虚君共和の夢───毛沢東の小中国論

『中国研究月報』1993年12月号、550号、14〜19頁

1. 毛沢東の湖南共和国運動

『毛沢東集」および同『補巻』(蒼蒼社、 1983〜86年。以下『毛補巻』 と略称)の別巻「毛沢東著作年表」をひもどくと, 1919年から20年にかけて,毛沢東が皖系軍閥の湖南省督軍,省長張敬尭の追放運動に熱中した経緯がよく分かる。毛沢東と新民学会,湖南学生聯合会などの運動が効を奏して,20年6月,張敬尭は湖南を去り,「駆張運動」は成功した (『辞海』歴史分冊,中国現代史2頁)。

この運動のなかで,毛沢東は「湖南改造」を提起し,「湖南自治」「湖南モンロ一主義」,そして「湖南共和国の建設」を唱え,積極的に運動を組織した。たとえば毛沢東は「湖南改造促成会」の名で「湖南改造促成会発起宣言」を起草して,上海の『申報』(1920年6月14日付)や上海『民国日報』(同6月15日付)に発表している (『毛補巻』 9巻,97〜99頁)。

ついで同年7月長沙「大公報』(6日および7日付)には,「湖南改造促成会」の名で書いた「湖南改造の主張」を掲げたが,その一節にこう述べている。「中国四千年来の政治はすべて空架子の,大規模な,大方法であった。その結果,外は強いが中は干からび,上は実だが,下は虚,外面は堂々とし立派だが,中は無柳腐敗だ。民国以来,名士偉人が憲法,国会,大統領制,内閣制と大騒ぎしてきたが,その結果はますますデタラメになるのみ。砂上の楼閣に似て,建物の完成を待たずしてすでに倒れている」(『毛補巻』1巻,199頁)。

毛沢東はここで湖南省の人口3000万は明治維新当時の日本の人口と同じであり,「充実の邦」日本に学び,湖南改造に取り組むよう呼びかけ,改造の第一義は「自決主義」,第二義は民治主義だとしていた。

長沙『大公報』(同年9月3日付)では「湖南共和国」の建設を呼びかけている。

「私は大中華民国に反対し,湖南共和国を主張する。なぜか。以前は,今後の世界で生存していけるのは大国家だとする謬論があった。その流毒によって帝国主義を拡大し,自国の弱小民族を抑え,海外に植民地を争い,未開民族を奴隷化してきた。顕著な例は,英・米・独・仏・露・オーストリアである。彼らは幸いにも成功したが,実は成果なき成功であった。ほかに中国もその例に含まれるが,こちらは成果なき成功にも成功していない。中国が得たのは,満洲人を消滅させ,モンゴル人,回人,チベット人を気息奄奄たらしめ,18省をメチャメチャにし,3つの政府を作り,3つの国会を作り,20個以上の督軍王,巡按使王,総司令王を作り,老百姓は日々殺され,財産を奪われ,外債は山の如くである。共和民国を称しているものの,共和とは何かが分かっている国民はいくらもいない。4億人,少なくとも3億9000万人は手紙を書けず,新聞を読めず,全国に1本たりとも自前の鉄道がない」「9年間の二七共和の大戦乱の経験を通じて,全国の総建設は当面は完全に希望のないことが分かった。最良の方法は総建設をきっぱり断念することである。思い切って分裂させ,各省の分建設を図ることである。22省,3特区,2つの藩地,合計27地方が各省人民の自決主義を実行することだ。最良は27国に分けることである」「湖南はどうか。3000万人一人ひとりが覚醒しなければならない。湖南人にも別の道はない。唯一の方法は湖南人の自決自治である。湖南人は湖南地域で湖南共和国を建設することである」(『毛補巻』1巻,217〜218頁)。

長沙『大公報』(同年9月6日付)では「湖南モンロ一主義」を呼びかけている。

龍兼公の提起した「湖南モンロー主義」について, みずからの事柄をやることに意を用いること,他人の事柄には絶対に干渉しないこと,他人がわれわれの事柄に干渉することを絶対に許さないこと,の三条件だと解説し,これに「絶対賛成」の意を表明している(『毛補巻』1巻,223〜224頁)。

