ある中国観

 『農業構造問題研究』1981年第4号、129号、19819,1-23

 

はじめに

 私は79年の5月から80年の10月まで1年半,香港の日本総領事館におりまして特別研究員という資格で中国の勉強をしていたわけです。日本におりますと,いろいろとつまらない用事もございますが,香港ではルーチン・ワークはまったくない。領事館では毎日,自由に研究してよろしいということでありまして,いろんな資料を読む時間を与えられました。幸い79年の5月に開かれた全国人民代表大会の第2回会議のころから中国政府は具体的な数字を発表するようになつた。

 そういう数字を丹念に拾っておりまして,私はかなり衡撃を受けました。つまり,それ以前に考えていた中国のイメージがどんどんくずされていったわけです。いままではエクボばかり見せつけられていたのですが,今回は中国自体がアパタを公表し始めたということであります。

 もう一つは,その年(1979年)に春と秋, 2回,中国を旅行したことです。春は大内力先生[東大名誉教授]とご一緒で団体旅行でしたから,それほど感じなかったのですが,秋の旅行は外務省の研究員というおかげで個人の旅行ができた。それで1カ月近くあちこち――スケジュールはまったく私自身が決めればいいのですから――動きたいように動いた。もちろん限界はありますけれども……。その中で私は,行く前に考えていた中国とはまったく逆の現象を抱かされました。つまり中国についての見方を根本的に変える必要があると感じたのです。なぜそういうふうに考えるにいたったか,それを述べてみたいと思います。

 そして,私がここで述べたいのは,小倉〔武一〕会長には『日本農業は生き残れるか』という英文の大著がおありですが,「人民中国は生き延びられるか」, あるいはもうちょっと広くいって,人民中国でなくてもいい,資本主義中国でもいい, ともかく「中国そのものが生き延びられるであろうか」, ということであります。

 耕地不足・食糧不足

 まず農業についていくつかの点をあげてみる。

 中国は国土面積が96haと非常に広い。ところが,そのうち耕地は1haしかない。10%強である。森林面積が12000haぐらいで1213%,利用可能な革原が22ha23%,残りの50%,つまり国土全体の約半分は,砂漠か「退化した草原」か高山ということで,人間はほとんど利用できない。

地図(『祖国地形』地図出版社1975年)をごらんいただくとわかるが,黒竜江省の愛王軍から雲南省の騰冲に物差しを当てた東半分は四川盆地を含めて国土面積の約半分ぐらいになる。人口はこちら側に97%以上いるわけである。別な言葉でいうと,国土は広いけれども,まず半分は使えない。チベット高原をみると,この辺は昔のシルクロード,ほとんど砂漠である。したがって耕地面積が1ha,森林面積が121la,草原が22haという数字は非常に重要な意味をもつと思う。耕地が1haといぅことは,人日が約10億だから, 1人当たりにすると10a1反歩)しかない。大ざっぱな計算だが, 5人家族としても5反歩しかない.非農業人口を除いて計算しても1戸当たり6反歩ぐらいしかない。それだけの土地で食べていくには,まず米を作って土地生産性を上げないことにはどうにもしようがないと思うけれども,米ができるのは,揚子江の少し北を流れる川,淮河の南側だけである。淮河を境界線として,それから北のほうは畑作地帯である。近年,耐寒品種がはいって東北地方にも水稲が少しふえてはいるが, しかし基本的には,淮河の北はドライ・ファーミングの地域である。

耕地が少ないということを反映して, 1人当たりの食料が非常に少ない。解放後, 自然改造に努めた結果,耕地はふえた,という話をさんざん聞かされてきたが,実は耕地は過去20年に1割ぐらい減っているということが最近報じられている。つまり,共産党が権力を握ってから開墾その他に努めた結果,耕地は2000ha以上ふえた。ところが,それを上回る3000ha以上が非耕地化されたというのである。一つは, もちろん工場用地化のためであり,農村でいえば道路とか,堤防,水利工事などのために非耕地化された。非耕地化された比率が3割だということで,ちょっと多すぎるのではないかという気もするが,ほかの資料にもこの数字がしばしば出てくるのである。一方, これから耕地がふえる可能性は,既存耕地の3割ぐらい。つまり3300haぐらいは耕地化できるということらし      い。しかしこれまでの経緯に照らせば,そのくらいが非耕地化されてきているわけだから,今後も工業化を進めるとその程度はまた非耕地化される可能性があるとみる必要があるだろう。そうすると,耕地まず現状維持, 1haという水準はあまり動かないであろう。他方,人口は確実にふえる。

 革命前後の人日は大体5億だったとみていいと思う。それが30年経て,現在l0億, 2倍になった。食糧は(これは1952年の数字だが)16000tであったものが, 1979年には33000t,大体2倍である。80年は自然災害その他の要因によって,前年より1500tぐらい減っているが, とにかく食糧は倍にふえた。食糧は倍にふえたけれども人口も倍にふえているので, 1人当たりでみると食糧はほとんどふえていないということになる。33t10億人で割ると, 1人当たり330kgである。問題はその330kgの中身であって, これは非常に大ざっぱな数字だし, これから種モミの部分とか,輸出される部分、工業用原料に用いられるものなどを差し引かなければならない。330kgのざっと7掛けで210kgから220230kgがいまの1人当たりの摂取量であろう。この内訳など,中国政府はまだ発表していないが,それはやはり自信がないからだとみるほかない。アメリカの農務省レポートによると,76年の時点で米が50%ぐらい,小麦が162%,雑穀が25%,イモ類が10%となっている。つまり,イモと雑穀とで35%,これは全国平均だから,貧しい地域になると, この比率はもっとふえる。そういうものを含めてようやく210kgということになってくる。その意味では食生活はきわめて貧しい。かろうじてカロリーをとっているということなのだろう(81430日付『人民日報』は,約20年ぶりに食糧の内訳を公表した。これによると,米43.7%,小麦17.0%,いも8.7%,大豆2.4%となっている。雑穀は約2.8%と計算される)。

