『中小企業金融公庫』

1994年6月号

世界的な不景気風のなかで、ひとり中国経済だけが高度成長しており、猛烈な中国ブームを巻き起こしている。1992〜1993年と連続13%台の成績であり、1994年もまた10%前後になる見通しだ。中国経済はいま着実にテイクオフしつつある。ここまで来たからには、もはやポストケ小平 期の混乱は基本的に回避できるとみてよい。いたずらに悲観的なシナリオを描くのは、実態にそぐわないと私は分析している。

第1に工業生産量に占める国有企業のシェアは、すでに5割を切っている。計画経済を市場経済化するうえで、改革の最大の標的が国有企業であることはいうまでもない。ここでケ小平 は「国有企業の改革」をいきなり提起することをせず、迂回作戦をとった。まず人民公社をやめて農民の意欲を喚起し、ついで郷鎮企業を奨励して非国有セクターを活性化させた。ついで合弁企業法をつくり、経済特区をもうけて外資との合弁企業を作らせ、効率的、近代的な企業の手本を示した。この努力を10数年続けることによって、国有企業のシェアは92年に5割を切った。そしてこの時点で、ケ小平 は国有企業を株式化することによって改革することを決定した(93年11月の市場経済移行の50カ条決定)。かりに最初から国有企業の改革を提起したとしたら、既得利益に基盤をもつ保守派によって扼殺されてしまったであろう。また、合弁企業や郷鎮企業という手本なしに国有企業を成功させることも覚束ない。迂回作戦は、巧みな戦略なのであった。

第2はケ小平 路線の政治的側面だが、毛沢東路線と社会主義の堅持を掲げて、事実上毛路線を転換させ社会主義を骨抜きにしている。ケ小平 は根っからの「白猫黒猫」論者であり、社会主義か資本主義かに関心はない。あえていえば、西側で高度成長を実現した資本主義に強い魅力を感じている。にもかかわらず、毛沢東路線や社会主義の堅持を語るために中途半端な改革派のイメージが作られ易い。しかしこの見方は皮相である。ケ小平 が保守派と完全に袂を分かつとすれば、党内に大きな敵を抱え込むことになる。毛沢東と社会主義の旗を掲げ続けるかぎり、保守派はケ小平 を攻撃しにくい。ケ小平 はこのマヌーバーを用いて保守派を籠絡してきた。保守派をみずからと対立する場に置くのでなく、中立の場、あるいは少なくとも敵の側には回さないことがケ小平 流の迂回作戦の核心にほかならない。老練な手腕である。第3は、後継体制作りである。中国社会主義の軌道転換の容易ならざることは、ケ小平 が登用した2人の総書記の連続失脚によく現れている。胡耀邦は87年1月に、趙紫陽は89年6月に失脚した。いまは江沢民総書記を国家主席と中共中央軍事委員会主席を兼任させ、集団指導の核心とする後継指導体制作りを進めている。ケ小平 亡きあと、江沢民を核心とする指導部が中国全体をまとめていけるかどうか不安がないといえばウソになる。ただ、私は楽観している。なぜなら、ケ小平 路線の15年間の努力を通じて、政治優先、階級闘争一辺倒の中国政治は、経済優先、経済マインド優先に転換したからだ。いまや12億の人びとが市場経済における成功を目指して動いている。人びとは消費欲望に目覚めた。家電製品を整え、より豊かになるために必死で働いている。人びとのハングリー精神が経済の成長を支えている。ポストケ小平 期の政治的安定は、江沢民以下の指導部に依存するというよりは、順調な経済発展に依存するところが大きい。端的に言って、メシを食えるかぎり中国の庶民は騒ぎを起こさない(「民は食を以て天となす」)。ケ小平 の真の意味での「後継者」は江沢民ら政治局のメンバーではあるまい。「市場経済」、「市場メカニズム」こそが真の後継者なのだ。ケ小平 はそのように政治の舞台を転換させた。その舞台回しにしたたかな腕の冴えを見せた。

天安門事件当時、人びとはゴルバチョフのペレストロイカを賞賛し、ケ小平 の武力鎮圧を非難したが、これは二重の見込み違いであった。第1にペレストロイカというショック療法は旧ソ連に混乱をもたらしただけである。第2にケ小平 の鎮圧は、高度成長をもたらした。この経済発展を基礎としてのみ、政治的民主化を確実なものとできよう。ケ小平 はかつて韓国や台湾が歩んだ道、すなわち開発独裁を通じて、世界的市場経済の軌道に中国を軟着陸させる道筋を切り開いた。これがケ小平 流の脱社会主義、社会主義の安楽死作戦の核心にほかならない。