東方書店『東方』1991年3月号

犬も歩けば、棍棒に当たる──不思議な北京のS教授物語

昨年の夏休みに中国・香港を一カ月旅行した。行き当たりばったりの気ままな一人旅であった。八月十三日夜、旧知の読売新聞松永支局長と呑んでいたところで、共同通信伊藤支局長を紹介された。伊藤氏とは電話で話したことはあるが、初対面であった。氏は、李鵬のブレーンに何新という理論家がいるが、会ってみませんか、と勧めてくれた。彼は日本訪問の意向をもっているので、新保守主義の理論家に日本をよく理解してもらいたいと思っている、といった趣旨の説明をし、私は生来の野次馬根性から対面に同意した。ただ、会う前に、何新について若干の知識が欲しいと伊藤氏に頼んだ。

その後、伊藤氏から八月十六日午前十時半、場所は長富宮飯店ロビーで、という連絡があり、さらに十五日深夜、私の宿泊先まで何新を紹介した『ニューヨーク・タイムズ』(九十年三月二十日)および『クリスチャン・サイエンス・モニター』(九〇年五月二十五日付)の紹介記事を届けてくれた。

さて当日、私は約束より五分早くロビーに到着したが、伊藤氏は松永氏と連れ立って、五分遅れて現れた。気がついて見ると、私の対面のソファに腰を下ろしていたのが何新氏であった。名刺を交換したり、コーヒーを頼んだりしながら、何新氏と三人の日本人が雑談(まさに「聊天儿」である)を始めた。何を話したかについて、記憶は曖昧だが、湾岸情勢、天安門事件、保守派主導の下での改革開放の行方、などを話したと思う。最後に、彼の訪日計画の話になり、短期の旅行なら、日本の入国ビザは全く問題になるまい、もし困難があれば、幸い北京の日本大使館領事部に知人がいるから、紹介してもよいなどと話して別れた。

これがおよその経緯である。

九月、何新氏が日本に来る予定であり、矢吹さんに会いたいとの連絡を受けているとの話を聞き、十月何新氏はすでに帰国したとの風聞を聞いた。この間、本人からは一切連絡なし。変ですね。

十一月末、デンマークのあるエコノミストから英文『ベイジン・レビュー』の「対談」についてコメントを寄せられ、初めて捏造対談掲載を知った。その後、少なからぬ中国人、日本人の友人、知人から問い合わせや抗議が殺到した。インド人の知人も『インディアン・エクスプレス』(十一月十九日付)で事情を訝り、くわしく聞きたいと電話してきた。要するに、「矢吹晋は二人いるのか? 社会主義の破産を論じている矢吹晋と社会主義の優越性に同意している矢吹晋と、いずれがホンモノか?」と言った趣旨のものが多かった。私は苦笑するほかなかった。

当初はあまりにもバカバカしい捏造なので、放置しようと思った。しかし、抗議しないことによって黙認したものと誤解されるのは困るので、重い腰を上げて、第一抗議書を十二月六日付で書いた(これについては、『読売新聞』十二月十二日付朝刊の矢吹談話、『信濃毎日新聞』十二月十二日付の伊藤特派員電、『週刊文春』十二月二十七日号の矢吹談話を参照)。そして若干の推敲を経て、十二月九日(日)『北京週報』東京支局へファックスで送信した。同支局から早速北京へ転送する旨の電話があった。

これで一件落着と判断したのは、早計であった。十二月十一日昼ごろ、北京から国際電話が入り、『人民日報』第一面の半分、第二、第三全面に転載されたとの情報が北京特派員から届いた(これには驚きましたねえ。その日の午後、国務院経済技術社会発展研究中心の呉敬(王連)氏と対談する予定で準備をしていたのですが、出発前にてんやわんやでした)。十一日夜帰宅したところ、『北京週報』東京支局を通じて、何新氏の矢吹宛て書簡が届いており、それを読んでますます激怒。まもなく香港『文匯報』(十二月十六日)はこの何新氏書簡をもとに矢吹を非難した。

そこで私は十二月二十日付で第二の抗議書を書いた。宛先は『北京週報』、何新氏、さらに『人民日報』である。

その要旨は次のごとくである。

何新書簡は、何新氏が「対話録」の発表に関して遵守すべき必要最低限のルールさえ無視している、または理解していないことを証明したものである。私は貴国が国是の一つとしている「改革開放」政策が大きな成果を挙げることを希望し、期待している。しかし「対話録」の公表に関して、世界共通の最低限のルールさえも公然と無視することが、貴国で平然と行われていることは、貴国の「改革開放」政策の将来について、暗澹たる思いを抱かずにはいられない心境である。貴国の「改革開放」政策の成否は、いつにルール(法制)を守る、少なくとも世界共通の最低限のルールだけは守ることに懸かっていると私は考える。「夜郎自大」とは世界共通のルールさえ守らないことだと、私は理解している。貴国では「対話録」の公表についての世界共通の最低限のルールを守ることを「ブルジョア自由化」思想だとみなし、このルールの蹂躪を奨励しているわけではなかろうと私は理解しているが、これは私の誤解なのであろうか。 