 そのように,いわゆる主食の中身がイモなり雑穀を含めた形で間に合っているということが一つの問題である。第2に,肉食をふやすのが近代化だ,という議論がいま出てきている。動物性蟹自質の摂取量になると非常に少ない.必要蛋白量の2割ぐらいを,動物性のものから得ているといわれる。そういう主食の内容のレベルで,食生活は貧しいし,動物性蛋白質を入れればもっともっと貧しい。まさに第3世界の水準である。

 次に食糧の輸入についてふれると,77年には610t輸入した。78年が830t791050tとずっとふえてきて,80年はまだ数字がはっきりわからないが,1500t前後輸入したとみられている。ソ連が約2000tといわれているので,それに近づきつつある。

 食糧をふやすためには,耕地をふやすか,それとも土地生産性を高めるか,それしかないが,耕地のほうには限界があるということはさきほど述べた。一方,土地生産性は,過去30年間に2倍になつた。33000t1haの耕地で得られているわけだから, l ha当たり3.3tということになる。これから立地生産性を高める余地はあるだろうと思われるが, しかし, これまでの経緯に照らしていえば,そう急にはできない。そうなると結局,食糧輸入は増大せざるをえないであろうし,世界の食糧市場はかなり大きな影響を受けるのではないか, というような見通しをもっているわけである。80年はとにかく自然災害――北方の干ばつと南方の洪水-――という要因があって,前年度よりも1500t45%)の減産ということであった。これはもっぱら一時的な自然災害によるものだ, ということを中国政府は強調しているが,私は,かなり構造的な要因によるのではないかという疑念をもっている。その点を以下に述べたい。

「緑の中国」は虚像

 まず,自然が荒れているということである。私が中国に行ったときも,なにか砂漠にきたのではないかという印象をまずもった。春と秋で,中国では一番しのぎやすい,いい季節だといわれているが, とにかく非常にほこりっぽくて,砂漠にきたように感じた。ところが日本に帰ってくると,“フランキー堺が万里の長城で眺びはねる”,ある製薬会社のテレビ・コマーシャルがあって,それに「緑の中国」とある。私は非常にびっくりした。まさにこれが日本の中国のイメージなんだな,と思った。実は中国には緑はほとんどなく,むしろ「砂漠に近い中国」というほうが正確である。具体的な数年をあげると,行政区としての北京市は,三多摩を入れた東京都の8倍ぐらい,岩手県に近いが, この農村を含めた行政区としての北京市の3分の2は丘陵地帯で,平地は3分の1しかない。そして, 3分の2の丘陵地帯の森林面積は75%しかない。非常に少ない。中国全体の平均が124%,世界の平均が22%ぐらい, 日本は60%以上ということであるし,森林を緑というのであれば,木がわずか75%しかない万里の長城のあたりについて「緑の中国」というのは,でたらめもはなはだしいということである。

 しかも,この森林が急速に失われつつあるということが,次の問題としてあると思う。過去5年間に1割ぐらい森林の蓄積量が減っているという調査が出ている。この森林の話についても,私は「だまされた」という感を禁じえない。つまり,革命後, 自然改造と取り組み,荒れた国土を改善するのだということで植林運動が盛んに行われたということは,何度も新聞で伝えられていた。ところが,結果としてはむしろ減っている。植えたというのはおそらく事実だろうと思う。しかしながら,育つのを待つ余裕がなく, どんどん切っていった。あるいは,そのほかの人為的な理由があって森林が減った。そして,いまなお減りつつある。そのことが重大であろうと思う。

 中国の生物学者がこんな指摘をしている。まず揚子江の土砂量が年間5tから6tにふえているが,これは20年前の倍である。そして,この揚子江が「第2の黄河」になろうとしていると懸念されている。黄河は年間の土砂の量が15tから16tで,『左伝』で「河清難俟」――「百年河清をまつ」といわれたように森林破壊の歴史は古いわけだが,揚子江も黄河に迫ろうとしているというのである。

あと二つ。東北の松花江(スンガリー),この川がやはり土砂の量が急速にふえており,また,遼河も土砂がふえて黄河化しているといわれている。

 それは要するに,木が切られたからである。まず東北のほうからいくと,オルドス高原で砂漠が急速にふえつつある(『中華人民共和国沙漠図』,地図出版社1979年)。 これが黄河erosionの理由である。これが蒙古を越え,大興安嶺を越えて――この辺は砂漠の初期の段階だが――東北平原に砂漠が侵入し始めたといわれている。その結果として遼河の土砂がふえ,スンガリーの土砂がふえているということである。

森林との関係でいうと,東北のソ連との国境の辺りが中国で最大の森林蓄積を誇る。つまり,中国最大の林場がある。もう一つは,四川省から雲南省にかけての地域である。この二つが第1, 2の森林伐採場である。これらの林場で木が大量に伐られているため,いまいったように土砂がふえ,ひいては砂漠化し始めているということである。東北平原のほうとみると, この辺は年間降雨量が600mmぐらいだといわれていたが,それが解放後20年の間に400mmに減っている。降雨量が3分の1減っている。それから,無霜期間が約半月短くなったそうである.

