アジア的進歩観

大阪ガス・エネルギー・文化研究所『CEL』1996年3月、第36号19〜21 頁

日本人がアジアを語るとき、容易に脳裏に浮かぶのは、福沢諭吉の「脱亜入欧」論であり、岡倉天心の「アジアは一つ」論である。今は昔、私は一九七〇年代の初頭にシンガポールの南洋大学アジア文化研究所に遊学し、ついで香港大学アジア研究センターに移り、二年間の遊学を体験したことがある。これは私の勤務先アジア経済研究所が派遣してくれたおかげである。

シンガポール生活で体験した「脱亜入欧」の一例を紹介したい。誰でも知るように、シンガポールは赤道直下にある。熱帯の驟雨スコールはしばしばだが、降雪は絶対にない。私は友人たちからしばしば雪とはどんなものか尋ねられ、答えに窮した。雪をまだ見たことのない人に対して、雪が冷蔵庫の氷といかに異なるかを説明するのは、初歩的語学力の私にとって大いに閉口させられる大事件であった。というのは、そこの英語教育のテキストにはホワイト・クリスマスの話が載せられていたからである。

左翼系の私の知人は、そのような教育方針を推進するリクワンユー(李光耀)首相を「バナナ」(顔は黄色だが、中身は白い)とか、「二毛子」(アルマオズ)と罵倒していた。後者は昔の中国で西洋人に雇われた中国人あるいは中国人のクリスチャンを罵倒する用語であった。西洋人は中国人からみると毛深いので、「毛子」「大毛子」と呼び、その種の野蛮人の亜流という意味で「二毛子」の呼称が生まれたわけである。この種の批判を歯牙にもかけず、リクワンユーはひたすら「脱亜入欧」を推進し、今日のシンガポールの経済的繁栄を築いた。その意味で私は彼を評価するが、彼の豹変にも驚くことが多い。

私の通っていたジュロン地区の南洋大学はマンダリン(華語)をメディアとしていたが、当時の彼はこの言語を目の仇とし、ついにこの大学を潰してしまった。華語を話す者は、「北京の手先」であり、当時まだ活発であったマレー半島の「ゲリラ勢力の回し者」と認定してのことであった。近年、彼は東南アジアの「ビジネス言語としてのマンダリン」を普及させようではないかと提唱している。客観情勢の変化といえばそれまでだが、アジアの四半世紀は、英明なリクワンユーの見識をもってしても予想できないほどに激しかったことの一例である。

天心の「アジアは一つ」で想起するのは、華人とマレー系マレーシア人との共存共栄である。建国まもないマレーシアでは一九六九年五月一三日、マレー人と華人との衝突事件が発生した。私は六九年秋の旅行のさいに、クワラルンプール郊外の焼き討ち現場を目のあたりにして、戦慄を覚えた。精進料理は別として中華料理から豚肉を除いたら話になるまい。他方、イスラム教徒たるマレー人の多くは、豚肉は宗教上のタブーである。タイでは華人とタイ人が平和的に共存できるのは、宗教的タブーによって隔てられることがないからだと説明された私にとって、マレー半島での一年間は、まずこのセンジティブな問題を深く心に止めたのであった。

あれから四半世紀後の今日、テイクオフしたシンガポールに続いて、マレーシアもまたテイクオフし、すでにODAを受ける段階を卒業した。当時、現地の労働者たちは「その日暮らしの生活」にしか慣れていないので、会社を発展させてパイを大きくしてから月給を増やすような日本的労務管理は定着できるかどうか疑わしいと論じられたが、結果をみれば明らかなように、離陸した経済はいずれも工業国として共通の顔をもち、労使関係も類似の姿をもつに至っている。工業化して類似の顔をもつに至ったアジアの各経済は、部品の調達や市場の提供といった形を通じて無数のネットワークを作り、その域内の貿易比重をますます高めつつある。この意味で天心の「アジアは一つ」は、工業化を経て「アジアは一つになる」の含意であったかと再考する次第である。

以上、二つの文脈では、アジアは独自の存在ではない。ヨーロッパ文明に立ち遅れたアジアであり、それに追いつくために必死の努力を行うアジアであった。経済的離陸を経て、欧米に対して少なくとも経済生活においては劣等感を抱くことのなくなったアジアであり、これはいわば欧米の先進イメージに似せて作られたアジアであろう。

ここでアジアのもう一つの大国、中国に視点を移してみよう。進歩という日本語と中国語の進歩(jinbu )とは、基本的に同じ意味である。進歩という日本語のツイになるのは退歩である。進歩の段階が先に進んでいることを先進といい、そのツイは後進である。先進といい、後進といい、いずれも『論語』に見える言葉だから、古い漢語であり、日本に輸入されてからも古い歴史をもつ。現代中国語では先進のもう一つのツイとして、落後(luohou)を用いることが多い。これは元来は行進において同行者の後になること、つまり落伍である。中国文明はアヘン戦争で敗れるまでは先進と理解されてきたが、それ以後は後進というよりも落後と認識されるに至ったわけである。

この進歩と落後の使い方から、中国の進歩観を探ってみよう。

材料は『ケケ小平文選』全三巻である。第一巻は一九三八〜一九六五年までの著作を収めている。第二巻は一九七五〜一九八二年までの著作を収めている。第三巻は一九八二〜一九九二年までの著作を収めている。

