拓殖大学海外事情研究所

『海外事情』91年11月号2〜15頁

編集部から与えられたタイトルは「中国の政治状況一九九一年」である。ここで最大の論点は、ソ連八月革命が中国に与えた(あるいはこれから与える)衝撃をどうみるか、であろう。ソ連東欧の民主化の波が中国に対していかなる影響を与えるか、というテーマは「蘇東波」の波及問題として、過去二年間論じられてきたものである。そして中国共産党としては九〇年三月に開いた一三期六中全会において、ソ連九〇年二月の中央委員会議(複数政党制および大統領制の導入)についての「秘密報告」を採択して、いかに対応すべきかについての中国の基本的スタンスを決定している。

それは私なりの表現でいえば、「保守派主導のもとで改革開放を続ける」ものである。ソ連八月革命に対する姿勢も基本的には、これと同じであるはずだ。とはいえ、中国共産党は周知のように、コミンテルンの指導のもとで、ソ連共産党と親子あるいは兄弟のごとく生まれ、育ったのであるから、ソ連共産党の解体という事態の与える衝撃は、決定的といってよいほど大きなものである。この衝撃に対して、どのような反応がみられるかを分析してみたい。

まず前半では、八月革命以前の政治的潮流を分析する。

後半ではそれが衝撃を受けて、どのように変化しつつあるかを検討してみたい。

1.趙紫陽なき趙紫陽路線の模索

天安門事件以後約二年、中国では「安定団結」をほとんど唯一のスローガンとして、保守派主導のもとに厳戒体制が敷かれてきたが、一九九一年春から、再び改革開放を活性化させようとする兆候が目立ってきた。国際的には中国に対する制裁が徐々に緩和に向かったこと、中国経済の実情はもはや引締めをこれ以上続けることは不可能になっており、経済改革を通じた経済の活性化が求められていたこと、九一年からは第八次五カ年計画がスタートする予定になっていたこと、などがその理由である。

特に、湾岸戦争はハイテクの技術力こそが勝敗を決定することを全世界のテレビ画像に示した。これはかねてハイテクの立ち遅れを自覚する中国政府指導部にたいして、立ち遅れを否応なしに痛感させ、ハイテク強化を強調するキャンペーンが行われた。

(1)「科学技術は第一の生産力」論

総書記江沢民は九一年四月一五日から二二日まで、重慶、攀枝花、成都、徳陽、楽山、涼山彝族自治州を視察したが、この過程で「ケ小平 同志の提起した科学技術は第一の生産力というマルクス主義の観点」を強調して注目された。「未来の一〇年、わが国の科学技術が速く発展できるかどうかは、八五計画と一〇カ年計画で決めた目標が実現できるかどうかに直接影響する」として科学技術の発展を呼びかけたのである(『人民日報』九一年四月二四日)。

江沢民は五月二三日、中国科学技術協会第四次全国大会で講話し、同じく「第一生産力論」を繰り返した(『人民日報』五月二四日)。この会議を論評した『人民日報』社説(五月二四日付)もこのスローガンを繰り返し、またイデオロギー担当の政治局常務委員李瑞環も五月一四日から二一日までの温州、台州、寧波、舟山、杭州、紹興などの視察に際して、これに言及した(『人民日報』五月二二日)。

この第一生産力論は元来は「八六三計画」に由来する。八六年三月、四人の科学者、王大王行、王淦昌、楊嘉土犀、陳芳允がケ小平 宛てに「世界の戦略的ハイテクの発展に追いつくことについて」の建議を書いた。ケ小平 はこれを採用するよう指示し、「八六三計画」がスタートしたのであった(香港『鏡報』九一年六月号)。

むろん、このハイテク論も政治の文脈で扱われることにならざるをえない。ハイテク強化のためには、さらなる開放政策が必要であり、この意味で、ハイテク強化論は改革派の世論工作の武器となる。ここから改革派としてのケ小平 ・江沢民・李瑞環人脈が浮かび上がる。

(2)皇甫平の紹介したケ小平 「新猫論」

第二のキャンペーンは、皇甫平論文を通じての、一連の世論工作であり、これは人脈的にはケ小平 ・江沢民・朱鎔基・上海グループとかかわっている。

一九九一年三月二日付『解放日報』は「改革開放には新思考をもつべき」と題する皇甫平論文を掲げた。皇甫平とは中共上海市委員会宣伝部執筆グループの筆名であり、黄埔江の評論の意だが、これは保革抗争の政治的文脈のなかでは、黄埔江=上海プラスケ小平 と読むこともできよう。

