ライラック(テーマ:『恋文』。花畑ではないです;)  レティーヌは長い金色の髪に櫛を入れた。彼女が座っている鏡台の周りを囲む、たくさんの花束と贈り物。  レティーヌは貴族の娘だ。貴族というのは、この世界ではかなり地位の高い人たちで、政治家や官僚なんかも貴族から選ばれる。貴族は自分の領地を持っていて、自分の領民が居る。世界で一番偉いのは皇帝だが、レティーヌの生活上で一番偉いのは、レティーヌの父に他ならなかった。  レティーヌは十六歳。レティーヌの部屋に届く花束や贈り物は、別にレティーヌの誕生日だとか記念日だとかとは関係がない。毎日、色んな人から届く。顔も見たことのない相手。隣りに領土を持つ貴族の次男や、豪商の息子、そして皇帝の息子である皇子からの贈り物。  同じ年代に生まれたのが運の尽き。他の貴族の息子たちがどんなにあがいても、レティーヌを射止めることはできない。皇子はレティーヌよりも五歳年下だというから、今は十一歳のはずだ。会った事もない。十一歳の男子が、毎日花束やら宝石やらを選んで贈ってくれるわけもないから、贈り物は本人からのものではなくて、儀礼的なもののようだ。  レティーヌは、自分に贈られてきた物を開けたことがない。花はしおれても気にしない。侍女に下げ渡したりもしない。ただ部屋で汚れるままにして、最後にはそのまま捨てている。一般の領民が見れば「もったいない」と嘆くことだろうが、それがレティーヌにできる精一杯の抵抗だった。  レティーヌには恋人が居た。過去形。恋人だった人はレティーヌの家庭教師だった。半年前、レティーヌが自由に結婚相手を選べる年齢、十六歳の誕生日を迎える前日、男は水死体になって発見された。調査では自殺とされたが、そうでないことは明白だった。  レティーヌは誰とも結婚する気はない。特に、父の思惑通りなんてとんでもない。  皇子との結婚は、貴族の娘として栄誉のあることだと父は言う。そうじゃないでしょ。娘が皇子と結婚するのが貴族の娘の父として栄誉ある、でしょ。  レティーヌはひとり娘だから、それこそ目に入れても痛くないほど、父は可愛がってくれた。けれど、皇子と結婚する目処が立ってから、父は変わってしまったのだ。レティーヌのことよりも、自分のことの方が大事と見える。 「レティーヌさま、お手紙、こちらに置いておきますね」  後ろで、侍女の声がした。  侍女の足音が遠ざかってから、ゆっくりとレティーヌは振り返った。腰ほどの高さの小さな机の上に、五通ばかりの手紙が重ねられている。ここに届く前に危険物はないか確認したために、封は全て開いている。差出人を確認して、それが求婚者の名前ならそのまま塵箱へ。全部、塵箱へ。毎日来るので、文字を見ただけで求婚者からの手紙だとわかるようになってしまった。妙に悔しい。  涼しい風を感じたくなって、ベランダに出る。 「レティーヌ様」  下から声がして、レティーヌは見下ろした。  自分に向かって手を振るのは、半年前から庭師の弟子になった少年だ。  半年前、恋人を失って打ちひしがれ、誰とも話したくないと言っていたレティーヌが、はじめてまともに口を聞いた相手がこの少年だった。そもそも、少年は単純に、大きな屋敷内で迷子になっており、誰とも話したくないと言った手前、侍女を呼ぶわけにもいかず、レティーヌ自身が案内したのが最初だ。  大人の社会の汚いところばかりが見えて、生きるのさえ苦痛になっていたレティーヌは、この自分より年下の少年にまで「死にたくなったことはない?」と聞いてしまったのだ。少年はその時、暫し考えてからこう答えた。 「死にそうになったことならあるけど、自分で死にたいと思ったことはない」  その時初めて、少年の服装が貴族と違って古く汚れ、ボロボロだということに気付いた。死にそうになったというのは、きっと食べ物がなかったり、色々辛いことがあったのだろうと予測できた。  レティーヌは少年を抱き締め、こういう少年のためにも、自分はこの世界をもっと良くしていくと、少年に誓ったのだ。 「リジャ、今日の仕事はどうしたの?」  少年に語りかける。 「今日はライラックの木を植えたんだよ。レティーヌ様は、何色がお好きですか?」 「ライラックの花の色?」 「うん。紫と白があるんだけど、僕が植えたライラックの色が、レティーヌ様の好きな色だと良いな」  リジャは笑顔で言う。  初め会ったときと違って、貴族の家の庭師として恥ずかしくない格好をさせている。