『ブレジデント』94年8月号、52〜57頁

毛沢東、周恩来、そしてケ小平

「老人政治」打破を目指して

ケ小平 は一九〇四年八月二二日生まれであり、九四年八月二二日の誕生日で満九〇歳になる。ケ小平 が「マルクスに会う日」は、いよいよ時間の問題になってきた。近着の香港誌によると、彼は後事を託してこう述べたという。

「経済建設を中心とすること、改革開放を行なうこと、発展こそが硬い道理であること──この三カ条が私の主な考え方だ。(江沢民ら第三代の指導部が)この三カ条を堅持しさえすれば、大きな問題が生ずることはない」(『鏡報』九四年六月号、馮乾論文))。

ケ小平 は毛沢東(一八九三年一二月二六日〜一九七六年九月九日、八二歳八カ月)より一〇歳年下、周恩来(一八九八年三月五日〜一九七六年一月八日、七八歳一〇カ月)よりも六歳年下である。すでに毛沢東よりも八歳長生きしており、周恩来よりは一二歳長生きしている。ケ小平 を同世代の指導者たちとくらべると、陳雲(一九〇五〜 )より一歳年長、楊尚昆(一九〇七〜 )より三歳年長である。

彼はこう回顧している。

「一九二七年末に初めて中央秘書長になったとき二三歳だったが、大幹部だった。何もわからなくても、できるものだよ!」

「都市にやってきた時は若かった。一九四九年の全国解放のとき四五歳であり、多くの同志が私よりも若かった」(八四年一〇月二二日『ケ小平 文選』第三巻)。

「一九五六年の第八回大会のとき五二歳であり、“文化大革命”がおわったとき七二歳であった。一九七七年の一一回大会のとき七三歳であった」

「各分野の指導機構には老齢化の問題が存在しており、わが中国の特殊問題だ。一般的にいえば、老人は習慣によって動かされることが多い」(八七年六月一二日『ケ小平 文選』第三巻)。

彼は一九五六年に五二歳で党総書記として党機構を動かす地位につき、六二〜七二歳の働きざかりの一〇年間を文化大革命のために配所で暮らし、七三歳以後今日までの一〇年以上を中国共産党の事実上のナンバー・ワンとして中国政治をうごかしてきた。

ケ小平 は三回失脚し、三回復活した。一回目は江西ソビエト時代に毛沢東派の一人として引きずりおろされ、毛沢東の復権とともに復活した。二回目は文化大革命のとき、実権派ナンバーツーとしてたたかれ、林彪事件以後復活した。三回目は一九七六年の第一次天安門事件のとき黒幕とされ失脚したが、毛沢東の没後、不死鳥のように復活した。

ケ小平 は八〇年代初頭から指導部の若返り工作に腐心してきた。胡耀邦(一九一五〜一九八九)や趙紫陽(一九一九〜 )を総書記に抜擢し、みずからは軍事委員会主席のポストは保持したものの、表むきのナンバーワンの地位(党主席あるいは党総書記)につこうとしなかった。指導部の事実上の「終身制」や、権力の過度の集中現象、後継者養成システムの欠如が一党独裁体制の最大の弱点の一つであることを明確に自覚していたからだ。「党と国家の指導制度の改革について」(八〇年八月一八日)の講話には、毛沢東政治の限界をみつめるケ小平 の英知があふれている。その後一〇余年、ケ小平 は一方で「老人政治」を批判しながら、その泥沼(いわゆる「八老治国」的現象)で悪戦苦闘をよぎなくされた。ケ小平 は保守派の長老たちと妥協をかさねつつも、改革開放の旗をかかげつづけた。

「民主化より経済発展」の選択

ケ小平 が中国の政治を動かした時期をかりに「ケ小平 時代」とよぶとすれば、この時期の彼はどのように評価されるであろうか。「あくまでも悔い改めない実権派」としてか、それとも地におちた中国共産党の威信をかろうじて救済した「中興のストロングマン」としてか。前者はケ小平 に対する“四人組”の評価であるが、いまや前者ではなく、後者の評価が有力になりつつある。