この皇甫平論文は、計画と市場の関係を対立させるような考え方を「新たな思想的停滞」と断じて注目された。皇甫平曰く──

七中全会閉幕後、続けて開かれた中共上海市委員会五期一一次全体会議で上海の九〇年代の経済振興について少なからぬ新思考が現れた。なかでも重要なことは、敢えてリスクを冒し、大胆に外資を利用して国営の大中型企業の技術改造を進め、対外開放に対応して都市の総合機能の需要を満たし、伝統工業の改造を調整し、第三種産業を重点的に発展させ、上海に万単位の商人の蝟集する商業センターを作り、全国の金融センター、情報センターたるべきである。

経済の活性化についていえば、八〇年代にわれわれが比較的たくさんやったのが、個体経済、私営経済、合弁経済を含めて多種類の経済セクターを発展させることであったとすれば、九〇年代の改革は、重点を社会主義経済の背骨である大中型の国営企業におくべきである。

困難度がより大きく、カバーする範囲がより広く、より深遠な意義をもつ“攻堅戦”を戦うには、新思考、新工夫がなければならない。八〇年代の改革で用いた若干のやり方を単純に用いるわけにはいかない。

計画と市場との関係についていえば、一部の同志は計画経済=社会主義経済であり、市場経済=資本主義経済とすることに慣れ、市場調節の背後に資本主義の幽霊が必ず隠れているとみなしている。

改革のよりいっそうの深化につれて、ますます多くの同志が、計画と市場は単に資源配置の二つの手段、形式にすぎないのであって、社会主義と資本主義を区分するメルクマールではないことを理解し始めた。資本主義に計画はあるし、社会主義に市場がある。

このような科学的認識の獲得は、われわれが社会主義商品経済の問題においてまたもや重大な思想解放を行ったことを意味している。改革の深化、開放拡大の新情勢のもとで、われわれはある種の“新たな思想的停滞”(原文=新的思想僵滞)に陥るのを防ぐべきである。われわれは社会主義商品経済と社会主義市場を発展させることを資本主義と単純に同一視し、市場調節といえば資本主義だとみなしてはならない。外資の利用と自力更生とを対立させ、外資利用の問題で小心翼々であってはならない」(傍線は矢吹)。

この論文の基調は、天安門事件以後ずっと行われてきたイデオロギー引締めの文脈で考えると、たいへん大胆な主張であることが分かる。傍線部分はおそらくケ小平 の言葉そのものであり、「新猫論」(ケ小平 は六〇年代初期に「白猫黒猫」論を唱えて、「唯生産力論」と批判された)とも俗称される。

この論評が発表されるや、中央宣伝部は人を上海に派遣して調査したが、その背景がケ小平 であり、しかも多くの部分がケ小平 語録であることを了解した後で、なおかつ皇甫平論文を批判すべきだとして、『人民日報』『光明日報』の主管者の口から、「皇甫平を批判すべきだ」との言葉が出た。四月に「史的唯物論学会」が洛陽で科学的社会主義理論研討会を開いた際に、中央宣伝部の幹部が出席して、皇甫平を批判すべきだとし、その罪状は「ブルジョア自由化に反対しないこと」にあるとしたとある香港誌が報じている(『鏡報』九一年六月号、二七頁)。

(3)皇甫平論文の何新批判──「何新現象」から「皇甫平現象」へ

これに続いて三月二二日、皇甫平論文は「開放拡大の意識をさらに強めよ」として、外資導入にかかわるさまざまの誤った思想を系統的に批判した。ある香港誌の分析によれば、これは事実上、何新論文を論駁したものである(『鏡報』五月号、二五頁)。

何新(中国社会科学院文学研究所研究員、矢吹との捏造対談をデッチあげた人物)は、先進国の投資が第三世界の貧困をもたらすとして、「先進国はまず多国籍会社を発明し、続いて外債型経済を発明し、発展途上国の肥えた水(富)を外に流している」(『人民日報』一九九〇年一二月一一日)と論じ、開放政策を批判しているが、この何新流の謬論を皇甫平はこう反駁している──

ケ小平 同志は九〇年代の上海の開放に対して上海は改革開放の旗幟を高く掲げ、浦東開発をもっと速く、もっとりっぱに、もっと大胆に、と厚い希望を寄せているが、これは九〇年代の上海に与えられた上海の歴史的重責である。

