[資料]松平永芳宮司の語るA級戦犯合祀と中曽根参拝
私がここの宮司を拝命する前、そして拝命してからも、心ある人々から「祭祀法人」にしろということをいわれるんです。これは明治にできた民法に、法人にし得る団体として宗教と祭祀というのは別になっているのをとって、「祭祀法人」になればいいじゃないかと。それは結構なことだけど、民法にはそうなっておりますけれども、祭祀法人というものの例がないんですね。それをいまさらいったって、とても国会なんかで問題にはならないだろうし、いま宗教法人になっているのを祭祀法人に切替える、口では簡単に切替えるというけど、法人を切替えることはそう容易にはできない。ですから私は、これ以外にいま靖国神社としては生きる道がないんだと、割り切って宗教法人で行くよりしょうがないという考え方でおります。・・国家護持問題につきましては、私はここに就任するまえから強い関心をもっておりました。しかし、国家護持の法案、内閣法制局の見解がでましたときに、それを見まして、これでは靖国神社の態をなさない、要するに宗教色を全部払いされということですから、それじゃあ靖国神社の存立意義がなくなる、道路公団や住宅公団と同じことになってしまうと思いました。・・公式参拝もできないで国家護持法案なんかとても通るもんじゃない。そういう移り変りだとおもいますね。・・昭和60年の公式参拝 あの時はその直前に私は遺族会とか英霊をたたえる会等の主だったかたによばれました。私が非常に厳しいことをいうものですから、今度は靖国問題懇談会できめた以上、もうゴタゴタいわないで呑んでくれ、というようないいかたをしてきたんです。先方が神社に来るのではなく、私を呼出して、相当に大勢の方々で、いわばつるしあげのようなかっこうで、強引に迫ってきたのです。その時、私がいいましたのは、手水を使わないのはまあ宜しい。これは自分の家できちっと潔斎してくれば、それは心がけ次第だ。それから二礼二拍手というのも、これは中曽根氏のやることで、いくらかっこうばっかりやっても、心がなければしょうがないんだから、心をこめて拝をすれば、それはそれでもこちらからとやかくいうことではない、と譲りました。けれどもお祓いを受けないのは困る。 お祓いは神社のやることで、火とか塩とか水で清めるというのは日本古来の一つの伝統習俗です。津地鎮祭で合憲とされたのと同じ習俗だとすれば,それを拒否することにもなる。ところが先方では、宗教法人たる靖国神社がやる行為だから困るという回答なんです。そこでそれならばやむをえないから、結局うちはうちでお祓いをする、いわゆる陰祓いをすることにしました。ただお祓いはひとり靖国神社だけの問題ではなくて、全神社界に関係する非常に大きい問題だから、ここでは即答できない、明日回答するということで、わざと間合をとったんです。そのぐらい大きい問題ですぞ、という意味をわかってほしかったのです。 翌日、先方が回答をとりに来た時に、私が要求したのは、神社の神様に対する礼儀として、中曽根総理サイドの責任者が、今度はこういう方式でお参りをさせていただきたい、ということを願いに出に来られるのが当然でしょう、と申しました。そうしたら、それはもっともだとして八月十四日に藤波官房長官が来られた。そこで私は、はっきりお話したんです。神社というものはこうだ。 私がおそれるのは、本質が崩れていくということだ。よその神社でも知事なんかの公式参拝について、中曽根方式なら憲法に抵触しないということで、同じように祓いも受けないということになったら、神社参拝の本質が崩れてしまうことになるだろう。これは、単にうちだけの問題じゃないから、この点を私は非常に重要視して、先方でいう参拝のしかたで宜しゅうございますよ、とは簡単にはいえない。ただ、今回こちらはやむなく目立たないように陰祓いをしますが、そっちはあくまで祓いを受けなかったということでも結構です。ということで、結局、幕をコの字型に張りまして、記帳台を置き、神社としては総理の記帳時、外から見えないようにしてお祓いをしたんです。けれども、私は挨拶に出ないということを官房長官に言ったんです。それは、いかになんでも人の家に泥靴で踏込むような人の所に宮司が出ていって、よくぞいらしゃいました、ということは口が裂けてもいえませんから、私は社務所にいて出ないことにしました。あの時、総理は武道館での全国戦没者追悼式に参列した後、時間調整のためそこでお昼を食べ、遺族なんかを参道に並ばせておいて、それからやってきました。