特にここで強調しておきたいのは、八九年の天安門事件以後五年間に生じた国際情勢の激変である。学生の民主化運動に対して、中国当局が処置を誤った一因は、ゴルバチョフ訪中を終えてから、運動に対処しようとして後手に回ったためである。六月三〜四日、北京で流血の事態が起こり、これが大きな契機となって旧ソ連、東欧の民主化が進展したことはよく知られていよう。ベルリンの壁を突き崩した東独市民のデモはまずベルリンの中国大使館に対して向けられたのであった。彼らは友好国中国の「蛮行」を非難する形でデモを行なう自由しかもたなかった。

一九八九年の秋に、国営ハンガリー・テレビのあるディレクターからこんな話を聞いたことがある。「ハンガリーの人びとは、北京の流血事件によって助けられた。ハンガリーの改革が無血のうちに成功したのは、北京の流血が一九五六年のハンガリー動乱を想起させ、ハンガリー市民を団結させてくれたからだ」と。

こうして旧ソ連東欧の民主化が劇的に進み、つぎは中国の番だと誰もが予想していたのが一九九一年までの事態であった。中国はこのころ、旧ソ連東欧から厳しい民主化圧力を受けていた。しかし、九一年夏に流れが変わった。旧ソ連で保守派のクーデタが起こり、「三日天下」に終わり、九一年暮れには旧ソ連そのものが解体するに至った。その後、政治的経済的混乱状況は深まるばかりである。

旧ソ連の諸悪の根源は一党独裁にあるとする見方からすれば、政治的民主化が達成されるならば、市場経済化は順調に進むはずであった。実際はどうか。条件(あるいは受け皿)なき民主化は、混乱をもたらしたのみである。市場経済化や政治的民主化を推進すべき担い手が不在になり、明日への展望が探り当てられない状況が続いている。

これに対して、武力鎮圧によって政治的安定をとにもかくにも確保できた中国は、九二年以後一〇%以上の高度成長を続けている。この成長を好感して直接投資が続々と中国に向かい、成長を支えるに至った。開放政策を始めた一九七九年から九一年までの直接投資受入れ額が五二三億ドル(契約ベース)なのに対して、九二年だけで五八〇億ドルになり、さらに九三年は一一〇〇億ドルになった。まさに倍倍ゲームである。これはケ小平 路線に対するなによりも有力な支持であろう。高度成長のもとで中国人の消費生活は着々と改善され、人びとの目は民主化ではなく、経済すなわちカネに向かっている。

外資を導入した合弁企業の活力と郷鎮企業の雇用吸収力を二つのテコとして、中国の市場経済化は確実に進展し、いまや中国という巨大なジャンボ機は、華南経済圏、上海経済圏、渤海経済圏という三つのエンジンによって離陸しようとしている。

中国経済が離陸に成功するならば、そこに政治的民主化の大きな可能性が開けてこよう。かつての朴正煕時代の韓国、蒋経国時代の台湾のように、強権政治によって政治的安定を確保しながら経済発展を極力進め、中産階級を創出し、民度を向上させ、これを受け皿として政治的民主化を行なう道である。いま中国は旧ソ連解体以後の混乱状況を反面教師とし、韓国、台湾の経験に学ぶことによって、経済発展から政治的民主化へのコースを歩もうとしている。おそらくはこれこそが中国にとって現実的に可能な唯一の道である。

「建国の父」「建国の母」

ケ小平 は内政面で毛沢東の失敗を教訓として学びうる立場にあり、また外交面では周恩来の知恵を学ぶ立場にあったことは、今日のケ小平 にとって得がたい体験であったはずである。

