last up date 2003.03.06

恐れよ、弱者を


1.他者は脅威である
2.脅威として、人は強者を思い浮かべる
3.弱者もまた、脅威である
4.攻撃側の前には、人間は脆弱である
5.弱者を軽く見る危険
6.不要な損失を避けるために


1.他者は脅威である

 他者というのは、基本的に脅威である。景色の一部程度の注意しか払っていない通行人がいきなりぶん殴ってくるかもしれないし、親兄弟や顔見知りに殺されるという話もよくある。身体的な暴力を受けなくても、金銭的に大損させられたり、不利な情報を流されたり、あるいは意図的に情報的孤立に追い込まれたりと、他者からはあらゆる不利益を受ける可能性がある。自分だけは大丈夫とか、親類や仲のいい友人が自分に何かしてくるはずはない、などというのは信仰にすぎない。まあ、そうでも思わないと日々落ち着いて暮らすこともできないが。
 私とて今まで知り合った人々に対して、差し迫った脅威を覚えることはしばしばあった。私に何故か関心を抱いて部屋に不法侵入までした異常者、酔狂にも私を独占すべく他の人間から切り離そうとした異常者、とにかく私が目障りで流言によって陥れようとした者、表面では笑いながらも私を情報的社会的孤立に追い込もうとした者など、明らかに有害な人間もいた。だが、そういう人々は危険だが対処はしやすい(実際、これらの全員をコミュニティから追放するなり、周囲の人間を切り崩して孤立させるなりして対処した。それでもいつ刺されるかと警戒していたが)。危険人物に対して全神経を集中し、脅威を排除しようと試みるのは当たり前だ。
 だが、差し迫った脅威に対してではなく、潜在的な脅威にも気を払う必要はある。上記の差し迫った脅威とて、知り合ったその日から顕在的な脅威だったわけではない。そして、彼らが特別な実力を持っていたというわけでもない。なんてことなく付き合っていた人間が、(攻撃を受けた方にしてみれば)突如として牙を剥く。


2.脅威として、人は強者を思い浮かべる

 さて、潜在的な脅威として真っ先に思い浮かぶのは、敵に回ったら手強そうな人間だ。単純に言えば、殴り合ったら軽くぶち殺されそうな屈強な男。カネやモノを掌握して、経済活動から自分を締め出すこともできる富者。情報網や人脈を掌握し、自分を貶めることができる策士。こうした実力を持つ人が、今はただただこちらから一方的に感心するだけだったり、すばらしく良好な友人であったりしても、万が一彼らが積極的意志でもって敵に回ったら、破滅的なことになりかねない。
 通行人に難癖つけて暴力を振るうようやチンピラとて、肩が触れたからと言って筋骨隆々の見上げるような大男に殴りかかったりはしないだろう(大人数だったり、あるいは銃でも持っていれば話は別だが)。どんなに腹が立つことを言われても、商売で選択権を持つ顧客相手には堪えるしかない。殴ればノックアウトできるかもしれないが、明日から自分は路頭に迷う。また、コミュニティで情報を支配する人間に睨まれると、いつの間にか人々が自分から距離を置くようになり、世間の情報もほとんど入らなくなってきたりもする。だからこそ、人はこうした実力を持つ人間に脅威を覚える。


 私の知人友人でも、「武力」「富」「情報」に優れた人々は数多く存在する。天賦の才を持った武道の達人。重作業に明け暮れた肉体派。傭兵訓練と陸自で肉体と格闘技術を鍛えた大男。カネと酒で人々を集め、人心を掌握する田舎成金。水面下で数多くの人々とサシで討議し、情報と信頼を得るオルグの達人。これらの人々は潜在的にはかなり強烈な脅威であった。
 もし、相手を激高させてしまったら、あるいは私が相手に有害な人物と見なされたら。それは想像するだに恐ろしい。「武力」に優れる人々には、素手でも圧倒的パワーでもって蹂躙されて、殺されそうだ。特に武道の達人には、肩や腕ぐらい一瞬で抜かれ、あるいは砕かれてしまう。また、カネを持つ田舎成金を敵に回すと、私が持つ人間関係の場の少なくない部分を失うことになりかねない。オルグの達人に用済みだ、あるいは有害だと思われるのはもっと怖い。事実であれ虚偽であれ、情報でもってイメージをコントロールされ、本人が直接は何をすることもなく圧倒的多数の人々によってコミュニティから追放されてしまう。まあ幸い気が合ったのか、利害が合ったのか、私の不断の努力のためか、こうした人々のほとんどと良好な友人関係を保持できているが。


