中国政治の基本的方向、『中国のリスクとビジネスチャンス』

東洋経済新報社、1995年、12〜19頁

1.中国における統治の基本

中国のことわざでは「民は食を以て天となす」という。これは「王は民を以て天となす」の対(ツイ)である。王(=権力)が民意をえなければ、王たりえないことは明らかである。では民意はどうしたらえられるか。食すなわち職である。経済発展がつづき、庶民が職を得て、食に事欠くことがなければ、中国の社会は当面安定するであろう。ただし、市場経済化が進めば進むほど、中国社会には大きな社会的変動の要因が蓄積され、また対外的にも世界市場の変動の影響を受けやすくなるから舵取りはむずかしい。中国がかりに、日本のGNPに追いついたとしても、人口規模が日本の約一〇倍であるから、一人当りでみると、一〇分の一にすぎない、といった種類の計算はいくらもできる。重要なことは、たとえ仮定形にせよ、このような比較がおこなわれるようになったという事実そのものである。以前なら高度成長した日本と停滞する中国とは比較の対照にさえならなかったことを思えば、ケ小平の経済改革の功績は明らかであろう。毛沢東時代にケ小平は「皇帝・毛沢東」から戦略を学び、「宰相・周恩来」から行政の手腕を学んだといってよい。三度失脚し、三度復活したが、この過程で鍛えられた政治能力、調整能力が全面的に発動されたのは、一九七八年一二月の一一期三中全会で党内の主流派になってからであった。

ケ小平は「石を摸して河を渡る」という試行錯誤をへて、ついに「脱社会主義」の理論を提起するにいたった。「中国的特色をもつ社会主義」の名においてケ小平が推進している政策の核心部分は、われわれの常識でいえば、資本主義の原理そのものである。これを「中国的特色をもつ資本主義」であると読んでも誰も違和感を感じないであろう。ケ小平改革の基本的方向をこのようにみるのは、西側の人々だけではない。中国共産党内部の保守派もまたニュアンスの差こそあれ、「修正主義」あるいは「資本主義への道」と認識し、ケ小平路線に鋭い攻撃をあびせてきた。こうした攻撃に対して、ケ小平は二つの点で反撃してきた。一つは「貧しい社会主義はいらない」というものである。彼は保守派の主張する社会主義体制(=計画経済体制)のもとで経済発展がそこなわれ、大衆の生活が向上しなかった事実を指摘した。ここでケ小平の頭脳をつよく刺激していたのは、ASIA・NIEsの経済発展であった。もう一つは「白猫黒猫」論であり、これを発展させた「新猫論」(すなわち保守派流の「姓資姓社」論への反批判)である。資本主義的方法であれ、社会主義的方法であれ、方法の是非を論ずることをしばしやめよ。生産力の拡大に貢献し、庶民の生活を向上させ、国力増強に役立つものがよい方法だという考え方を彼は強調した。まさに「実事求是」の観点にほかならない。皮肉なことだが、毛沢東は豊かさを求めて唯物史観、計画経済論を探りあて実行したつもりであったが、結果的にみると、彼の唯物史観は観念論に転落し、農民から生産への意欲をうばい、貧困と失業の海に漂わせることになった。あげくのはては恐怖政治を作りあげてしまった。

2.経済発展こそ最重要

ケ小平路線の実践的有効性についての内外の評価はきわめてたかい。毛沢東が一九四九年一〇月に建国を宣言したとき、天安門広場の大衆にむかって「中国人民はいま立ち上がった」と述べたが、実際には毛沢東時代が終わるまで中国人民はいぜんとして眠りつづけていた。彼らがようやく眠りから目覚めたのはケ小平時代の一五年(一九七九〜九三)である。この間に中国のGNPは実質で年率九%の成長を記録したが、この成果は世界の「いかなる地域の、いかなる時期」の成長よりも速い。この速度が維持されるならば、西暦二〇〇二年のGNPは一九七八年の八倍になり、成長率の点で日本や台湾、韓国の高度成長のパフォーマンスに匹敵しよう。ケ小平には深遠な哲学や高踏的な理論はない。しかし、その「知恵」はなかなかのものではないか。旧中国の「租界の繁栄」と台湾や韓国の輸出加工区の教訓とを折衷して「経済特区」構想をぶちあげたかと思えば、「一国両制」構想を打ちだした。社会主義中国に資本主義香港と資本主義台湾をとりこむための知恵である。ケ小平の理論や政策がきわめて折衷的なのは、なによりも現実政治の場での実現可能性を優先させるからであろう。実際家、実務家たるケ小平には、理論信仰的匂いはまったくない。「右に警戒すべきだが、いま主要なのは左を防ぐことだ」といった言い方のように、玉虫色の折衷策が多いが、単純に中間をとっているわけではない。やや距離をおいてみると、ケ小平路線の目ざす歴史的方向性は明確である。

