新生中国のキーワードは「民主」

PHASE季刊でんぱつNo.101、96年7月15日、14〜15頁

二〇世紀前半は「戦争と革命」の時代であった。第一次世界大戦とそれを契機とするロシア革命、第二次世界大戦と中国、東欧革命がその典型であったとみてよい。こうした衝撃波は革命の「起こらなかった地域」にも及んでおり、資本主義諸国では社会保障政策を充実させることによって、社会の安定化を図った。資本主義諸国が一九三〇年代から着手された福祉国家の建設に本格的に取り組むのは、第二次大戦後の課題になった。逆説的だが、社会主義が理想とした全人民の福祉は、むしろ大戦後の資本主義諸国でこそ実現されたのであった。そこでは意識するとしないとにかかわらず、事実上社会主義革命の危機に対抗するために、大きな努力が払われ、しかもそれを支えるだけの財政的基盤を戦後の資本主義の繁栄は保証しえたのであった。一九八九年に東の中国では天安門事件が起こり、西のドイツではベルリンの壁が崩壊した。そして九一年暮、旧ソ連が解体した。戦後の東西対立は東側の全面的な崩壊をもって終焉したわけである。

中国についてみると事情は、やや混みいっているが、基本的構図は同じである。天安門事件の起こる一〇年前に、ケ小平は市場経済化への歩みをスタートさせており、計画経済の欠陥を商品経済で補完するメカニズムを始動させていた。天安門事件から旧ソ連解体までの約三年は市場経済への歩みが動揺したものの、九二年のケ小平「南巡講話」を経て市場経済化路線を再確認し、それを大胆に推進している。中国共産党は「社会主義体制の堅持」や「共産党の指導」を強調しているが、それを繰り返すことによって、事実上の「脱社会主義革命」を進めている。「経済改革から政治改革へ」の二段階戦略を時間をかけて推進しようとする中国の戦略と一挙に政治改革まで突進し、その後秩序の混乱に悩まされている旧兄弟国とは、短期的には対照的な道を歩んでいるが、三〇年、五〇年といった歴史的時間でみれば、基本的に同じ課題を抱えて、同じ方向に解決策を見いだしていることは明らかであろう。すなわち経済面では市場経済へ、政治面では民主化、多元化へ、という方向にほかならない。二〇世紀後半の前半分が「社会主義建設の時代」であったとすれば、後半分の四半世紀の世界史的課題は「脱社会主義革命」であったとみてよい。東側で計画経済がうまく行かなかったことについては、いくつかの要素が数えられるが、「社会主義の名において掲げられた理想」の大部分を、福祉国家の建設を通じて西側が実現したことによって、社会主義の看板は急速に色あせた。人々は計画経済よりは市場経済に期待を寄せるようになったが、これは当然の成行であった。

中国の「元最高実力者」ケ小平は、「脱社会主義革命」のチャンピオンであると私は評価している。ゴルバチョフのペレストロイカとケ小平の改革開放を安易に対比させることには無理があるが、敢えてズバリ論評すれば、ゴルバチョフが失敗し、ケ小平が成功したという評価になろう。しかし、わが国の世論では、ゴルバチョフの民主化を礼賛し、ケ小平を開発独裁のゆえにくさすことが時流であるように見受けられる。ケ小平の成功は必ずしも偶然ではない。『ケ小平文選』電子版を用いて、ケ小平の好きな言葉を検索してみると、意外な事実に気づく。政治経済などに関わる主なキーワードのうち、出現頻度数第一位は「発展」の二語であり、一〇六六回出てくる。では「社会主義」の頻度数はどうか。九四九回であり、第二位である。一般の印象では、「中国的特色をもつ社会主義」や「社会主義市場経済」など、「社会主義」の四文字が目立つが、ケ小平がそれ以上に語っているのは、実は「発展」である。ここから「発展」途上国・中国にとって、発展こそが最大の課題であることが分かる。この文脈では、「社会主義」は「発展」のための方法にすぎないのである。ケ小平の口頭禅たる「白猫黒猫」論であれ、「姓資姓社」批判であれ、「発展」こそがケ小平の真骨頂であることを把握すれば、きわめて理解しやすい論理になる。この意味で、ケ小平から、もし最も重要な語録を挙げるとすれば、「発展こそが硬い道理である」(原文=発展才是硬道理、『ケ小平文選』第三巻、三七七頁)になるはずである。ケ小平は中国共産党の指導者というよりはむしろ「中国発展党党首」こそが彼の本質を最もよく表すことになる。中国ではいま市場経済への道を急いでいるが、「経済」や「改革」をみると、第一巻から第三巻にかけて、言及回数がふえてくる。これはケ小平の活動の前半から後半にかけて、ますます力点をおくようになった語彙である。では言及することますます少なくなったのはなにか。最も典型的なのは「民主」である。革命期の著作を収めた第一巻では二一二回語ったが、八〇年代の著作を収めた第三巻では九二回に減少している。これは「経済改革から政治改革へ」という戦略を構想するケ小平にとって当然のスタンスであろう。

ここから、二一世紀の中国の課題が鮮明に浮かび上がることになる。一つは、「民主」である。これはケ小平にとって大きな目標の一つであった。「封建的中国社会」を民主化することが若き日にフランス留学を志したケ小平の悲願であった。しかし、晩年、とりわけ毛沢東以後の最高指導者として市場経済化への戦略を決定したとき、「民主」を棚上げしたのである。民主化のためには条件が必要であり、条件なき民主化は混乱をもたらすだけだと見抜いたからである。こうして生まれたのが「経済改革から政治改革へ」の戦略にほかならない。経済が発展したあと、次の課題は条件を踏まえたうえで民主化をゆっくり進めることである。これは断じて急いではならない。もう一つは「経済的発展」をさらに続けることである。このためには「持続的発展」の条件が必要である。一二億人の経済的離陸は地球環境にとってあまりにも重い。食糧、エネルギー、環境、どれ一つをとりあげても、一二億人の胃袋を満たす課題は大きい。中国指導部は三峡ダムをはじめとして、さまざまな課題に積極的に取り組もうとしている。私が奇異に感じるのは、年初以来、『日本経済新聞』『朝日新聞』など日本のマスコミが三峡ダム批判の社説を書き続けることである。巨大ダム建設の功罪の論点はいくつかあるが、要するに中国経済の離陸にとっていまそれが必要だと中国の人々が決断したことを尊重せよというのが私の意見である。代案を提示することなく、いたずらに問題点を列挙しても、先進国エゴイズムとしか受け取られないであろう。おためごかしの偽善はいらない。