3.弱者もまた、脅威である

 だが、私が短期的に最も恐れていたのは上記のような「敵に回ったら怖そうな人々」ではない。多分その名を聞いたら、知っている人は意外な顔をすることであろう。なぜ意外かというと、「武力」「富」「情報」すべてに於いて私よりも劣っているように見えるからだ。実際、劣っているだろう。正面から殴って負ける気はしないし(私が武力に優れるわけではなく、相手が青瓢箪なだけだ)、生活水準や立場、出自から見て相手は私より貧乏だ。情報に於いても、所属する同じコミュニティでの人脈・信頼関係など相手にはほとんどない。外見とて、夜道を一人で歩いていれば、真っ先にカツアゲのカモにされそうな面構えと体格である。しかし私はこの人物に脅威を覚えていた。


 なぜ青瓢箪に私が脅威を覚えていたか。それはこの人物に、短期的に何をしでかすかわからない爆発力を感じ取ったからだ。なんというか、彼には「自分には何でも出来る」「自分はすげえ人間だ」という思い上がりが強くあった。まあいい年こいて、いきがり始めたガキみたいなものなのだが、ガキにせよこうした青瓢箪にせよ、「実際の自分の能力」と「自己評価」、「他者が抱くステレオタイプ」と「自己が自己に抱くステレオタイプ」との間に巨大な隔たりがある人間は危険だ。実際から乖離した自己への信仰を崩されようものならば、つまりナメられたり、(例え実際には妥当な評価であっても)低く見られたりしたものならば、そうした他者の認識をぶち壊し、自分が強烈な人間であるとアピールするために刃を振るうことも辞さない。だから怖い。暴力の実力に劣るかどうかなど、大した問題ではない。


4.攻撃の前には、人間は脆弱である

 日常に於いては、攻撃側が常に有利である。いかなる体力差があっても武道や格技の訓練を積んでいても、いきなり背後から包丁でぶっ刺されたものならば回避もできずに絶命してしまう。正面から向かってきても、棍棒やバールを振りかざされたら、徒手空拳では逃げるしかない。家に火をつけに来られたものならば処置なしだ。たとえ実際に火をつけられなくても、予告されただけでも気になって落ち着けない。その他、詳しく書いてマネされたくないので簡単に書くが、嫌がらせはやろうと思えば様々なことが可能である。しかも実行者は自分が安全な位置にいるような気がし、それでいて相手を十二分に困らせ疲弊させられる。だから、怨みを持たれると相手が弱者だろうと青瓢箪だろうと恐ろしい。こうした突発的な暴発や陰湿な攻撃には、必ずしも体力も格闘能力もカネも人脈も情報管理能力も要らない。必要なのは、何者をも顧みずに相手を撃滅せんとする意志であり、執念である。


 意志と執念などと言うと、「不屈の敢闘精神で持って、米軍を殲滅する」「物量には限りがあるが、精神力は無限大である」などという旧軍の精神論を彷彿させるが、私はここでそんな無茶苦茶なことを述べているわけではない(注1)。個人と個人との間に、1940年代の米軍と日本軍ほどの実力差があるだろうか。銃を持った護衛に守られた総理大臣や大邸宅の奥に住む大富豪と、そのへんの一個人とではそれぐらい巨大な差はあるだろう。一介のアホが死ぬ気で何かをしようとしても、成功する可能性はとても低い。だが、「そのへんの一個人」同士ならば、多少腕力に差があっても、月収に2〜30万程度差があっても、人脈に差があっても、それは大した実力差ではない。背後から金槌でぶん殴れば容易に逆転可能な程度の差に過ぎない。
 さらに言えば、自宅住所までわかっていたり、毎日学校や職場で顔を合わせるような間柄だと、攻撃しようと思えばいくらでも攻撃の機会があり、それを防御する術はないに等しい。だからこそ、個人対個人の闘争では攻撃側がいつでも主導権を握る。個人というものは、よほどカネをかけて堅牢な住居に住み、常時警護でもされていない限りは、とてつもなく脆弱なものである。