毛沢東は共産党のナンバーワンの地位(党主席)を一九三五年から死去した一九七六年まで四一年間にわたって保持した。周恩来は毛沢東の片腕として、中華人民共和国の国務院(内閣)総理を一九四九年から七六年まで二六年間務めた。総理(宰相)の激務を四半世紀にわたって務めるのはただごとではない。不倒翁(ルビ・おきあがりこぼし)のあだなをもつ周恩来は、いくども倒れそうになったが、そのつどおきあがり、ついに死ぬまで総理の地位を保持した。毛沢東をかりに中華人民共和国の「建国の父」とよぶとすれば、周恩来は「建国の母」にあたる。四九年の建国はむろん二人で樹立したわけではなく、無数の革命家たちの流血の犠牲のうえに築かれたものである。ただ、この革命の過程できわだった貢献をした二人が毛沢東と周恩来であり、しかも建国後も三〇年ちかくにわたって、皇帝と宰相の役割を果たし続けた。毛沢東と周恩来は現代中国の生んだ傑出した政治家であるばかりでなく、広く二〇世紀の世界の偉人というモノサシでもおそらく屈指の指導者である。

毛沢東はロシア革命の教訓を条件の著しく異なる中国において実現するために、ゲリラ根拠地を樹立し、貧しい農民を下から組織して、ついに「農村で都市を包囲する」形で中国革命を成功させた。これは帝国主義勢力に悩まされる第三世界の貧しい人びとに大きな刺激を与え、第二次大戦後の民族解放闘争の潮流を生み出す原動力になった。この意味で毛沢東の植民地解放闘争に対する貢献は不滅である。

とはいえ、その功績は主として、四九年までのものにとどまる。四九年革命の成功によって毛沢東が幻惑され、大躍進の失敗の政治的痛手を隠蔽しようとしたとき、毛沢東の社会主義は天空に漂い、空想的社会主義に転化した。この観念論に堕した毛沢東思想を換骨奪胎して、現実論までひきもどしたのがケ小平 の功績であろう。

毛沢東の哲学、ケ小平 の知恵

ケ小平 には深遠な哲学や高踏的な理論はない。しかし、その「知恵」はなかなかのものではないか。台湾や韓国の輸出加工区の教訓に学んで、「経済特区」構想をぶちあげたかと思えば、香港や台湾の経済力を巻きこむ(最終的には統一を目指す)ために「一国両制」構想を打ちだした。これは社会主義中国に植民地香港と資本主義台湾をとりこむための知恵である。ケ小平 の理論や政策がきわめて折衷的なのは、なによりも現実政治の場での実現可能性を優先させるからであろう。実際家、実務家たるケ小平 には「理論信仰」的匂いはまったくない。

「右に警戒すべきだが、いま主要なのは左を防ぐことだ」といった言い方のように、玉虫色の折衷策が多いが、単純に中間をとっているわけではない。やや距離をおいてみると、ケ小平 路線の目ざす歴史的方向性は明確である。

第一に、七〇年代末に日本や四小龍、アセアンの三匹の虎の高度成長の意味を的確に把握した。彼は一九七九年一二月に大平正芳首相と所得四倍増論議をくりひろげ、中国流の所得四倍増計画をぶちあげた。これはいわばケ小平 路線の出発点であった。

第二に、戦後世界の枠組みを作っていた冷戦構造の終焉を予感して、毛沢東流の「第三次大戦不可避論」を修正した。大戦はさけられる、今後は「平和と発展の時代」だと彼は世界の潮流を正しくとらえた。こうして解放軍を四〇〇万から三〇〇万に削減した。八五年のことである。米ソによる軍縮交渉の行方を先どりした面がある。

第三に、ケ小平 は「反社会主義の勧め」さえやったことがある。一九八八年五月八日、モザンビークのシサノ大統領と会見した際に、こう語った。

「中国の経験によれば、あなたがたは社会主義をやるなかれ、とお勧めしたい。少なくとも大雑把な社会主義(スターリン・モデルの社会主義を指す)は、やってはいけないし、もしやるとしてもあなた方自身の国の特徴をもつ社会主義をやるべきである」

