『マオ』の真贋を読む(原載、東方書店『東方』20065月号、28-31ページ)

 

『マオ』のイギリス版が出たのは昨年6月、アメリカ版が10月に出て、邦訳は11月に出た。『毎日新聞』(2005124)と『読売新聞』(7)は、来日した著者をインタビューし、『朝日新聞』(25)では、青木昌彦、加藤千洋両書評委員が「今年の(お薦め)3点」のなかに挙げた。青木昌彦曰く、「20世紀中半の東洋史(神話)の書き直しを迫るインパクトをもつ」。加藤千洋曰く、「中国政治で決定的な要素であるはずの農民に、富農出身の毛沢東は強いシンパシーを実は持っていなかった。意外な毛像を提示したのが『マオ』だ。旧ソ連資料を用いて書きかえられた毛沢東像、中国現代史の「実相」は衝撃的だ」と。

年が明けて『日本経済新聞』(200618)は国分良成教授の書評を、『朝日新聞』(118)、松原隆一郎教授の書評を掲げ、「20世紀の国際関係史は根本的に見直しを迫られる」と書いた。天児慧教授(『現代』20061月号)に至っては、「衝撃」「衝撃」を繰り返した。毛沢東を描いた天児著『巨龍の胎動』の絶版宣言を告白するならば潔いが、結論のまんたく異なる『マオ』を手放しで褒めるのは、無節操極まりない。大新聞、有名学者がこぞって大宣伝に努めた結果、ベストセラーのトップを続け、ブロッグではいまや『マオ』の謬論を前提としたやりとりが広く行われ、これが「ナウイ中国イメージ」扱いされているのは、由々しい事態ではないか。『マオ』は全編これデタラメのオンパレードと言い切ってよいのだが、ここでは張作霖爆殺事件と上海事変に話題をしぼろう。

「爆殺事件」は、こう書かれている。

「張作霖爆殺事件は、一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令に基づいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」(邦訳上巻301ページ)。原文はどうか。

This assassination is generally attributed to the Japanese, but Russian intelligence sources have recently claimed that it was in fact organized, on Stalin’s orders, by the man later responsible for the death of Trotsky, Naum Etingon, and dressed up as the work of the Japanese.(アメリカ版175ページ)

(矢吹訳)しかしロシア諜報機関の資料は、実際にはスターリンの命令で組織され、トロツキー暗殺に責任を負うナウム・エイティンゴンによって実行され、日本軍の仕業に見せかけた、と最近主張している」。

いま私が下線を引いたように、邦訳は「最近明らかになった」と既定の事実として描いているが、原文は「(諜報機関が)主張している」だ。つまり、つまり「明らかになった」と断定するのは明らかに早計であり、スパイの手柄話、自慢話のなかに、そのような記述があるといった趣旨にすぎない。ここには二つの問題がある。一つは誤訳である。原文では「主張している」はずのものが、訳語では「明らかになった」ともはや確定的だ。

もう一つは、原文自体の誤りだ。著者の典拠は何か。

Kolpadiki & Prokhorov 2000, vol. 1 pp. 182-3 (from GRU sources); key role also played by Sorge’s predecessor, Salnin. Indirect confirmation of this is a photograph of the Old Marshal’s bombed train shattered in Vinarov’s book (opposite p.337); caption says  ‘photograph by the author’. 資料はGRU=旧ソ連国防省参謀本部諜報部の本であり、カギになる役割を果たしたのは「ゾルゲの前任者サルニン」だという説明だ。もう一つの間接的証明なるものは、ヴィナロフの「本の写真」で、「本人撮影」のキャプションがつけられている由だ。

これだけの記述から、「張作霖爆殺事件はスターリンの陰謀であった」と信じ込むのは、よほど脳細胞の単純な人か、陰謀が好きなマニアか、あるいは知的水準の疑わしい知識人たちではないのか。情報は具体的に検証しなければならない。当時の満洲では、張作霖の部隊と日本の関東軍が対峙していた。その周辺には国民党の諜報員、中国共産党の諜報員がいて、その裏にはコミンテルン、すなわちスターリンの諜報員もいた。関東軍高級参謀河本大作らがこの事件を企画し実行した固い事実を、この程度の「スパイ情報」で覆せるものか。事件について、「事後に」、諜報員たちがそれぞれの報告を上司宛てに書いた可能性はあろう。写真も添えたであろう。したがって参考文献として挙げられているVinarov Ivan, Boytsi na Tikhiya Front, Izd. na BKP, Sofia, 1969.なる「ブルガリアで1969年に出た」とされる本のなかに、写真があってもおかしくはない。こうして「ゾルゲの前任者サルニン」の指揮のもとで、「トロツキー暗殺に関わったナウム・エイティンゴン」が実行し、「ブルガリア人ヴィナロフ」が写真を撮影した。これが張戎夫婦の妄想した「スターリンの陰謀」である。私はこの分野の専門家によって陰謀物語の信憑性を点検されることを期待するが、虚構につきまとう臭気がふんぷんしているのは否みがたい。この本はデタラメだらけであり、他のあまたの間違いから類推して、この部分も歴史の偽造の可能性が強く、妥当な結論とはとうてい認めがたい。