5.弱者を軽く見る危険

 強者と思われる人間に対しては、人は敬意を払う。ガキやワルタレ連中は、集団内部で腕っ節が強そうな奴を正面からバカにしたりはしない。するとしたら、自分が相手を殴り倒してその地位を奪うときか、集団で叩きのめすよほどの団結があるときだ。見知らぬ通行人に対しても、屈強な奴には道を開ける。商売をする上では、資金を持つ者、流通を押さえる者、知的所有権を持つ者と、無用な心理的摩擦を起こすのはバカのやることだ。後々商売の種になるかもしれない可能性を、潰すことになる。情報や人脈を支配する人間に対しては、どこの集団、どこのコミュニティでも、人は親しくしようとする。仲を違えると不利になるからというよりも、すでに自分が相手に対して持つイメージをコントロールされているからかもしれない。
 しかし、世の人々は弱者と思われる人間を軽く見る。いかなるコミュニティに於いても、「異端」を作り出して迫害し、それによって残りの人々が共同体意識を持つという全体主義的力学が存在するが、その「異端」とされる人間はほぼ間違いなく弱者である。小学校だろうと企業だろうと、政党派閥であろうと。学校やワルのグループだと単純に殴り合いに弱そうな奴。職場だと立場が弱い新人や下級職員、それに臨時職員。自営業者の寄り合いなんかだと商売の人脈と影響力で決まってくる。かくして「叩いてもなんてことのなさそうな弱者」は、共同体の共通認識として「劣者」として嘲笑され、話の落としどころ、収束点として濫用される。そして、嘲笑される弱者、すなわち「異端」が何を言おうとやろうと、なかなか適正に評価をしない。7歳のガキだろうと60過ぎのジジイであろうと、こういう性を持たない人間はなかなかいまい。


 これが大変危険なのである。人間はあまり抑圧されると暴発する。もちろん、普段気に入らないことがあっても人間は大抵は堪える。そうでなければ手が後ろに回ったり、そうならなくても立場や信用を失墜させることとなる。それこそが人間の暴発を抑止するのだが、すべてを失ってもいいと人が思ったとき。恒常的に不当に貶められ、発言や働きぶりが最初から評価の対象になっていない現状になんら価値を見出さないとき。現状に於いて屈辱や不利益に堪えることよりも、すべてを棄ててでも一矢報いることを選ぶとき。日常に於いて大多数の人間は、歩いていて後ろから刺されたり、寝ているときに家に火を付けられたり、仕事の上で積極的意志でもって不利益を画策されたり、ネットによからぬ情報を流されたりすることはない、という前提の下で暮らしている。その前提を付き破って、個々人の脆弱性が攻撃される。


6.不要な損失を避けるために

 この文に於いて私が言いたいことは、弱者とされる人間は危険だ、ということではない。他者を恐れないことは危険だ、ということである。強者とされる人間はなかなか軽く見られないが、弱者とされる人間は異常なほど軽く見られる。他者と自己との間に優劣をつけたがる人間の性故か、「異端」を設定してのみ団結する人間社会の性故か、弱者と見なされた人間は、不当な扱いを受け続け、不当な待遇、不当な評価までされることとなる。こうされると、弱者と見なされる人間であろうとなかろうと、自己の全存在でもって尊厳を守るために抵抗し、玉砕覚悟で牙を剥く。そこに無神経な人間が多すぎる。
 私ならば、ただ「殴って勝てそうだ」とか「気が弱そうだ」、あるいは「富」や「情報」で劣っていそうだからと言って、それだけで特定の他者を眼前で貶め嘲笑するようなことは怖くてできない。自己の脆弱性と、人が為しえる敵対行為を考えたら、他者とはいかなる人間であろうと基本的に脅威である。だからこそ、私は「ちょっとこいつおかしいんじゃないか」と思っても、少なくとも表層的にはすぐさま嘲笑したりはしない。眼前でネタにして笑ったりもしない。少なくとも、話は正面から聞くし、為したことや能力に関して不当に貶めたりしないように心がけている。