非常に芝居がかった演出だといっては適切ではないかもしれませんけれど、神門から拝殿までの間に、ずっと遺族さん方が並んで拍手で迎えるように取仕り切り、参道の総理に手を叩いている。まるでショーのようなつもりでやってるんです。しかも、あとで夕刊を見て驚いたのは、うちの荒木禰宜が先導して中曽根総理、それから幕僚として厚生大臣と藤波官房長官を従えているのはよいとしても、その横に四人のボディーガードを連れて行動していたんですね。私は前日、藤波氏に条件として、記帳したあと、拝殿から中の、いわゆる神社の聖域にはボディーガードなんか連れて行かないでくれ、と申しておけばよかったと後で後悔しました。まさかそんなことをするはずがないと思っていました。うちの神様方というのはみんな手足四散して戦場でなくなった方が大部分です。そこへ参拝するのに自分の身の安全をはかるため、四人もぴったりとガードをつけるなんていうのは、無礼・非礼のきわみというほかありません。・・合祀問題 たまたまどうしても宮司にということで、お受けせざるを得なくなったんですが、主として私をくどき落されたのが石田和外先生、もとの最高裁長官です。私はお受けするということを最終的に決心する前に、いわゆる東京裁判を否定しなければ日本の精神復興はできないと思うから、いわゆるA級戦犯者の方々も祀るべきだという意見を申し上げた。それに対して石田先生は、これは国際法その他から考えて祀ってしかるべきものだと思うと明言されました。それで私は宮司に就任してから、合祀の書類や総代会議事録等を調べました。 私の来る数年前に総代さんのほうから、最終的にA級は一体どうするんだという質問があって、いま議会が国家護持問題なんかでごたごたしてるからしばらく待ったほうがいい、それで時期は宮司に一任してくれ、という返事をして総代会も了承された。それが私の就任する6、7年前のことで、以来合祀時期は宮司預けとなっていたのです。 この経緯は議事録に遺っています。そして国家護持法案が昭和四十九年に一旦流れましたから、そこでしばらくして前宮司が合祀してくださっていれば問題なかったんです。 しかし私が来た時には、まだ合祀されていなかった。 7月に就任しまして、10月には合祀祭を迎えるのですが、それまでに名簿をつくったりいろいろな手順があるが、間に合うかと係のものに聞いたら、いまなら間に合いますという。 そこで間に合うなら合祀しようと決断しました。もし私がこれを4年保留しておいてから合祀した場合、その間、宮司はどういうつもりで握っていたんだ、といわれても回答ができない。 したがって、就任した早々であるが、前宮司から預ったこの課題は解決しなければならないということで、思い切って合祀申し上げたわけであります。 その根拠は明白です。すでに講和条約が発効した翌二十八年の議会で、援護法が一部改正され、いわゆる戦犯者も全部一般戦没者と全く同じようにお取扱いいたしますから、すぐ手続しなさい、ということを厚生省が遺族のところへ通知しているんです。いわゆる戦犯、役所では「法務死亡者」といいますが、その遺族達は終戦後、一切の糧道を絶たれていたんです。財産も凍結されていたんです。家を売ってなんとかしようとしても家の売りようがなかった。実は私の家内の父親(醍醐中将)が戦犯で銃殺になって死んでおります。家内の弟がまだ学生でしたから、私が実家の母親の面倒も見ていたのです。それで、役所からくる書類などにも目を通し、こと戦犯に関しては普通の方よりもよく知っていたわけです。そこで私は、いつまでも「戦犯」とか「法務死亡」なんていうことを言うべきでないから、さっき申上げた「幕末殉難者」とか「維新殉難者」という従来から当社の記録に使っていた言葉にあわせて、「昭和殉難者」ということにし、靖国神社の記録では戦犯とか法務死亡という言葉を一切使わないで、昭和殉難者とすべしという通達をだしたのです。・・靖国神社は政府のお金で維持すべき神社ではなくて、国民総氏子の神社ということでなければ、どうにもならんじゃないかと考えています。いまこういう教育をしていないから難しいんだけれども、やっぱり国民総氏子という考え方に基づいて独立独歩でいくべきものだということを職員にも常に言うんです。政府から庇護を受けていると、一時的にせよ、どんな政権が出現するかわからない、その時の不安があるから、私は絶対に政府からお金を貰わないほうがよいと考えているんです。