山腹の祠に、与功望命は祀られている。 そこまで半刻と少しの時間を掛けて辿り着いたベニヒとグンジョウは、一応の礼として、祠の前で手を併せた。 「さて、どうなってるんだか」 ベニヒが言って、その小さな祠の扉を開ける。 中には赤ん坊の頭くらいの大きさの丸い石が置いてあって、それに札も貼ってあった。しかし札の文字が掠れて読めない。 こんな物では、元鬼であったものを完璧に封印することなどできない。 義務として、これからどういうことをするのか、グンジョウに説明する。一般人にこんな話をしてもどうせ通じないと思うが、これを説明して依頼人が納得してからでないと、呪術を使ってはいけない決まりになっているので仕方ない。免許を取り上げられたら二度と商売できなくなる。 ベニヒは何も書かれていない札を用意すると、鶏の血で札に文字を書いていった。 今は、鬼の半分くらいが封印の隙間から流れ出ているような状態だ。上から札を貼ったのでは、流れ出た半分が戻ることもできなくなってしまって、意味が無い。一旦全体を外へ出して、それをもう一度封印するというのが大方の流れだ。これには危険を伴う。何しろ一度封印を完全に取り払うわけだから、その隙に鬼が逃げ出すかもしれないし、自分達を襲うかもしれない。しかしそうしなければ、鬼を再封印することはできないのだ。 説明しながら、ベニヒは祠を囲うように、辺りの木に札を貼り付ける。 グンジョウが頷いたのを確認してから、ベニヒは古い札を一気に剥がした。 透明な水に墨汁を垂らした時のような、黒い帯のような物が、石の下から溢れてくるのがベニヒには見える。 「うわぁっ」 後ろで、グンジョウが言った。 こういう霊的な物は、霊感を持った人間にしか見えないのが普通なのだが、グンジョウは元々この神に憑かれていたのだから、見えるのかもしれない。 腰を抜かしたのか、地面に尻をついているグンジョウは、そのままの体勢で後ずさりしようとしている。 本当に臆病なんだな。 ベニヒは少し呆れた。 こんな時、キハダなら逃げたりしないが、まあキハダと比べるのは酷だろう。 石の下からは、ずるずると黒い影が出続けている。 「思ったより、多い……」 ベニヒは呟いた。 「再封印は無理かも知れないな」 神の質量は一定ではなく、大きくなったり小さくなったりする。しかし一般的に、人より鬼、鬼より神の方が質量は多いものだ。神に近付きすぎて、封印できる容量を超えて溢れ出していたのかもしれない。どちらにしろ、封印した祓い屋の怠慢だろう。 「ええっ。じゃあ、どうなるんですか?」 「結界を張ってあるから、どうせ鬼はここからは出られない。削ってでも封印する」 ベニヒはグンジョウに持たせていた荷物から、石弓と矢を取り出す。石弓は普通と変わりないが、矢の方はいちいち念を込めた、実体を持たない霊魂や鬼にも当たるものだ。 さっそく、一発目を打ち込む。 矢が当たった部分が消し飛んだ。 「削るって、そういうことなんですか?」 グンジョウが後ろで喚いているが、近からず遠からずと言った所だ。 実際に削るのは、相手の精神力ということになる。肉体だった物を削ればそれを修復しようとして精神力を使う。精神力が減れば、実際には肉体を持たない神や霊は自ずと縮小していくわけだ。 黒い帯状だったものが、一箇所に集まろうとしている。 そこに向かって矢を放つ。 黒いものが散って、また別の場所で集まろうとする。 矢の残量が減ってきた。 少しずつ、黒い物は減っているようにも見えるが、単に一箇所に集まっている為に小さく見えるだけかもしれない。 固まった黒い物体は、大きな人型になった。 矢を放ったが、人型になった黒い物が吹きかけた息で、矢が押し戻されて地面に落ちる。 「グンジョウは結界から出ろ」 地面に座り込んだままのグンジョウに、ベニヒが言う。 「え。えぇっ。でも、腰が抜けて」 「そこに居ると邪魔なの! さっさとどっか行って」 鬼よりも怖そうなベニヒの表情に、グンジョウは急いで外へ向かって走り出した。 人型を狙って矢を放っていく。何発かは当たったが、まだ大きい。 人の形をした黒い物が、手をベニヒに向かって伸ばした。 それに掴み上げられる。 「ベニヒさん!」 結界の外でグンジョウが叫ぶ。 黒い手が、ギリギリとベニヒを締め上げた。 しかし、不思議と痛みは無かった。 ベニヒは背負っていた荷物の底を少し動かせる手で裂いて、中から小刀を取り出す。 この短刀も念を込めたものだ。 「鎮まれ!」 声を上げて、小刀を持った腕を思い切り振り上げる。 ベニヒを掴んでいた大きな手が、小刀の軌跡に沿って散り散りに切り裂かれる。 地面に落ちたベニヒは、うまく足から飛び降りた。 鞄の裂けた底から、他の道具が落ちてくる。その中からベニヒは筆と血と札を探し出した。 札に封印の文様と詞を書き上げて、それを黒い人型の胸に向かって突き出す。 「与功望命よ、鎮まりたまえ」 白い光が札からあふれ出して、その光に押されるように、黒い影は小さくなっていく。 黒い物は逃げるように、元居た石の下に入って行った。 