このような意識がなければ、われわれは敢えてリスクを冒し、敢えて天下に先立って胆魄を開くことはできないし、挑戦に直面してチャンスをつかみ、進取、開拓、競争のなかで世界に歩むことはできない。

今に至るも一部の同志は外資導入に際して視野が小さい(原文=目光短浅)ことは、開放問題において新たな思想解放の必要なことを説明している。

九〇年代上海の開放が歩みを大きくするには、一連の斬新な思考をもち、リスクを敢えて冒し、先人のやったことのないことをやらなければならない。これはわれわれの開放意識にとってより厳しい試練である。たとえば浦東開発において保税区を設け、輸出入を自由とし、輸出税を免除するような自由港的性質の特殊な政策を実行することは「社会主義の香港」ともいえるような試みだが、もしわれわれが依然として「姓は社会主義か、資本主義か」(原文=姓社姓資)といった難癖をつけるならば、座してチャンスを失うのみである。

外国人が浦東に銀行を設け、バンドに金融街を作り、上海国際金融センターを作るような、敢えて天下に先んじて行う探索に対して、もしもわれわれが「新上海か、旧上海か」などとぼんやり考えていたのでは、前進できず、大事を行うことはできない。

現在、開放拡大の一部の措置は、それ自身が改革深化の内容をもっている。たとえば外国人に銀行開設を許すこと自身が金融体制の改革を深化させ、国際化した金融体系の突破を形成するものである。また外国人が不動産を経営するのを許すことも、住宅の商品化を推進し、不動産市場を健全化することに資する。開放拡大の一部の措置は、深層から体制改革をつき動かす。たとえば大規模に外資を導入するには、管理体制の改革から着手して、法制の不備、法の執行が厳格でなく、行政部門の事務能率が悪く、たがいに責任をなすりつけあう状況を改め、投資のソフト環境を大いに改善する必要がある。また外国貿易の拡大のためには、外国貿易の体制改革を深化し、自主経営、自己責任、工業と貿易の結合、窓口を統一して外に当たる外国貿易経営の新体制を必要とする。また外資を導入して国営企業を改造するなら、必ずや国営企業の管理方式と体制の転換を推進するであろう。

開放拡大の歩みは、われわれに大量の新思考、新意識をもたらし、深層・全方位から思想のさらなる解放をもたらし、観念はよりいっそう新しくなり、社会的ムードはよりいっそう調整されよう。

明らかに九〇年代の新情勢のもとで、強烈な開放意識をもつか否かが深層の改革意識をもつか否かの重要な試金石であり、開放拡大の意識を強めることの実質も意識改革の再教育、再深化なのである(傍線は矢吹)。

長い引用になったが、皇甫平は「深層において強烈な改革意識をもて」と強烈なアジテーションを行っていることが、この文章から分かるであろう。

(4)朱鎔基昇格人事の背景を説明した皇甫平論文(四月一二日)

三〜四月の政治協商会議、全国人民代表大会において、葉選平の政協副主席昇格、朱鎔基、鄒家華の副総理昇格人事が決定された。さらに続いて五月中旬には胡啓立、閻明復、芮杏文の復活人事がリークされ、六月一日に公表された。これら一連の異例の人事の背景を皇甫平論文は次のように間接的に説明している──

ケ小平 同志はかつて大量の「明白人」を選抜せよと提起したことがある。ここでいう「明白人」とは、四つの基本原則を堅持しつつ、改革開放に熱心な者、マルクス主義に忠誠でありつつ、各自の業務に精通している者、断固として社会主義に献身しつつ、現代資本主義を深く理解している者、強い原則性をもちつつ、高度の弾力性をもつ者、労を厭わぬ奉仕精神をもちつつ、進取の精神を持つ者、醒めた広い思惟をもちつつ、貴重な実務能力をもつ者、集中統一を堅持しつつ、勇敢に独立して責任を負う者である。要するに、改革開放の条件のもとで徳と才を兼ね備えた優秀な人材を養成し、選抜し、任用することである。

大量の徳才兼備の幹部をりっぱに選び用いるには、なによりもまず大胆でなければならない。ケ小平 同志は十年前にこう述べたことがある。

「われわれは資本主義社会がよくないというが、人材を発掘し、用いる面では非常に大胆である。そこには資格年功を問わず、およそ任に堪える者ならばこれを用いるものであり、しかもこのことを理の当然とするという特徴がある」。