長沙『大公報』(同年9月6日付および7日付)では,湖南が中国の累を受けてきたと指摘している。

「中国が生まれてこのかた,湖南は存在した。古くは蛮地であり,周代には楚国であった。漢代には長沙国であり,唐代には節度使の地区であった。宋代は荊湖南道であり,元代は行省を建てられた。明清はこれを継承し,その後も変わっていない」「湖南の歴史はただ暗黒の歴史であり,湖南の文明は灰色の文明ではないのか。これは四千年来湖南が中国の累を受け,自然な発展を遂げられなかった結果ではないのか」「湖南人よ!われわれの使命は実に重大である。まず湖南共和国を目標とし,新理想を実現し,新生活を創造し,27の小中国の主唱者たらねばならない」(『毛補巻』1巻,225〜227頁)。

長沙『大公報』(同年9月26日付)では「湖南自治運動」を呼びかけている。

長沙『大公報』(同年9月30日付)では「湘人治湘」を呼びかけている。「湘人治湘」の表現は現在の「港人治港」を想起させるが,外省人ではなく「湘人自治」を主張するのは,「官治」に代えて「民治」を行なうためだとしている(『毛補巻』1巻,235〜236頁)。

長沙『大公報』(同年10月3日付)では「全自治」を呼びかけている。すなわち「湖南国」を主張するのは,単に湖南省の「省」を「国」に変えるものではなく,「全自治」を獲得するものである。「半自治」で満足することはできないのだと主張している(『毛補巻』1巻, 237頁)。

長沙『大公報』(同年10月5日付および6日付)では,「湖南憲法」の制定による 「新湖南」の建設を呼びかけている。

「湖南自治の根本法の起草について,1ヵ月来議論が行なわれてきた。ある者は省政府が起草するよう主張し,ある者は省議会が起草すべきだとし,ある者は省政府と省議会が合同して起草すべきだとし,ある者は省政府,省議会,省教育会,省農会,省工会,省商会,湖南弁護士公会,湖南学生聯合会,湖南報道会聯合会などが合同して起草すべきだという。これらの主張にわれわれは賛成できない」「われわれの主張は,湖南革命政府が湖南人民憲法会議を召集し,湖南憲法を制定し,新湖南を建設しよう,というものである。この主張こそが理論的に筋が通り,実際的にもうまくやれるものである」 (『毛補巻』 1巻,239〜241頁)。

憲法制定の呼びかけは,何淑衡,彭(王黄),朱剣凡,龍兼公ら376人の連名による呼びかけであり,毛沢東はその1人にすぎないが,この考え方に基づき,「湖南人民憲法会議選挙法の要点」および「湖南人民憲法会議組織法の要点」を起草したのは,毛沢東,彭(王黄),龍兼公であったと,龍兼公自身が2年後に長沙『大公報』(22年10月9日付)で証言している (なお,「要点」は長沙『大公報』(10月8日付)に発表され,のち『毛補巻』9巻,103〜105頁に所収)。

2. 中華聯邦共和国構想

毛沢東は中国共産党の2回大会には「開催場所を忘れたために参加できなかった」とエドガー・スノウに語った有名なエピソードがあるが, この大会で採択された「中国共産党第2回大会宣言」には「聯邦」構想が提起されていた。近年の情報公開のなかで, 中共党史の基本的資料がオリジナルあるいはそれに近い形で歴史資料として公表されるようになったが,その一つである『中共中央文件選集』(中央档案館編,中共中央党校出版社,1991年)から引用してみよう。

(1)中国本部各省では聯邦制をとらない〔中国〕本部各省は(東3省を含めて)経済上に根本的相違は絶えてないにもかかわらず,民国の歴史は10年来の武人政治によって演出された割拠現象をもって省を邦となすことを主張し,各自が一方に覇をとなえることをもって地方分権あるいは聯省自治の美名で飾ろうとしている。これはまったく理由のないものである。なぜなら10年来,すべての政権は完全に各省武人の手にあり,もしさらに分権を主張するならば,省を国と称し督軍を王と称するのみだからだ。それゆえ,聯邦の原則は中国本部各省では採用できない。

(2)蒙古,西蔵,新彊は自治邦を促進し,中華聯邦共和国をつくる。蒙古,西蔵,新彊などの地方はそうではない。これらの地方は雁虫上異種民族が久しく聚居してきた区域であるばかりでなく,経済上中国本部の各省と根本から異なる。というのは,中国本部の経済生活は小農業手工業からしだいに資本主義生産制に進む幼稚な時代にあるのに対して,蒙古,西蔵,新彊などの地方はまだ遊牧の原始状態にあり,強いて中国本部に統一するならば,軍閥の地盤を拡大する結果となり,蒙古などの民族自決,自治の進歩を阻害するからであり,本部人民にとっていささかの利益にもならないからである。一方では軍閥勢力の膨張から免れ,他方で辺鏡人民の自主を尊重し,蒙古,西蔵,回彊の3自治邦を促進し,それから聯合して中華聯邦共和国になってこそ真の民主主義的統一である(第1冊,111頁)。