揚子江の「黄河化」

揚子江でなぜ土砂がふえたかということであるが,揚子江の支流に岷江という川がある。それが出から四川盆地に流れ込むところが,漢代に自然の立地条件を生かして水を三つに分け,その一つを農業をするために引いたという有名な都江堰で,2000年前からいかに水をうまく使ったかという例としてよくあげられる。この辺に解放後ダムをつくったのだが,水が全然たまらず,ダムをつくった意味がない, という話が―つある。また,80年の洪水はまさにこの辺から水があふれ出した。揚子江の上流のここで洪水が起こっている。その洪水が下までくるのではないかとだいぶ懸念された。とくに武漢あたりにくると,流域の水を全部集めてくるからたいへんで,80年は人民解放軍が2カ月出動し,かろうじて決壊をまぬがれたというふうにいわれていた。しかし,その後武漢の北側つまり湖北省の被害は相当大きく,国連に災害援助を要請したことが明らかになった。

 なぜそういう洪水が起こったかというと,結局ここの木を切ったからである。この辺が中国第2の森林蓄積を誇る林場であって,そこの木を切った結果,いまこの辺の森林の量は十数パ―セント台になっている(森林法では40%以上とされている)。中国は79年,森林法という法律までつくって自然保護に取り組もうということをやったのだが,実際には,法律をつくったもののザル法というか,その法律の執行を監視するような体制が全然できておらず,80年の全国人民代表大会では,ある代表が, こんなことでは法律をつくっても意味がないではないか, といったくらいである。

 もう一つ,揚子江との関係だが,四川省の西部には少数民族がかなり住んでいる。桐油などを売って食糧を得るというふうな生活らしい。その少数民族に対して無理やり木を切って食糧をつくれといつて,イモや雑穀を植えさせた。ところが,雨が降ったらそれが全部流れてしまって,食糧が得られないだけでなく,桐油さえ得られなくなった。ほんとうにはだか山になってしまった――というばかみたいな話が,やはり全国人民代表大会で代表から報告されている。

 そういう話を聞くと,いったいどうなっているのだろうかと疑間に思う。おそらく農民は,そこに何百年も住んでいるので,過去の経験的な事実から,そういうことをすればどうなるか知っているに違いない。それを,上からの命令でそういうムチャなことをやる共産党の行政のあり方を非常に疑うわけである。それに似た話はたくさん聞かれる。

 そういう形で自然が荒れている。だから識者は,「北京が砂漠に埋もれる日はいつか」というふうなことさえいってぃる。つまり,オルドス高原のホブチ沙漠とムウス沙漠がつながろうとしており,それがさらに大興安嶺を超えて東北までくると,北京まではあとすぐである。現に万里の長城のすぐ裏が張北県で,そこは日中戦争のころはまだ相当林があって,軍閥馮玉祥が2万人ぐらいを駐屯させていた。ところが,この前,大使館の人に開いたところ,モンゴルヘ行く国際列車に乗って行くと,あの辺には何も木がなかったそうである。

 そういうわけで,革命後,一方で木を植えたことは事実なのだろうが, しかし他方で,それを破壊することも行われていたのに, この点は報道されていなかった。それが報道され森林欠乏の事実が明らかになり,私は衡撃を受けている。

 もともと木が足りないから,炭坑をつくろうにも坑木がないとか,鉄道を敷こうにもまくら木がないとか,生活レベルでは家具が足りない,ベッドがないため結婚できないという若い人の苦情が『中国青年報』という中国の若者向けの新聞などにしょっちゅう出ている。

 そのほかに,農民が燃料として木を燃やす,このことが非常に重大のようである。生活用燃料がどの程度必要かという数字が出ているので,それをちょっとご紹介すると,農家は1日に3度の食事をつくるのに,1戸当たり10kgぐらいの薪を必要とする。そうすると,365日では1戸当たり3.6tの薪が必要になる。薪といっても,乾燥した動物の糞なども含むわけだが, とにかく1戸当たり3.6t必要である。農家戸数が17000万戸ぐらいあるから,農村で年間6tぐらい,生物エネルギーが必要だといわれている。そのうち3tぐらいは作物の殻――稲わら,あるいはコーリャンでもいいが,そういう作物の殻――を燃やしている。その結果,土壌が急速に荒れている。ほんとうならそういうものを有機肥料として上に還元したいところだが,余裕がないから燃やしてしまう。そのために土壌が荒れているわけである。さらに,それでも12カ月のうち78カ月分しか間に合わず,木を切っている。木を切るというのは,農民にとって生きるため,めしをくうためである。つまり,昼間は共産党の政府に協力して一生懸命に木を植えるが,夜になると,あるいは政府が見ていないところでは,木を切ってしまう。そういう農村のエネルギー需給のひっ迫というのは実に深刻らしい。