第一に、七〇年代末に日本やアジア・ニーズの高度成長の意味を的確に把握した。彼は一九七九年一二月に大平正芳首相と所得四倍増論議をくりひろげたが、これはケ小平路線の出発点として重要である。第二に、戦後世界の枠組みを作っていた冷戦構造の終焉を予感して、毛沢東流の「第三次大戦不可避論」を修正した。大戦はさけられる、今後は平和と発展の時代だと彼は世界の潮流を正しくとらえた。こうして解放軍を四〇〇万から三〇〇万に削減した。八五年のことである。米ソによる軍縮交渉の行方を先どりした面がある。第三に、ケ小平は「反社会主義の勧め」さえやったことがある。一九八八年五月八日、モザンビークのシサノ大統領と会見した際に、こう語った。「中国の経験によれば、あなたがたは社会主義をやるなかれ、とお勧めしたい。少なくとも大雑把な社会主義(スターリン・モデルの社会主義)は、やってはいけないし、もしやるとしてもあなた方自身の国の特徴をもつ社会主義をやるべきである」と。

ケ小平の成功とはけっきょくのところ経済発展の一語に尽きるであろう。ではそのために何が残されたのか。政治改革を課題として棚上げしたことである。その端的な一例が天安門事件である。八九年六月、北京で発生した民主化運動をケ小平は解放軍を出動させて武力鎮圧した。この決断について、当時は「歴史の大悪人になった」とする評価が強かった。しかし、政治改革から経済改革への戦略を選択したゴルバチョフのペレストロイカがいとも簡単に失敗し、旧ソ連が解体し、政治も経済も混迷に陥っている状況と対比して、ケ小平の経済改革先行、政治改革先送りの戦略の実践的有効性が改めて評価されるに至ったとみてよい。脱社会主義の作戦において、政治改革を先行させたゴルバチョフの失敗と経済改革を先行させたケ小平の作戦の成功という事実を冷静に観察するならば、今後の方向もおのずから浮かびあがるであろう。経済発展を基礎として、一人当りGNPをふやし、民度を向上させ、中産階級を育成し、そのような条件を基礎として、政治的民主化を徐々に進める方向である。これこそは、アジアNIEs、とりわけ韓国や台湾が歩んだ道にほかならない。中国と韓国や台湾は人口や経済規模の点で大きな差異があるが、にもかかわらず発展戦略の大きな方向の点で両者は共通の文脈に位置づけることができるはずだ。