毛沢東が反帝国主義闘争を指導して、中国を独立させた功績は不滅であろう。しかし、経済建設においては大きな誤りをくりかえした。大躍進期に約一五〇〇〜二〇〇〇万の人々を餓死せしめた政治的責任はことのほか重い。また核戦争による人口半減の危険性を信じていたこともあって、人口抑制政策を軽視した。毛沢東時代をつうじて人々の消費生活が改善されなかった理由の一因は、戦争にそなえる戦時経済体制のためだが、これは国際情勢からしてよぎなくされた側面である。しかし、計画経済体制や人民公社制度が現実に適合しなかったことが経済発展のさまたげになったのはみずからの理論的、実践的責任である。

ケ小平 時代には、平和な環境のゆえに、軍備の削減を可能とする条件が存在したことのほかに、脱計画経済、市場経済化への方向を模索したことによって発展を加速できた面が大きい。人民の消費生活面での要求や香港、台湾という「ライバル」、そして二〇〇〇万におよぶ海外華人・華僑の存在など政策転換をせまる条件が背景にあったことは確かだが、その潮流を読みとり、政策の方向を大転換させえた功績は、あくまでもケ小平 の英断に帰せられるであろう。経済建設の面では、実務家ケ小平 の方が理論家毛沢東よりも優れていたと評価して大過あるまい。

国家建設に必要な資質とは

毛沢東は古今の哲学書、歴史書を愛読し、『実践論』『矛盾論』などの哲学論文を書き、またその方法を駆使して、中国共産党を理論武装し、革命の戦略戦術を編み出した。この文脈で、実務家ケ小平 を思想家毛沢東と比較すると、思想の深さや徹底性の点で、毛沢東に軍配があがるであろう。しかし、哲学者が政治家として優れているかどうか、それが庶民にとって幸福かどうかはべつであろう。大きな理論体系をもつ指導者が大きな誤りを犯した現実をすでに観察してきたわれわれの評価基準からすると、むしろ「石を摸して河を渡る」ケ小平 流の「小さな理論」こそが誤りを小さなものとしうる点で好ましい。

むしろこう表現すべきであろう。四九年革命の時代はまさに思想家、哲学者毛沢東の時代であった。それとおなじような意味で、建国以後の中国に必要なのは、思想家ではなく、ケ小平 のような行政家、実務家であったのだ、と。

ケ小平 は毛沢東のもとでゲリラ活動をやり、全国的政権の樹立後は党主席毛沢東のもとで共産党総書記をつとめた。人格的にも思想的にも毛沢東の枠をこえられないのは、あたかも孫悟空が釈迦の掌中から出られない姿を想起させる。これが常識的見方である。

しかし、これはマヌーバーであるかもしれない。ケ小平 は毛沢東をあざむき、保守派をあざむくために、みずからをあざむいているのかもしれない。毛沢東はみずからを孫悟空になぞらえたが、もし毛沢東が孫悟空なら、ケ小平 を釈迦に比定することもできるはずだ。この譬喩は唐突にみえるが、ケ小平 株はいまや周恩来を超えて、毛沢東のそれにせまりつつあるのだ。

毛沢東から見ると、チビのケ小平 は実に頼りになる部下であった。大きな方針を指示しさえすれば、ケ小平 は見事にその方針を実現するために抜群の実務能力を示した。その典型的な例は揚子江渡河作戦の大勝利であった。他方、ケ小平 から見ると、毛沢東を優れた戦略家として心服してきたが、建国以後は自身過剰になり「君側の奸」に惑わされて、大きな過ちを繰り返した。復活したケ小平 の課題は、毛沢東思想の名において現実の毛沢東路線を覆すことであったともいえるのだ。

