last up date 2005.04.02

30-10
他者の恐怖3

 カネや雇用といった生存と直結するものに比べると、不快感や怒り、哀しみといった形のないものは軽視されがちである。特に、それが他人のものであるのならば、なおさらだ。もちろん、メシの種を確保することなしに、怒りの発散や哀しみからの脱却、不快感の拒絶を図ることは難しい。当たり前のことだ。だが、「大したことないから」という名目に於いて、自分が他者に不快感や不快な感情を与えてよいということにはならない。これは倫理や思いやりについて述べているのではない。自己防衛について述べている。


 他人がいつでも良識的に、規範の範疇で、自分の立場と責任において妥当な行動すると思ったら大間違いだ。人間はしばしば感情のみに基づいて、不合理な行動をとる。極端な例を挙げれば戦時中に、パイロットに殴られた整備士が戦闘機のエンジンに細工をしてパトロットを墜落死させて報復したことや、普段威張り散らして兵を殴っていた下士官が、密林の乱戦の中で兵に撃たれて報復されたことが挙げられる。
 これを戦争中の特殊な事例だと思うのは甘い。例えば、オフィスでちょっと席を立った隙に、大切な書類を盗まれてシュレッダーに掛けられたらどうなる。パソコンのデータを細工されたらどうなる。例え悪意ある他者の工作を疑ったところで、失われた仕事は戻ってこない。上司に報告したところで、自分の仕事が完遂できなかったことには変わりがなく、失点になる。さらに外部から個人名宛に懸かってくる電話に対し、何度も「休暇中」と勝手に応えられたり、「辞めた」と応えられるなどしたら、相手は二度と掛けてこなくなる。これも失われたチャンスは二度と戻ってこない。そうならない為に、無用に他者を敵に回さない方が賢明だ。


 もちろん、世の中には不正な融通を断ったら逆恨みされたり、些細な付き合いを断っただけで勝手に腹を立てられたり、さらには出世や成績の差違を嫉まれることも多い。人間、マジメに誠実に生きていても、当たり障りなく生きているつもりでも、勝手に腹を立てたり嫉んだり恨んだりする人間はいるものだ。だけれども、わざと敵を増やす必要はまったくない。ハゲにハゲと言い、デブにデブと言い、酒に弱いとか女に疎いといったことをバカにし、出自や思想信条について貶めるようなことは、百害あって一利なしだ。どんな些細なことでも、恨みに思ってどんな報復をされるかわかったものではない。
 特に忘れてはならないことは、会社はあくまで稼ぐ為の集団でしかなく、学校の仲良しグループでも近所のガキ仲間でもないということ。本来相容れない、仲良くなる必要もなければそんな余地もないような人間達が集まっている場所なのである。ましてや圧倒的大多数の人間は、自分の人生の時間と可能性を犠牲にして、つまらない地味で苦しい作業に従事している。ただ働いているだけでもストレスが溜まるのだから、そこで同僚にムカツクことを言われたら、シャバで友人に言われたのならば笑って許せることでも、非常に腹が立つものだ。
 そんなことにいちいち煩わされる奴は甘いとか言ってみたところで、自分の言動によって神経逆撫でされた人間が、それを押し殺して仕事の協力をしてくれるとは限らない。だからこそ、余計なことは言わない方がいいのだ。けれどもストレスが多いからこそ、くだらない罵声や非難でもって優劣関係を見出したくなるものだし、自分が猛烈に理不尽で差別的なことを言っていても、「劣った人間の欠点を指摘してやっている」ぐらいの意識さえ持っていないことがあるから、諍いは絶えないのだが。


 さて、他人に悪辣な言動をして調子に乗っている人間は、他者が不満や怒りを訴えたら「ガキみたいなことを言う奴だ。そんなことではサラリーマンとしてはやっていけん」などと相手の人格を劣っていると見なし、勤め人としての忍耐力に問題があると一方的に見なすものだ。こうした人間は単に自分がタフだから無神経なだけなのか、あるいはカネと雇用の前にはちょいとした侮辱や差別なんかは大したこと無いと本気で思っているのか。私の経験上どちらでもない。こうした人間の圧倒的大多数は、自分が「些細なこと」を言われたものならば、烈火のごとく怒り、仕事の足を引っ張り妨害するといった、「忍耐力のない、サラリーマンとして不適格なガキのような行動」をとるものだ。他者を幼稚と侮る人間が、強靱で冷徹な人格を持っているとは限らないのはよくあることだが、ここまで単純な人間をいい年になって見ようとは思わなかった。
 こういう単純な思考回路の人間がいると、平地に乱が起きて、会社の生産力は損なわれるのだ。他者は脅威であるという認識に下に、敵を作らないように最低限の敬意を失わないように慎重に生きていれば、世の中もうちょいと合理的に進むのだが。自分は何でも言いたい放題しても許されると思って、他人の暴言には怒り狂って仕事の邪魔もするようなクズが大卒の給料を貰って会社で跋扈している限り、この日本の未来は暗いような気がする。特に、人々が様々なライフスタイルや思想信条を貫くようになり、さらには外国企業の進出や移民労働力の流入によって、異文化摩擦の機会が増えることはあっても減ることがない今の時代、そうした差違を嘲笑や侮辱することは、これまで以上に深刻な結果を及ぼすことになるだろう。


