last up date 2005.11.08

 渡露・在露経験のある知人・友人・親戚・教員から聞いた、ロシア話の集積場。
 もちろん、ロシアに渡り、ロシアに長く住んだからと言って、それでロシアないしロシア人を一刀両断できるわけはない。何年何十年住んでも、「ロシアでは」「ロシアとは」「ロシア人は」などと大主語で語れないのがロシアである。もっとも、それは中国もアメリカも日本も同じだが。さらに言えば、発言者の悪意・偏見・誤解・誇張・恣意的な歪曲は必ず含まれているであろうことと、私が発言者の伝えんとしていることを解釈しきれていないかもしれないことに留意されたし。
 最終更新日現在、私自身は未だ渡露経験はありません。


 今年のギットレル(ヒットラー)の誕生日の前後に、プーシキン大学の近くで中国人がネオナチに殺される事件が2回あったそうな。プーシキン大学近くの治安は、これでも一時よりは回復しているという・・・。


 ロシア人男性には、死よりも不名誉を恐れる思想が存在する。これは、たかだか100年足らずの社会主義よりもずっと昔から、過酷な風土と異民族の侵略に堪えてきた歴史が培った民族性である。
 ソ連時代以前のロシア人は圧倒的大多数が農奴であり、しかも冷厳な気候と貧しい土壌の為収穫性は低かった。同じ労働コストを費やしても、ロシアの麦作は日本の稲作の20分の1以下しか収穫がなかったとさえ言われている。来年の種籾を残し、領主から搾取され、わずかな分だけしか農奴に食糧は残らず、しかもその僅かな食糧さえ口に入る前に騎馬民族によってしばしば略奪の憂き目にあった。食糧だけでなく、女子供まで攫われて売り飛ばされ、行きがけの駄賃に火をもかけられることも珍しくなかった。ロシアは騎馬民族に1000年近くもの間破壊と略奪を受け続けてきたのだ。ただでさえ生きることそのものが難しい厳寒、生存を約束するには乏しい食糧、そして侵略。それなりに治安を確保し、農業の生産性は高く、余剰食糧を売買して豊かな商工社会を発達させた西欧や日本とは大違いである。そんな過酷な中では、農奴達は強固な共同体として結束するしかなかった。だから男は、女子供や老人といった弱者を命がけで守る精神を発達させてきたのだ。


 現代でも、日本で言えば小学生低学年ぐらいの男の子が、「弱きを助けなければ真の男にはなれぬ」と教育をされ、小さな少年でさえ重いドアを女性や老人の為に身体で支えて開放する。地下鉄やバスで女性が立っているのに座っている男など、もしいたら怒鳴りつけられる。
 さらには消防士は死を前提に火災現場に飛び込む勇猛さを誇る。「鎮火した後に市民の焼死体があって、消防士が生き残ることは恥」とさえ言われてきた。こうした英雄精神がロシアの様々な綻びや問題を支えてきた。化学工場や原子力発電所の事故に、雨合羽同然の防護服だけで現場に飛び込み、体当たりで火災を鎮火し有害物質を除去した。しかし多くの消防士や兵士が命を落とした。ドイツの侵略に対しては、軍人や兵士はもちろん、ただの村人までもが決死の戦いを挑み、壮烈な防衛戦を展開した。イデオロギーの為でも、体制の為でもない。国民国家の為でさえないかもしれない。郷里や女子供を守ろうという、英雄精神こそがこれらの無謀とも言える行為の根底にあると言えよう。


 こういう国民性を持つロシア人は武士道にシンパシーを覚えるらしく、近年やたら「サムライ」「ハラキリ」というコトバがにわかに流行だし、テレビCMにもしばしばこれらのコトバが飛び交う。これは、もちろん東洋のエキゾチックなものへの物珍しさもあろうけれども、アメリカあたりの単なる奇異の視線とは違う。彼等なりに、死と名誉との価値観に対しては、思うところがあるのだろう。
 もっとも、日本のサムライは、少なくとも江戸時代以前は、現代に語り継がれているような高潔な戦士どころかチンピラ・山賊の集団みたいなものだったのだが。平時に於ける戦士階級にとっての名誉とは「いざというときに戦えると証明すること」であり、搾取され過酷な生活を強いられた農奴階級の「共同体が生存するための互助」とはまったく違うような気がするのだが。少なくとも、電車で老人や妊婦が立っていても席を譲らない男が多い日本と、女性にドアを開けさせたり買い物袋を持たせて歩くことでさえ「ひどい男」との誹りを受けるロシアとでは、少なくとも男性の弱者擁護意識には明確な違いがあると言えよう。こうした「男は女子供を守る」という発想が現代に適合しているか、差別的ではないかといった問題は別の話として。