最初に会ったときは、服装のせいもあってか、ただの子どもくらいにしか思っていなかったが、ちゃんとした格好をすると結構男前だ。 「リジャが好きな色が、わたしの好きな色よ」  レティーヌは答える。ライラックはとても好きな花だ。だから紫でも、白でも構わない。ライラックの花言葉は、紫は「愛の芽生え」で、白は「青春の歓び」だと、以前リジャに教えてもらった。どちらも、なんともかわいらしい花言葉ではないか。ちょうどリジャくらいの年齢の子どもによく合う。  リジャは笑顔のまま、手を振って歩いて行った。  リジャと会えるのは、こういう偶然のひと時だけ。リジャと自分では身分が違うのだからしようがない。女性であれば侍女にするといった方法も取れるのだが、子どもとは言え男性だから、そうもいかない。  リジャがずっと笑顔でいられますように。  レティーヌは、そっと願う。  何ヶ月か経ったある日、レティーヌの元に皇子から手紙が届いた。今までに贈り物は何度も貰っているが、手紙は初めてだった。皇子からの手紙だからか、しっかり返事を書くようにと父から釘を刺された。  皇子は十一歳だと聞くが、文字はとても美しい。その手紙には、レティーヌへの愛が切々と書かれてあった。  会った事もないのに。  胸を熱くするような手紙の言葉も、レティーヌの心を余計冷やしただけだった。  これがリジャが書いたものだったら。  レティーヌは考える。  十一歳の少年には難しすぎる手紙だ。精一杯背伸びして、難しい単語を使って、大人っぽい表現をしようとして、必死に文面を考えている、そんな姿が浮かんで来てレティーヌは微笑んだ。  便箋は、良い香りがした。  ライラックの香りだと気付いて、レティーヌは驚く。  今庭には、リジャが植えたライラックの花が咲き乱れている。その香りだった。  返事を促す侍女に向かって、「そんなにすぐには思いつかない」と言い訳して、侍女を部屋から追い出す。  レティーヌはベランダから下を見下ろした。  遠くにライラックの木も見えている。その下で草取りをしているリジャの姿が目に入った。 「リジャ!」  大声で呼ぶ。  リジャは立ち上がって辺りを見回したあと、ベランダに居るレティーヌに気付いて走ってきた。 「どうなさいました?」  草取りに使うスコップを手に持ったまま、リジャが額の汗を拭う。 「あなた、皇子にわたしがライラックを好きだと伝えた?」  聞いてみてから、あまりにも質問が唐突だったと、レティーヌは思った。  リジャは驚いた顔をしていたが、すぐに笑って答えた。 「僕は誰にも言ってませんよ。レティーヌ様がお好きな花は、僕とレティーヌ様だけの秘密です」  その返事に、ほっとする。別に秘密にしろと言いつけたわけではないが、リジャにだけ教えたことを他人にペラペラ喋られたとしたら、少し嫌な気分になるだろう。  単にライラックが咲く季節だから、香りつけに使ったのだろうと思うことにした。  レティーヌは部屋に戻ると、机から便箋を取り出してペンを走らせた。定型の挨拶文に続けて、『皇子のお気持ちは大変有難く存じます』。それから、定型の締めの文。随分簡素になったが、他に書きたいこともないので仕方ない。相手は皇子だ。突っぱねるわけにはいかない。「有難い」という言葉は「滅多にないこと」という意味だ。別に喜んでいるわけではないと言いたいのだが、そんな文字の裏までは見えないことだろう。  書き上げた手紙を侍女に渡すと、侍女はそれに目を通してから封筒にしまった。  レティーヌは昼食を終えると、庭に咲いたライラックを少し取ってきてもらって、ポプリにすることにした。ポプリにすれば、季節が過ぎてもライラックの香りを楽しむことができる。  侍女も一緒になって、準備をする。  こういう時間は、やはり楽しい。以前は恋人を失って、生きていても仕方ないとまで思ったが、思いとどまって良かったと思う。思いとどまることができたのは、リジャのおかげだが。  二日経って、また皇子から手紙が届いた。前回とは言葉を変えて来ているが、内容はレティーヌへの恋心を綴ったもので、前回と大差はなかった。手紙の最初の方に、レティーヌからの返事が届いて大変嬉しかったと書かれてある。あんな返事でも喜ぶのか、とレティーヌは首を傾げてしまった。二回目に手紙に書くことが思いつかず、なんとか父や侍女たちに言い訳をして、返事は書かないでおいた。  しかし返事を書かなくても、また数日経つと手紙が届く。いつも、ライラックの良い香りのする薄紫色の便箋で、とても綺麗な字で。