「改革開放を大胆にやるには、幹部の使用も大胆でなければならない。各級党委員会と組織人事部門は思想を解放し、障害を克服し、時宜に合わない組織、人事制度を改革し、優秀な人材を大いに養成し、大胆に用いなければならない」。

戦国の思想家荀子は『大略』でこう述べている。

「口能く之を言い、身能く之を行うは、国宝なり。口言う能わず、身之を行う能うは、国器なり。口能く之を言い、身行う能わざるは、国用なり。口善を言うも、身悪を行うは、国妖なり。治国者はその宝を敬い、その器を愛し、その用を任じ、その妖を除くべし」と。

荀子がここで提起しているのは、基本的な治国のカナメであり、最も広範に各種の人材を起用することであり、同時に指導的核心のなかに悪人が混入するのを防ぐことである。この思想はわれわれ各級党委と組織部門が重視するに値する。

その宝を敬い、その器を愛し、その用を任じというのは、各種各様の人材を広く招き、その長じたところを用いることである。ここでいう宝、器、用とは、人間の才知、才能、才学、才気に対して異なる側面から様々に表現したものである(傍線は矢吹)。

この荀子の言葉は、総書記江沢民も引用していることから判断して、最初にこの一句を引用して人事構想を説明したのはケ小平 であろうと判断して大過ないものと私は考えている。

(5)北京保守派の反撃──『当代思潮』論文

上海からの思想解放攻撃に対して、北京の保守派はさっそく反撃に転じた。四月二四日付『人民日報』は天安門事件以後、保守派の肝煎で出版された『当代思潮』の評論員論文「なぜ断固としてブルジョア自由化反対を堅持しなければならないのか」(九一年二期)を転載して、皇甫平論文には「ブルジョア自由化反対」が欠如していると暗に攻撃した。これは徹頭徹尾、ケ小平 語録に依拠してブルジョア自由化反対を論じている。まず八六年九月の一二期六中全会で精神文明決議が採択された際のケ小平 語録を引用する(『建設有中国特色的社会主義(増訂本)』一四二〜四三頁)。

ついで皇甫平が「開放拡大の意識を強めるには、よりいっそう思想を解放せよ」と論じたのに対して、ケ小平 が八五年五月に陳鼓応教授に語った談話を用いて反撃する。「一一期三中全会は開放政策の実行を決定したが、同時に自由化の風を押さえ込むことを要求している。これは相互に関連する問題である。この風を押さえ込まなければ開放政策を実行することはできない」(『建設有中国特色的社会主義(増訂本)』一〇九〜一一頁)。

さらに三度ケ小平 の一二期二中全会講話(『建設有中国特色的社会主義(増訂本)』二二〜三七頁)を引用する。そして「ブルジョア自由化を堅持する者に対しては、闘争を堅持しなければならず、断じて手を緩めてはならない」と保守派の観点を明示している。まさに「子(ケ小平 )の矛をもって子(ケ小平 )の盾を攻める」の構図にほかならない。

さて、上海の皇甫平と北京の『当代思潮』の対立について、件の何新が介入して発言した。『鏡報』はこう書いている──

この尋常ならざる南北筆墨大戦がある者を驚かせた。すなわち学術界で「新蒙昧主義の発起人」(原文=新蒙昧主義発起人)とされている何新である。何新は最近「中央宛の書簡」を書いたが、その要旨は「中央内部の闘争を公然化してはならない。暴露してはならない。中央の指導的同志は党内の異なる思想の闘争は速度が速いか遅いかの争いにすぎないのであり、自由化との闘争こそが生死存亡の闘争なのだ」というものである。

「何新の子わっぱめ(原文=何新豎子)」が敢えて中共トップにこのような教訓を垂れようとしたのは、次の背景があるとして、朱鎔基抜擢の舞台裏を説明している。

三月に、ケ小平 は李先念、江沢民を上海で訪ねて、中共第一四回党大会で江沢民、朱鎔基に指導権を委ね、朱鎔基を総理にすることを提案した。これは当然ながら「中共トップ・レベルの新たな権力闘争」を引き起こした。すでに「李鵬が第一四回党大会で実権を放棄すること」は固まったが、李鵬は総理のポストを留ソ派仲間の鄒家華に渡そうとしている(『鏡報』六月号、二八頁)。こうして、後継総理は改革派の推す朱鎔基か、保守派の推す鄒家華かというポスト争奪が始まったごとくである。