 そういう意味では,中国は外国に売るようなエネルギー資源はもっていないのではないか。これは私の思いつきだが,石炭にせよ,石油にせよ,それは本来なら農村に優先的に回すべきである。そうすれば農村の木を切らなくてすむ。作物殻は有機肥料として土地に還元できるはずである。ところが,そういうことではない方向に行っている。機械を買いたいという気持ちも理解できないわけではないが, しかし,そのように農村が,あるいは国上が全体として疲弊していることを放置したままで,余裕のないエネルギー資源を売るというのは,私は――ちょっと悪いたとえかもしれないが――山谷の労働者が売血によってその日暮らしをしているというイメージをいだかざるとえない。そういうことでいえば, 日本は中国に木を植えることでも大いに協力したらいいのではないかと思う。

なぜこういうことになったのか……。逆説的な言い方になるが,「社会主義が悪かった」あるいは,「共産党が悪かった」ということをちよっといってみたいのである。といって,私は自信をもっていっているのではなく,仮説というか,逆説みたいなことをいつて,専門家である皆さんを挑発し,ご批判をあおぎたい。

深刻な人口爆発

 共産党は貧しい人たちに食うものを与えるということを約束して権力をとった。そして,たしかに貧しい人たちに食を与えることには成功した。しかし,まさにその結果として人口が爆発的にふえてしまった。倍になった。人口がふえても,それを食わせるだけの措置がともなえば,それはそれでよかったのだろうが,その措置がほとんどともなわなかった。農業生産は倍にふえているわけだから, それなりに努力した結果が認められるが,結果的にそれは人口増に全部食われてしまったということである。

 そういう結果からの議論になるのだが,なぜもっと早く人口抑制に着手しなかったのか.これは第3世界に共通の問題であって,必ずしも特殊中国的な問題ではない。ただ,問題一般が中国のようないわゆる社会主義体制の下であるがゆえに増幅して現われた, ということはいえるだろうと思う。つまり,一つはまさに社会主義という体制だから,配給機構は賞徹し,その結果として餓死者は最小限に抑えられた, ということがある。そのほか医療体制などにしても,他の第3世界諸国よりは,より底辺まで浸透したかもしれない。まさにそのことが,ある意味では裏目に出て――といっていいかどうかわからないが――人口増の要因になったのである。

 人口抑制になぜ早く着手しなかったかということに関しては,いくつかの理由があげられている。1950年代に馬寅初という経済学者―一北京大学の学長であった――が「新人口論」という本を書いて,人日抑制の必要を訴えた。ところが当時,彼は右派分子と批判され,北京大学の学長を解任される。それ以後,人口問題はタブーになったのである。毛沢東がいったといわれる,人間は口は一つだが、手は2本である,だから2本の手でものをつくれば,口は一つだから,つくるほうが多くなるのだ,という「人口論」ならぬ「人手論」がある。

 では,毛沢東がなぜ人口について関心を払わなかったかと考えると,いろいろな理由があると思うが,一つは,とにかくゲリラの指導者だったから,ちょっと戦いをやると, 自分の部隊が半分に減ったり, 3分の1に減ったりという,そういうことを何十年やってきた。長征のとき30万人で出発した部隊が,延安に着いたときには1割に減っていたという,そういう修羅場をくぐってきたから,人間は多いほうがいいという発想になるのも無理からぬところがあったかもしれない。また,権力をとってからも,最初はアメリカの,途中からはソ連の,核の攻撃をおそれていたわけで,人口が半分に減っても,残った人たちで建設すればいい,というようなことをかつて毛沢東はいったが, これはおそらく実感だったのではないかという気もするのである。

 そういうことのほかに不幸だったのは,中国はソ連の経済建設のやり方をそっくりまねるわけだけれども,ソ連はむしろ人口不足という阿題をかかえていたために,人口制限という議論がソ連の文献のなかにはいっさいなかったということである。そのような一つの事実から,社会主義には人口過剰問題はないのだというふうな非常に格調の高い議論と結びついて,結果的には,人口問題について議論するのは,すべてマルサス主義者,帝国主義の手先というふうな形になってしまつたということのようである。手許にある『マルサスの人口論とネオ・マルナス主義批判』という本が出たのは783月である。つまり四人組が打倒されてからである――執筆は7710月だが。この本を見ると当時の議論が実によくわかる。そして,私がだまされたのはまさにこういう議論によってなのだなということをいま反省するわけだが,それによるとこういうことをいっている。耕地は大体1haだが――これは事実と合っている――この耕地が2ha2倍ぐらいにふえる, ということをいっている。耕地が倍になるかどうかではだいぶ話が違ってくる。しかも,それは全国土面積の2割にしかすぎないから,将来まだまだ耕地はふえる可能性がある,ということをいっている。それから,人日の伸びは年率約2%,食糧の伸びは4%だから,食糧の伸びは人口のそれの倍になる,消費水準は上がっているはずだ, というふうにいっていた。ところが実はそうではなくて,人口の伸びと生産の伸びはほとんど同じで, 1人当たりについては変わらなかったというのが事実である。

いまようやく本格的な人口抑制に着手して,「1夫婦子ども1人」という政策をかなり強引にやり始め,いろいろなトラブルを生んでいる。マクロからみれば人口抑制をしなければいけないということは共通の理解になってきており,80年の全国人民代表大会の報告では,今世紀末,つまり2000年までに,現在10億の人口を12億ぐらいで抑えたい, という方針を打ち出している。しかし,12億に抑えることは,おそらく非常にむずかしいのではないか。アメリカの例の『西暦2000年の地球』では135億ぐらいにみていたと思う。それは仮に過大であるとしても,12億に抑えることができるかどうかは大問題である。

