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第ニ話 夢遊病(後編)

 アイが気付くと、明るい店の隅の応接椅子に寝かされていた。
「気付かれましたか」
 キハダがアイを覗き込んで言う。
「はい」
 顔を真っ赤にして、消えそうな声で答えた。
 キハダがアイの枕元から離れて、ベニヒを呼んで来た。
 アイは起き上がって、ベニヒと向かい合って座った。
「突然倒れて驚いたけど、憑き物とは無関係のようだな」
 ベニヒが言う。
 アイは頷いた。
「わたし、血が苦手というか、怖いんです」
 血が好きな人間はそうは居ないとは思うが、倒れるほど苦手というのも珍しい。何しろあれは、血には変わりないが、ただの鶏の血なのだから。
 ベニヒがそれを説明すると、アイは俯いて小声で言った。
「わかっては、いるんですけど……どうしても」
 苦い表情で、ベニヒがアイを見る。
 アイが顔を上げた。
「だ、誰だってひとつくらい、どうしても駄目っていう苦手な物があるでしょう! わたしはそれが血なんです。仕方ないじゃないですか」
 突然の大声に、ベニヒの目が丸くなった。
「あれは、どうしても血でなければならないのですか」
 ベニヒの後ろで話を聞いていたキハダが、ベニヒに尋ねる。今まで、呪術円が血で描かれていることで困ったことはなかった。
 ベニヒが首をキハダに向ける。
「うーん、駄目というわけではないのだけど、生き血の方が伝導率が良くなるんだ。どうしても血が無い時は朱墨を使うこともある。でも今の時点で何も視えないから、朱墨ではやるだけ無駄じゃないか?」
 それでは、少なくとも今回は血でなければ駄目と言っているのと同じだ。
 アイは俯いて、膝の上の両手を強く握った。
「どうしても嫌だというなら、霊視はしないでおこう。夜中に徘徊する程度のこと、憑き物がなくてもやる人間だって居るわけだし」
 ベニヒが言う。なんとなく投げやりなのは、もうこの客を引き止めるのを諦めたのかもしれない。
 キハダが静かに言った。
「このままでは、ミケさんはいつまでも死んだことに気づけず、あなたが居なくなった後もずっと、この世を彷徨うことになりますよ」
 アイが顔を上げて、キハダを見た。キハダはずっと微笑みを絶やしていない。
 わたしを悲しませないように、ずっと笑顔でいるのかしら。
 アイは思う。
 ミケも、わたしが悲しまないようにと思って、成仏できなかったのかしら。わたしが弱虫だから。
「わたしが、我慢すればいいんですよね」
 アイはベニヒを見て、震える声で言った。

ライン

 もう一度、三人は書庫に入った。アイが倒れている間に、呪術円は新しく書き直されている。部屋には血の臭いが充満していた。
 それだけで、アイは気持ち悪くなってしまった。
「大丈夫ですよ。この血はあなたを傷つけたりしませんから」
 キハダがアイの隣に立って、アイを元気付けるように言う。
 アイは頷いて、部屋の中央、呪術円の中心に立った。
「何が起こっても、この円から出ないように。後はわたしに任せてくれれば、何の心配もいらないから、意識をしっかり持ってね」
 ベニヒが言う。力強く微笑むベニヒになら、確かに任せても大丈夫なように思えた。
 アイは青白い顔のまま、笑顔をベニヒに向けた。
 ベニヒが呪詞を唱え始めた。低く小さな抑揚の無い声で唱える呪詞は、何を言っているのか他人には聞き取れない。蝋燭の明かりだけの薄明るい部屋は、アイからは何も変わったように見えないが、やがてベニヒが呪詞を唱えるのを止めた。
「この少女に憑くお前は誰だ」
 ベニヒが言った。
 返事はなかった。
「わたしが今から言う名前が正しければ、わたしと話をしろ。お前は、ミケか」
 猫の鳴き声が聞こえてきた。
 ベニヒが頷く。
「なぜこの少女に取り憑いている。お前の肉体はとうに滅んでいるぞ」
『悪霊が……近く……来て…』
「何だと!?」
 ベニヒが手に持っていた数珠を、握りなおした。人間よりも犬猫の方が霊感が強い。それも既に霊になった猫が言うことだ。おそらく間違いは無い。
「ベニヒ」
 キハダが警告を促すように、名前を呼んだ。
 アイは呪詞を唱えていた時からずっと、目を硬く瞑っている。ミケの声は霊的なものだから、おそらくアイには聞こえていないだろう。
 締め切った部屋に、風が巻き起こった。
『…守る…アイ……』
 ミケの姿がアイに吸い込まれるように消えた。
 変わりに、風と共に現れた黒い影がアイを包み込む。時折、黒い影とアイの境目に、火花が散るのが見えた。アイの中に入ったミケの魂が、悪霊がアイに入るのを妨げているのだ。
「まだ代金の見積もりを出していないんだがなぁ」
 ベニヒが言った。不当請求を防ぐ為、見積もりを出して相手の了承を得てからでないと、お祓いをしても代金を受け取ってはいけないことになっているのだ。
『お礼、わたし……が、払い…ます』
 ミケの声がした。
 ベニヒが腕組みをして考える仕種をした。
「わかった。緊急事態だし、仕方ない」
 数珠を持った左手を、黒い影に向かって突き出す。
 その腕に、黒い影が這って来た。
 キハダが身を乗り出した。
「来るな、キハダ。来たらお前も吹き飛ぶぞ」
 ベニヒに言われて、キハダは元の位置まで戻った。キハダは人ではない。肉体こそ持っているが、アイに取り憑こうとしているあの影と似たようなものだ。
 これからベニヒがあの影を消滅しようとしている。呪術円に入れば、キハダも無事ではいられない。
 ベニヒが呪詞を唱える。
 腕に絡みついた影は、アイからベニヒに移動しているようにも見えた。
 それが止まる。
 呪術円の中が、紫の光で眩しく輝いた。
 静電気が走ったような音がして、部屋は元に戻った。黒い影の千切れた切れ端のようなものが、蝋燭の明かりに照らされて、漂い落ちていく。それは床に落ちる前に、薄れて消えて行った。
『ありがとう』
 黒い影がなくなって、ミケがアイから出てきて、猫の形になる。
「さっきのは何だ」
 ミケの首についた鈴が、小さな音を立てた。
『わたしの妹。アイのお父様にわたしが拾われた時に妹はそのまま残されて、悪霊に……。でもお父様は悪くないわ。何も、悪くないわ』
 ミケが言って、ベニヒに背を向けた。
 真上に向かって駆け上って、そのまま消えた。

