『外国語をどう学んだか』

講談社現代新書、92年3月20日、156−161ページ

まず日本語の玄人に

私は一年浪人した。都内の名門予備校に籍を置いたが、田舎育ちの私にとって予備校の空気は呼吸困難を感じるほど薄く感じられたので、なるべくサボることにした。夏の頃は国電水道橋駅で降りて講道館に通い、柔道を少しやった。ある日、同じ駅で倉石中国語講習会の看板を見かけたのでのぞいてみた。工藤篁助教授(東大教養学部)が漫談をやっておられた。「なぜ中国語を学ぶのでしょう。縁台の涼み将棋みたいなもの。やっているうちに面白くなるものですよ」。

翌年合格すると、私は早速語学符合Eに丸をつけて、中国語を第二外国語に選ぶクラスに参加した。当時の新入生は約二千人、そのうち中国語クラスは、理科にはなく文科のみ、学生はわずか一五人で一%にも満たなかった。われわれは誇り高き「少数民族」、餃子を肴に粗悪な白乾児でしたたかに酔い、放歌高吟しながら学内を闊歩した。

時は一九五八年、中国では大躍進運動が始まり、人民公社作りが行われていた。「社会主義好!」の熱気は隣国にまで及び、私を含めてかなりの級友がカクメイ思想に感染した。中国研究会の名を掲げた学内の寮や中国語の教室はイデオロギー宣伝の場と化し、われわれはコトバよりは思想に熱中した。それでも老舎『茶館』や夏衍『上海の屋根の下』のシナリオを自らの手で邦訳し「本邦初演」を銘打って大学祭で上演できたのは中国人老師(黎波氏)のおかげか。当時は留学生は皆無に近く、教科書も辞書も不十分なものしかなく、テープレコーダーは高価だった。ただ熱気だけがわれわれを鼓舞していた。

卒業後、東洋経済新報社に数年勤めた。石橋湛山が匿名座談会の常連として毎週姿を現していた。湛山は日本国際貿易促進協会総裁を兼ねており、日中米ソ平和条約締結の持論をぶつ一方、廖承志・高碕達之助覚書に基づいて常駐記者団が来日すると、彼らの保護傘になった。新卒のペイペイたる私も記者団との交際が始まったが、大学で二、三年学んだ程度の中国語では役に立たず、語学力の不足を痛感させられた。

文化大革命が始まると記者団との交流も途切れた。私は意を決してアジア経済研究所の試験を受けた。東畑精一会長、小倉武一所長以下のリベラルな雰囲気のなかで、私はアマチュアの中国研究者からプロの研究者への道を歩み始めた。中断していた中国語学習を再開し、ロシア語の学習も始めた。中ソ論争は武力衝突にエスカレートしており、私はその根拠と由来を分析しようとしていた。

まもなく留学の機会を与えられ、私は家族とともにシンガポールへ飛んだ。もし可能ならば、北京あるいは中華人民共和国内の研究機関を留学先に選びたかったのだが、特定の「友好人士」以外には閉ざされていた。当時はこの回り道がたいへん不満であったが、塞翁が馬であったらしい。毛沢東時代が終わると、小平は改革開放の政策に大転換したが、これはシンガポール、香港、台湾、韓国といった「四匹の小龍」の経済的成功に刺激されてのことだった。私は東南アジアから中国大陸を観察していたために、この転換の意味を直ちに察知できたのは幸いであった。

シンガポール南洋大学(現シンガポール大学に統合)が私の第二の母校である。同大学の亜洲文化研究所客員研究員にしてもらったが、実質的には留学生であった。昼食は南洋大学の学生たちと学内の食堂でとり、午後に授業のないときは街に出かけて日常生活のなかから中国語標準語の語彙をたくさん学んだ。日本人にとって中国語の本を「目で読む」ことはそれほど困難ではない(われわれが学生時代にシナリオをなんとか解読しえたことからもわかる)。しかしコトバというのは、本に書いてないことの方が多い。日常生活のまったく当たり前のことは、本には書いてないことが少なくない。だから日常生活のなかで一つ一つ覚えていくほかない。