 というのは, 1夫婦子ども1人」だと,縮小再生産だから,通常であれば減るはずだが,中国はいま10億の人口のうち30歳未満の人たちが63%ぐらいを占めていて年齢構成が非常に若い。したがって, 1夫婦子ども1人」という縮小再生産の人口政策をとっても, これから2030年はふえてしまう。結局,革命後生まれた人たちが,10億のうち63000万人ぐらいいて,非常に単純な計算をすると,大体50年代には,このときは年間2000万人ぐらい生まれ,50年代を通じて2億人ふえた。この年代は人口増加率が3%から,場合によっては4%ぐらいになるようなこともあった。60年代になると,母数がふえた点もあって, ここがむしろ一番高かった。60年代に生まれた人口が25000万人。そして70年代は,少し人口抑制が行われたから,年間2000万人一一これは非常に単純化した話である。モデル化すると,革命後30年の円に,年間これだけずつふえてきて,結局65000万人――実際は63000万人ぐらいらしいが――ふえた。こういう人たちがこれから結婚していくわけだから,「1夫婦子ども1人」を実行させたとしても, トータルとしての人口はふえる。

 過剰雇用と失業の問題

 もう一つは,食糧の問題に関連して,雇用が非常に大きな問題となってくる。中国では,農村の人口が都心にはいることをきびしく制限していて,よほどでないと都市にはいれない。その結果どうなるかというと,耕地がほとんど変わらないところへ労働力だけがふえていく。そうすると,従来なら1人でやった畑を15人あるいは2人でやるということになるから,労働生産性が非常に低くなってくる。農民の生活が上がらなかった一つの理由は,どうもそこにあるらしい。農産物の価格は少しずつ上げてきたということは事実なのだけれども,しかし労働力がふえすぎたために,過剰就業であるがために,労働生産性が低くなって,結果としては農民の生活はマイナスになっている, という面が非常に深刻のようである。79年からか農産物価格を上げているが,あれではどうもカバーしきれていないらしい。

 さらに,都市の雇用の問題である。つまり,50年代に生まれた人たち,60年代に生まれた人たちが,毎年2000万ぐらいずつ労働力化してくるわけだから,そのうちの8割ぐらぃは仮に農村にいるとしても,都市だけでも何百万かふえている。これに職を与えるのはたいへんだというか,まずできない。毛沢東はこれを「下放」ということで,農村に,ある意味では追いやっていた。そういう人たちがいま暴動を起こして,軍隊が鎮圧に出たりしている。例の北京釈での爆弾事件はそれらしいし,報道されていないが,ほかにもそういうトラブルはたくさんあるようだし,治安が悪くなっているのも,そういう人たちに職がないからである。つまり,田舎からこつそり都市に帰ってくると,帰ってきたからといってすぐ逮捕されるというようなことにはなっていないらしいが,食糧がない。家族に余裕があれば,その分け前をもらえばいいが,家族にもそんな余裕はない。かなりきびしい,窮屈な配給だから,厄介者扱いされる。そこで家を出る。出たはいいが,やることがない。女性なら売春などをやらざるとえない。男性だと初めは乞食。それからダフ屋などが多いそうである。消費財は配給のものが多いから,そういうところに並んで買い占めてしまい,それを転売する。切符などでも同じで,そういうものを全部とっておいて転売する。それで食っている。そのような人たちがいるために,民衆からものすごく苦情が出ている。「配給なんか,いくら並んでも自分まで回ってこない……」。あたりまえである。青年たちはそれがないと食えないから,必死になって並んでいるわけだ。そういう人たちの住んでいるアンペラみたいな家が北京市の一角にあるそうである。ダフ屋とか乞食だけでも問題だろうが,そういうのが積極的になれば強盗に変ずるわけだし、さらにそれが組織されれば,手製の武器で誓祭と立ち回りをやるということになるわけで,現にそういうことも部分的には起こっているらしい。そのようなときには軍が出るので,秩序は一時的には回復するらしいが,あくまでも強圧的な治安維持だから,軍隊がいなくなつたとたんにまたはびこる, という問題が出てきている。

 そういうことを考えると,実にたいへんな事態にたちいたっているのではないか, という印象をもたぎるをえないのである。

 これからそれが改善されるかどうかという見通しだが,ますます暗いというのが私の印象である。

 まず食糧についていうと,1haの耕地が仮に多少ふえて,土地生産性が多少上がったにしても,そして,人口は抑制するから多少は減るにしても, とにかく20世紀末までには12億を超えることはまず間違いないようである。そうすると,耕地面積でいえば,いまの1人当たり10a67aぐらいに減るかもしれないということになる。

 それから,衣も非常に悪い。いま綿布が1人当たりの平均が5mだが, これもここ十数年変わっていない。化繊についてはかなり自由だが,これは非常に高い。ある意味で禁止的な価格になっている。だから民衆は,共稼ぎというか,多就業でないと買えない。余裕のある階層でないと買えない。やれ派手な柄のものを着た人がふえ始めた,スカート姿が見られる,などという話を聞くが,ごく一部の余裕のある人が化繊を買っているということのようである。これからも繊維製品は輸出をして外貨を稼ぐ資金源でもあるわけだから,そういうこともあって衣生活は改善される見通しはそれほど大きくない。