こうして第2回党大会の7項目からなるスローガンの第3〜4項はこうであった。

(3)中国本部(東3省を含む)を統一し,真の民主共和国とする。

(4)蒙古,西蔵,回彊の3部で自治を実行し,民主自治邦とする。

5)自由聯邦制を用いて中国本部,蒙古,西蔵,回彊を統一し,中華聯邦共和国を樹立する(同上,115〜116頁)。

毛沢東の湖南共和国構想と合わせて考えると,当時の中国共産党の考え方は「聯邦案」であったことが分かる。ロシア革命で提起された民族問題の解決策は,理念的,理想的な形のままで中国共産党に引き継がれていたとみてよい。

3. 中華聯邦共和国からの離脱権

第2回党大会からおよそ10年後,毛沢東らは江西ソビエトでゲリラ闘争に従事していたが,1931年11月7日,中華ソビエト第1回全国代表大会で採択された中華ソビエト共和国憲法大綱(全17項からなる)の第四項は「ソビエト共和国の公民」の内容をこう定めていた。

「ソビエト政権領域内の労働者,農民,紅軍兵士およびすべての労働する民衆とその家族は男女,種族, 宗教にかかわりなく,ソビエト法律の前で一律に平等であり, 等しくソビエト共和国公民である」。

ここで「種族」の括弧内に挙げられているのは「漢,満,蒙,回,蔵,苗,黎,および中国にいる台湾,高麗,安南人など」である。

14項では少数民族の自決権,聯邦への加入・離脱権をこう宣言した。

「中国ソビエト政権は中国境内の少数民族の自決権を承認し,各弱小民族が中国から離脱し,自己が独立の国家を成立する権利を一貫して承認してきた。蒙古,回,蔵,苗,黎,高麗人など,およそ中国地域内に居住する者は,完全な自決権,すなわち中国ソビエト聯邦に加入し,あるいは離脱するか,あるいは自己の自治区域を樹立する権利をもつ。 中国ソビエト政権はいまこれらの弱小民族が帝国主義国民党軍閥,王公,ラマ,土司などの圧迫統治から完全な自主を得るよう努力しており,ソビエト政権はこれらの民族のなかで,彼らが自己の民族文化と民族言語を発展させなければならない」(『中共中央文件選集』第7冊,773頁,775〜776頁)。

ここでは,聯邦への加入,離脱権をも含めて,少数民族の自決権を完全に認める立場に立っていたことが分かる。

4.自己の事務を自己が管理する権限

毛沢東は延安で1943年に開かれた中共中央六期六中全会(10月12〜14日) の報告「新段階を論ず」の第4章「全民族の当面する緊急任務」の第13項「中華民族を団結し, 一致対日せよ」のなかで,こう述べている。

敵がすでに進めているわが国内の「各少数民族を分裂させようとする詭計」に対して,当面の第一の任務は各民族を団結させ一体となし,共同で日寇に対処することである。 この目的のために,以下の各点に注意しなければならない。

第一,蒙,回,蔵,苗,(ケモノへんに謡のツクリ)〔のちに瑶と表記〕,夷,番各民族と漢族が平等の権利をもち,共同で日本に対する原則のもとで,自己の事務を自己が管理する権利をもち,同時に漢族と聯合して統一した国家を樹立することを許す。

第二に,各少数民族と漢族が雑居する地方では,当地の政府は当地の少数民族の人員からなる委員会を設置し,省県政府の一部門として,彼らと関わりのある事務を管理し,各族間の関係を調節し,省県政府委員のなかに彼らの位置をもたせるべきである。

第三に,各少数民族の文化,宗教,習慣を尊重し,彼らに漢語や漢文を学ぶよう強制しないだけでなく,彼らが各族みずからの言語文字を用いた文化教育を発展させるよう賛助すべきである。

第四に,存在している大漢族主義を是正し,漢人が平等な態度を用いて各族と接触し,日増しに親善を密接にし,同時に彼らに対して侮辱的,軽蔑的な言語,文字,行動を禁止するよう提唱する(『毛沢東集』6巻,蒼蒼社,1983年,219〜220頁) 。