 他者には、いかなる人間に対しても一定の敬意を持つことこそが得策である。少なくとも、何もしないうちから能力を軽く見たり、イメージだけで今までやってきたことを決めつけたり、話すことやることをろくに内容も見ずに嘲笑したりする不誠実は、自ら敵を作る。誠実に対応して評価していれば、後に有力な戦力となったり、親しい友人になれたかもしれない人間を、無条件で敵に回すこととなる。他者を見るときに弱者なるものかどうか認定し、それによってすべてのイメージとステレオタイプを作り上げて貶めるような人々は、その意味では二重に損をしていることとなる。
 だからこそ、今一度「弱者」と見ている人間を見直し、自分が「弱者」とする定義はいかなるものかを考え直し、自分の「弱者」に対して持つ優劣意識と、「弱者」をダシに第三者と持つ共同体意識を疑いなおしてみる必要があるのではなかろうか。


注1・・・
意志と執念などと言うと、「不屈の敢闘精神で持って、米軍を殲滅する」「物量には限りがあるが、精神力は無限大である」などという旧軍の精神論を彷彿させるが、私はここでそんな無茶苦茶なことを述べているわけではない

 混同されがちであるが、日本の他のアジア地域への侵出は非対称的な戦いであったが、日本と欧米−特にアメリカとの戦いは対称的な戦いであった。しかしそれでも第二次世界大戦に於ける日本の戦いぶりは、産業化を成功させた空母機動艦隊を擁する国同士の対称的な戦いと言えども、弱者が自己の全存在を賭して行った攻撃と言える。これは、本文で述べているような、抑圧される個人が抑圧する個人をぶん殴るとかいう生やさしいものではない。個人レベルだと、どんな屈強な男でも刺されれば一発で戦闘力を失う。力道山もチンピラに刺されて死んだ。だが、当時の日本とアメリカとの差は、凄まじいものがあった。人口、天然資源、工業設備、工業規模、技術水準、教育水準、運輸、通信、発電、行政組織、軍組織、すべてに於いて日本はアメリカにかなり劣っていた。教員水準に関して言えば国民全体の識字率だけは優っていたが、自然科学の素養のある人材は少なく、社会科学に至っては研究さえろくにされていなかった。刺したら一発逆転できるような個人レベルを超越した実力差である。
 この日本が追いつめられ追いつめられ、最後に爆発したのが欧米諸国への開戦であった。軽量化を極限まで徹底した防御という発想さえない悲愴な航空機や、長年かけて国民に負担を強いて数を揃えた艦船でもって、日本は欧米に一矢報いることはできた。もちろん国力の差はいかんともしがたく、巨大爆撃機を含めた航空機を艦船を短期間に次々建造してくるアメリカに圧倒され、日本は対艦ミサイルの原点とも言える自爆攻撃まで敢行したが、結局殲滅されてしまった。
 弱者と見なされていた東洋人が一矢報いたことの意味はさておき、窮鼠猫を噛んでも日本はアメリカに大打撃を与えることはできなかった。前線で航空機や艦船をいくらか撃破したが、日本の艦船・航空機が終戦時にはほぼ撃滅されてしまったのに対し、アメリカの艦船・航空機は開戦時の日本よりも多い数が残った。日本の都市が灰燼に帰したのに対し、アメリカ本土は風船爆弾で民間人数十人が殺傷されたに過ぎない。日米の実力差とは、かくも大きなものであった。
 余談であるが、日本は抑圧に対して正規軍で正面から一矢報いようとして殲滅されたが、そうでない方法こそが抑圧される者がとれる有効な攻撃である。これはそう難しい発想ではないのだが、2001年9月11日以降は特にクローズアップされている。   


戻る