30-09
他者の恐怖2

 巷には、他者の恐怖に対して鈍感すぎる人々が少なくない。何かトラブルがあったら自分の腕っ節でどうにかなるという過信を持っている人間もいるけれども、それよりも、あたかも性善説を信奉しているのではないか、あるいは自分だけは安全だと妄想しているのではないかと思えるほど、トラブルの可能性に対して無頓着な人間が多すぎる。


 例えば私にとって不思議でならない人間は、玄関や勝手口のカギをかけない人間。こうした人間が、自分の家に招かれざる客がやってこないと確信しているのならば、何も言わない。だけれども、何故こうした人間は家に常時カギをかけている人間を狂人扱いするのか理解に苦しむ。
 ИНКだろうと都会だろうと、悪意ある人間や目的の為に手段を選ばない人間はここそこに存在する。玄関に鍵をかけていなければ、しつこい押し売りの応対に時間を奪われ、高圧的な勧誘員に腹を立てることなどしばしばだ。さらには玄関や窓からは、酔っぱらいや異常者が部屋に乗りこんでくることもあるし、頭の悪いガキから組織的な強盗団まで警戒の薄い平凡な民家やアパートへ強盗に入ることもある。そんなことがあるわけはないと言い切れるか?
 人間は物理的に出来ることは何でもやる可能性がある。10年間ドアや窓にカギをかけずに暮らしていても、押し売りはともかく、泥棒や強盗が乱入しない確率の方が高いだろう。だけれども可能性はあるのだ。これは年間数千〜数万地球に落下している隕石が人間の脳天に当たる可能性よりも、ずっと高い。実際問題として、私の実家は隣の家に行くからとカギを掛けずに留守にしたら、そのわずかな時間に空き巣に入られたことがある。私が幼少期に1人で留守番をしていたら、窓から作業服のオッサンが侵入しようとしている現場に出会したこともある。どちらも大した被害ではなかったが、両親が汗水垂らして数年数十年かけて貯めた財産が失われていたかもしれないし、盗人が憂さ晴らしで室内に火でも放って大切なものが全て怪灰燼に帰したかもしれないし、私と出会した泥棒が顔を見られた口封じに私の絞殺していたかもしれない。そうならなかったのは運でしかない。
 可能性があるだけでも、カギをかける十分な理由になるのではなかろうか。別にドアを溶接しろと言っているわけでも、対人地雷を仕掛けろと言っているわけでもない。出入りの際に数秒手間がかかるだけのことではないか。もちろんカギをかけてもぶっ壊すことは容易だが、カギがあるだけでもテキトーにノブを引っ張って開くドアを探している酔っぱらいや三文泥棒を防ぐには有効であるし、例えいかなる障害をも排して侵入しようと試みる悪党相手にも、カギは時間稼ぎになる。カギはそれなりに有効な手ではないか。かけないのは当人の勝手だが、なぜ錠を下ろす人間を異常者扱いしたがる人がいるのか、不思議でならない。


 車を屋外駐車場に止めているだけで、異常者に窓を割られて小銭やカーナビを取られるかもしれない。あるいは、火を放たれるかもしれない。こうした事件は大きくは報道されないが、よくあることだ。
 車やバイクをかっぱらわれる確率も、日本はアメリカに引けを取らない。自動車に限定しても、1時間当たり7〜8台の車が消えている。一方で検挙率は20%を切っており、プレートを偽造されて国内で売られるか、あるいはバラされてロシアやパキスタンあたりに輸出されてしまって、二度と戻らない公算が高い。それも、防犯装置の進んだセルシオやレジェンドではなく、カギの粗末な軽自動車やコンパクトカーを盗んで、数で儲けようという傾向もある。安車しか乗っていなくても安心とは言い切れない。
 家の敷地を塀や柵で囲わないと、夜中に不要冷蔵庫など処理にカネの掛かるゴミを捨てられるかも知れない。こうしたゴミは、土地の所有者がカネを払って処分しなければどうにもならない。被害届を出そうと張り紙をしようと、自分の敷地に捨てられた投棄物はなくならない。自分の家にゴミがあれば、どこか違うところに捨てさえすればいいと思っている人間はとても多い。そうした人間にとって大切なことは、自分の家からゴミがなくなることと、自分の不法投棄が見付からないことの2点でしかない。だから川崎市の一部地域は、石油缶から廃車まで様々なゴミに溢れている。
 ちょっとした家庭菜園で野菜を作っていてさえ、ネギやキャベツといった作物を掻っ払っていくケチな泥棒は決して珍しいことではない。私が大学時代を過ごした多摩は、小規模農家や自家用に野菜を作る家がしばしばあったら、そうした窃盗事件は絶えなかった。
 世の中、誰が何をするかなどわからない。別に、人を見たら泥棒と思うとか、他者は全員自分に危害を加えようと思っていると見なすとか、そんな発想をしろと言っているわけではない。ただ、あらゆる可能性を考慮に入れて、最低限の備えと覚悟はしておきたいと言っているだけにすぎない。だけれども、家にカギをかけるとか、不用意に玄関を開けないとか、人目に付かない駐車場には車を止めないといった、そういった些細な対策をすることを称して、異常だ、被害妄想だ、そんなことあるわけがないとしか言えないような人間は、なーんてお気楽なんでしょうね。私程度の平凡で幸福に育った人間でさえ、自分や家族、知人や友人がしばしば様々なトラブルに見舞われてきた。大抵の人間は、生きていれば理不尽な目にあったことの1度や2度はあるだろう。それなのに何故、家にカギもかけずに寝て起きて、あまつさえ外出できるのか、私には理解に苦しみますよ。


