『さんりん』The Garden of Wisdom

20001225日号第20

飯田宗一郎三輪学苑長追悼号

 

飯田老を悼む                                   (横浜市立大学)

飯田先生に初めてお目にかかったのは、1976年秋、大内力先生のお誘いで共同セミナー「現代の社会主義」に参加させて頂いたときである。もしかしたらその打合せの会議でお目にかかっているかもしれないが、思い出せない。朴訥な言葉で、セミナーの参加者一同にスピーチをされて、Plain living, high thinking.と格調高く語られたことを記憶している。八王子のセミナーハウスには、もう一度講師として招かれたが、そのとき飯田老はすでにハウスを去られたあとであった。

ある日突然、大内先生から、中国問題をテーマとして講座をやりたいので協力してほしいというお知らせをいただき、茗荷谷の喫茶店にいそいそと出かけた。1990年春のことだ(三輪セミナー第6回『混迷する社会主義----中国を主題として』)

夏休みに飯田さん宅で開かれたホームパーティに招かれたことがある。招かれながら、夏休みの台湾大学訪問中に胸椎を骨折し、動けなかったことも想起される。これは1997年のことだ。偶然だが、当時病床でめくっていたらしい古本からお見舞い「玄蕃蔵」の葉書がぽろりと顔を出し、因縁を痛感した。

「冠省 、かりそめのお怪我かと思っていましたが、本日の貴瀚により、どうしてどうして大怪我でしたね。とんだ旅先でのご経験をされましたことです。その後ご快方は、まことにうれしきことです。はしなくも少量ですが「玄蕃蔵」がお見舞いになりしは、これは怪我の功名になりしか。どうぞどうぞ御健体に復して「大地の男」として中国を展望されよ」(以下略)

920日付である。特徴のある字体、文体はいかにも飯田老のものだ。

私も馬齢を重ねて花甲を越え、いくつかのセミナーあるいは市民講座につきあい、社会教育の意味を考えるようになった。こうしていま脳裏に想起するのは、朝河貫一(18731948、元イェール大学教授、比較法制史家)の言葉である。

「単なる授業とはちがって、教育とは人格です。実際の授業よりも、多分むしろ教場外で知らず知らずのうちに、人格が教育を施すのです。Education, as distinguished from mere teaching, is personality; and personality educates probably more unconsciously and outside the classroom than in direct connection with teaching. (『朝河貫一書簡集』所収)

飯田老はまさに天成の教育者であり、「人格が教育を施す」という朝河貫一の言を体現するような人物であった。

教育機関に禄を食む者として、内心忸怩たる気持ちが強い。その謦咳に接し得ただけでも幸運と感じる昨今である。告別式に参列し、いよいよその感が深い。

国立からの帰途、日高普さんの姿をお見かけして、駅前の喫茶店で小一時間、中国談義を続けた。これも飯田老の功徳であろう。624日のお別れパーティでは、久しぶりに大内先生にお目にかかれるはずだが、このほかどんな旧知の方々とお会いできるのか、これも遺徳である。