5. 陜甘寧辺区時代

1941年,陜甘寧辺区施政綱領では,民族平等の原則に依拠して「蒙回民族の自治区」を樹立する方針へ,後退したかに見えたが,毛沢東は四五年には次のように, 孫中山の民族「自決権」を再確認している。

毛沢東は第7回党大会で「聯合政府を論ず」と題した報告を行なったが(1945年4月12日),その四章「中国共産党の政策」の「われわれの具体的綱領」第9項少数民族問題でこう述べている。

国民党反人民集団は中国に多民族が存在することを否認し,蒙,回,蔵,彝(夷),苗,瑶〔ケモノ偏から王偏に変化〕,各少数民族を「宗族」と称している。彼らは各少数民族に対して満清政府および北洋軍閥の反動政策を完全に継承し,圧迫搾取し,至らざるところなしである。1943年の伊克昭盟蒙族人民を屠殺した事件,1944年から現在に至るまで新彊少数民族を武力鎮圧した事件および近年の甘粛回民を屠殺した事件などはその明らかな証拠である。これはファッショ的大漢族主義的な誤った民族思想と誤った民族政策であり,孫中山先生にまったく背いている。1924年に孫中山先生が書いた中国国民党第1回大会宣言でこう述べている。「国民党の民族主義には2つの意義がある。1つは中国民族がみずから解放を求めることである。2つは中国蕊内の各民族が一律に平等であることだ。 国民党は敢えて鄭重にこう宣言する。中国以内の各民族の自決権を承認する。帝国主義および軍閥に反対する戦争に勝利したあと,自由な統一した (各民族が自由に聯合した) 中華民国を組織する,と」。中国共産党は孫先生のこの民族政策に完全に同意する。共産党員は各少数民族の広範な人民大衆がこの政策を実現するため に奮闘するのを積極的に援助すべきである。各少数民族の広範な人民大衆が (民衆に繋がりをもつすべての領袖を含めて),政治上,経済上,文化上の解放と発展をかちとり,民衆の利益を擁護する少数民族自身の軍隊を成立させるよう援助すべきである。彼らの言語,文字,風俗,習慣,宗教信仰は尊重されなければならない(『毛沢東集』9巻,蒼蒼社,1983年, 255〜256頁)。

そして7回大会党規約では,「独立,自由,民主,統一,富強の,各革命階級の同盟と各民族の自由な聯合からなる新民主主義聯邦共和国を樹立する」と規定した。

このように,革命期の中国共産党は,(1)民族自決権の承認,(2)聯邦制の実行, (3)民族区域自治の実行、という三つの主張を行なっていた。

民族自決権とは各民族が自己の運命を決定する権利をもつことであり,政治的角度からいえば独立権である。すなわち被抑圧民族が抑圧民族から自分で離れる権利である。当時の中国の条件のもとでは,民族自決権とは,中国境内の少数民族は大漢族主義の搾取者と抑圧者たる,封建軍閥と国民党反動派から自由に分立する権利を意味していた。

この点について,最近の論者(李瑞) は次のようにその意図を解釈している。

「わが党は一切の民族分立の要求を無条件に支持していたわけではない。わが党は外国帝国主義者が策動した偽満洲国,偽蒙彊自治政府,偽トルキスタンイスラム共和国,西蔵の反動的上層人物の独立活動には断固として反対してきた」(李瑞「党の民族区域自治政策の形成と発展初探」『民族問題理論論文集』青海人民出版社,1987年,77〜79頁)。

国共内戦期から抗日戦争期にかけて,民族自決,聯邦制,民族区域自治の3つの方針に基づいて,1936年陜甘寧省預海県に回民自治政府が樹立された。1941年には陜甘寧辺区に一群の区レベル,郷レベルの蒙古族,回族の自治政権が樹立された。

45年から46年にかけて,党中央は内蒙古で民族区域自治の方針を実行しただけでなく,「和平建国綱領」のなかで「少数民族地区では,各民族の平等な地位とその自治権を承認しなければならない」と提起した。47年5月1日に成立した内蒙古自治政府は省レベルとして中国初めての民族自治地方であった。

6.共同綱領と五四年憲法

49年9月,政治協商会議で「共同綱領」が採択された。ここでは「各少数民族の豪居地区では,民族の区域自治を実行し,民族聚居の人口の多少と区域の大小におうじて,各種の民族自治機関をそれぞれ樹立する」とされていた。