30-08
先祖の罪、今生きる子孫からの「返還」

 かつては白人が支配していたジンバブエでも南アフリカでも、現在は黒人が政権を握っている。両国に於いては、白人が強力な暴力装置と差別的な社会制度を握っていた頃には、それなりに秩序が維持されていた。もちろん白人が豊かで文明的な生活を謳歌し、黒人が極めて貧しく不衛生な生活を強いられる構造が固定化された上での秩序だ。これはとても理不尽で不正義なのは言うまでもない。しかしこうしたレジームが転換すると共に、両国の秩序は崩れてしまった。内戦国・紛争国を除けば、最悪の治安状態だ。人口の対する殺人や略奪の数はアメリカやロシアの比ではない。紛争地から流れ込んだ軍用小銃や牧場主から奪われたライフル・散弾銃を用いて、激しい殺戮と略奪が繰り広げられている。
 繰り返して言うが、かつてのジンバブエや南アの社会制度は極めて差別的だったし、とてつもなく不条理で暴力的なものであった。いや、そもそも白人が勝手にアフリカの最南部にまで乗りこんできて、銃砲にものを言わせて現地住民を殺戮して入植したこと自体が人類史上の犯罪だった。だけれども、だからと言って今、白人市民が殺戮されていいという道理にはならない。公権力がそれを事実上放任してもいいということにはならない。ジンバブエ政府のように、白人からの土地の暴力的な強制収容を奨励していいということにもならない。先祖の罪ゆえに財産を突然奪われるのが許されるのならば、現行の秩序は崩壊する。アメリカもオーストラリアも北海道も大変なことになる。
 過去に行われた入植に伴う虐殺や略奪、それに入植後の先住民差別政策が正当化されることは決してない。何らかのアファーマティブアクションも必要となろう。ただ、先祖が入植して苦労してどうにか暮らしを立てられる開発してきた成果を、入植による開発の成果であるという理由で奪われるようなことは、入植地で生まれ育って開発の成果を享受してきた者としては恐ろしく、理不尽な暴力に感じられる。しかし同時に、無主地であるかのように土地に入植し、先住民を虐殺迫害差別疎外して為された開発の成果を享受することの原罪もまた、どうしていいかわからないのである。


30-07
僻み根性の持ち主は、エスカリボルグで撲殺したい

 自分が不遇で、他人が恵まれていると思う人間の精神病理はどうにかならんものかね。恵まれた他人を羨望して貶めても僻んでも他人の幸福を手に入れられるわけではないし、自分の不遇とやらを呪っても自分の境遇がよくなるわけでもないでしょう。


 だいたい地球上の人類数十億のそれなりに上位所得層に位置する日本の中産階級が、不遇だの貧乏だの言うのはしゃらくさい。我々の豊かな消費生活は、1日1ドル以下のカネで衛生とも福利とも無縁の短い人生を強いられているアフリカの農民や鉱夫や、月100ドル以下の賃金で単純労働に従事している中共や南アジアや南米や東欧の工場労働者らの、過酷な犠牲の上に成り立っている。私は自分の生活が大切だから、この理不尽な構造的暴力を否定はできない。そして自分が上層の方にいるからと言って、不満や不成功を言うべきではないとも言わない。けれども、あんまりにも自分が不幸だ不幸だ言う人間はいかがなものかとあきれますよ。


 さらに言えば、「日本人」はだいたい水平で均質な生活を送っていると思われているかもしれないが、それは妄想です。日本はひどい所得格差のある国ですよ。「フリーター」と言えば「根性のない、夢ばっか追っているバカ」というイメージが散見されるが、それはあまりにも安直なイメージだ。それしか口を得られない、それ以外の仕事を出来ない階層もあるのだ。
 この日本に於いて奴隷商人に売られる奴隷のように、経済の低迷するИНКから工業地帯へ月7〜8万で斡旋業者に連れてこられて、小回りの利く労働力として安金で使われ、そしてすぐに捨てられている人々がいる。そして同じ斡旋業者を頼ってまた短い仕事をする。そうしないとメシも食えないからだ。こういう人々は他に仕事がないのだ。都会の若者なら出来るような割のいいバイトも出来ず、まして資格スクールや専門学校に通うような選択肢も存在しない。
 さらに言えば、大企業は失業率の高い地域に単純労働集約拠点を次々開設している。これはコスト削減のためだ。ИНКの土地や建物を格安で借りて、最低限の設備だけ用意して、あとは募集を出せば人が来る。ほとんど地域最低賃金の時給640円程度でも。これはまさに、コスト削減の為に途上国の人間を使う植民地戦略そのものだ。
 こうして日本には格安労働力供給地域として固定化されつつある土地があり、そこから這い出すどころか生きるだけで精一杯の人々が存在するのだ。これは別に、そうした人々がアホだとかだらしないからというわけではない。たまたま運が悪かっただけだ。そうした階層に追いやられた人々を思えば、自分は不幸だ不遇だと称しているバカどもは、カネ持ちではないにせよまだまだ恵まれている。下と比べても仕方がないけれども、自分が最悪の貧乏人だという前提で話す人間は不愉快です。