もう一例を挙げよう。第2の陰謀物語もスターリンの指令に始まる。上海事変で日中戦争を拡大したのもスパイの謀略によるという。当時、国民党軍の南京上海警備区総司令官であった張治中をスパイに仕立てる話だ。彼は中国共産党の「秘密党員」であり、19378月、「スターリンの指令に基づいて」、「大山中尉殺害事件などを引き起すことによって日本軍の戦線を華中まで拡大させ、日中全面戦争を導いた」と説く。この荒唐無稽な珍説を自画自賛して、「張治中は史上最も重要な働きをしたスパイと呼んでも過言ではないだろう。ほかのスパイは大半が情報を流しただけだが、張治中は事実上たった一人で歴史の方向を変えた可能性が大きい」、「これはスターリンにとって大成功の作戦だった」「張治中と接触したソ連大使館付き武官レーピンとソ連大使ボゴロモフは、直後に本国に召喚され処刑された」(邦訳上巻344ページ、アメリカ版203ページ)と書く。

張治中将軍スパイ説についてはイェール大学スペンス教授の「モンスターの肖像」(『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』200511月号3日号)が明確に否定した。「当時、国民党と共産党が争っているところに日本軍が介入した。3者がそれぞれの諜報部員と暗殺組織をもち、その一部は二重スパイ、あるいは三重スパイであった事例は確かに存在する」、「一つは国民党と共産党との国共合作のため、相互の連絡調整は不可避であった。将校たちはかつて1920年代初頭に広州近くの黄埔軍官学校で共に学ぶ関係にあり、そこではコミンテルンのオルグたちが活発に活動していた。蔣介石は学校長、周恩来は政治部主任であった。蔣介石は軍事訓練の方法を学ぶためにソ連を訪問し、周恩来はフランスへの勤工倹学から帰国したばかりであった。国民党内で昇進した蔣介石のお気に入り張治中将軍が1949年に蔣介石とともに台湾に撤退せず、大陸の八路軍に降伏したのは、確かな事実である」。「これらの関係から類推して『マオ』は、張治中将軍は共産党のスパイであったとする新説を出す前に、次の点を検証せよ。(1)スターリンは日本との戦争を拡大するために、どのようにして、張治中将軍を眠りから覚めさせ、活動を始めさせたのか。(2)上海を基地とするコミンテルンのスパイは、まだモスクワのスターリンと秘密の無線通信を保持していて、それを張治中将軍に伝えたというのか。(3)張治中将軍が眠りから覚めるまでの、実際の任務は何であったのか」。

『張治中回想録』(19362月の記述)によると、当時国民党軍官学校校長を務めていた張治中は、蘇州上海地区を日本軍から防衛するために「秘密計画」を立案した。この仕事は1937年になって、張治中が青島の医療施設で治療を受けたときも続けた。しかし193779日、日本軍が華北を攻撃したニュースを聞くや、張治中は急いで南京・上海地区に、当地の防衛のために戻った(『張治中回想録』109111116-117123139ページ)

スペース教授は続ける。「(張治中が)共産党のために働いているようには見えない。張治中将軍は日記のなかで、1932年初め上海で日本軍と積極的に闘ったことを記した。蔣介石が南京に戻ったときに、空港で張治中に会い、張治中の考えを知ったうえで、部下として信頼した」。張戎は張治中将軍が「日本軍との戦闘に積極的であったために、19379月に辞任させられた」と書く。だが上海地区での日本軍の初期の勝利以後、「張治中は上海から湖南省知事に配転された。これは左遷ではあるまい。蔣介石の全体計画は長江の南にある湖南省を越えて西南に移動しようとしていたから、湖南省は中国の将来にとってカギになる地域なのだ」、「193711月、張治中将軍は黄埔軍官学校以来10年ぶりに周恩来ら同校の旧知の仲間と再会した。

張戎は『張治中回想録』を資料として引用しているが、『回想録』は張戎夫婦の主張を裏付けるものではない」。スペンス教授は『マオ』の主張の核心の一つを崩して見せた。実に見事であり、「書評の鑑」だ。コロンビア大学ネイサン教授の書評「翡翠とプラスチック」(『ロンドン・レビュー・オブ・ブックス』20051117日号)も、徹底した「資料操作」批判を行い、著者の欺瞞性を完璧に抉りだしている。

私はここで爆殺批判や「スパイ説」批判など日中戦争に関わる論点にしぼって検証した。

『マオ』の基調は、毛沢東が「ヒトラーよりも悪い悪魔だ」という繰り返しである。曰く、毛沢東は「平時において7000万人を殺害した」、「殺害を楽しんだ」、殺害の開始時期と殺害者数においてスターリンよりもヒトラーよりも早く、その数は上回る」と。

この暴論に接して、これを褒めそやす大学教授たちの無恥無能には、開いた口がふさがらない。

*追記。三笠宮崇仁著『古代オリエント史と私』(学生社、1984)には、悲痛な日中戦争体験が綴られている(1637ページなど)。これと対照すると、『マオ』の引用(上巻377ページ)のデタラメぶりがよく分かる。