その行方がきわめて注目される。余談だが、「新蒙昧主義の発起人」「何新の子わっぱめ」といった揶揄、侮辱的表現から中国および香港の改革派知識人から見た何新のイメージが知られる。

同じく保守派の牛耳る『求是』(一二期、六月一六日刊)は評論員論文を掲げて、高級指導幹部を含む一部の同志は「経済工作と日常の事務に没頭し、理論学習を重視していない」と改革実務派を批判している。改革派が内容空疎なイデオロギーと保守派を批判すれば、保守派は日常業務に没頭し、理論を軽視していると改革派を批判しているわけだ。

こうして、改革開放を加速するために、朱鎔基を抜擢し、さらに胡啓立、閻明復、ゼイ杏文ら天安門事件失脚三人組は国務院副部長級のポストで六月に復活した。この結果、趙紫陽を除いて、主な指導者はすべて復活したことになる。これは九二年の第一四回党大会で「趙紫陽路線」(理論的には社会主義初級段階論)を完全に復活させるケ小平 作戦が始動し始めたことを意味するものと、私は注目していた。ここで残された問題は、趙紫陽に対して名誉職的な復活ポストをどのように用意するかであり、これは天安門事件の名誉回復とも連動するがゆえに扱いはむずかしいが、ケ小平 は自らの手でそれを処理したあとマルクスに会いにいく可能性もあると私は分析していた。

2.ソ連八月革命の衝撃──長老がハッスルし、ケ小平 構想は挫折か

(1)『人民日報』にみるソ連政変

ソ連八月革命の中国に与えた衝撃の大きさを端的に示すものは、『人民日報』報道の豹変ぶりである。

まず八月二〇日付『人民日報』は一面右肩の目立つ位置に「ソ連副大統領ヤナーエフがゴルバチョフの大統領職務停止を命令」とタス通信一九日早朝のクーデタを大きく伝えた。ヤナーエフが大統領の職務につき、国家非常事態委員会が成立し、国家の全権力を掌握したこと、この委員会は大統領代行ヤナーエフ以下八人で構成されていること、などを報道し、非常事態委が一九日に発表した「ソ連人民に告げる書」のなかから「ゴルバチョフのペレストロイカが袋小路に陥り、国家と人民の運命がきわめて危険な秋にあたり」、ソ連公民は委員会の危機からの脱出努力を支持するよう呼びかけたと報じている。

これらは「客観報道」のスタンスであり、中国側のコメントは一切ないが、クーデタをきわめて好意的に見ている。すなわち、この報道はクーデタの首謀者側の主張を「客観的」に報道したものにほかならない。

翌二一日付『人民日報』は、一面に、中国外交部スポークスマンの談話を掲げた。「ソ連で発生した変化は、ソ連内部の事柄である。中国政府は外国の内政干渉に反対し、各国人民の選択を尊重し、ソ連人民がみずからの問題をみずから解決するものと信ずる。中ソ関係が引続き発展するうえで影響はない」。六面では、クーデタ関連ニュースを詳報している。

ところが保守派の喜びはヌカ喜びに終わった。二二日に紙面の流れが変わる。一面右肩に「ゴルバチョフが情勢をコントロールしたと宣言、ソ連国防部は緊急状態地区の部隊の撤兵を決定した」と報道して、クーデタの失敗を伝えた。二三日付『人民日報』第一面に「銭其外交部長がソ連大使ソロビヨフにゴルバチョフが大統領に復帰したあとも、両国関係の発展を信じる、と語った」と報道。六面では、クーデタ失敗を確認する報道を行っている。二四日以降、一面からソ連ニュースが消えた。以後、ソ連関係ニュースは国際ニュースを扱う六面にしか載らなくなった。

私は八月下旬北京を旅行したが、人民大会堂で一連の政治局会議を断続的に開いていること、三環路と建国門立体交差点では、夜間天安門周辺へ向かう車両を検問している事実を確認した。中国の当面の対応は「引締め堅持」の一語に尽きる。まず第一にイデオロギー面での引締めであり、第二に治安取締りの強化である。後者には民主化運動に対する容赦ない弾圧や、民主化運動に影響を与える西側報道および中国在住西側社会に厳しい監視の目を向けることが含まれる。北京市内の外国人用アパートへの中国人の出入りに対するチェック体制の強化などは、その一例にほかならない。

