『月刊健康』94年5月1日、413号、11頁

辞書食いの真偽

会津藩出身の野口英世は毀誉褒貶も含めて偉人伝のヒーローとして、あまりにも有名だが、お隣の二本松藩出身の朝河貫一(1873〜1948年、『入来文書』を研究した比較法制史家、イェール大学名誉教授)は知名度が低く、朝河研究はまだ始まったばかりである。

昨93年は朝河の生誕120周年にあたり、東京の朝河研究会は『朝河貫一の世界』(早稲田大学出版部刊)と題した記念論集を出版し、二本松市では市内の中学校の先生方が副読本『朝河貫一/一を以て之を貫く』(同市教育委員会刊)を編集した。朝河の母校安積高校(私の母校でもあるが)でシンポジウムが行われた機会に、「朝河はなぜ英和辞書を食ったのか」についての私見を述べた。朝河はおそらく本当に辞書を食ったのではないか。その目的は覚えたことを忘れまいとするためであったはず、と話した。

その証拠として、薄田泣菫『茶話』(冨山房文庫)には西依成斎(1702〜1797年)が『節用集』を読みおえると、その覚えた箇所だけは紙を引きちぎって食べた逸話が収められていることを挙げた。

これに対して「印刷物を食べるとは、不潔であり、野蛮である」とか、「朝河は食べていない。辞書を破れば、当然もはや使えなくなる。これは背水の陣的決意表明を誇張したもおにすぎない」との批判が寄せられた。これらの批判は、あまりにも現代の常識から当時の状況を判断しているように感じられて私には合点がゆかない。

『解体新書』の出版(1774年)後約百年、明治初期の医学知識の普及状況はどうだったのか。ちなみに朝河は現代なら「記憶」と書くべきところを「記臆」と書いている。これはメモリー・バンクが頭脳ではなく、「五臓六腑」に存すると理解していたからではないだろうか。当時の尋常中学校で使われた英和辞書はどの程度の頁数で、どんな紙質であったのかも知りたい。博雅の士のご教示を得たく、「抛磚引玉」する次第である。