中国経済成長における郷鎮企業の役割

『公明』93年8月号74〜79ページ

「社隊企業」からの変身

「郷鎮企業」とはなにか。郷とは、ムラであり、鎮とはマチであるから、これは農村の町村に所在する企業のことである。

郷鎮企業を語ることは、中国農村を語ることであり、国民の八割が農村に住むことからして、中国全体を語ることになる。ここでは郷鎮企業の実像を細部にわたって描くのではなく、計画経済から市場経済への脱社会主義戦略のなかでとらえてみたい。

郷鎮企業という概念の初出は、一九八四年三月に国務院農牧漁業部(当時の名称)が「社隊企業の新局面を切り開くことについての報告」を書いたことに始まる。中共中央、国務院はこの報告を追認して「通知」を発出したが、この「通知」のなかに初めて「郷鎮企業」の言い方が登場した(『人民日報』一九八四年三月一八日)。

この「通知」の背景にあるのは、人民公社の解体であった。すなわち旧人民公社の解体に伴い、従来の人民公社工業、生産大隊あるいは生産隊企業、すなわち、いわゆる「社隊企業」は、人民公社がもはや解体された以上、その名称はふさわしくないとして、旧来の行政区画を意味する「郷鎮」に戻すのが適当だとする考え方に基づいて、「郷鎮企業」と改称する方針を示したわけである。

改称のほかさらに、次の四つのコメントをつけている。

1)農村の剰余労働力を十分に利用し、商品生産を発展させ、農業現代化に必要な資金を蓄積せよ。つまり、剰余労働力の活用が一つのポイントであった。

2)旧「社隊企業」、農民の「共同出資企業」、農民の「個人企業」は多種経営の重要な構成部分であり、国家財政収入の重要な源泉でもある。

3)「郷鎮企業」を国営の大中型企業と比べると、設備は旧式であり、技術は遅れており、情報は遅く、デタラメが生まれ易い。しかし、独立採算であるから、競争力が強く、市場の需要に応じて生産の転換をはかり易い長所をもつ。

4)「郷鎮企業」の管理については各省レベルで決定されたい。

この「通知」によって、旧来の社隊企業から変身するよう指示された「郷鎮企業」はその後、目ざましい発展を遂げることになった。それは人民公社時代の旧「社隊企業」を主体としつつ、自由化のなかで容認された農民の個人企業あるいは複数農民による「共同出資企業」の成長によって、農村社会における地位を高めてきた。そして八〇年代末から九〇年代にかけては輸出企業としても目覚ましい動きを見せている。

郷鎮企業の数はどれだけあるのか。『中国統計年鑑一九九四』によると、一九九三年末現在で二四五三万企業、従業員数は一・二三億人に達している(三六一〜三六二頁)。

過去の推移をみると、一九八八年の一八八八万企業、九五四五万人が一つのピークであったが、八九〜九〇年は天安門事件以後の引締めムードのなかで企業数、従業員数ともに減少し、九一年の時点でようやく天安門事件の「後遺症」から脱出した。すなわち天安門事件以後の改革見直しムードのなかで、私営企業や郷鎮企業に対する風当たりがきわめて強く、私営企業は当然のことながら「ブルジョア的なもの」と批判され、一部の郷鎮企業も、その実質は私営企業に近いものであり、「ブルジョア的企業」に類似したものとして批判され、解体された。一九八八年までに大きく飛躍した郷鎮企業の隊列が、天安門事件後に企業数、従業員数の双方とも減少したのは、経済引締めという「純経済的」理由のほかに「政治的理由」も存在したことが分かる。

国有企業の地盤沈下の中で

さて中国経済に対する郷鎮企業の最大の貢献は、おそらく雇用拡大効果である。中国経済の抱える最大の問題の一つが過剰労働力である。この視点から見ると、一九九三年の全人民所有制企業の従業員数は一億〇九二〇万人、都市の集団所有制企業は三三九三万人であるから、郷鎮企業の従業員一・二三億人という数字は、都市の集団所有制企業の約四倍であり、全人民所有制企業従業員数を凌駕していることが分かる(『中国統計年鑑一九九四』八四頁)。

生産額で見るとどうか。一九九三年の郷鎮企業の総生産額は三兆一五四〇億元を数えている。うち工業は二兆三四四六億元である(同三六三頁)。

次に、郷鎮企業の生産額を工業総生産額と比較するとどうか。一九九三年の工業総生産額は五兆二六九一億元である(三七三頁)。郷鎮企業の総生産額は前述のように三兆一五四〇億元であるから、なんと六割に相当することが分かる。九〇年のこの比率は四割であったから、三年間で二割も比重を増やしているのだ。