中共中央は「ソ連のクーデタ失敗に対する秘密通達」を発出したが、これはたいへん興味深い。「失敗しないクーデタのやり方」を教えたこの文件は、一方では、クーデタの常識、最低限の必須事項を説くとともに、その視点はあくまでも中共中央の「八老治国」のそれであることが特徴的である。五〇、六〇歳の若僧には「経験が足りない」などとお説教しているところに、そのスタンスがよく出ている。「八老」グループの一部は、かつて七六年の反「四人組」クーデタを成功させた自信をもち、また天安門事件を断行したグループであるだけに、迫力のある分析になっていることは、確かであるといえよう。

(2)改革開放後退への危惧を表明する『解放日報』評論員論文

八月三一日付上海『解放日報』は、評論員論文を掲げて、旧套墨守ではなく「壮士が腕を断つような英断」で改革開放を進めよと論じた。

これはソ連の衝撃に乗じて、中国社会主義の危機を大いにあおり、改革開放を大幅に後退させようとする保守派の策謀に反発したものであり、皇甫平論文の続編にあたるものと解釈できる。

ところが、これに対して保守派がさっそくかみついた。陳野苹(八三〜八四年当時、中共中央組織部長)「徳才兼備、徳をもって主となす──幹部選抜の基準を論ず」(『人民日報』九一年九月一日)は、『解放日報』の説いた幹部政策に対する公然たる反論である。陳野苹論文は「北京の反革命暴乱の鎮圧以後、わが党は趙紫陽同志の一連の誤りを清算したが、その中には生産力を基準として幹部選抜の基準とし、才を重んじ徳を軽んじた誤りも含まれる」と、趙紫陽を名指し批判したことがまず注目される。

この論文はタイトル「徳才兼備、徳をもって主となす」が陳雲の言葉であることから分かるように(「幹部工作についての若干の問題」『陳雲文選一九二六〜一九四九年』一四七頁)、徹頭徹尾、陳雲の観点に依拠して、趙紫陽の「生産力を基準とした幹部選抜」「才を重んじ徳を軽んじた誤り」を批判したものである。ここで直接的に批判されているのは、趙紫陽の誤りだが、「生産力基準」という言葉から人々が想起するのは、ケ小平 のかつての「白猫黒猫」論であり、最近の新「猫論」にほかならない。つまり、この論文は、趙紫陽を批判しつつ、言外に趙紫陽を起用したケ小平 の誤り、特に「生産力基準」を誤りだと批判したものにほかならない。この論文は『周礼・地官司徒』や『荀子』を引用しつつ、第一四回党大会に言及して幹部政策を論じており、ソ連革命という衝撃を踏まえて、皇甫平四月一二日論文(「改革開放には大量の徳才兼備の幹部が必要」)に対抗しようとしたものであることは明らかである。

保守派の長老陳雲は「エリツィンのような人物が中国に現れるのを阻止せよ」と側近に指示したと『サウスチャイナ・モーニングポスト』(香港、九月四日付)がスッパ抜いている事実と合わせて読むと、保守派の狼狽ぶりが浮かび上がってくる形である。ちなみに陳雲の言う「エリツィンのような人物」とは、朱鎔基副総理を指すと同紙は解説している(かつて毛沢東は政敵劉少奇を「中国のフルシチョフ」と呼んで、ついに失脚させた)。このようにみると、八中全会で朱鎔基を政治局委員に昇格させ、いずれは李鵬後継の総理ポストに据えようとするケ小平 人事を牽制したものと見ることができるわけである。

(3)『人民日報』社説(九月二日付)の「削除騒動」

ソ連ショックが一段落した九月二日、『人民日報』は一面トップに「改革開放をさらに一歩進めよ」と題する社説を掲げた。そこでは「十数年来の改革開放がわが国の社会主義に強大な生機を注入し、国家と社会の事業全体を勢いよく発展させた」と評価し、「四つの基本原則が立国の本であり、改革開放は強国の路である」ことは、人民の共通認識になったとしている。

ついで「改革開放」の「正しい方向」についてこう論じている。

「われわれの改革は四つの基本原則の堅持を前提として行うものであり、断じてブルジョア自由化をやってはならない。もし経済上で私有化を実行し、政治上で西側の複数政党制(原文=多党制)を実行し、イデオロギー上でマルクス・レーニン主義毛沢東思想の指導的地位を取り消す多元化を実行するならば、党と国家は混乱に陥り、党と人民が七〇年奮闘してきたすべての成果を葬ることになろう」。

