last up date 2004.11.28

 渡露・在露経験のある知人・友人・親戚・教員から聞いた、ロシア話の集積場。
 もちろん、ロシアに渡り、ロシアに長く住んだからと言って、それでロシアないしロシア人を一刀両断できるわけはない。何年何十年住んでも、「ロシアでは」「ロシアとは」「ロシア人は」などと大主語で語れないのがロシアである。もっとも、それは中国もアメリカも日本も同じだが。さらに言えば、発言者の悪意・偏見・誤解・誇張・恣意的な歪曲は必ず含まれているであろうことと、私が発言者の伝えんとしていることを解釈しきれていないかもしれないことに留意されたし。
 最終更新日現在、私自身は未だ渡露経験はありません。


 ロシアは都市インフラが整備されているが、それはよく故障する。お湯が出ないこともザラ。だけれども、ロシア人はそんな中で生きているので、どうにかする知恵を持っている。水風呂をお湯に変える方法としては、巨大なコイルを使う。巨大コイルを水の張ったバスタブにぶちこみコンセントをいれると、電熱線がお湯にする。
 だけれども、このコイルが原因で火事になることも多く、よく家や寮が火事になる。2003年にルムンバ民族友好大学寮で起きた火災も、このコイルが原因ではないかと見られている。ちなみに間違った持ち方をすると感電死する。


 ロシア語を使った仕事として、「船の通訳」はわりとよくある。下のヤクザ仕事ではなくてカタギの仕事として。だけれども、これは非常に過酷である。ロシア境界近くのシケた海に乗り出す漁船は、陸の人間には堪えがたい環境だ。寝られないし、メシも戻すし、体力が持たない。
 それだけではない。船というのは恐ろしく強固な共同体だが、裏を返せば閉鎖的である。しかも地方の漁村で産まれ育って、腕っ節と度胸と団結でもって稼いできた連中にとって、ロシア語をしゃべるインテリは気に入らない。しかもちょっとしゃべるだけで高給を貰う人間に好意的になれるはずもない。非道い嫌がらせや暴力もあるし、油断すると海にたたき落とされて殺されそうにもなる。そんな中で、いざというときにはロシア語で話せないとならない。
 ロシア語で仕事をするということは、最悪のコンディションでもしゃべられなければいけないということだ。東京とモスクワとでは時差が大きいので、飛行機でいっても激しい時差ボケ、たとえ日本の事務所で仕事をしても、向こうの始業時間と日本の始業時間は何時間もズレていて、なかなか最高のコンディショニングで仕事はできない。もっともシビアでハードな環境でも、使いこなせないとならない。


 ロシア語を使った仕事は「うさんくさいんじゃないか」と世間からは見なされがちで、ロシア語学習者は妙な目で見られる不愉快に必ず出くわすことであろう。大国ロシアの1億5000万の人々が話し、国連公用語でもあり、旧ソ連諸国・東欧でも未だ重要な位置を占めているロシア語を学ぶことを称して、「ヤクザの中古車商売でも手伝うつもりか」「女買ってくるんだろう」としか言えない奴は、知的貧困もいいところだ。
 だけれども、実際問題としてロシア語をやっているとあやしい仕事を斡旋されることもある。「ただの船の通訳」として紹介された仕事が実はヤクザがらみで、しかもトラブルがあって指つめられたという話も聞いたことがある。1週間で10万円とか、破格の仕事は注意しなければならない。


 ソ連時代の社会は、ババアが支えていた面がある。年金を受け取り家を持っているババアは、子供から孫を預けられて、共働きがフツーのソ連社会の育児・教育を支えた。ソ連は第二次大戦では国土深くまでナチに侵攻されて虐殺の限りを尽くされ、最も犠牲者を出した国である。ババアは戦争を知っているので、困難を切り抜ける術を知っている。だからこそ、幼い子供もきびしく育てて、社会規範の礎を支えた。
 ロシア人は、弱者に対しては基本的には優しい。だけれども、その「優しさ」の現れ方が違うのだ。ババアもまた、艱難辛苦を切り抜けられる子に育つよう厳しく躾たわけだ。ついでに学校もまた相当に軍隊めいていて、出来るまでやらせる。「誰が泣けと言った!答えろ!」と詰め寄る教育をしたら、日本なら教師は親に訴えられるかもしれない。だが、ロシアでは当たり前のことである。どちらがいいかわるいかではなく。