ライン

「がんばったな」
 ベニヒに言われて、アイは初めて目を開けた。目を閉じる前と、何も変わったように思えない。
「ミケさんは天へ昇りましたよ」
 キハダが微笑みながら言った。
 微笑んでいるのは最初からずっとだが、これまでより嬉しそうに見える。ベニヒも白い歯を見せて笑っている。
「ありがとうございます」
 アイは二人に向かって、何度も頭を下げた。
「あの、お金は……」
 アイが気付いて、ベニヒを見た。お祓いをしてもらったのだから、代金を支払うのが当然だ。
「ああ、実費だけ頂こうか。生きた鶏が一羽欲しいから、その分だけ」
 ベニヒが言った。
「え、でも」
「ミケさんからお礼を頂きましたから」
 キハダが言う。
「ミケから? そう、ですか。それなら」
 不思議そうな顔をしながらも、アイは笑って、鶏一羽を買えると思われる代金をベニヒに渡した。
 アイを坂の下まで見送って、ベニヒとキハダは店に戻った。
「腕を見せてください」
 キハダに言われて、ベニヒは左腕を出した。
 ベニヒの左腕には黒い跡がついていた。悪霊に縛られていた所だ。放っておいても、普通の傷と同じで、自然に治る。
 キハダがベニヒの左腕に触った。黒い跡が、すっと消える。
「綺麗になりましたよ」
「ああ、ありがとう」
 元通りの自分の腕を見て、ベニヒが言った。
「それにしても、ミケさんのお礼って、何だったのでしょうね」
 お茶を片付けながら、キハダが言った。
 ベニヒは書庫の方の片づけをしている。
「ミャー」
 書庫から声が聞こえて来た。
「何か言いましたか?」
 ベニヒが書庫の扉を勢いよく開けて出てきた。その腕に、真っ白な毛足の長い子猫が抱かれていた。
「こ、これっ、猫っ」
「ミャー」
「猫ですね。珍しい、倭那の品種ではないようですね」
 キハダが言う。
 ベニヒはそのまま台所に入ったキハダを目だけで追った。同居人は驚くとか、そういう感情も無いようだ。
「まさか、この猫がお礼とか言うんじゃないよね……」
 ベニヒは呟く。
 暫くして、キハダが店に戻ってきた。
「そうじゃないんですか? 言ったでしょう。この国の品種じゃないと」
 いつの間にかすぐ側に来て、ベニヒの腕の中の子猫を眺めている。
「お殿様にでも献上すれば、代わりに価値あるものを貰えると思いますよ」
 ベニヒは鶏を飼っているので、猫を飼うつもりはなかった。キハダの言う通り、柘植の殿に献上すれば、お金を貰えるかもしれない。
「飯代も掛かることだし、さっそく出かけようか」
 ベニヒは言って子猫をキハダに渡し、店の扉の取っ手に掛かっている札をひっくり返した。

ライン

 丘の上には石造りの建物が一軒だけあって、その建物の扉の上には『祓い屋』と書かれた木の看板が掲げてある。
 その扉の取っ手には小さな木の札が掛かっていた。
『準備中』
 静かな午後だ。

第二話 了 

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