実はこの社説を『人民日報』理論部が執筆し、イデオロギー担当の政治局常務委員李瑞環が決裁したものに対して、『人民日報』社長高狄が保守派好みのセリフを挿入し、その後、ケ小平 の鶴の一声で挿入部分が再度削除される事件が発生した。

新華社が最初に配信し、北京放送が放送した際には「改革開放のもとで社会主義を堅持するためには、われわれは改革開放が姓は社会主義か、資本主義か〔原文=姓社姓資〕を問わなければならない。また公有制を堅持するものでなければならない」という一句があり、その後『人民日報』に掲載される際にこの部分が削除され、北京放送も修正済み原稿を再放送する事件があった(『東京新聞』九月三日ほか)。

「姓は社会主義か、資本主義か」とは、三月二二日付皇甫平論文でも一蹴されているように、保守派が改革開放に対して「資本主義的偏向」と疑問符をつける場合の決まり文句である。したがって、保守派(高狄)はソ連ショックの機に乗じて、改めて「改革開放=資本主義」という議論を『人民日報』社説に密かに挿入しようとして、改革派の反撃を受けたものと解釈してよい。

中南海イデオロギー学はまことにややこしいが、私なりの言葉で表現するならば、こうなろう。ケ小平 路線とは、「社会主義体制堅持」の看板のもとで「資本主義的経済システム」を密輸入するものにほかならない。

とはいえ、そこで密輸入される実体を「資本主義」と読んではならないし、またその実体の密輸入に反対することも許されない、と枠をはめる。

ここで「資本主義的経済システムの密輸入」をやめよというのが保守派の主張であり、彼らの目標は計画経済論の復権である。これに対して、急進改革派の主張は「資本主義的経済システムの導入」をより効果的に行うためには、「社会主義体制堅持」という縛りをできるかぎり柔軟に解釈しなければならない、とういものである。ここで争点は、私の言葉でいえば、「社会主義体制」という亡霊をいかに「安楽死」させるかの問題に尽きるわけだ。

(4)『人民日報』胡喬木論文(九月七日付)の「掲載差止め」騒動

九月七日付『人民日報』は保守派のイデオローグ胡喬木が『中国共産党の七〇年』(建党七〇周年記念党史)に寄せた「巻頭言」を転載した。『読売新聞』によると、この原稿は六日午後二時すぎに新華社通信が配信したが、同日夕刻になって「しばらく使用を見合わせて欲しい」との「異例の差止め電」を流した、曰く付きの原稿だという。

胡喬木「巻頭言」に曰く──

「文革の十年は悲惨な十年であったが、この時期もただ全くの暗黒というのではなかった」。

これは文化大革命に対する一定の名誉回復あるいは再評価である。

曰く──

「改革開放が偉大な成果を挙げた十年のうちに、二代の総書記の重大な誤りが生じた」。これはむろん、胡耀邦批判、趙紫陽批判である。この重大な誤りを指摘することは、政治の文脈においては、胡耀邦、趙紫陽を抜擢したケ小平 の誤りを間接的に批判することを意味する。

結局、胡喬木「巻頭言」は、『人民日報』のみがそのまま掲載し、他紙には転載しない線で扱い方について妥協が成立したようである。つまり、ケ小平 の改革開放路線に対する否定的評価を意図した保守派のキャンペーンを改革派は、辛うじて『人民日報』だけの報道に封じ込めた形である。

しかし、ケ小平 存命の間からすでに「ケ小平 ・間接批判」論文が『人民日報』に登場するところに、老いたケ小平 の指導力、影響力の減退を見ることができよう。これが保守派の圧力に屈して判断を誤り、後継者として抜擢した胡耀邦、趙紫陽を相次いで切捨て、改革開放への手足を失ったラスト・エンペラーの悲哀かもしれない。

(5)中央工作会議(九一年九月)のカゲの主題

九月二三〜二七日に、中央工作会議が開かれた。会議の「主要議題」は国営大中型企業の活性化問題である。総書記江沢民が総括講話を行い、総理李鵬が「当面の経済情勢と国営大中型企業をいっそうりっぱにすることについての講話」を行った。

会議の出席者は、江沢民、李鵬のほか、楊尚昆、万里、喬石、姚依林、李瑞環、王震、田紀雲、李鉄映、李錫銘、呉学謙、秦基偉、丁関根、鄒家華、朱鎔基、薄一波、宋仁窮、劉華清、楊白冰、温家宝、倪志福、陳慕華、王丙乾、王芳、李貴鮮、陳希同、陳俊生、任建新、劉復之、王任重、胡縄である。