ベニヒは持っていた札を石に貼り付けた。 祠の扉にも封印の札を貼り付ける。 それから、結界の為に貼っていた札を周りの木から剥がした。 「大丈夫か?」 結界の外で尻餅をついているグンジョウに、ベニヒは手を差し伸べて声を掛けた。 「ツいてないのはいつものことなので、大丈夫です」 グンジョウが笑って言う。 大丈夫だと言いながら立ち上がろうとしないグンジョウを見て、ベニヒは怪訝そうな顔をした。 「どうした」 「ツいてないなんてことは無いですね。今日は良い日でした。ベニヒさんの身代わりになれたのですから」 グンジョウが咳込む。 グンジョウの咳に合わせて、口から血が溢れ出してきた。 鬼に掴まれても痛みを感じなかったのは……! 「おい。駄目だ、しっかりしろ、グンジョウ。わたしは平気だった。鈴なんか無くても平気だったんだ。だから」 「明日は良い日になるでしょうか」 グンジョウが枯れた声で言う。 口に溢れた血を指で掻き出しながら、ベニヒはグンジョウに語り掛ける。 「明日は、じゃない。『明日も良い日』だ! だから、まだ行くな」 おそらくもうグンジョウの意識は無い。 ベニヒは生きている人間を治療する術はほとんど持たない。霊魂を天に昇らせることならできるのに。 「今日は良い日なんだろう? 明日も絶対に良い日になるんだ。生きてればきっと良い日になるんだ」 その時、ベニヒの肩にそっと手が置かれた。 背筋がゾッとして、振り返る。 「お待たせしました。よくがんばりましたね」 キハダだった。 「……グンジョウかと思った」 「まだ生きていますから、大丈夫ですよ」 ニコリと微笑む。 キハダは生き物の細胞の増殖を手助けしたり、逆に減らしたりすることができる。かなり深い傷でも出血を止め、自己治癒能力を上げて怪我を治すことができるのだ。 「キハダ、ありがとう」 治療に入ったキハダの背中に、ベニヒは軽くもたれ掛かった。 |
後になって樫の山寺の和尚に聞いたのだが、元々の与功望命の封印を解いたのは、グンジョウの父親だったらしい。幼い頃にふざけて封印を解いてしまい、その時に、鈴の身代わりをする呪いを受けたのだそうだ。グンジョウが、ここ数年不運だと感じるようになったのは、父親が亡くなるまでは父親と二人で不幸を折半していたからということらしい。 「お世話になりました」 樫から帰る途中、桐との分かれ道で、グンジョウが深々と頭を下げて言った。 仕事の料金は上乗せして貰った。一応怪我したのはグンジョウだったので断ったのだが、どうしてもというので貰うことにしたのだ。 「あの、ベニヒさん、」 グンジョウがベニヒの手を取って言った。 「貴女のおかげで、わたしは助かりました。それで、もしよかったら、わたしと一緒に桐で暮らしませんか」 言われて、ベニヒは目が点になった。これまでに何度もお祓いをしたが、最後にこんなことを言われたのは初めてだ。大抵、ベニヒに恐れをなして、代金を払うと逃げるように去っていくのに。 「え、あの、わたしは……」 「グンジョウ様〜」 ベニヒが答えに困っていると、桐へ続く道から、女性が一人駆け寄ってきた。 グンジョウがそちらへ目を向ける。 だんだん姿が近付くにつれ、グンジョウの瞳が輝き始めた。 「紅梅[コウバイ]さん」 グンジョウも駆け寄って、紅梅という名の女性を抱き締める。 「ああ、コウバイさん。どうしたのですか。もうわたしとは会いたくないと言っていたじゃないですか」 その様子を、ぽかんと見ていたベニヒが、キハダに目を向ける。 「あれは、何?」 「グンジョウの許婚の女性のようですね」 「いや、わたしと全然似てないじゃない」 グンジョウとの再会を喜んでいるように見えるその女性は、よく言えばぽっちゃりしていて個性的な人だった。 「結構似てるんじゃないですか。吊り目とか、髪型とか」 キハダが言う。 「う〜〜」 ベニヒは唸った。 グンジョウとコウバイの会話が聞こえてくる。 「どうして急に婚約を解消するとか、会いたくないとか言いだしたのですか」 「それは、」 コウバイが恥ずかしそうに顔を両手で覆う。 「最近急に太ってしまって、貴方に合わす顔が……」 「全然太っていませんよ。とても素敵です」 「ああグンジョウ、あなたは本当に優しいのね」 「お世辞じゃないですよ。あなたより美しい人なんて、この世界に存在しません」 そこまで聞いてから、ベニヒは二人に背を向けて歩き出した。 キハダもそれに続く。 「お二人とも、きっと幸せになれますね」 「そうだな」 ベニヒは笑う。 「ところで、他人の不幸を肩代わりするような物を持っていて、よく今までグンジョウさんは無事でいられましたね」 キハダが感想を漏らした。 「ああ、それは」 後ろを振り返る。もう二人の姿は小さく、掠れてほとんど見えなくなっていた。 「考えられる理由は三つだ。悪神の力が半分しか出ていなかったこと。父親と折半していたこと。元々の運が非常に良いこと」 指を折りながら、ベニヒが言う。 隣を歩くキハダが、そのベニヒに微笑みかけている。 明日も、きっと良い日に違いない。 第一話 了 |