周恩来の強みと弱点

ケ小平 と周恩来の関係はどうか。彼は次のような周恩来評を語っている。「われわれは早くから知り合いになり、フランス苦学時代には一緒に暮らした。私にとって終始兄事すべき人物であった。われわれはほとんど同じ時期に革命の道を歩いた。彼は同志と人民から尊敬された人物である。文化大革命の時、われわれは下放したが、幸いにも彼は地位を保った。文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものであり、いくつも心に違うことを語り、心に違う事をいくつもやった。しかし人民は彼を許している。彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身も地位を保てず、中和作用をはたし、損失を減らすことが出来なかったからだ」。

ケ小平 は宰相周恩来にも言論の自由がなかった、と言いたいごとくである。

これは一体どうしたことか。無数の革命家たちの累々たる死屍の上に樹立されたこの政治体制の不条理をよく物語るものであろう。

周恩来の才能は「官僚」的側面に恵まれ、特に毛沢東の大戦略の具体化に全力を挙げることしかできなかった。たとえば「周恩来が全力を挙げて、毛沢東に抵抗したとしたら」文化大革命の発動はなかったであろうか。周恩来は文革の標的にされるケ小平 をかばうことはできたが、毛沢東の文革を阻止することはできなかった。ここに周恩来の弱さがある。

ケ小平 は周恩来と毛沢東の性格を両方とも熟知していた。周恩来に過大な期待を求めず、毛沢東がみずら過ちに気づくのを待つ、これがケ小平 流の対処法であった。

周恩来の才能と知性に感服した外国人はすくなくない。キンシンジャーは、いままでに会った人物のなかでもっとも深い感銘をうけた二、三人のうちの一人にかぞえ、「上品で、とてつもなく忍耐つよく、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と評している。

ハマーショルド(元国連事務総長)は「外交畑でいままで私が出あった人物のなかで、もっとも優れた頭脳の持主」と断言している。これらの証言を引用しつつ、『周恩来伝』を書いたジャーナリスト、D・ウイルソンはケネディやネルーと周恩来をくらべ、「密度の濃さが違っていた。彼は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と最高級のほめ方をしている。

周恩来にほれこんだ日本人もすくなくないが、代表的な一人をあげるとすれば、故岡崎嘉平太(元日中経済協会顧問)がいる。私はいくどか岡崎老の周恩来への傾倒ぶりに接する機会があった。周恩来の才能が外交面でとくに目立つのは、周恩来の個性とかかわっているようにおもわれる。周恩来の才能はあたえられた戦略のなかでどのように戦術を駆使して目的をたっするか、という仕事のすすめ方のなかで最もよく発揮され、その過程と結果はだれをも感服させるようなたくみさであった。

米中接近への思惑は、脱文革の意図を秘める周恩来と継続革命をねらいつつ方向転換を模索する毛沢東の間に矛盾があるし、また米中間には台湾問題という実にやっかいな争点がひかえていた。これら錯綜した糸のもつれを一刀両断ではなく、根気よく解きほぐしていくような仕事を、周恩来は用意周到にすすめて成功させた。

「周恩来批判」が出始めた理由

周恩来の個性と能力が、もっともよく発揮されたのは、国内においては統一戦線工作、国際的には外交工作であったのは衆目の一致するところであろう。西安事件をたくみに処理し、事件後の国共合作交渉を成功させた周恩来の功績は不滅である。もしこれが失敗していたら、延安の解放区が消滅し、中国共産党の火種がなくなる危険性さえあった。

四九年以後、総理となり、しかも外交部部長を兼ねるようになると、国際的な場での統一戦線が必要となった。かつては共産党を代表して他の政治勢力と折衝をかさねたが、今度は中国政府を代表して外国との間に統一戦線交渉を展開することになった。