このほか、各省レベル、各計画単列都市、中央直属機関各部門、全人代、全国政協、中央国家機関各部門、軍事委員会各総部、各大単位の責任者である。

この出席者の顔触れから察せられるのは、「カゲの主要議題」である。すなわち「ソ連八月革命」への対応が隠されたテーマにほかならない。さもなければ、楊尚昆、王震、秦基偉、薄一波、宋仁窮、劉華清、楊白冰、任建新、劉復之、王任重、胡縄などの出席理由を説明できないであろう。

表向きの議題たる「国営企業の活性化」については一二カ条の措置を決定した。

1)企業の技術改造への投入増加

2)国営大中型企業の指令性指標の減少

3)企業の減価償却率の引き上げ

4)新産品開発基金の増加

5)企業の流動資金の補充

6)貸出利率に対する再度の調整

7)一部企業の対外貿易自主権拡大

8)大中型基幹企業への原材料保証と製品買上げ保証

9)三角債の整理

10)大型の企業集団結成への試点工作の継続である。

過去数年来の国営企業の経済効率の悪化傾向は、いぜんとして続いており、国家財政赤字は解消の見通しが立たず、三角債もいぜん、努力にもかかわらず増え続けている。この意味では国営企業の活性化対策は急務である。しかし、会議を通じてうちだされた一二カ条には目新しい措置は見当たらない。これまで繰り返し指摘されておりながら、実行されていないお題目を列挙した感を否めない。

もう一ついえば、国営企業の活性化対策、きりわけ三角債問題の解決のために、過去数カ月努力してきた朱鎔基( 副総理、国務院生産弁公室主任) は会議には出席したものの、カゲが薄いように見えるのは、どうしたことか。

こうして、疑問は疑問を呼ぶ。カゲの主題である八中全会の準備状況へ関心が向かわないわけにはいかない。この中央工作会議は、八中全会の準備会議としての性格をもつことは、すでに中国系香港紙が指摘しているところである。八中全会の課題は、本来なら、来年に予定されている第一四回党大会の開催方針を決定し、大会代表の選出を指示するものであった。大会においては、政治報告の基調を決定し、それを推進する人事体制を決定しなければならない。したがって、半年前の中央委員会でおよその方針は固めなければならない。

こうした政治日程を控えて、改革派と保守派の綱引きあるいは権力闘争が激化していたところへ、ソ連八月革命の衝撃波が伝わり、混迷に陥ったごとくである。

世界的、歴史的潮流のなかで、中国共産党が埋没しない道はただ一つ、改革開放をさらに進めて、経済を発展させ、政治を安定させることである。これ以外に道はない。しかしながら保守派は危機感に恐怖する余り、冷静な判断力を失い、墓穴への道を急いでいるように見える。すなわち、彼らは衝撃波を悪用して、イデオロギー引締めに狂奔するだけでなく、予定されていた若返り人事にさえブレーキをかけようとしていることは、すでに見たごとくである。

天安門事件以後、ケ小平 が進めてきた第一四回党大会で「趙紫陽路線」(社会主義初級段階論)を完全復活させる構想(趙紫陽は名誉職として復活)は重大なカベにぶつかった。大会を通じて、現在の江沢民・李鵬体制から江沢民・朱鎔基体制に移行するプログラムが挫折し、前者の継続になるおそれが出てきた。この場合、朱鎔基の地位は、常務副総理として李鵬を輔佐するだけである。李鵬留任か否か、朱鎔基昇格か否か、は天安門事件鎮圧体制の継続か、脱鎮圧体制か、という大きな転換を含意している。

今後の推移如何だが、もし積極改革路線の復活に失敗し、改革路線が名存実亡となるならば、執政党と人民の矛盾は広がり深まり、ついには共産党の支配が長老の死とともに終焉するほかない。

この意味で問われているのは、ケ小平 路線の功罪であり、ケ小平 流の「共産党・社会主義延命策」の成否である。社会主義の看板を掲げつつ、資本主義システムを密輸入し、気づいてみたら、誰も体制について論じなくなっていたという形──それこそが中国社会主義を新たな別の体制に軟着陸させるほとんど唯一の道である。

羊頭狗肉の伝統をもつ国だから、こうした形で中国社会主義の最も苦痛の少ない安楽死への道を歩むことも不可能ではないと私は期待している。