中国経済特区の転機   

『地理・地図資料』1996年2月号

中国で広東省深圳、珠海、汕頭および福建省厦門に経済特区が設けられたのは1980年である(その後、広東省から独立した海南省も特区になった)。「経済特区は技術の窓口、管理の窓口、知識の窓口、対外政策の窓口」(ケ小平談話、1984年)と位置づけられ、中国の開放政策展開の牽引力としての役割を果たした。84年には大連、秦皇島、天津、烟台、青島、連雲港、南通、上海、寧波、温州、福州、広州、湛江、北海の14都市には、準経済特区ともいうべき「経済開発区」が設けられた。1992年のケ小平「重要談話」以後、「全方位、多元的開放」の方針が決定され、中国の開放政策は沿海東部地区から内陸西部地区にまで広がることになった。

経済特区の功罪論争 

「第9次5カ年計画(1996〜2000年)」の方向を決定した14期5中全会(1995年9月)の前後、経済特区のあり方をめぐってかなり激しい論争が行われた。たとえば1995年8月7日付『深圳特区報』は深市党委員会の有為書記に対するインタビュー記事をトップに掲げて、特区の功績を強調するとともに、特区批判の動きはケ小平の「先富論」を否定するものだと論じた。これは5中全会の準備会議ともいうべき北戴河会議に向けたアピールであった。9月22日付『人民日報』は「深圳:平凡ならざる一五年」と題したルポルタージュ(王楚記者)を一面トップに掲げたが、これは特区についての論争にケリがついた示すシグナルであった。この間、『海南日報』は、国務院特区弁公室主任胡平の「特区は改革開放の道を切り開き続けよ」(9月7日付)、周文彰(海南省社会経済発展研究中心)の「特区はいまなお先行試験の歴史的使命をもつ」(9月11日)などを掲げてキャンペーンを張った。深圳市党委員会の似L為書記は『深圳特区報』(9月25日付)において、深経済特区がいかに内陸部の経済発展を助けるために努力してきたかを弁じ、「特区優遇と内陸部の発展とは矛盾しない」と論じた。これらの論文から、特区批判の一つの根拠が沿海地区と内陸地区との経済格差の拡大をどうみるかにあったことが分かる。

沿海地区と内陸地区との経済格差の拡大 

私は95年9月に中国の西部地区のいくつかの都市を訪問して、改革開放の波がこれらの辺地にまで及びつつある姿を確認した。西部の都市の現在の姿は、経済開発区がもうけられ、合弁企業が動きはじめたばかりの10年前の沿海地区の都市の姿を彷彿させるものがある。いまや大西部が目覚め始めたわけであり、そのハングリー精神は今後中国の経済成長を牽引する一つのエンジンとなろう。経済特区への優遇策が沿海地区開放都市に波及し、いまや内陸の西部にまで市場経済の波が波及しつつあるわけだ。この意味で経済特区の歴史的功績は大きかった。

WTO(世界貿易機構)への加盟 

とはいえ、「一部の地域」や「特定の産業」に限定した税制上の優遇策は「事実上の輸出補助金」に等しい。したがって公平な貿易をねらいとするWTO(世界貿易機構)への加盟後は逐次廃止せざるを得ない運命にあることは確かである。これが経済特区批判の第2の根拠である。

経済特区批判の第3の根拠は国有企業側が提起したものだ。国有企業が赤字に悩まされ、外資との合弁企業や農村の郷鎮企業が発展しているのは、国有企業が税制上の不利益を受けているからというものである。法人所得税を合弁企業に対して半減していることは確かな事実である。しかし、国有企業はこれまでに数々の優遇政策を受けてきたのであり、赤字の原因を税制の不備とする論理は説得的ではない。計画経済体制から市場経済体制への転換のなかで、経営努力を怠っていることに赤字の根本的原因があると見なければならない。

経済特区批判の論客 

経済特区批判論の有力な論客の一人は、胡鞍鋼氏(中国科学院国情分析小組研究員)であった。私は彼が『読売新聞』の招きで来日したとき、同紙上で鼎談したことがある(1995年6月6日付)。NHKテレビの「12億人の改革開放」の最終回(9月10日放映)でも、機関銃のような口調で中国の未来についてまくしたてていた姿をご記憶の方もあろう。彼は1994年から導入された「分税制」推進論で一躍有名人になった。財政請負制のもとで「弱い中央政府」と「強い地方政府」の矛盾が現れた。これを放置すると、旧ユーゴのように国家が分裂すると警告し、「分税制」への世論作りに貢献したのが胡鞍鋼氏である。今回は特区優遇が貧しい西部との格差を拡大し、ひいては政治的不安定をもたらすと指摘し、優遇廃止を主張したのであった。