 住, これもきわめてたいへんである。全国に行政市の市制をしいた都市が196あるが,そこでの人日1人当たりの住居面積は36m2ぐらいらしい。これは革命前夜の約4.5m2に比べむしろ悪くなっている。都市化を抑えたにもかかわらず,工業化にともなって都市八日はふえている。一方,住宅建設はほとんど進んでいないという状況である。たとえば北京などでいうと,工場をつくるときに工場労働者用の住宅はつくるが,それ以外のところはほとんどやっていなかった。だから旧市内では, くずれかけていてつぶれそうな家が3分の1ぐらいあるといわれている。下水はもちろんないから,雨が降ると雨漏りがするし,汚物が道に流れ出すというような状況らしい。はやい話が,北京の銀座といわれている例の王府井には,公衆便所がわずか三つしかないと『人民日報』(1979.11.6)が報じている。中国の庶民があそこへ買い物に行くらしいが,「買い物もたいへんだが,便所を探すのはもっとたいへんだ」という投書が『北京日報』に出ていた。そういうのを読んでいると,北京も―相当ひどい町だと思う。外国人は北京ホテルに泊まって,天安門前の大通りを見ているかぎり,緑の並木があって,街はきれいで, ということになるだろうが,一歩裏町にはいったとたん,あるいは裏町でなくても,外国人が行かないようなところではそういう状況であるということを,中国の新聞自体が報道して,北京市の改造を呼びかけているわけである。北京の東方化学コンビナートがご破算になって, 日本の関係者はかなり衝撃を受けているようだが,あれは80年夏ごろ,『人民日報』がものすごいキャンペーンをやっていたものである。

 ちよっと話がそれるが,北京の工場用地率は,中国の新聞によると東京よりもパリよりも高い。したがって,逆にいえば,生活都市としての設備――道路率にしても,公園率にしても,非常に悪い。深刻な問題の一つは,地下水が非常に悪いということである。もともとあの付近は降雨量が少ない。そこへもってきて工場がどんどんでき,地下水をくみ上げたために,地下水位が相当下がってしまった。その結果,水の硬度が非常に高くなっていって, こんなことをやつていたら,あと何年か先には北京の水は飲めなくなるだろう, ということがいわれている。そういう意味で,北京市の問題は実に深刻である。

 そのようなところで,この半年ぐらい,中国の石油関係者が,政治的権力闘争もあって,やられているが,やられて当然だと思うようなことが一つある。これも新聞に出ていたが,燕山に中国で最初にできた化学コンビナートがある。あそこの周辺は非常に汚れていて,野菜など油くさくて食べられない。ところが, コンビナートの労働者たちは工場の空き地などに自分たちで野菜を作り,それを自分では食べずによそヘ売りに行くのだそうである。そして自分はよその油くさくないものを買ってくる。水でもそうらしい。その周辺で掘った井戸の水はくさくて飲めない。しかし農民は, しようがないからそれを飲んで生活している。労働者たちはどうかというと,かなり遠いダムから工業用ということで引いてきた水を飲んでいる。そういう事実を, これも80年の人民代表大会で北京代表が暴露している。それは,公害たれ流しで日本で騒がれていることとちっとも変わらない。日本では恒常的にマスコミにたたかれるということがあるけれども,中国の新聞は,ある意味で御用新聞だから,政治闘争があって,打倒しようというときにはそういうことが記事に出るけれども,そうでないときには出てこない。

私の悲観論の根拠

 そういうのをみていると, この国はいったいこれでもつのかな, という疑問を感じざるをえないのである。もともとの条件がきびしい。耕地は,世界の耕地の7%しかない。そういうところで25%の人口に食わせているわけだから,土地生産性を3倍にしてもまだ足りないということがある。したがって状況としてはきびしいのだが, しかし,そうであればこそ,その乏しい資源をいかに有効に利用していくかというふうに考えるべきなのに,現実の政治,経済はそういう方向には全然行っていないようだということで衝撃を受けているということである。私がこういう悲観論をいうと,たいてい,いや,中国文明は何千年も続いてきたのだ,だから庶民はしたたかに生きていく, という反論がくる。それに対して私がいいたいのは――それで少し数字を調べてみたのだが――耕地に対して人日がここまでふえたのはきわめて新しい現象で,20世紀, というよりもむしろ第2次大戦以後,このような人口爆発が加速されている。そういう意味では新しい問題だから,過去の経験では類推できないのではないか,ということが第1点である。

 それを多少具体的にいうと,中国文明は漢あたりに成立し,それで漢文明,漢字というわけだが,あのころ人口は6000万人だつたといわれている。どの程度正確かはわからないが, しかし王朝ができると,いわゆる税金や徴兵のために,ある程度のことは調べているだろうと思う。そして,王朝ができて,それが安定していくと,人口はふえ,王朝が乱れ,内乱や戦争, 自然災善があると,人口は急激に減る,というふうなことで,結局,2000年のうちに人口が半分に減るようなことが10回あったそうである。そういうナチュラル・チェックで中国文明はもってきたのではないか―一ちょっと極端かもしれないが一一そんなことを感じている。