小平は一九九二年の「南方視察談話」のなかで、郷鎮企業は「別働隊のように突然現れた」(原文=異軍突起)と、これを讃えたが、中国経済の活性化にとって、郷鎮企業の役割がいかに大きかったかを端的に示す表現であろう。

工業総生産額に占める郷鎮企業の比重の急速な上昇の背後にある重要な事実は、国有企業の衰退現象であった。ちなみに国有企業の総生産額は、経済改革が始まる前の一九七八年には、工業総生産額四二三七億元のうち三二八九億元であり、七七・六%を占めていた。九三年には五兆二六九一億元のうち二兆二七二四億兆元であるから四三・一%で、この一五年間に三〇ポイントも低下していることになる。

実は、国有企業のシェアはもっと小さいことが新経済指標体系によって明らかになった。すなわち中国ではかねて物的生産方式(Material Products System)の代わりに、GNP方式(System of National Accounts) への移行を準備してきたが、「一九九二年の国民経済と社会発展についての国家統計局統計公報」(『人民日報』一九九三年二月一九日付で公表)で、初めてGNP方式による工業総生産額を公表した。

これによると、一九九二年のGDP(国内総生産)の構成要素のうち工業の部分(原文=工業増加値)は、一・一一六兆元であり、GDP二・三九兆元の四二・三%を占める。工業のうち非国有企業の部分が六一%を占める、と公表された。工業では特に迂回生産の比重が高いので、中国や旧ソ連で用いてきた「総生産額」指標体系では、工業の発展につれてますます重複計算の部分が増えることになる。重複計算の部分を控除した「純粋な付加価値」に基づく統計によって初めて、実像を把握できることになった。

この新しい統計方法によれば、国有工業のシェアは、すでに四割を割った。生産高のレベルで四割を割っているにもかかわらず、従業員数では四割以上の労働力を抱えていることは明らかであり、ここから国有企業の生産性の低いことが分かる。国有企業の三分の一が赤字である事実は、しばしば当局者によって語られており、厳しい見方をするエコノミストは、国有企業の三分の二が赤字だとさえ指摘している。郷鎮企業(そして、ここでの主題ではないが外資系企業)の大発展に対し国有企業の衰退傾向は、明らかである。

生産高のシェアが急速に低下しつつあり、今後もこの傾向が続くことは、労働生産性を比較すると、よく分かる(詳しくは、従業員一人当りの労動生産性などを比較した拙著『図説・中国の経済』四九頁、五五頁、五七頁などを参照のこと)。

小平路線のスタート時点では、集団所有制企業の労働生産性は国営企業の半分にすぎなかった。これは先進的な機械がほとんどすべて国営企業に回され、集団所有制企業の資本装備率が著しく劣っていたことによるものだ。しかし、経営の自主権が与えられるや、集団所有制企業、とりわけ郷鎮企業は活力を発揮して、資本装備率の不足を経営の合理化で補い、生産性の面で国営企業に迫り、一〇年後には三分の二のレベルまで追いついた。これは郷鎮企業などの平均数字であるから、優秀な郷鎮企業はとうの昔に国営企業を追い越していることはいうまでもない。外資系企業や私営企業など非国営部門の労働生産性は群を抜いて高く、国営企業の二倍を超えている。

中国経済の活力を支えているのは、まさにこれら非国有企業(すなわち私有制、集団所有制企業)にほかならない。この労働生産性を保持するならば、この部分のシェアが拡大し、国有企業の地盤沈下がますます進むことは火を見るよりも明らかである。ここから、郷鎮企業の第三の、しかもきわめて重要な意味が浮かび上がる。それは国有企業の「安楽死」のための迂回戦略としての郷鎮企業の役割である。国有企業の「安楽死」とは、すなわち社会主義経済、計画経済の安楽死にほかならない。

したがって話は大きくなるが、「脱社会主義の中国モデル」、あるいは社会主義の安楽死を目指す中国的路線まで視野を拡大する必要がある。小平自身は、みずからの路線を「中国的特色をもつ社会主義」と規定している。その本質は、私自身の表現によれば、「限りなく資本主義に近い社会主義」であり、事実上は「中国的特色をもつ資本主義」の建設にほかならない。

一部には、中国側メディアが「社会主義の堅持」を繰り返し主張していることに救いを発見する。すなわち「社会主義の要素」に注目して中国経済を観察しようとする向きがあるが、それはおそらく徒労に終わるであろう。