中国外交の基本戦略自体も一定ではなく、時に応じて変化したが、これらの与件を十分にふまえつつ、周恩来は中国のかかえるさまざまな外交案件を、それぞれみごとに解決した。五四年のジュネーブ会議における国際舞台への初登場、五五年バンドン会議における平和共存五原則の提唱、六〇年代におけるフランスとの接近、七〇年代における日中正常化、米中接近、これらの外交交渉は、周恩来の横顔とふかく結びついて人々の記憶にのこっている。

このような周恩来讃歌に真向から挑戦して、周恩来のもう一つの顔を描こうとしたのが、香港の政論家金鐘の周恩来論である。金鐘によれば、周恩来は遵義会議以後、四〇年間一貫して毛沢東に対する「愚忠」を貫いたという。文革においてもし周恩来の存在がなかりせば、「毛沢東、林彪、江青の失敗はもっと早く、かつもっと徹底したものとなったであろう。文革における周恩来の役割は結局のところ、毛沢東の独裁的統治に有利であった」。

これは現在のところ、最も厳しい周恩来評価である。呉祖光(劇作家、八七年の胡耀邦事件以後、共産党を離党した)も、かつて来日した際にズバリこう述べている。

「周恩来は宰相としての職責を果していなかった。皇帝(毛沢東を指す)が過ちを犯した場合、宰相(周恩来)が諌めるべきだが、そうしなかった。しかし、諫言していれば、彭徳懐(元国防部長)と同じ運命をたどったであろう」。

毛沢東批判に関するかぎり、中国大陸でもかなり深い分析が行われるようになってきたが、周恩来についてはまだ厳しい批判が少なくとも活字には登場していないようである。その理由として考えられるのは、次の事情であろう。

まず第一に、社会主義建設期の二つの大きな誤り(大躍進政策と文化大革命)は毛沢東の提唱したものであるから、この点で毛沢東はいわば「主犯」である。周恩来は「従犯」にすぎない。第二に、ソ連では長らく、レーニンの権威に依拠して、スターリンの誤りを批判する時期がつづいた。レーニンを含めてソ連社会主義を、全体として批判的に総括する動きが出てきたのは、旧ソ連解体以後のことである。

ケ小平 が毛沢東を超える日

ケ小平 は強運の人物である。おきあがり小法師のように三回の失脚から立ち直ったことは、すでにふれたが、いま四回目の復活、名誉回復をはたそうとしている。

かりに、ケ小平 が天安門事件直後、すなわち改革開放路線が「名存実亡」化したときに亡くなったとすれば、人民に対して正規軍の銃口を向けた「歴史の大悪人」のイメージだけが肥大化した可能性がつよかった。

その後、旧ソ連が解体し、他方では、中国経済が高度成長をつづけているおかげで、ケ小平 のイメージがいま急速に「改革開放の旗手」としての明るいものに再修正されつつある。

アジアや世界の人々は、こぞって中国の政治的安定、社会的安定をつよくのぞんでいる。その枠のなかで経済発展が行われ、中産階級が形成されたのちに、確かな条件のもとで民主化が徐々に進行することをのぞんでいる。

毛沢東思想はかつて「社会主義が全世界で勝利し、帝国主義が全世界で崩壊する時代のマルクス・レーニン主義」とよばれたことがある。だが、いまや時代の潮流は一変した。「社会主義が全世界で崩壊」し、こぞって脱社会主義、脱計画経済から市場経済化への道を模索する時代である。

共産党や社会主義の旗を引きつづきかかげながら、撤退作戦を展開するのは、進撃よりももっと困難かもしれない。このような時代にあって、中国社会主義のしずかな「安楽死」、世界的市場経済への軟着陸の道をケ小平 はきりひらきつつある。

今後、中国が経済発展を踏まえて政治的民主化を混乱なしに遂行できるならば、そのときこそケ小平 は毛沢東を超えるであろう。その現実的可能性は強まっていると私は読んでいる。