毛沢東主席没後二〇周年、『読売新聞』96年9月10日朝刊

継続革命あっさり風化、『アジア型経済発展』の道へ

中国は9日、故毛沢東主席の没後二〇周年を迎えた。矢吹晋・横浜市立大学教授(現代中国論)に寄稿してもらった。

夏休みに北京をぶらついた。中国の友人が東城区交道口の「老三届」(ラオサンチエ)レストランに案内してくれた。「老三届」とは、一九六六、六七、六八年に高校を出た世代の俗称である。彼らは高校を出たものの、六六年夏に始まった文化大革命のために、大学が閉鎖され、正規の教育を逸した、いわば中国流の「失われた世代」である。この文革世代もいまや中年、社会の中堅になっており、同期の誼(よしみ)の人脈を活用して、経済開発公司などをつくり、市場経済のもとでのビジネスに邁進している。彼らが昔懐かしい食事代わりのトウモロコシをかじるとしても、それは魚という素材に巧みな細工を施してトウモロコシに似せたごちそうである。文革期の歌を歌ったとしても、ナツメロそのもの、毛沢東時代の世界革命思想とはまるで無縁である。毛沢東死去二〇年の中国の激変は、空想的社会主義の死守を誓う継続革命の思想をあっさりと風化させ、人々の目を理想よりは現実に、階級闘争よりは経済建設に、イデオロギーよりは飯を食う問題へ導いた。

一九八九年に北京で起こった天安門事件を序幕とし、同年一一月にはベルリンの壁が崩壊した。そして同年暮にはルーマニアでチャウセスク体制が終焉した。その二年後、親元の旧ソ連が解体した。ポスト冷戦期になって誰の目にもはっきりしてきたのは、毛沢東時代の修道院的社会主義の建設が冷戦体制のもとでの中国流サバイバル作戦であった事実である。極度の対外的危機はある意味では与件だが、これをむしろテコとして利用しつつ、ナショナリズムを総動員してユートピア社会主義の建設に邁進した時代として毛沢東時代を特徴づけることができるであろう。

中国の人々にとっては帝国主義戦争の時代にあって、半植民地中国の民族独立と生存のための闘争こそが真の課題であった。そこで選んだ方法をみずから「社会主義革命」と自称し、世界もまたそのように認識してきたのであった。とはいえ中国にとって「社会主義」は、あえていえば目的というよりは、一つの手段にすぎなかった。独立富強の中国を建設することこそが目的であり、その方法として社会主義という名の統制が選ばれたのである。毛沢東は日本流の「新しい村」やボルシェビキとアナキズムの論争を経て、レーニン主義的社会主義にたどりつき、以後は終生その信念において動揺することがなかったといわれる。それこそが毛沢東の生きた時代であった。革命家毛沢東は時代によって決定的に限界づけられていた。

毛沢東に師事し、その失敗を身近で観察してきたケ小平にとっては、毛沢東の理想追求によってもたらされた結果こそが出発点であった。たとえば大躍進、人民公社政策の失敗で飢餓が蔓延したとき、彼はその後始末に忙殺された。文化大革命期には「資本主義の道を歩む実権派第二号」として失脚させられ、トラクター工場で一介の老齢労働者として働かされた。人口に膾炙した白猫黒猫論(シロでもクロでも、毛並みは構わぬ。ネズミを捕るのが好い猫だ)であれ、「姓資姓社論」(改革開放路線を「資本主義」として批判する保守派の議論)への反駁であれ、ケ小平はいつも「社会主義」を相対化し、覚めた目で社会主義を位置づけている。

フロッピー二枚に収められた『ケ小平文選』全三巻が手元にある。そこからケ小平の愛用するキーワードを拾いあげてみると、興味津々である。「社会主義」の四文字は計九四九回現れる(第一巻七一回、第二巻四一〇回、第三巻四六八回)。実はこの四文字よりも、ケ小平が繰り返して用いたキーワードを発見して、大いに驚き、かつ大いに納得したことがある。それは「発展」の二文字であり、計一〇六六回出現する(第一巻一九一回、第二巻三一七回、第三巻五五八回)。社会主義よりも一一七回(一二%)も多いのだ。極め付きは、九二年の南巡講話の一句である。いわく「発展こそが硬い道理だ」。ケ小平は社会主義者であるよりは、発展主義者なのだ。かりに中国発展党を想定すれば、「党首」の地位こそが彼の{領にふさわしい。

ポストケ小平期の中国についてさまざまの観測が行なわれている。それらの観測に、色濃く投影されてきたのは、ポスト毛沢東期の政変劇と旧ソ連の解体のイメージであろう。ケ小平によって抜擢された江沢民を毛沢東の後継者華国鋒の地位に比定する類の議論である。周知のように、毛沢東は党主席、軍事委員会主席のポストを保持したまま、つまり現役で死去したために権力の空白を埋める必要が生じた。ケ小平はこの点で実によく毛沢東の失敗を学び、みずからの引退劇のシナリオを巧みに描いた。毛沢東は晩年に継続革命を訴え、世界の潮流に背を向けて「修正主義ならざる社会主義」を夢想したが、これはユートピアに近く、中国の人びとの富裕化願望を無視していた。国際的にも孤立した道であり、破産するほかなかった。これに対してケ小平の敷いた市場経済化への路線は、大方の中国人の強い支持を受けている。

ポストケ小平期の中国は旧ソ連から政治改革優先という「負の教訓」を学び、そして台湾や韓国から「正の経験」を学ぶであろう。それは経済発展を優先させ、ついで政治的民主化を逐次進める「アジア型経済発展」の道筋にほかならない。