手紙のない日は贈り物が届く。贈り物は中を見もしないが、手紙の場合は一応目を通すので、父はそれを良い傾向だと思ったようだ。六月の皇子の誕生日に向けて、色々策を練っている様子だ。  皇子と結婚することは、避けられそうにない。結婚と言っても、レティーヌが皇太子妃になると決まったわけではない。正妃の他に幾人も用意されるという愛妾のひとりになるだけかもしれない。それでも、貴族の娘としてはやはり栄誉なことであるらしい。  レティーヌには、理解できなかった。  皇子の誕生日の日、レティーヌは綺麗に着飾って都に向かった。初めて皇子と会うのだ。いや、会うというよりは、単に見ると言ったほうが良いかもしれない。あくまでも、祝いの席に現れる皇子を、他の民衆と一緒に見上げるだけの予定だった。それだけの為に、父は豪華なドレスを作らせ、本物の宝石が埋め込まれた小さな金の冠を磨かせたのだ。少しでも皇子の目に留まるように、と。  馬車に揺られて暫く経ったころ、何もないところで突然馬車が止まって、隣にリジャが乗り込んできた。貴族の娘と下々の者が同じ馬車の同じ席に座れるわけがない。それくらい、リジャでもわかっているはずだ。 「リジャ、どうしたの?」  何か急ぎの用事でもあるのかと、レティーヌは尋ねた。  リジャが耳打ちする。 「今日お城へ行ったら、これを持って一番前の席に座ってください」  ライラックの花を一房、レティーヌの手に持たせる。 「何で?」 「僕のことを、少しでも好きだと思うのなら、言うとおりに」  理由を聞こうとしたが、リジャは走っている馬車から飛び降りてしまった。開け放たれた馬車の扉から身を乗り出して振り返るが、リジャの姿はどんどん小さくなってすぐに見えなくなった。中に居た従者が、危険だからとレティーヌを引っ張って席に着かせる。  走っている馬車から飛び降りたリジャは無事なのか、そればかり気になった。  城の広間に着いて、空いている席を探す。真ん中辺りの特等席は、完全に埋まっていた。他はちらほらと空席があったが、レティーヌはリジャに言われた通り、一番前の席に座った。  少しでも好きだと思うなら、と言ったリジャを、生意気だと思う。少なからず、レティーヌはリジャに好意を抱いていたから、余計にそう思う。レティーヌは遅かれ早かれ、皇子と結婚するしかないのに。  ファンファーレが鳴って、開会式が始まって、聖歌隊の合唱があって、祝辞が次々と述べられて、順調に式は進んでいた。主役のはずの皇子がいつまで経っても登場しないが、こういう大げさな式ではそんなものなのだろうと、レティーヌは勝手に思った。  やがて、式に出席している客に、くじ引きが一枚ずつ手渡しで配られた。隣の席に座る男性と、レティーヌが貰ったクジの色が違う。逆隣の女性が貰ったクジはレティーヌと同じ色なので、どうも男女で違うようだった。  歓声が上がった。周りの人々が一斉に立ち上がって拍手をする。レティーヌも同じようにした。客席から見えるバルコニーに、皇子が立ったのだ。皇子は背が低いらしく、一番前の席に居るレティーヌからはバルコニーの下の部分ばかり見えていて、肝心の姿が見えなかった。  司会者が、クジについて説明している。 「まだ開かないでください。中には色違いのカードが入っています。皆様に素敵なプレゼントを用意してございます。また女性の方は、この中でお一人だけ、お一人だけです! 金色のカードが入っていた方は皇子さまの正妃となられます!」  ざわめく。  クジで決めるのか?  正妃を?  いくらお若いとは言え、それはおかしいだろう?  今までわたしが払った努力は一体どうなる?  色々な囁き声が積もって、それは喧騒となる。 「お静かに」  黙らせたのは、まだ完全に声変わりもしていない皇子の一言だった。 「この世界には、魅力的な女性がたくさん居ます。まだ若いわたしには、その中からひとりを選ぶことができません。どなたが、この世界をよりよくする女性か、またわたしにとってよい妻になるか、子ども達にとってよい母になるか、今はまだわからないのです。それでも、わたしは皇子として、后を選ばねばなりません。わたしは神に祈り、そしてこの方法を神より授かりました。わたしが后を選ぶのではなく、神が選んでくださいます。どうか信じて、クジを開いてください」  会場に、凛と澄んだ声が響く。  さすがに、周りは静かになった。神の名を出されては、表立って逆らうものは居ないだろう。