3.政治改革の条件作り

ケ小平の残した最も大きな課題は「政治的民主化」であり、これはポストケ小平の時代に、条件の成熟度を見極めつつ行なうならば、混乱を最小限に回避しつつ、それを進めることができよう。ただし、経済発展のためには政治的安定が必要だというポイントを過度に強調するあまり、天安門事件は権威主義的政治あるいは開発独裁を示すために意図的に行なったとする解釈はおそらく妥当ではない。八八年以来の保守派と改革派との権力闘争の過程で改革派の総書記趙紫陽と保守派の総理李鵬との対立に集約される形で権力闘争が推移し、ケ小平としては、保革のバランサーとしての観点から保守派に譲歩し、泣いて馬謖を斬る構造になった側面を見落としてはなるまい。ケ小平は毛沢東ほどに全能ではないという立場にあったことを想起すべきである。つまり、彼は改革派趙紫陽を犠牲にして改革開放の路線を守ったのだ。ここにこそ、現実政治家ケ小平の冷徹な計算がよく現れていると解釈できにう。天安門事件直後の一三期四中全会において解任された趙紫陽総書記の後を襲って総書記に就任した江沢民は、一九九二年一〇月の第一四回党大会で正式に中央委員会総書記および中共中央軍事委員会主席に選ばれた。さらに九三年三月の第八期全国人民代表大会において国家主席と国家中央軍事委員会主席も兼ねることになった。ポストケ小平期のキーパーソンが集団指導体制のカナメとしての江沢民総書記であることは、うたがいない。しかしケ小平によって抜擢された、政治的実力の必ずしもはっきりしない二代目が初代のささえを失ったときに、どこまで権力を維持できるか、これは疑問なしとしない。毛沢東によって後継者に指名された華国鋒の政治生命は長くはなかった。ケ小平が華国鋒の権力に果断に挑戦し、一つ一つと実権を剥奪していったからである。江沢民をかりに華国鋒になぞらえる場合、江沢民の権力に挑戦する「第二のケ小平」がいるのか、いないのか。いるとしたら誰なのか。まだわからない。当分はそのような人物が現れず、江沢民の権力が比較的もちこたえる可能性もあろう。というのは、改革開放の方向性はもはや「あともどり」できないものであり、この意味で挑戦する側に大義名分を探しにくい事情があるからだ。総書記への挑戦を許さないために、あえてすべての権力を江沢民に集中するという努力をはらっている。党と軍と国家の三つの最高ポストを兼ねるのは、五〇年代の毛沢東の場合とおなじである。ケ小平は毛沢東時代の過度の権限集中が誤った政策決定をもたらし、誤りの是正を妨げた教訓に照らして「党政分離」や権限のチェック・アンド・バランスを提唱してきた。にもかかわらず、今回、江沢民にかくも多くのポストを集中したのはなぜか。ケ小平は二つの教訓から深く学んだ。一つは天安門事件の教訓である。当時は、総書記趙紫陽と総理李鵬が対立し、国務院の官僚系統や全国人民代表大会常務委員会が分裂し、分裂は人民解放軍にまでおよんだのであった。権限のチェック・アンド・バランスを目指す努力は裏目に出て、「二重権力」的状況に陥った。もう一つは旧ソ連解体の教訓である。政治的民主化を一挙に展開しようとしたゴルバチョフのペレストロイカは、始めた途端に終わってしまった。まず、旧ソ連共産党が解体し、ついで旧ソ連自体も解体してしまった。経済的社会的条件を欠いた、性急な政治的民主化が経済改革を推進すべき推進母体そのものを破壊してしまったからである。二つの教訓を踏まえて、ケ小平は「共産党の指導のもとでの経済改革」という戦略を堅持する方針を固めた。ポストケ小平期への移行を控えて、予想される困難や混乱に対して、うって一丸となって対処すべく、総書記のもとにあらゆる権限を集中しようとしている。

これら一連の人事は、まさにポストケ小平を予想した「危機管理」的指導部の構築にほかならない。問題は政治改革へいたるまでの「過渡期」である。性急な政治改革が政治的社会的秩序を混乱させることによって、経済改革の推進をかえって妨げている現実をわれわれは、いま旧ソ連や東欧で見ている。旧ソ連の混迷とは対照的に、ケ小平流の政経分離作戦、あるいは二本足路線がいま経済発展の面で効を奏しつつある現実を直視しなければならない。市場経済化の進展は中国社会にさまざまな変化をもたらしつつある。それは今後に予想される政治的民主化にとっていかなる意味をもつであろうか。市場経済化とともに進展しつつある経済発展は、なによりもまず一人当りGNPの増加によって大衆の生活水準を向上させているばかりでなく、計画経済体制のもとでの乏しい配給生活に受動的に対応することを余儀なくされていた人々を、市場経済に積極的に参加する能動的な人々に変革しつつある。中国型経済人が続々と誕生し、テクノクラートの隊列を補強しつつある。市場経済を通じて、商品の選択眼を養成しつつある中国型経済人は、やがて政治家や政治体制をも、商品を選択するような厳しい眼で見つめるようになるであろう。こうして経済発展は一方では民主主義社会の主な担い手である中産階級を育成することによって、他方ではマスコミの発達など社会全体の情報化をうながすことによって、政治的民主化の条件を育成しつつあるとみてよい。今後の問題はなにか。

一つは過渡期において、政経分離の矛盾をどうあつかうかである。市場経済圏は同心円のかさなるような重層的なものになろうが、それが市場すなわち経済の論理にもとづくエリアである以上、行政区画を画定する論理と矛盾することはありうる。香港、台湾との事実上の経済的統合は実質的に進行中だが、政治的統合となると話はべつだ。政経分離の開発独裁は過渡期にしか通用しない。やがては市場経済に適合した政治体制への脱皮が不可避である。国内の少数民族問題やおなじ漢民族の間での地域格差の拡大をどのようにあつかうのかといった課題ものこされている。

もう一つは地球環境の問題である。人間のかぎりない欲望を満たす経済活動が地球環境の制約の限度をこえてすでに展開されていることはよく知られていよう。中国の巨大な人口が消費欲望に目覚めた現在、環境問題はいよいよ憂慮される。とはいえ、途上国の発展に掣肘を加えるような先進国エゴイズムはゆるされまい。経済発展が地球環境を悪化させることは明らかだが、同時に環境保護の条件が経済発展のなかでのみ用意できる。したがって経済発展を前提としつつ、可能なかぎり環境保護に努力して病める地球を延命させるほかない。