仮に国家護持ということになれば、政府がお金を出して守ればよいと思うようになり、国民はノホホンとして靖国の存在も忘れ去ってしまうかもしれません。私がいつも例にとるのは、各地域の氏神様は、おまつりの時期になると氏子に奉加帳がまわってきて、みんな分相応に寄付をする。そうして、まつりで笛や太鼓が鳴り出せば、仏教徒であろうとなんであろうと、みんな氏神さまのところへお詣りに行くわけです。こうして、自分達のお宮だ、という意識が生まれてくるのです。これをすべて県費やる、町費でやるとなれば、自分達の神社という考えがなくなってしまうだろう。それと同じ理屈で、みんなが僅かずつでも出し合う、小額多数というのが、理想なんだといつでも言っているんです。一人の人が一時的に何百億円寄付しても、決して神社の末永いご安泰には通じないんです。 それよりも小額でいいからできるだけ多くの方々がここの神社を認識されて、ここのお陰で自分達の今日があり平和があるんだ、ということを理解していただくのが理想的なんだと考えております。それで、いまでも遺族会や戦友会の人々なんかが来られますと、お子さんでもお孫さんでもいいから、わかい人を一緒に連れてきて欲しい、みたま祭りの時でもいいし、ハトやコイにえさをやろうということでもいいから、何もあんまり難しいことをおっしゃらないで一緒に来て欲しいというんです。−−靖国神社宮司 松平 永芳新人物往来社
筑波常治教授と筑波藤麿靖國神社宮司
「早稲田大学政治経済学部教養諸学研究会」發行の『教養諸學研究』第百十号(二〇〇一年三月)は、「志賀謙教授・筑波常治教授
定年退職記念号」となつてゐる。科學技術史及び農業史を專門分野とする筑波常治教授は、筑波藤麿氏(もと藤麿王)の長男にして、山階芳麿氏(もと芳麿王。財團法人山階鳥類研究所理事長)の甥にあたる。筑波教授は、早稲田大學の所謂「名物教授」の一人であり、緑色が大好きであつたことでも大變に有名である。即ち、服装の色調を緑色で統一し、眼鏡の縁も緑色。大學での連絡掲示も緑色地の用紙に緑色のペンで字が書かれてゐたといふ。住所も東京都武藏野市緑町であるのであるから、實に徹底したものである。なを、いにしへの「麻雀」好きな早大生には、筑波教授の擔當する授業を全て履修することを「りゅーいーそー(緑一色)」と稱する隱語まであつたとの由である。ところで、筑波教授の父、筑波藤麿氏は、敗戰後、長らく靖國神社宮司を勤めてゐた。その在任中、昭和四十五年(一九七〇)六月三十日、靖國神社總代會で、青木一男元大東亞相の強硬な主張によつて極東軍事裁判A級戰犯を靖國神社に合祀する方針が決められた。ただし、合祀の時期は宮司に任せる、とされた。極東軍事裁判A級戰犯を「戰爭責任者として合祀しないとなると神社の責任は重いぞ」といふ青木一男による脅迫まがいの主張に對して、筑波藤麿宮司は、「ご方針に従う。時期は慎重に考慮したい」と答へ、實施を延ばし、結局、在任中には極東軍事裁判A級戰犯合祀を行はなかつた。
徳川義寛『侍従長の遺言 昭和天皇との50年』(岩井克己 聞き書き・解説。朝日新聞社、一九九七年二月)、一八〇〜一八二頁。 しかし、靖國神社宮司が松平永芳氏に代つて間もなく、昭和五十三年(一九七八)十一月、秘密裏に極東軍事裁判A級戰犯合祀が實施された(それが新聞に報道されたのは翌年四月)。
『入江相政日記』によると、松平宮司は、宮内廳に、徳仁親王[浩宮]が「御成年におなりになつたのだから靖國神社に御參拜になるべきだ」と言つて來たり、徳仁親王[浩宮]のオックスフォード留學に反對するといふ「馬鹿なこと」を言つて來たりしたといふ。また、松平永芳宮司は、新發現の『高松宮(宣仁親王)日記』を如何にすべきかといふ喜久子妃の相談に對しては、之を燒却すべきとの意見を述べてをり(高松宮妃喜久子『菊と葵のものがたり』中央公論社、一九九八年十一月、四八頁)、歴史に對する認識に於ても著しく缺けてゐる人物であつたことが窺はれる(『入江相政日記』昭和五十五年五月三十日、昭和五十八年三月十四日)。
昭和天皇の侍從長を勤めた徳川義寛氏は、この極東軍事裁判A級戰犯合祀について、「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、松平永芳宮司の措置を批判的に語つてゐる(「昭和天皇と50年・徳川前侍従長の証言」(『朝日新聞』一九九五年八月十九日)