 もう少し数字をいうと,漢代というのはキリストが生まれたころだが,そのころ約6000万人であった人間が,その後ふえたり減ったりを繰り返し,結局,15世紀ごろ(明代)の人目がやはり6000万人なのである。1500年たっても6000万人である。ただ,これはもう少し多いかもしれない。この前,東大の小島晋治さんの前でこの話をしたら,人頭税が廃止されたおかげで,その後急速に浮上化したヤミ人口があったということなので, ここはもう少し多いかもしれない。そこで私がいいたいのは,そういう形で人口が最高で6000万人というような水準だったときには, 1人当たりの耕地は66aぁった。つまり,いまの6.6倍である。中国文明は,いろいろな王朝が盛衰を繰り返したが, 1人当たり耕地が66a(中国の単位でいうと10ムー)を下回ることはなかった。もちろん当時はドライ・フアーミングだから,土地生産性は低い。宋あたりから江南デルタの開発が進んで,土地生産性が飛躍的に増大し,人口もふえてくるが, とにかく明の中葉ぐらいまでは1人当たり耕地は少なくとも66aぐらいはあった。その後,明,清500年の中で,人口は33億人ぐらいに急速にふえていく。これは米作技術の定着ということに開係があるだろうと思う。それからずっとふえてきて,革命前夜,人口は約5億人になうていた。耕地は――増減はあるのだが――人口5億人のとき, 1人当たり約20aだった。革命によって人口が倍増した結果,それは10aに滅ってしまった。こういうことである。ここまで1人当たり耕地が減ってしまうと,中国はもともと「精耕細作」という言葉でいわれるように,土地を丹念に耕す伝統をもった国であったが,そういう土地生産性迫求という努力によっても限界があるのではないか, という感じをもたざるをえないわけである。

そういう意味で私は――極端ないい方かもしれないのでご批判をいただければ幸いだが――中国文明が何千年と長いといっても,そう特別扱いすることはない,マルサスのいうナチュラル・チェックで生きてきたのではないか,そして共産党は,そのナチュラル・チェックをこわしてしまった,その結果ネズミがふえすぎて食えないような,そういう時代に直面しつつあるのではないか, と考えているのである。したがって私は,中国の将来についてきわめてグルーミーな見方をしている(昭和5623日)。(やぶき すすむ)

【討議】

ご出席者(五十音順・敬称略)

大和田啓気(農用地開発後段理事長)

小倉武一(農政研究センター会長)

嶋倉民生(アジア経済研究所主任調査研究員)

滝川勉(筑波大学教授)

並木正吉(農政研究センター理事)

矢吹晋(横浜市立大学助教授)

 

なぜ秩序がゆるんだか

小倉 華国鋒のころ、治安というか、社会秩序の規制というか、そういうことを意識的にゆるめたのか、自然にゆるまってきたのか。その辺どうなんだろう。

矢吹 意識的にゆるめた部分というよりは、統制がはずれたとたんにアナーキーになったという要素のほうが大きい思う。つまり、民主化、自由化ということで、イデオロギー的な締めつけの雪解けの方針を政府として提起したわけだから、意識的にゆるめたという要素は一つあるだろう。しかし、そういった途端に民衆がいろいろな形で動き初めて、その結果アナーキーになったのは、政策の意図せざる結果であると私は考えている。ゆるめただけでなく,すぐに締め始めるわけだ。ゆるめたのは78年の12月までだとみていい。なぜゆるめたかといえば,これは私の解釈だが,あのときケ小平派は初めて権力の実権を握るわけで,そのためにむしろ壁新聞をどんどん張らせて,天安門事件で大衆を弾圧したのはけしからんと, どんどん書かせた。ところが権力をもってしまえば, こんどは下からの造反は邪魔なわけだろうし,軍からのブレーキも相当かかったのではないかと私はみる。つまり,急激な自由化,民主化の中で,秩序が保てなくなってきた。そういうことに対して,秩序を重んじる軍としては,かなり違和感をもって,ブレーキをかけることを要求した。それを踏まえて「四つの堅持」ということが79年の初めからいわれるのだけれども,それは,むしろ政策としては引き締めに転じ始めたことを示すものである。ところが,あまり引き締めをやると民主化ということはできない。というのは,四人組の残党の支配が続いてしまう。自分たちの新しい路線の影響力を行使しえない。そういう意味では引き続きゆるめざるをえないということで,ゆるめたり締めたりの試行錯誤をやらざるとえない。そういう中で,民衆のほうは権力者の思惑とは別に行動し始めているというのがいまの状況ではないかと思う。