一年後に私はサバ、サラワクを一人で旅行して偶然にもクワラルンプールの華字紙記者と再会した。「ずいぶん華語がうまくなったね。かつての君はまるで『人民日報』が歩いているようだった」。

私のボキャブラリーの貧困、偏向を彼はこう揶揄した。たしかに六〇年代後半の中国大陸の新聞や雑誌、単行本から基本的な語彙を吸収していた私は、反共色の強いシンガポールやマレーシアで異様な存在であったらしい。この経緯から、私が当初感じた違和感は、必ずしも私の中国語が通じなかったためではなく、たとい通じても通じないフリをされていたことが分かった。当時の私は、学友からはあなたの華語は「不錯」だといわれ、ランゲージ・ラボラトリの台湾出身の老師からは国語の正しいあり方を教わり、左傾した学友とは、普通話の許容範囲を論じ合い、オランダ人留学生とはマンダリンとジャパニーズの語彙の関連について語り、日本人の学友とは北京語と華語の異同を論じ合うといった具合なであった。ほぼ同一の実体を指すのに、人々は華語・国語・普通話・マンダリン・北京語と使い分けていた(細かくいえば、発音や語彙に多少違いがあるが、九九%まで通じることが重要だ)。

加えて、シンガポールのテレビやラジオは、中国語のほかにマレー語番組、英語番組、タミール語番組からなっていた。私は多民族社会の言語生活の多様性、複雑性を痛感しつつ、中国人・華人社会の地域的広がりと歴史性、猥雑性、活力などに親しんでいった。バザーでの値切り方、アパートの探し方、マイカーの処分法、その他その他、日常生活のなかで大学で学んだものとは異なった語彙を覚え、そうした語彙によって営まれている東南アジア華人社会に仲間入りしていった。

後髪を引かれる思いで一年後に香港に転居し、香港大学で今度は広東語(正しくは広州語)を半年学んだ。香港は面白い世界だ。買物の値段が日本語よりは英語が安くなり、北京語だとなおさら安くなり、広東語を使うとベラボーに安くなる場合があった。七〇年代初め、舞庁や夜総会のダンサー名簿には何語を話すかが明記されており、その会話力の種類と程度によって彼女たちの時間当たりの賃金が違っていた。生活費や遊興費を安くあげようとの魂胆もあって、私は広東語をかじったが、これによって中国語世界の多様性、華南中国の独自性に目を開かれた。

余談だが、香港であるとき、さる社会経済史の権威が「身につけた北京語が崩れるから」との理由で、広東語を一切拒否する姿を見かけた。なんとタクシー運転手に幼稚園の幼児が胸に下げた住所カードのようなものを示して自宅へ帰ったのだ。私は幻滅し軽蔑した。日本人の中国学者には、中国の古典以外は研究対象に非ずとする古典主義、ラスト・エンペラーとともに中国文化は亡んだとする懐古主義、標準北京語以外は学ぶに値しないとする権威主義が少なからずみられる。中華思想に毒された、日本流の中華思想であろう。

これから中国語を学ぶ若い諸君に望みたいことが二つある。一つはなるべく若いうちに「漢字ではなく、耳から」中国語を覚え、中国人・華人との対話ができるようになってほしい。

もう一つは中国語と日本語との比較をたえず念頭に置くことだ。外国語として中国語を学ぶとともに、日本語の特性、日本人のモノの考え方と中国人の発想とを比較し、日本語の玄人になってほしい。

私が知命を過ぎたいま痛感するのは、中国語学習を通じて得た最大の成果は日本語に敏感になったことではないかという思いである。「日本人は漢字を用いるから中国人だ」と断固として信じて疑わない中国人が少なくない。中華思想と格闘を迫られると、否応なしに日本人としての自覚を喚起されないわけにはいかない。