 さらに言えば、同じような人間同士でも自分が貧乏で他者は金持ちだと無意識に、当然のように思い込んでいる人間はどうしようもない。
 個人的な経験を例に出すが、私が就職してすぐの頃、古い友人と久々に電話をする機会があった。そのとき私は「俺は安月給で大変だよ」とか「生活が苦しい」などと言ったわけではない。仕事に対する不満を言ったわけでもない。ただちょいとした世間話をしていたら、突然彼は「お前はいい給料貰っているンだろう」と嫌らしい声で言ってきた。そんなことがあるわけはない。同じ大卒で、殆ど似た種類の組織にいる彼と私とでは、給与水準もほぼ同一なのだ。というようなことを言って「そんな法外なカネ貰っているわけではないだろう」と何度言っても、電話の向こうで口を尖らせているのが見えるほど嫌らしい声で私が虚言を弄していると決めつけてきやがった。私が「高給取り」で自分が「薄給」という妄想に基づいて、僻み根性を丸出しにしてやがる。なんでそんな発想を抱くのやら。
 私が給与明細を読み上げてやったら、奴は息を呑んで黙り込んで何も言わなくなった。そう、私の給与の方が明らかに安かったのだ。基本給はほぼ同じだが、手当がつくかつかないかの差異があった。別に私はそんなことに文句も批判も僻みも言わないけれども、少なくとも私よりも高額な所得を持っている人間に「高給取り」として責められる覚えはない。
 こんなバカな事例は1回や2回だけではない。何故か、世の中には自分よりも他人がカネをもっている、有利な位置にいる、素晴らしい境遇に恵まれている、と大した根拠もなく思い込むアホに満ちている。本当に格差があっても貧乏人が金持ちを誹って侮って差別してもいいということにはならないが、まったく格差がない人間を、あるいは自分よりも所得に劣る人間を、「恵まれている」「高給取り」だとして責めたがる人間の精神構造はとても不思議でならない。


 ただひとつ言えることは、こういう僻み根性の権化のような人間に私の「幸福」を責められると、たとえその「幸福」が事実であろうと妄想であろと、イボ付き鉄棒のエスカリボルグでそんなくだらないこと考える脳髄を壁と床と天井にぶちまけたくなりますよ。いやマジで。 


30-06
「他者が犠牲を払うべきだ。俺はいいんだ」

 私の倫理観に於いて最も許し難いことの一つは、フリーライドである。つまり、他者の犠牲の上に自分が利益のみを享受すること。種を蒔かぬ人間が果実を得られないのは当然。ましてや、他人が公共の福祉の為に犠牲を払い、自分はその恩恵にあずかっていながら何もしなくてよいと思うような人間は言語道断。けれども結構そういう人いるのですよ。フリーライドを当然と思うのは自覚的に楽をして成果に浴するよりも、自分をイノセントと思っている分だけ質が悪い。自分の所属する社会や集団に於いてある仕事を必要だと思っているのにもかかわらず、他者がそれをすべきで、自分はそれをする必要はない。とてつもなく都合の良い発想である。こうした発想の背景にはしばしば、自分が不利な条件にあるという自己認識が存在する。


 とてもわかりやすい例として、大学のサークル運営が挙げられる。誰もがサークルを愛好し、その存続を望んでいたとしても、運営努力をする人間としない人間とに分かれる。そのときしない人間は「自分には事情があって時間をとれない。だからヒマな奴がやれ」として自分が何もしないことを正当化する。その「事情」とやらは、「自分は資格試験の為に勉強しなければならないが、目的意識を持たないお前はヒマだからやれ」「うちは家が貧乏だから学費・生活費を稼がなければならないが、お前は豊かな家に生まれたからバイトなんかする必要ないだろう。だからお前がやれ」などなど様々だ。ただ共通するのは、自分の事情が他人の事情に優先する正当性があるということ。
 私思うに、例えどんな境遇にあっても、自分が「何も」しなくていいという道理にはならない。資格試験に励む人間が勉強に時間を使うからと言って、大学生活を楽しもうとする人間が遊びに使えたかもしれない時間を犠牲にしていいということにはならない。自分がどんなに貧乏で生活費を稼がなければならないとしても、他の人間が親の期待と財政援助に基づいて獲得した時間を犠牲にしていいということにはならない。結局、自分は不幸だ、自分はやることがあると称して余裕のある他人に苦労を押しつけると、押しつけられた方は大変な負担を強いられることになる。生活や時間の余裕の格差など吹っ飛んでしまうほどの辛苦を強いられることにもなりかねない。もちろん境遇や事情によって義務の配分に多少の格差は付けるとしても、万人が出来る範囲でやることをやらなければ、特定の人間が必要以上に自分を犠牲にして苦労することになる。また、完全に利益だけ貪る人間が存在すると、心理的軋轢も生じる。