表 『ケケ小平文選』にみる語彙の頻度数

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進歩 落後 

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第1巻 40 18 

第2巻 36 38 

第3巻 14 43 

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計   90 99 

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表から分かるように、ケ小平は『文選』所収の著作(講話を含む)において、進歩を九〇回、落後を九九回用いている。時期ごとに頻度数をみると、第一巻では進歩四〇回に対して、落後は一八回と半分以下である。ゲリラ戦争の名参謀ケ小平は、進歩を訴えていたことが分かる。第三巻では進歩一四回に対して、落後は四三回と三倍である。毛沢東なきあと中国の事実上のトップの地位を占めたケ小平は、落後の側面をより強調するようになった。

具体的な用例を調べてみよう。初めて進歩という言葉が出てくるのは、一九三八年二月一二日、国民革命軍第一八集団軍総政治部の出版した『前線』週刊(第三、四期合併号)に掲載された「新兵の動員と新兵への政治工作」である。この文を書いたとき、ケ小平は八路軍政治部副主任であり、まもなく第一二九師団の政治委員に昇格した。

「新兵の動員方式を改善し、部隊の政治工作を強化するならば、戦略戦術の進歩と呼応して、最大量の、優良な技術をもった最高の戦闘力をもつ国防軍隊を鍛えることができ、最後には日本帝国主義に勝つことができる」(第一巻、七頁)。

ここでは進歩は「戦略戦術の進歩」である。

最後の進歩は、有名な南巡講話である。これは一九九二年春節前後に武昌、深、珠海、上海などを訪れて、改革開放の堅持を訴え、天安門事件以後低迷していた中国経済にカツを入れて、高度成長路線を復活させたものであることは、最近のことなのでよく知られていよう。

「この十数年、わが国の科学技術の進歩は小さなものではなかった。九〇年代においては、進歩がなおいっそう速いことを希望する」(第三巻、三七八頁)。

ここでは進歩は中国の科学技術と結びついている。

ケ小平が生涯において九〇回用いた進歩は、このように最初はゲリラ戦争の新兵教育のための戦略戦術の進歩に始まり、最後は科学技術の進歩を喜ぶ基調で終わったことになる。

では落後はどうか。初めて落後という言葉が出てくるのは、一九四一年六月一六日付で一二九師団政治部が出版した『抗日戦場』(第二六期)に掲載された「一二九師団の文化工作の方針任務とその努力方向」である。これは八路軍一二九師団の模範宣伝隊コンクールでの報告要旨である。ケ小平は日本帝国主義と中国の親日派を批判していう。

「彼らは旧文化、旧道徳、旧制度を提唱し、復古、迷信、盲従、落後を提唱し、封建迷信団体などを組織し、もってその淫をいましめ、盗をいましめ、毒化、奴隷化政策を実施している」「敵が文化侵略を行う方法は多様である。その特徴は落後した大衆と農民の心理に迎合し、巧みに数をもって質的弱点を覆い隠し、巧みにいくつかの中心的スローガンの宣伝を繰り返し、巧みにチャンスを利用して、若干の具体的問題をとらえて欺瞞宣伝を行うものである」(第一巻、二三頁)。

落後した大衆と農民がおり、それは帝国主義の政策のためだという認識である。

では最後の箇所はどうか。一九九〇年一二月二四日、ケ小平は中共中央の数人の責任者と会い、「巧みにチャンスを利用し、発展の問題を解決せよ」と語った。

「資本主義と社会主義の区別は、計画か市場かという問題にあるのではないことをわれわれは理論的にはっきりさせなければならない。社会主義にも市場経済はあるし、資本主義にも計画的コントロールはある。資本主義にもしコントロールがないとしたら、どこに自由があるのか。最恵国待遇もまたコントロールじゃないか。市場経済をやるのは資本主義の道であると考えてはならない。そんなことはないのだ。計画と市場はいずれも必要だ。市場をやらなければ、世界中の情報さえ得られない。落後に甘んずるのみだ」(第三巻、三六四頁)。

ここでは計画経済のみをやり、市場経済をやらなければ、世界経済の情報を得られず、落後すると述べている。市場経済を通じて世界的市場経済の動向にアクセスし、世界経済から落後しないようにしたいというケ小平の悲願が端的に述べられている。

中国でケ小平が改革開放の路線を採用し、市場経済への転換を大胆に進める契機となったのは、香港経済と台湾経済の繁栄であることは疑う余地がない。香港はいわば都市国家であり、農業をもたない点で特殊だが、それにしても植民地香港の一人当たりGNPが宗主国イギリスのそれよりも大きいという現実は、第二次大戦後の世界経済のある断面を象徴的に示すものである。台湾は人口二〇〇〇万人以上をもち、各種の産業を備えており、国連のなかには、これよりも小さな国家をいくつも数えることができる。そのような香港経済と台湾経済に導かれて、中国大陸の市場経済化は急ピッチである。

日本型、アジアニーズ型、アセアン型、中国大陸型とそれぞれの特色をもちながら、東アジアの市場経済はいま勢いがよい。後発的市場経済、あるいは発育盛りの経済のもつバイタリティに溢れている。そこにはヨーロッパ型やアメリカ型とは、異なる市場経済の姿が存在することは確かである。しかし、いま明瞭に看取できるのは、欧米の先進に追いつくための努力と方法(政策)において共通性がみられるものの、特殊アジア的なものとして共通な特徴が見いだせるかどうかは、まだ分からないと私は考えている。これは経済学の限界かもしれない。豊かさを求める点で人々の願望は共通しており、この点に着目するかぎり、共通性のみが視野に入る。経済発展の側面からはアジア特有の価値観は見えてこない可能性が強い。