 ロシアでは18ぐらいで子供をつくり、55才で年金を受け取るので、「バアさん」になるのは早い。30代で孫が出来ることもザラ。だから、ロシア語でстаршка(直訳すると「老婆」)やбабушка(同じく「お婆さん」)という語が出てきたとき、本当に老衰間近のバアさんを連想していいものかどうか。安易に「ババア」とは訳せない難しさがある。


 ロシアでは、小学生でもウラジボストークからペテルブルグまで徒歩で横断旅行する奴もいる。もちろ教師や親と徒党を組んでのことで、途中列車に乗ったりもするが、期間を決めて相当歩き、野宿もする。先生はもちろんウォッカを飲んで歩く。だから飯盒やら食器やらをリュックに括り付けて、真っ赤に日焼けして、ジプシーと勘違いするような小汚さになってペテルブルグに到着する。
 学校教育の一環としてこうした旅行が組み込まれていることもあるという。これはこれでいい経験となろうけれども、非常に過酷な試練を子供にも要求するロシア社会の片鱗が窺える。


 ロシアの鉄道の三等車では、便所の水の蛇口に勝手にシャワーをくっつけて、シャワーを浴びる奴もいる。


 ロシアの都市部ではインフラとして、水とは別に、お湯が供給される配管がある。もちろんロシアのことだから、いつでもお湯が出るわけでもないのだが。このお湯は、飲用するために流れているのではない。水道水自体それほどキレイなわけでもないのだが、お湯の方が汚い。
 しかしある日本人留学生は、このお湯でカップラーメンを作って食って、ひどく腹を壊して苦しんだという。


 ソ連時代の国費留学生にはもちろん、いわゆる共産圏の人間も数多くいた。こうした共産圏出身の留学生のうち東欧やアフリカの人間は、日本など西側の留学生ともそれなりに付き合って、メシ食ったり酒飲んだりした。たが、中共と北朝鮮の人間だけは違った。一切他国の学生と口を利かない。下手をすると挨拶さえしない。しかし、学業は優秀。ロシア語も完璧に近いレベルであったという。
 だが、中共グループはある程度の日数が経ってから、自分達の部屋でパーティーを開いて他国の留学生を呼ぶなどして、態度を変えたそうだ。実はそれまで、他の留学生の身辺や動向、思想のチェックをしていたという。多分、交流してもいい人間を選んでいたのだろう。そして、中共グループは特定の留学生ともそれなりに交流するようになったそうな。
 一方、北朝鮮グループは最後まで一切他と交流を持とうとしなかった。アホなある日本人留学生は、笑わせようと待ち伏せしたり、追い掛けて挨拶したりを繰り返したが、決して相手にしてくれなかった。さらには学食で他の席も空いているのに、無理矢理北朝鮮グループの席に割り込んで、一緒にメシを食いつつ話しかけたという。それでも、まったく相手にされなかった。しかし北朝鮮グループのうちの1人は、帰国日になってから件の日本人留学生を呼び止めて、はじめて口を利いてくれた。曰く、「今までは命令で、他の留学生と交流を持つことはできなかった。しかしあなたは話しかけてきてくれて嬉しかった」と。そして連絡先として住所を渡してくれた。
 この日本人留学生は帰国後この住所に手紙を送った。が、よくよく調べると、その住所は朝鮮労働党中央委員会のものであった。おそらくは、個人の住所に外国人が手紙を送ることは出来なかったのだろう。あるいは単に、そこが勤務先だったのか。留学に来るのは党のエリートに決まっているので、何も不思議ではない。そして北朝鮮の留学生から手紙はちゃんと返ってきた。その書き出しは次のようなものであったという。
「日本に於ける偉大なる共産主義の同志**よ・・・」


 ソ連は外国人留学生を大切にしていた。外国で革命を起こす共産主義の闘士を養成する為ではなく、ソ連邦の国威を見せつけ、宣伝とするためであった。特に、ソ連があらゆる面に於いて西側と本当に張り合っていられた1960〜1970年代は、最高の待遇を受けたという。学費・寮費・医療費は無料。さらには高額な奨学金が出され、その月額はソ連の大学教員の給与を大きく上回っていた。今のロシアでの教員の給与は数百ドル程度、下手をすると未払いが続いていたりするが、当時は西側の通貨に換算してもそれなりの金額であった。だからこそ留学生は大学教員のやっかみを受けて、厳しくしごかれたという。


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