 こんなことは学生サークルだけではない。社会のいたるところで、自分は不利な条件にあるから恵まれた人間がより多くの犠牲を払うべきという発想が、恵まれた(いや、恵まれていた、と言うべきか)人間に過度の犠牲を強いている。恵まれた人間が若干多く犠牲を負担しなければならないのは理に適っているかもしれないが、恵まれているという理由で、公共の為に可能な限りのコストをすべて払わなければならないということにはならない。
 これは許し難い暴力である。何が許し難いかというと、他人の犠牲の上に自分が安住しているのにもかかわらず、それが正当だと思っていることが許し難い。恵まれた人間がそうでない人間に奉仕するのが当然だという根性は、時として凶悪な暴力を生むのだ。そして今現在、そうした暴力が生み出しているひずみを私は目撃している。これについては述べるわけにはいかないが。
 努力や犠牲といったコストの公正な分配と、そこから得られる利益−希少資源−の公正な配分こそが、政治である。ただ自分にとっての「正義」を唱えてもどうにもならないし、影で文句だけ言っても何にもならない。誰かに罵詈雑言や論理的批判を浴びせたところで、犠牲の適正配分は実現しない。だけれども、何が適正か、どうするのが公正かについては常に考えを巡らせておく必要だけはある。どう実現するか、実現できるかは別問題だけれども。少なくとも、不幸の優劣関係(注)に逃げ込みたくはないものである。


注・・・不幸の優劣関係
 私がときどき使う、私が勝手にでっち上げた表現。自分を不幸だと思う人間が、自分は不幸だから何をしても許される、不幸な境遇の中生きているから自分は優れた人格・能力を持っていると思いこみ、相対的に他者は幸福であり、幸福だから不幸な自分に奉仕すべきで、幸福な境遇に安穏としているから人格・能力に劣ると思いこむこと。つまり、大した根拠もなく自己と他者との間に優劣関係を決めつけ、すべての問題に於いて自己に正当性を見いだしてしまう、独りよがりで非生産的な発想である。本人が実際にどれだけ不幸かどうかは問題ではない。


30-05
他者は恐怖

 私は基本的に、人間社会は闘争だと思っている。必ずしも、誰もが悪意を持って殺し合い奪い合うものだと言っているわけではない。自分勝手に他者へ悪意を抱く人間はどこにでもいるし、自分の行動如何によっては他者に悪意を持たれることもある。その悪意が妥当なこともあるし、まったくの妄想や逆恨みからくることもある。また、悪意がなくても利害や習慣の差異から、対立や摩擦が生じることもある。そうした悪意・摩擦・対立が火付け強盗人殺しを呼び起こすこともあるし、些細な嫌がらせや迷惑行為でも日常生活を狂わされ、精神的・時間的・金銭的コストを支払うハメになることもある。当たり前のことだ。
 だが、これを言うと反発する人間が必ずいる。「被害妄想を持っているのか」「恵まれた境遇にいるクセに、しゃらくさいことを言うな」というようなことを言われることがある。これはとても不思議な発想だ。


 まず「被害妄想」。まったく私がこうした発想を持っていないと断言することは難しいかもしれないが、私の「社会は闘争だ」というホッブス的発想と「被害妄想」とは何の関係もない。私はただ、誰が何をしても不思議ではない、何が起きても不思議ではないという可能性を認識しているだけである。そしてあらゆる事態を想定して、備えをしておきたいと言っているだけに過ぎない。一方、「被害妄想」とは自分がイノセントであるのにもかかわらず、特定人物が自分に対して敵意を持っている、あるいは敵対行動を取っていると決めつけることだ。ただの抽象的な可能性についての一般論とは、全く異なる。
 例えば路上で遠くにいる知り合いに声をかけたがそのまま行ってしまったときに、自分の挨拶が聞こえなかったのかな、考え事でもしていたのかな、それとも無視されたのかなと考えることが可能性の認識。一方、あの野郎、人を無視しやがって、あいつは俺にケンカ売ってんのかと決めつけるのが被害妄想。
 道を歩いていると通り魔か誰かに刺されることもあり得ると思うは、ただの可能性の認識。一方、自分は政府機関か何かに狙われていて、道を歩いていると抹殺されるかもしれないと怯えるのは被害妄想。
 うちの庭先は人目に付かないから、放火魔に火を付けられる危険があるかもと思うのは可能性の認識。一方、近所の奴らは俺に敵意を持っているから、今夜にも焼き討ちにするに違いないと怯えるのは被害妄想。
 アパートのドアを不用意に開けると強盗や押し売りがいるかもしれないと思うのは、ただの可能性の認識。一方、チャイムを鳴らされただけで自分を殺しに来た刺客に違いないと思い込むのが被害妄想。
 このように、可能性の認識と被害妄想とは全く異なる。一緒にされてはたまらん。


 そして「恵まれた境遇にいるクセに、しゃらくさいことを言うな」とのセリフ。これも根本的に勘違いしている。私は危険が及ぶ可能性を認識しているだけに他ならない。今まで私がどれだけ酷い目にあったか、暴力を受けたか、などということは言っていない。危害を及ぼされるような荒んだ生活をしてきたとも言っていない。理不尽に何かを強いられたり、不利益を与えられた経験について述べているわけではない。ただ、これから何か不都合なことが他者によってもたらさせることはあり得る、と言っている。
 そもそも境遇の善し悪しと危険の可能性を同列に見ることそのものがおかしい。私の親戚には、列車に乗っていただけで狂人に手斧で酷く傷つけられた人がいる。彼はそれまでの人生に於いて、すばらしく恵まれていたわけでも、ひどく不遇だったわけでもない。たまたま狂人と同じ列車に乗り合わせただけだ。彼が金持ちでも貧乏人でも、大臣でもチンピラでも、その列車のその座席に座っていれば、手斧を突然受けて傷つけられていた結果に変わりはなかったはずだ。これのまでの境遇がどうあれ、未来に於いて危険が及ぶ可能性は常に存在する。堅牢な邸宅と強固な防弾車を用意し、腕利きのボディーガードを雇えるほどの金持ちならばどうかは知らないが、多少の境遇の差など、危険が及ぶ確率には何ら影響を与えない。当たり前のことだ。たまたま通り魔が近くにいれば凶刃を受けることもあるし、家の近くを放火魔が歩いていれば火をかけられることもある。たまたま自分と相容れない共同体に飛び込んだら、習慣や思想の差異を理由に迫害されるかもしれない。世の中には様々な可能性があるし、それは運としか言えないこともある。私はそういった認識を示しただけにすぎんのだが。