中国経済のなかに、もし「社会主義の要素」があるとしてたら、それは「残滓として」にほかならず、積極的意味はない。いずれは「克服しなければならない要素」として、暫時、残存を容認された部分にほかならないのである。

経済先行発展路線の中で

さて、郷鎮企業の戦略的意味とは何か。旧ソ連のショック療法(ショック・セラピー)は、西側の大いなる期待に反して、大失敗に終わった。ゴルバチョフのペレストロイカに声援を送った西側は、いまやエリツィン救済に頭を悩ましている。これに対して、小平の政治経済二本足路線、あるいは「経済先行型」改革路線は、政治改革を欠如しているとの理由から、特に天安門事件を契機として、西側から大いに非難された。ここには政治的民主化を欠くならば、経済発展に成功することはできないとする認識が前提されていた。

しかし、天安門事件四年後の現実は、これまでの西側の対中国、対旧ソ連認識に大きな反省を迫っている。旧ソ連に対する「ショック療法」は果たして正しい処方箋であったのか。民主化が先行したペレストロイカが失敗したのはなぜか、である。政治的民主化こそが経済発展の前提であるとする認識は、再考を迫られている。

もう一つは「ショック療法」の対極にある中国流の漸進主義の見直しである。すなわち当面は権威主義的政治体制を堅持して、そのもとで経済発展に全力をあげる開発独裁型の戦略路線を「アジア型の経済発展モデル」(Asian Path of Development )として、積極的、肯定的に評価する考え方がいま急速に浮上してきた。

西側が対中国認識を誤った一因は、天安門事件に対する誤解を一つの契機としている。その一例として、天安門広場におけるいわゆる「虐殺」の問題を取り上げてみたい。

天安門事件四周年の六月三日夜、NHKテレビの「クローズアップ現代」が「空白の三時間」の真相に迫り、話題を呼んだ。この番組は、人民解放軍が天安門広場を完全に包囲したあと、すなわち一九八九年六月四日午前三時に天安門広場に留まって取材していたスペイン・テレビの取材班が映したビデオを紹介し、このスペイン取材班にインタビューし、さらに戒厳部隊の現地指揮官を相手に交渉して、広場の無血撤退に決定的に重要な役割を果たした侯徳健(台湾在住のシンガー・ソングライター)に証言させたものである。

その結論は、天安門広場の最終的整頓過程においては、死者はでなかった、いわゆる大虐殺説は誤りであったというものである(もう一つ重要なポイントは、NHKのテレビ・カメラは当日その時刻には、広場を映せる位置にはなかったことも加藤青延元特派員が証言している)。

この結論は一般の視聴者にとって意外であったらしく、私のところにもいくつか問いあわせがあった。事件後四年目にして、NHKがその取材力と良識を活かして、このような番組を作ったことを高く評価できよう。ただ、敢えて率直なコメントを加えれば、この番組は三年前、すなわち一九九〇年の事件一周年に作るべきものであり、しかも製作可能な条件が存在していた。たとえば私が「天安門広場での虐殺はなかった」を発表したのは、事件半年後であった(『読売新聞』に一九八九年一二月四日付夕刊)。そして広場からの撤退についての決定的な証言であるロビン・マンロー(アジア・ウォッチの活動家)の証言「天安門広場の回想──北京で誰が何故死んだのか?」(The Nation June 11, 1990)が現れたのは、事件一周年記念においてである(拙訳を拙編『天安門事件の真相』下巻、蒼蒼社に収めた)。このマンロー論文には、スペイン・テレビの映した決定的瞬間を含む画像がBBCのジョン・シンプソン記者による「空想的実況中継」によって、事実上葬り去られることになった経緯まで示唆されており、マスコミの裏面がよく理解できる。このBBC放送の基調が日本マスコミにも決定的影響を与え、日本(そして世界)のマスコミ界は怠慢と虐殺幻想に酔いしれて、それから三年の時間をムダにし、中国における経済先行型発展路線のもつ経済的意味、政治的意味を十分に理解してこなかったのであった。

ここで再評価が必要なのは、まず第一に経済発展を先行させ、条件を整えたうえで政治的民主化へ至る政治経済二本足路線であり、第二に、経済発展戦略としての迂回路線である。すなわち計画経済を構成する国有企業の改革は、既得利益享受者の強い抵抗を受ける事実に鑑みて、まず郷鎮企業や外資系企業のような国有企業のライバルに市民権を与え、その活力によって国有企業の官僚主義と闘争する戦略である。天安門事件にもかかわらず、この戦略が生き延びた意味を直視することがいま求められている。