この世界で神は絶対と信じられているのだから。 「良いですか? それでは、わたしが『せーの』と言ったら開いてくださいね」  司会者が元気良く言う。 「せーのっ」  司会者の合図で、クジを持った人々はそれを破って開け始める。最初は紙を裂く音だけが聞こえて静かだった。  レティーヌも周りに合わせてクジを開いた。  クジの中に入っていたカードが、床に落ちる。  その色が金色だったから、突然周りが騒がしくなった。レティーヌの隣の女性が金切り声を上げて、ざわめきは会場全体に広がる。  司会者がいつの間にか、レティーヌの隣に立っていた。 「おめでとうございます!」  そう言って、拍手をする。  それに釣られたのか、隣にいた男が拍手を始めた。ざわめきが、拍手の音にかき消される。  司会者は他の色のカードの賞品の受け渡し方法を説明している。  レティーヌは、金色のカードを拾った。  クジは自分が選んだのではなく、手渡された。神が選んだのではない。仕組まれていた。  レティーヌが気付くのに、そう時間は掛からなかった。仕組んだのは父だろうか。そういえば、随分前からこの日に向けて準備をしていたようだったが。  司会者がレティーヌの手を取り、皇子が待つバルコニーに上がるよう案内する。  悔しかった。神の名を借りられては、レティーヌには太刀打ちできない。  バルコニーに立つ、皇子の後姿を遠目に眺める。自分は今から、あの隣に立つのだろうか。  そう思っていると、皇子がレティーヌの方を見た。  その顔に、レティーヌは驚く。 「リジャ……」  それはここに来る前に、馬車に乗り込んできた少年だった。  まだ若い皇子は、レティーヌに向かって微笑んだ。 「僕も、ライラックが好きです。特に、紫色が」  リジャが差し出したライラックの花を、レティーヌは受け取った。  レティーヌが着てきた異様に豪華なドレスは、この派手な場所に立つとやけに馴染んでいた。先ほどまでうるさく騒いでいた后になれるかもしれなかった女性達も、バルコニーに立つ二人の姿を見て諦めたようだ。  リジャが背伸びをして、レティーヌの額に口付けをする。 「仕組んだでしょう?」  レティーヌは小声で聞いた。 「あなたが、僕の言った通りにしてくれたことが、神の起こした奇跡だ」  そう言って、少年は笑った。 「レティーヌから貰った最初の手紙、ちゃんと持ってるよ。庭いじりの時にも持ってたから、ちょっと汚れちゃったけど」  リジャ――いや、皇子が言う。  ほんの少しだけ土で汚れた封筒を、皇子はレティーヌに見せた。 「あんなに心を込めて書いた手紙に、返事がこれだけって……」  そう言って情け無さそうな顔を作って笑う。 「でも、すごく嬉しかったんだ。僕はあなたにたくさん贈り物をしたけれど、あなたから何かもらったのは初めてだったから」 「わたしも、皇子から貰った手紙は持ってますわ」  レティーヌは言って、自分の頭を指差した。 「頭に入ってますの。たしか最初の手紙は、『あなたのことを考えると、』」 「わーっ。待って。言わないで。恥ずかしいから」  皇子が恥ずかしそうに顔を赤くしているのが、あまりにも可愛らしくて、レティーヌは微笑む。 「なんで、皇子が庭師なんかしていたの?」 「それはレティーヌに会ってみようと思って……。噂で、僕のせいで恋人を失ったと聞いて、心配になって見に行ったんだ。そのままの格好じゃ目立ちすぎるから、そこら辺の子どもと服を交換して。本当に、最初はレティーヌ、死んじゃうんじゃないかと思った」  皇子がレティーヌの隣に座る。  皇子が「死にそうになったことならある」のは、その立場ゆえ。幼い頃、実の叔父に命を狙われたのは有名な話だ。叔父は既に処刑されている。  だから、自分の妻になるかもしれないレティーヌの恋人が何らかの陰謀で殺された、という話を聞いて、いても立ってもいられなくなったのだ。 「でもレティーヌは僕を抱き締めてくれて、僕のために生きると誓ってくれた。だから、僕もレティーヌのために生きようと思った」  レティーヌは苦笑した。リジャのような子どもがもっと幸せになれるように、と思って誓ったのだが、皇子はそれを愛の告白だと受け取ったのだろうか。  まだ十二歳になったばかりの皇子。本当の恋愛を知るのはまだ先のことになるだろう。 けれど、今の皇子からの気持ちを受け取っても良いと、レティーヌは思う。皇子の手紙に書いてあったように、レティーヌも「あなたをずっと大切にしていきます」と誓っても良いと思うのだ。