 だけれども、「恵まれているのに」とか抜かす人間の心理は想像に難くない。こうした人間は、「不幸の優劣関係」に挑戦された気がしたから、反発したのだ。
 「不幸の優劣関係」とは私が勝手に提唱しているコトバだが、内容はこうだ。自分が「不幸」だという自己認識を持っている人間は、自分が不幸な境遇に堪えて生きているから、自分のやることは尊く、自分の人格は陶冶され能力は研ぎ澄まされていると往々にして思っている。そして相対的に他者は幸福で、恵まれた境遇にあるから結果を出せるのは当たり前でその価値は低く、安穏としているから人格は堕落し、能力は低いと思いこんでいる。これは後ろ向きで独りよがりで非生産的な発想だが、ものすごい快楽をもたらす。何せ、自分のやること考えることは常に正当で的確だと見なすことが出来、あらゆる不都合は自分の「不幸」と「幸福な他者」のせいに出来る。何を省みる必要も何を悔い改める必要もない。ただ恨むだけでよいのだ。なんて心地の良いゆりかごだろうか。
 私が「危害を加えられる危険」について述べることは、こうしたゆりかごへの挑戦なのだ。よく聞けば私は自分が不幸だとも幸福だとも言ってはいないのだが、悲劇のヒーロー気取りのクズには私が自分を不幸だと言っているように聞こえるらしい。危険や悲劇や不利益を受ける可能性は万人が持っているのだが、自称「不幸な人間」には、不幸が他者に及ぶとは考えられないらしい。特に、恵まれた人間の代名詞と思われがちな私が例えただの可能性であっても不幸について口にするなど、許し難い暴挙なのだ。こうした人間には、私も自分同様、「俺はとても不幸で、お前よりも不幸だ。それ故俺はお前よりも優れており、正当である」という不幸の優劣関係を述べているように聞こえるからだ。くだらん妄想に逃げ込んでいる人間ほど、他者が自分同様の妄想を抱いていると思うものだ。だから「不幸」を匂わせるコトバが恵まれた人間の口から聞こえただけで、「お前は恵まれた(劣った)人間で、俺は不幸な(優れた)人間である」と念を押しておきたくなるらしい。いやはや。


30-04
社員の定義?

 「社員」とは、商法に置いては株主のことを指す。法律上このコトバは、いわゆる「従業員」とはまったく違ったものとして区別されている。それなのに従業員は「社員」と呼ばれ、自らも「社員」と称す。不思議なコトバだ。従業員も「会社の一部」であるという意識の現れであるという人もいるが、詳しいことはよくわからない。経営学に関しては私は素人だが、こうしたコトバについて叩くのも面白いかもね。


30-03
モーダルシフト

 トラックや航空機よりも、海運や鉄道の方がCO2排出量が少ないのは言うまでもない。そしてディーゼルエンジンの貨物船よりも電気鉄道の方がCO2排出量は小さい。ちなみに電車も火発で少なからぬ電気を作っている以上、CO2を「排出」することになっているのであしからず。それはともかく、トラックから海運へ、海運から鉄道へというモーダルシフトは、京都議定書が発効した以上、本格的に行われていくことであろう。
 かつて、ゼネストにも関わらず市場にはトラック輸送された生鮮食料が溢れていたことに、国鉄労組の幹部は、敗北を噛みしめたという。運行ダイヤが決まっていて、貨物量の増減に対処することも困難で、当然ながら駅までしか運べない貨物鉄道は、トラックにその大部分を奪われて戻らないと私もまた想像していた。しかしこんな形で貨物鉄道が注目されるとは世の中わからんものだ。 


30-02
バカにしているわけではなくて・・・

 就職活動時期になると、毎年見るんですよ。革靴に、白いスポーツソックスを履いて背広を着た学生を。別に白靴下を履いていたら、絶対に就職できないとは言わない。私の同期にも、会社入ってからはじめて背広に纏わる常識を知った人間もいた程だ。だけれどもみっともないですよ、そんなちぐはぐな服装は。この一点だけで×を付けられる可能性もあるほどの大失点ですよ。ある外国人はその様を見て、「あの人、スポーツに行くの?会社に行くの?どっち?」などと皮肉を言っておった。いやはや。