何書簡は、何新氏が「対話録」とは何であるかを何ら理解していないことを証明している。貴国には、古来から自分が公表した文章を大事にし、それに責任を持つという優れた伝統がある。魏の文帝は「蓋し文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」と述べている。私も言論人として、この文帝の名言を座右の銘とし、自分が公表した文章に責任を負う覚悟で文章を公表してきた。自分が責任を持てない文章を自分の文章として責任を取らされる、「対話録」を勝手に一方的に修正されるということは、こういうことなのである。これを「冤罪」と言わずして何を「冤罪」というのか?

文帝の上記の名言には、自分の文章を大事にし、それに責任を持つと同時に、相手の文書をも大事にしなければならないことが当然含まれている。「対話録」を相手方の了承を得ずに勝手に変更し、しかも平然と公表する。このような行為は、貴国のこれまでの優れた伝統を蹂躪するものである。貴国の言論界でこのような行為が平然と罷り通っていることに対し、貴国の言論界と貴国の将来について、深い悲しみを感じざるを得ない──。

九〇年の暮、年賀状を書いているところで、『北京週報』(五二号、十二月二十五日付)が私の抗議文を黙殺し、何新書簡のみを掲載したことを知った。そこで、第三の抗議書を書いた。

貴社は、この間私の抗議書に対し真剣な取り組みを何ら行わないだけではなく、一二月二五日付『北京週報』(第五二号)に何新氏の矢吹宛ての弁明にもならない弁明のみを掲載した。なるほど貴社は『北京週報』同号で「対談を発表した経緯」を説明しているが、その内容たるや何新氏の主張を鵜呑みにしたものにすぎず、私に対する誠意ある回答にはなっていない。たとえば矢吹(SHICHUI)の実名を用いず、「S・C」の仮名を用いる案が存在したなどと弁解しているが、仮りにイニシャルであったとしても対談の捏造は許されないし、私に対する侮辱は許されないこと言うまでもない(『人民日報』一二月一一日付のごとく、「日本経済学教授S」と訂正したところで、事柄の本質に違いはない)。また矢吹は「質問を出したにすぎず観点を述べていない」から実名を用いてよいとの説明も非常識である。「社会主義の優越性」論のごとき、疑問の多い観点に私が同意したかに見せることは悪意ある作為と言わなければならない。

このように姑息なやり方で、日本だけでなく世界の読者に対しても事実を隠蔽し、かつ貴誌に有利な世論を形成しようと試みているのは、甚だ遺憾である。貴社のこのような態度に対し、私は第一、第二の抗議書に加え、三度び下記のように抗議し、貴社が私の要求する措置を速やかに採られんことを重ねて要求するものである。

一、北京週報社という独立した人格として、事実関係の究明を何ら行っていないこと。東京に貴社の支局があるにもかかわらず、私の主張、抗議に対して未だ一度たりとも事実関係の究明を私に対して行っていない。私はいかなる協力も惜しまないので、独立した人格の報道機関として事実関係の究明を行われたい。二、事実関係を実事求是の態度で究明せず、何新氏の主張のみを一方的に信じて貴社が判断していること。これは公正を旨とする報道機関としてあるまじき行為であり、報道機関の職業倫理にも悖る行為である。貴社が報道機関ではなく、単なる御用宣伝機関にすぎないなら、その旨を世界に向かって表明されたい。三、何新氏の弁明のみを掲載するのはアンフェアであること。私の抗議書も掲載して、読者に判断材料を与えるべきである。このようなアンフェアな行為も報道機関としてあるまじき行為である。四、貴社は何新氏の「原始記録」なるものを私の同意があれば公表する、と上記香港『文匯報』にリークしているが、私は公表に同意する。是非とも「原始記録」なるものを公表されたい。五、私の三通の抗議書を『北京週報』誌に掲載するとともに、何新氏の捏造記事を取消し、私に対する謝罪文を『北京週報』誌に掲載すること。一九九一年一月六日

さて、この事件についての私の態度は以上のごとくである。何新という青年の行動を見て痛感するのは、彼の存在自体が文化大革命の後遺症の一つだという印象である。私は野心家がのさばる中国の悲劇を悲しむ。

[追記]校正の機会に、その後の経緯を書き加えておく。

1.香港『鏡報』誌(91年1期)は、「何新風波与袁木失算」のなかで、李瑞環が調査を命じたと報道した。

2.『人民日報』(1月5日付)は、談話六を「単行本」としてすでに出版したと報じた。

3.1月15日夜BBCの中国語放送はロンドンから矢吹への電話取材を放送した。

4.1月23日、矢吹は『人民日報』東京特派員于青記者と懇談した。ただし、問題解決への進展なし。