 ソ連軍やソ連諜報機関は冷戦集結とソ連崩壊後、大幅に縮小された。解雇された軍人達の中には、高級指揮官の指導の下、部隊単位で緩やかな組織体を保っている者達もおり、そうした集団がマフィアや民間軍事会社に身売りしているという。さらにはクビになった情報部員とかつて敵対していた米国の情報部員が組んで、情報会社を設立している例もあるという。まるで映画だ。冷戦は終わったのだとつくづく思う。


 ノブゴロド市は2つある。ノブゴロド公国のあった本来のノブゴロドと、ソ連時代にはゴーリキー市と呼ばれていたニジニー・ノブゴロド市だ。位置は全然違う。
 ロシア関係者にとっては2つのノブゴロドなんて言うまでもない話だが、これは知らないと、とんでもない間違いを犯すハメになりうる。


 ロシア人はかなり歩く。日本なら電車で行くような距離も歩く。下北沢から六本木ぐらいの距離ならば平気で歩く。そもそもロシアには職場が交通費を出すという習慣がない。だから歩く。


 ロシアでは長距離バスが最もポピュラーな長距離移動方法。飛行機も発達しているがバスが安い。稚内からに鹿児島ぐらいの長距離を、満員のバスで移動することもロシア人にとっては平気。立ちっぱなしで十時間すし詰めのようなバスで!しかもパンクまで何回もする。
 当然途中でトイレ休憩はあるが、自然と男女別れて木陰や草陰へ行く。
 冬場のバスは走る冷蔵庫。毛布には南京虫。寒いから熱いスープや茶を沸かして飲むのだが、尿意が襲ってくる。冬場は隠れる場所もないので、男は女が用を足すとき毛布を持ってツイタテをつくりガードする。ただし背を向けて持つ。ある日本人研究者は、反対を向いていたため殴られたという。


 田舎を走る列車の中では、袋に切った牛や豚の肉を入れている百姓がいるという。豚の頭だけとか。しかも血がしたたり落ちていて臭い。こうしたものを村から街へ売りに出ているという。ちなみにある日本人研究者が田舎で1ルーブリのカゴを買って、それをペテルブルグで10ルーブリで売ったら瞬く間に売れたという。ロシアでは街角で立ってモノを売る人はザラ。小さくなった子供の服なんかもそうして現金に換える。


 ロシアは盗聴社会なので、電話ではタテマエしか言わない。


 ソ連時代に、レーニン廟にGパンでは入ることが出来なかった。スーツの前を開けていたらボタンを閉めろと怒鳴られた。さらに内部には四隅に衛兵がいた。そこで「レーニンは人形だ!」とロシア語で叫んだギリシアの留学生はその場で拘束された。その留学生はギリシア社会党幹部の子弟だったので電話一本で釈放された。しかし引率教員はクビになった。その教員はもう二度とソ連で教員をすることはできず、多分どこかの事務所で一生つまらない仕事をして終えるハメになったはずだ。


 ロシアは失業率が高いと言っても、地下鉄のラッシュはある。勤め人もいる。


 日本では駅員を殴るなど粗暴犯罪を犯すのは、「解雇と再就職のなさ」に怯える50代と、「未来のない」20代が多いという。「失われた10年」で大人は自信を無くして、そのため若者も希望を持たなくなったと言われる。
 だがロシアはもっとひどい。日本よりも秩序がない。「こうすれば安定した生活が出来る」という目安がない。英語とアメリカ式のビジネスを学ぶというような成功策らしきものはあるが、実行できる人はとても少ない。多くの人はどういった努力をしようとしなかろうと、なかなか仕事を得られない。職のあって定収入のある若者は限られている。ほとんどの人間はその日暮らしをしている。日本のマネで派遣会社のようなものが出来て、仕事がある日だけ仕事をしている。
 軍に入ったところでロシアは戦時下なので、チェチェンの前線に行く可能性がある。さらには内部での食糧不足や暴力が過酷で、戦死よりも隊内で死んだり取り返しのつかない障害を負わされる可能性の方が高い。
 このように、若者は、「何かが出来る」と思いつつも、何も出来ないでいる。
 一方、60ぐらいで仕事を終えて、これから悠々自適の年金生活で有終の美を飾ろうというとき、ソ連が崩壊して年金が出なくなった人々もまた悲惨である。年金生活者はソ連崩壊の最大の被害者である。
 そんな中では、社会秩序や治安が乱れるのは当然の帰結である。


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