30-01
至上主義にろくなものはないが

 世の中には不思議なことがたくさんあるが、「現場至上主義」めいた発想が巷で常識のように扱われていることも不思議だ。「現場」と言っても意味は極めて広く、背広を着て人と会う仕事や机に向かって事務処理をする仕事にも適用されうるのだが、どうやらこの語は大抵、作業服を着て肉体や手先の技能を駆使して機械を扱う人を指すらしい。ここに於いては、その「現場労働者」の質や役割の違いは問われないようだ。
 さて、この意味に於ける「現場」の何がどう至上主義的に扱われているかというと、肉体を使う労働者や技能を発達させた熟練工の労働こそが全ての仕事の中核を成している、と思わわれている点にある。その一方、背広を着て事務所や会議室を跋扈している連中はアホだと見なされる。つまりこうした悪辣なステレオタイプを持たれているのだ。大学出のホワイトカラーは机の上でわけのわからん書類をこねくり回すだけで、「真の仕事」である現場労働などは何も出来ずわからず、そのクセ「現場」の人々にデカいつ面して指示を発し、しかもその指示は現場労働の効率を阻害するモノで、高い給料を取っているだけの害悪である、と。
 「現場」の職能者が、自らの仕事への誇りとセクション間の対立からくる怒りを込めて、こうした「現場至上主義」を唱え、ホワイトカラーを誹謗するのならばわかる。誰だって、自分の仕事を讃えたいし、他セクションとの軋轢は気に食わないものだ。だけれども何が不思議かというと、こうした発想が現場労働者でも何でもない人間までもが、当たり前のように話している点だ。特に、会社勤めの経験に乏しい人間ほど、こうした妄想を強く持っているように感じられる。


 まあこうした「現場至上主義」な妄想を持ってしまうことは、わからないでもない。何故かというと、外部から見て、あるいは想像して、仕事の大変さや価値について一番わかりやすいのは現場労働だからだ。背広を着て、机にコーヒー置いてパソコンいじっている図よりも、油で汚れた作業服を着て、額に汗して機械と格闘する図の方が、ちょっと見た感想としてはいかにも大変そうに感じられる。それに車を作る担い手として一番わかりやすいのは工員であり、ビルの建築現場を覗けば作業員ばかりのように見える。だから経済の全ての根幹はこうした「現場」の労働者であり、他はすべてオマケのように思えてしまうこともあるだろう。
 だがそんなわけはないのは言うまでもない。「現場」に於ける肉体的辛苦や機械工作の上での困難が、他セクションに於ける精神的辛苦や困難に優ると無条件で考えるのはナンセンスだ。そもそも違った種類の苦労を比べることそのものが間違いだ。それに、「現場」の労働をすべての中核に考えることもまたナンセンス。いかに優れた技術を持つ職人と勤勉な作業員がいたところで、管理部門がなければ会社は存在すらできないし、営業部門がなければ作ったモノを売ることも出来ない。それどころか何を作るか決めるマーケティングも出来なければ、原料や部品、工作機械の購入さえ出来ない。何かを作る会社であっても、全部門が揃ってやっと物作りの担い手足り得る。さらに言えば、人間国宝クラスの刀鍛冶や陶芸家じゃないのだから、「現場」の熟練工だろうと管理部門の経理屋だろうと腕利きの営業マンだろうと、替わりなどいくらでもいるのも当たり前。「現場」の人々が特別なわけはない。
 こんなこと考える必要さえないし、例え実務経験がない人間でも少し想像を巡らせればわかることなのだが。それでもメーカーには工員しかいなくて、建設会社には作業員しかいないような妄想をしている人々がなんて多いのか。


 こうした「現場至上主義」めいたことを言う人間はここそこに存在する。曰く、「大学を出たインテリを組織の幹部候補にしてもダメだから、現場からの生え抜きを」「現場こそが第一で、大学とか出た奴らはズルいから」などなど。こうした意味不明な言動を、私はその度に訂正するなり突き崩すなりしてきた。一応ホワイトカラーめいたことをやってきて、これからもホワイトカラーとしてやっていくであろう私としては、ホワイトカラーがゴミだとの前提でその対比としてブルーカラー賛美をされるのは不快だし迷惑だからだ。
 特に、「大学出のホワイトカラーは『視野狭窄』だ」というような言われようは、完全に破壊する。もちろんホワイトカラーの幹部候補生が、体験研修的に一定期間現場労働に従事することは有益だろう。文系学部を出た事務系総合職社員が、機械いじりや肉体労働に疎いのは当たり前なのだから、体験してみるのはわるくない。だけれども「現場」出身の生え抜きが、相対的に優れているとは私は思わない。人間は全員「視野狭窄」だ。自分の経験の範囲でしか物事を考えられない。「現場」出身の人間でも、自分の携わった分野には精通しているかもしれないが、「現場」そのものを統括できるほどの見識があるとは限らない。ましてや、「現場」の生え抜きならば会社全体を統括して良い方向へ持っていける、「現場」の労働者の味方を出来るなどと期待するのはナンセンスだ。「現場」出身の人間は、生粋のホワイトカラーが労働者ではないように、経理や労務、人事といった管理部門のことや、法人個人の営業のことなどそれほど詳しくはわからない。誰がエラくなったところで、自分の見識の範囲は狭く、様々なアドヴァイスやサポートを得て経営していくしかないのだ。そうすれば必然的に、どこかの部門を「頑張っている」とか「汗を流して大変よくやっている」といった意味不明な理由で優遇するような不合理なことは、まず行えない。だから「現場」から経営幹部を出せば、何かがよくなると期待するのは間違いだ。
 ちなみに、私の知っている「現場出身の幹部候補社員」の中には、ことあるごとに「現場」を賛美し、それ以外の管理や営業の仕事の蔑視を公言する人物もいた。自分自身が現在管理部門の長であるのにも拘わらず、自セクションを貶めるようなことを言えばそこの士気は下がるし、管理と「現場」との心理的軋轢が促進される。「現場至上主義」の権化のような人間が出世したところで、何かがよくなるとはとても思えなかったね。