54年の憲法では「各少数民族の豪唐する地方では区域自治を実行する」 という総方針のほかに,「民族自治地方とは自治区,自治州,自治県である。民族自治地方の自治機関は同級の一般の地方国家機関の職権を行使するとともに,自治権を行使することが明確に定められていた。史(タケカンムリ均)「中華人民共和国民族区域自治法について」によると,75年の「四人組」憲法は,54年憲法の「各少数民族の豪居する地方では区域自治を実行する」という総方針が削除され,「民族区域自治を実行する地方では」の文字だけが残された。その3年後,78年憲法では54年憲法の精神が一部復活し,82年憲法では54年精神が全面的に復活した(『民族問題理論論文集』青海人民出版社, 1987年, 42〜43頁)。

7. 十大関係論

毛沢東は1956年4月,「十大関係論」と題する講演を行なった。(1)重工業, 軽工業と農業の関係,(2)沿海工業と内陸工業との関係,(3)経済建設と国防建設との関係,(4)中央と地方との関係,(5)漢民族と少数民族との関係,(6)中国と外国との関係、など「10個の関係」をとりあげて,矛盾の正しい処理の仕方を述べたものであった。毛沢東が特に強調したのは,ソ連の経験を戒めとして真剣に教訓を学ぶことであった。 たとえばソ連は農民をひどくしぼりあげるやり方をとっているとして,農業重視を呼びかけ,平時には国防建設費を削減して経済建設を強化するよう訴えた。また中央と地方の関係においては,「ソ連のように,なにもかも中央に集中して,地方をがんじがらめに縛りつけ,少しの裁量権も持たせないといったやり方をとってはならない」と地方への権限下放を主張した。少数民族問題については「ソ連では,ロシア民族と少数民族とがきわめて不正常な関係にあるが,われわれはこの教訓を汲み取るべきである」など,ソ連の社会主義建設の弱点を鋭く剔抉し,それを「反面教師」として,中国の建設に活かすことを呼びかけたのであった(『毛沢東選集」第5巻,人民出版社,1977年,275頁)。

毛沢東が中央集権の弊害を指摘し,「地方と協議してやる作風」を提唱したとき,その口調は「総建設」を否定し,「各省の分建設」を主張した「湖南共和国」構想と酷似している。

毛沢東の分権化構想は大躍進期に,ゲリラ戦争の根拠地作りと連動して極端な形で強行され,中国経済を大混乱に陥れた。その結果,毛沢東の指導権は大いに揺らぎ,文化大革命の発動に繋がった。文化大革命に毛沢東は一時,コミューンの夢を語ったが,そのときに出たのが「虚君共和」の夢であった。

1966年3月20日,杭州で中共中央政治局拡大会議が開かれた。その席上,毛沢東はこう述べた。

「中央はやはり虚君共和がよろしい。 イギリスの女王も, 日本の天皇も, いずれも虚君共和である。 中央はやはり虚君共和がよく,政治の大方針だけを扱う。大方針でさえも地方からの争鳴によって作るのがよい。中央は加工工場を設けて,〔地方からの原料で〕大方針を作るのである。省レベル,県レベルから意見が「放」されて初めて,中央は大方針を作れるのである。こういうのがよい。つまり中央は虚だけを管理し,実を管理しない。あるいは少ししか実を管理しないやり方だ。そうすれば中央の加工工場の収穫が増える。中央が受け取ったものはすべて地方へ出さなければならない。人も馬もすべて地方へ出さなければならない」(『毛沢東思想万歳』丁本,1969年8月,638頁)。

この一句は『中華人民共和国経済大事記1949〜1980』(房維中主編,中国社会科学出版社,内部発行,1984年)に,次のように引用されている。

「中央はやはり虚君共和がよい。中央は虚だけを管理し,政策方針だけを管理する。実は管理しないか,あるいは少しに減らす。中央部門が集めた工場生産物が増えたら, 集めたものはすべて中央から地方へ出さなければならない。人も馬もすべて出す」 (410頁)。

結びに代えて

毛沢東が1920年(当時27歳)に夢想した「各省の分建設」 と1956年の「十大関係論」,そして1966年の「虚君共和」には,相通ずるものがある。敢えて違いを一つ挙げれば,1920年,1956年には少数民族問題が念頭にあったが,1966年の時点では,これに言及することを忘れていることである。

追記。なお,この「虚君共和」 というキーワードに触れた新連邦論が金驥著『邦連制───中国的最佳出路』(香港百姓文化事業公司,1992年,56頁)で展開されていることを付加しておきたい。生誕百年に際しての毛沢東評価については,小著『毛沢東と周恩来』(講談社現代新書,1991年)を書いたつもりである。