出国熱

滝川 失吹さんが香港におられるときに,難民がどんどんふえてきただろう。あれは人民公社の規制がゆるんできたことを反映しているのか。

矢吹 難民は,78年,79年の2年間で30万人ぐらいになったわけだ。77年まではその1割以下だったから,急激にふえ始めたといえる。その要素はいろいろあるが,一つは,華僑の里帰りをわりに自由に許した。そうすると――カラーテレビが一番人気があるのだが――カラーテレビとか自転車,ありとあらゆる消費財を持っていく。カラーテレビなら一人1台, 自転車も1台という調子で免税があり,それ以上になると200%とか,かなり高い関税がかかる。とにかくそういう制度になっていて,みんな帰るわけだ。広東省のカラーテレビの普及率は全国1らしいが,口の悪い人は,広東省のカラーテレビの大部分は里帰りでもらったものだろうなんていっているくらいだ。そうすると,それまで西側――とくに香港は植民地だから,失業者が多くて,乞食ばかりだと思っていたのが,全然違うじゃないか,地獄のような香港イメージだったのが,天国のような香港イメージになる。そういう雰囲気があって,とにかく出ようというのが――中国の新聞は“出国熱”といっているが――ブームになって,いろいろな形で出てくる。華僑に親戚があれば,合法な形で出国ビザがもらえるから問題ないが,そうでないとどうするか――。金があれば買収する。たとえば人民公社の幹部が証明すると,県政府が批准する。そうすると大体もらえるわけで,その辺を賄賂でやるのだが,その賄賂も,自分のところに金があればいいし,親戚から人民公社にトラック1台寄付してもらうという形でビザを何枚も出してもらうという話もあり,いろいろあるようだが, とにかく非合法な形で出国ビザをもらう。ところが大部分の大衆はそういうことができないから,泳いで逃げてくるとか,貨物列車の中にまぎれ込んでくる。それでいろいろなことが起こるわけだ。泳いでくる間におばれ死んだとか,フカに食われたとか。中国人はリアリズムだから,フカに食われて片足のない死体の写真なんかをデンと載せる。そういうことがあって,無事に香港にはいれる人間と同じくらいの数は検問に引っかかって追い返されているだろう。中国側の国境警備隊は不法出国を押さえようとしているわけだし、香港側の警察もまた押さえようとしているが,押さえきれない。押さえきれないというのにはいろいろな理由があるが,最大の理由は,イギリスの香港統治の伝統からできた不文律で, ビクトリア・シティ,あるいは九竜でもいいが,旧市内, もっと現実をいえば,香港島にはいり込むと,すべり込みセーフになつて、もう追い返さないという慣行ができている。なぜそういう慣行ができたかについてはいろいろな説があるが,I.D.カード(身分証明書)を持っていない人を追い返すと,暴力団の資金源になるだけだ。つまり,I.D.カードを持っていない人がたくさんいる,そういう人たちを暴力団がゆすって資金源にするであろう。それを防ぐために,すべり込んだら追い返さないで,登録させて,7年目には香港市民の権利を与える。いききつからいえば,植民地統治のために労働力が必要だったとか,いろいろなことがあってのことだろうが,その慣行が残って,いまでもとにかく香港島にはいり込めば香港市民になれる。そういうことがあるために,あの手この手でこようとする。おまけに,一度不法出国して香港攻庁に送り返されると,前科になって,大睦に残ってもいいところヘ就職できない。結局は出ないとしようがないというので, 23度と試みてやつてくる。一回失敗すると, 1カ月ぐらい収容所にぶち込まれるということらしいが, とにかくそういう形での難民が多い。もとの資本家とか, もとの地主が,革命直後に弾圧されて逃げてくるということであれば,革命とはそういうものかなというので,あまり驚きもしなかつたと思うけれども,革命後に生まれた20歳代前後の人たちが逃げてくるということ自体に深刻なものを感じる。彼らは三つのことが信用できないといっている。これは新聞にも出ているが,一つは,マルクス・レーニン主義、あるいは毛沢東思想, こういうイデオロギーは信用できないと。その信用できないというのも理解できないではない。つまり,文化大革命が始まったときは,それまで信じていたイデオロギーが間違いだというので否定される。それから十数年たって,そのイデオロギーもまた間違いだといって否定される。わずか十数年の間に2回もイデオロギーの急転換が起こっている。しかも中国においてイデオロギーのもつ意味というのは,ある意味で, 日本が戦争に負けたときの天皇制イデオロギーの転換に匹敵するぐらい大きな位置を, とくに若い世代においては占めているように思う。そういう意味で,イデオロギーが信用できないということが一つ。

2に,彼らの上に立っている幹部, といっても事実上共産党員だが,その人たちがどうも信用できない。中には献身的に働いている党員もいるのだろうが,権力をとって30年たつと相当腐敗してくるようで,やれ裏口入学だ,やれ裏口で職場をあっせんする,その他もろもろの小さなことかもしれないが, とにかく特権というものを行使する。そういうことがあって,民衆は,幹部というか役人というか,それを信用しなくなり始めている。

3に,それではこれから中国が住みよい社会になるであろうかどうかという,そのことについて信頼できない。

  以上のようなことで,この際イチかバチか香港に行ってみようということになるようだ。

  私はマイナスの状況だけをオーバーにいったのかもしれないけれども,少なくともそういう事実は,従来の共産党イメージとは全く違う。つまり,共産党がまさに国民党の腐敗堕落に対して,清潔であるがゆえに民衆の支持を勝ち得て権力をとった。そういうイメージが急速にくずれつつあるということではないか。さらにいってしまえば,共産党は,古い社会を改造しようという意図のもとに権力をとつたのだけれども,30年たつと,古い社会の毒にあてられて,共産党自体が,かつての支配階級に変質させられつつあるのではないか。必ずしもそうなってしまうかどうかはわからないが, そういう問題の重大きに気づいて,共産党は中央に「中央規律検査委員会」というのを作り,陳雲という元老みたいな人が責任者になって,紀律点検をやり始めているのだけれども,これがまた,政治闘争の場に使われているような印象は否めない。

 つまり,そこでやった最初の仕事は劉少奇の名誉回復だし,その後ずっと劉少奇派が復活してくる。そうすると,いままで権力を握っていた周恩来につながる人脈の人たちが片っ端からやられていく。こうなつてくると,中国共産党を再建するという名において,事実としては文革以前の体制を復活させようとしているだけだということにもなりかねない。そういう意味では,権力をとった党がみずからを浄化するというのはたいへんなことではないか。私は,事実上不可能ではないかとみている。

 小倉 どうもありがとうございました。