 さらには生産の「現場」に於いても、熟練作業員こそが根幹で、理系大学や大学院を出た技術系総合職などオマケだ、のようなことも先日耳にした。これはちょっと変種だが、これも肉体的な辛苦や永年勤めた技能こそがすべてだという意味に於いては、「現場至上主義」の一種と見て差し支えないだろう。
 確かに、日本の技術はこうした熟練労働者が支えてきた面がある。学歴も科学教育もなく、安い賃金で使われている人々の指先の感覚が、先端産業を支えてきた面は否定できない。機械が出来ない単位の加工を労働者の経験とカンが為してきた。だけれども、そうした技能経験と専門教育を受けた技術者とを比べるのはナンセンス。役割が違うのだから。しかしまあこうした熟練工偏重は日本に於いて長く続いてきた。理系大学を出た人間の少なからずに、産業社会は科学技術を持つ専門家としてではなく、長く同じ仕事に従事することによって経験とカンを鍛え上げる職能者としての役割を求めてきた。だが、いい加減それは綻びが出ている。あまりにも技能者に依存してきたツケは、様々なところで噴出している。
 一番過激な例を挙げれば、原子炉製作行程に於いて発生した身の毛もよだつ出来事が挙げられる。とある重電メーカーに於いて、科学知識を持つ専門家が原子炉関連の設計をして、組み立て「現場」に出した。「現場」の熟練工は組み立てに必要な接着剤を、自分の経験に基づいてより強固な接着力を持つ薬剤に、勝手に変更してしまった。メーカーはそうした「現場の判断」とやらに依存してきた面があった。だけれども、この薬剤は接着力は強いが放射能にとても弱い代物であった。そんなことを現場の作業員は知らなかったわけだ。途中で専門家がこれに気づいて出荷されなかったが、もしどこかの原子力発電所にそのまま取り付けられていたら・・・。
 さらにもう1つわかりやすい例を挙げれば、宇宙開発が挙げられる。宇宙ロケットなんて、ハイテクのカタマリだから素晴らしいコンピュータで管理された先端工場で、大学院を出た秀才が腕を振るっているのだろう・・・と思ったらとんでもない。ほとんどの部品は町の小さな工場で熟練工が製作し、その部品の組み立てでさえも熟練工の経験とカンに依存しているのだ。熟練工に依存しているのはいいとして、信じがたいことに、それに依存するあまり設計図のデジタル化やノウハウのデータベース化さえほとんど成されていない。つまり全体を俯瞰するのが困難で、問題の特定も困難で、ノウハウの継承も困難である。だから立て続けに落ちるんだ!少なくとも事故があっても解決が難しい。


 もはや現代の先端技術は、熟練工の経験とカンだけでどうにかなるレベルではない。もちろん小さな部品の研磨なんかは、国内メーカーだけでなくAppleやNASAさえも日本の町工場に依存している。こうした熟練の技は日本の宝だし、最大限の敬意を払って大切にするべき価値あるものだ。だけれども、そうした部品を組み立てて1つの製品にする行程に於いては、さすがに職人芸ではやっていられない。プロジェクトが大きいほど容易に俯瞰する仕組みが必要である。
 永年勤続の職人が辞めてしまえばノウハウは失われるし、後継者の養成も板前や工芸職人の徒弟制のごとき様相ではポスト産業社会には対応できない。派遣会社がメーカーにまで進出し、企業は国内・他の先進国・途上国のあちこちに生産拠点のシフトと撤退を繰り返し、資本移動の加速が労働市場と生産拠点の動きをドラスティックにしている中、悠長に徒弟制のようなことはやっていられないし、一定の科学知識と作業経験を持つ人間ならば、誰でも生産作業に従事できるようノウハウを具体的な数値と方法論でデータベース化しなければやっていけない。そのためには、大して勉強も研究もしなかった凡庸な学生ではなく、専門性を発展させた学生が必要になってくる。言うなれば、名物鬼軍曹のような叩き上げの下士官に前線の部隊行動を依存せず、専門性を発達させた士官を育成して部隊指揮に当たらせるべきだということだ。


 というようなことを言ったが理解されなかった。一言で言えば、私は「労働者と専門的技術者とでは、役割が違う」としか言っていないのだが、相手は「日本経済は熟練労働者が発展させてきた!」しか言ってこない。だから、「どっちがエラいか」「どっちが価値あるか」なんてことは言っていないし、「比べることそのものが無意味」とも言ったのだが。例えば、銃の扱いが上手く、塹壕掘りに手慣れた兵士がいなければ戦争は出来ないが、情報収集して戦況を分析して部隊行動を決める士官もいなくては戦争は出来ない。優秀な兵士は貴重だが、それとは役割が違う士官もまた必要だ、と説明しなおしたのだが理解されたかどうか・・・。 


戻る