の流出による酸欠や一酸化炭素中毒によって自己の脳が壊れていくのはなんとも恐ろしい。親兄弟が嘆き苦しみ、自己の人生そのものまでをも疑うに至り、彼らの今後の生活さえも破壊してしまうことは、あまり想像したくもない。


 そして私のアイデンティティの根源にある基本理念として、「弱者を嘲笑せよ」「弱者と自己を差別化せよ」「弱者とは違った行動・選択をすることによって、自分自身の存在そのものによって、弱者を攻撃せよ」というものがある。非常に誤解を招きやすい文言だが、別に、二分法的に自分を「強者」だとは思っていない。ただ、私が今まで会った人間の何人かは(私から見れば)どうでもいいことでいつも思い悩み、自分が世界で最も不幸な人間であるかのような顔をしていた。しばしばそう口にさえしていた。友人と共に好きなことをやって笑っても、欲しかったものを手に入れても、どんな刹那の快楽の身を焦がしても、こうした人間は基本的に世界が色あせたものにしか見えず、基本的に何をやってもつまらないのである。そしてこうした「弱者」は自己の心の安定のために、他者もまた自分と同様の「弱者」であると、あるいは自分以下の「弱者」であると思いたがった。そうした妄想にも等しいシンパシーと優越意識を求めてやまない人間には、私は決してなるまいとして生きてきた。そして、こうした優越意識の亡者が勝手に私のことをどうこう思いたがって、数々の侮辱と自己同一性の侵害をしてきたことに対しては、妄想をぶち壊してやりたくなる。つまり、私が思いたがられているようなクズ人間ではないということを示し続けたくなる。だからこそ、私は自ら死ぬようなことはない。


 しかし、そうしたことをすべて鑑みてもなお、死に唯一絶対の魅力を覚えたら。人が抱いたステレオタイプのような「弱者」に成り下がってもよいと思ったら。あるいは死ぬことこそが「弱者」ではない証明である、という発想を持つに至ったら。自己の死、つまり自己の思索行為の消滅によって、他者も強弱の軸も世の中そのものも私にとっては存在しなくなる、あるいは最初からなかったのと同じになるの発想に至ったら。そのときはわからない。ただ、そうしたことには今まで一度も陥っていないので、とりあえずは生きている。


蛇足 死を恐れないことを謳う状態−戦争


 ついでながら、死を恐れないことを謳う状態−戦争についても少し触れたい。
 国民国家が自己の尊厳と生存を全国民のものと同化させ、total warとして行われる戦争に於いては、国家の戦争遂行に国民が協力すること、なかんずく生命を賭してそれを行うことが奨励される。兵士個々人が国家に命を捧げることが、郷里や親兄弟を、自分たちの社会秩序を守ることであると信奉されるようになり、生命を惜しむことが罪悪として扱われるようになる。その結果として、多くの兵士が死地に赴き、そして銃弾に倒れ、重火器や空爆で肉体を霧散させ、あるいは銃剣やスコップで原始的に殺される。こうした兵士達は、果たして「自殺」を行っているのだろうか。


 作戦がどんなに無謀でも、そこには「自殺」との差異がある。それは、目的達成のために作戦行動を行った結果として死んでも構わないが、死そのものが目的ではないところにある。補給が考えられておらず、敵よりも味方の方が劣っているような作戦でも、少なくとも自分が死ぬことで作戦は有利にならない。死んでもいいやとは思っても、死は絶対不可避ではない。生き続ける限り自軍に貢献できるし、勝利すれば生き延びられる。撤退もありうる。絶望的な状況で、ほとんど不可能だとわかっていても、「もしかしたら勝てるかも」「自分だけは今回も生き延びられるかも」という微かな期待も持てる。絶望的な状況下でも、自己の生存のためにこそ敵を撃ち続ける。さらに言えば、逃亡したところで必ずしも生を得られるわけではなく、逆に確実に殺されることもある。逃げおおせたところで、故国から遠く離れたジャングルや砂漠で、現地住民によって殺されるか餓死するか、とにかく従軍し続けるよりも高い蓋然性で生存を得られるとは限らない。むしろ高い確率で死ぬ。絶望的な作戦に従事し続けるのも、確実な銃殺刑や餓死を免れるための生存の為である、という面も否定できまい。
 これらの意味に於いて、従軍は自己の意志によって確実に死ぬ自殺とは異なる。「身を危険にさらすこと」は讃えられ、その結果の死に対しては勲章なんかも贈られもするが、少なくとも「自殺」を奨励しているわけではない。アラブの格言「屈辱に生きるより、報復に死ぬがいい」というのも、死の危険を恐れずに戦え、という程度の意味であろう。


 では、神風(しんぷう)に代表される特攻、ベトナム解放戦線の自爆兵、ロシアの古い地雷処理法(若年兵に踏ませて処理)など、確実に死ぬ場合はどうだろうか。確実に死ぬ。そして自己の死と作戦目標とは一致している。ロシアの事例は資料不足でよくわからないが、爆弾抱えて敵を道連れにする作戦では、祖国のための死が賛美され、それを忌避するものは臆病者の売国奴として非難される。あるいは処刑される。ここに於いては、「自殺」との違いはないと言える。上で私が挙げた自殺の動機のいくつかに、当てはめることが出来なくもない。「死を忌避する不名誉」を嫌がる、逃避。死が賛美される中で、崇高な心持ちになっている自分を心変わりしないうちに武器とする、自己保存。あるいは自分が逃げれば家族が売国奴の家族として非難される。それを慮っての死。家族が敵国に蹂躙されることを防ぐための死。この二つは他者の救済のための死である。親兄弟や戦友を殺した敵への憎しみを高め、噛み締めて、突撃する死。中には、人命までをも一機械部品にするよう命じる国家や高められる死の賛美の風潮に対して、自分はその非人道性と異常性を後世まで刻み込むため死ぬ、という「主張のため」として死んだ事例もあったと聞く。
 何はともあれ特攻に際しては、自分なりに様々な理由付けをして人々が死んでいった。本来個人的なはずの自殺の動機を国家機構や社会がそれを高めるようにしむけて、必死の作戦に駆り出す。人類はここまでtotal warを極めたか、との念を禁じえない。
 私が特攻を命じられる兵士であったら、何を考え、どのように行ったのであろうか。まったくもって想像がつかない。



参考資料
「きけわだつみのこえ」 岩波書店 1982年
テレビ番組 「少女革命ウテナ」 1997年


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