毛沢東を国家主席にした軍師・周恩来

『歴史読本』96年11月号、108〜111頁

中国スーパー軍師列伝

たぐい稀な調整能力を発揮し、27年もの間、国務院総理を務めた周恩来は、林彪事件では際立った手腕を発揮した

堅物・周恩来の調整能力

周恩来は毛沢東の片腕として、中華人民共和国の国務院(内閣)総理を一九四九年から七六年まで二六年間務めた。総理(宰相)の激務を四半世紀にわたって務めるのはただごとではない。毛沢東をかりに中華人民共和国の「建国の父」とよぶとすれば、周恩来はその「軍師」にあたる。周恩来は一八九八年三月五日、江蘇省淮安県で生まれた。淮安は南北を縦貫する京杭大運河と東流する淮河の交わる箇所である。周恩来の祖父周殿魁の時代に「師爺」となって紹興から淮安に転居した。師爺とは県知事など役人の幕僚であるが、これが周恩来の人生を解く一つのキーワードである。毛沢東につかえる周恩来の姿は、周恩来が師爺の体質を継承しているとみるとわかりやすい。周恩来は没落した官僚の末裔に生まれ、幼児のころから性格の異なる二人の母のもとで育ち、一〇歳前後からはもう「家長」の役割をはたさなければならなかった。周恩来の人際間調整能力は幼児から鍛えられ、後年たぐい稀な調整能力を発揮する大軍師となった。周恩来と接触したことのある人々の多くは、温和、謙遜、平静、忍従などの言葉を用いて形容する。たしかに周恩来は他の指導者と比べると、調和し妥協し、自己批判することが比較的多かった。これは彼の大局を識別する能力、融通無碍の弾力性とかかわっている。周恩来は二つの勢力の闘争においては、調和的あるいは中庸の態度をとることが多かった。よく言えば民主的、寛容的だが、悪く言えば曖昧な態度となった。あれだけハンサムでありながら、浮いた話がないことについて周恩来恐妻家説がある。穎超のヤキモチをおそれたからだという。しかし、これはあまりあたっていない。周恩来の生き方は禁欲的であり、この態度は対女性関係にもあらわれているとみてよい。この点で堅物周恩来は奔放な毛沢東と対照的だ。

中華人民共和国の「主婦」

周恩来は南昌蜂起が失敗したあと、ひそかに上海に潜入し、国民党の厳しい監視のもとで上海に事務所をおいていた党中央の仕事を処理する。上海の周恩来と井岡山の毛沢東、離れた土地にいる二人の接触は、二九年二月、中央の周恩来からの書簡によってはじまる。時に周恩来三〇歳、毛沢東三五歳、党内序列では二階級の差がついていた。ゲリラ闘争の現場を知らない周恩来がコミンテルンの方針を根拠に、現場の指導者毛沢東らに誤った「指示」をあたえるという形でのやりとりが、二人の最初の接触であった。

長征の過程で毛沢東が党内の指導権を握ったのが、遵義会議であることはよく知られている。周恩来はどのように誤りを認識し、自己批判し、毛沢東の側に転じたのか。周恩来が長征の過程で軍事指揮の誤りを痛感するようになったのは、湘江戦役(三四年一一月下旬)で部隊の半分をうしない、隊列が三万余に急減したときである。このあと、一二月一一日に湖南省通道で、一八日貴州省黎平で、つづいて三五年一月一日貴州省烏江南岸の猴場で紅軍の進撃というよりも逃亡の方向をきめるための現場会議をそのつどひらいている。これらの会議における毛沢東の主張の妥当性を周恩来が率直に認めたのである。これは党内において上級にいた周恩来が現場のゲリラ指導者毛沢東の実力を評価し、自らはその脇役に変身する過程であった。それについて彼は「革命の大義」のため、「毛沢東の判断の正しさ」を指摘するのみで、内面の葛藤を何も語っていない。

大躍進政策が失敗し、調整政策を余儀なくされて以後、毛沢東は意識的に個人崇拝を利用して、権力を固めようとするようになり、特に文化大革命期には個人崇拝は極点に達し、あたかも皇帝のごとく全中国に君臨した。毛沢東が「皇帝化」するにしたがって、しだいに「宰相」「軍師」から「執事」に転落していった。周恩来は当初、現実主義的な立場から大躍進に懐疑的であったが、毛沢東からその動揺性をきびしく批判されたあと、毛沢東の急進路線に追随した。大躍進の失敗を批判した彭徳懐が、その批判を受けいれられるどころか、逆に解任されたとき、周恩来は彭徳懐を支持することはなかった。

中南海西花庁──これが周恩来の住まいであり、執務室である。付近には鬱蒼とした松柏がしげり、清い香りをはなつ海棠などの樹木にかこまれていた。周恩来はここに二五年間すんだ。朝、衛士がおこすと寝室のうしろの手洗い室にいく。これを秘書たちは「第一事務室」と称した。ここで五分から一〇分体操をしたり、用をたすが、この機会をとらえて秘書たちは急いで処理すべき要件の決裁をあおぐ。また周恩来は内外の重要ニュースや秘書が赤丸をつけた重要資料をよんだが、これが彼の長年の習慣だった。 執務室と文件の保管箱のカギを、周恩来は四六時中、身につけていた。通常はポケットにいれ、寝るときは枕の下においた。外国へ行くときだけ、二つのカギを穎超夫人にわたした。日本の主婦権の象徴はしゃもじだが、中国ではカギである。「カギをもつ人」とは主婦のことである。二つのカギを手放すことのなかった周恩来はまさに中華人民共和国の「主婦」のイメージそのものである。

的確だった林彪事件の処理

林彪事件が一段落するまでの三日三晩、周恩来は一睡もせずに人民大会堂の執務室で指揮をとりつづけた。林彪事件に対する周恩来の処理は、あまりにも的確であったために、かえってその後、さまざまな憶測がくりかえしあらわれることになった。秘密保持が徹底していたために、中国政府外交部でも党核心小組の符浩(元日本大使)らごく一部の者しか事情をしらなかった。実は許文益大使をはじめ、モンゴル駐在大使館の一人として、だれの遺体かをしらずにモンゴル政府と折衝し、遺体を現場に埋葬したのであった。事後処理だけでなく、その後遺症対策を軍師周恩来は毛沢東を補佐しておこなったが、ニクソン訪中はこうした衝撃のなかで準備された。毛沢東は陳毅の告別式において「文革の被害者小平」の名を口にした。周恩来は毛沢東の態度から心中を忖度し、小平と密かに連絡をとり、自己批判の書簡を書くようすすめか。もし周恩来の機転なかりせば、小平復活はもっと遅れた可能性がある。

こうした舞台裏での周恩来の努力を毛沢東がどこまで承知していたかはわからないが、皇帝毛沢東の片言隻句は、すべて政治的なメッセージとうけとられていた。小平復活をめぐるエピソードは、毛沢東晩年の皇帝政治のあり方を示すヒトコマである。周恩来の才能と知性に感服した外国人はすくなくない。キンシンジャーは、いままでに会った人物のなかでもっとも深い感銘をうけた二、三人のうちの一人にかぞえ、「上品で、とてつもなく忍耐つよく、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と評している。ハマーショルド(元国連事務総長)は「外交畑でいままで私が出あった人物のなかで、もっとも優れた頭脳の持主」と断言している。周恩来の才能が外交面でとくに目立つのは、周恩来の個性とかかわっている。周恩来の才能はあたえられた戦略のなかでどのように戦術を駆使して目的をたっするか、という仕事のすすめ方のなかで最もよく発揮され、その過程と結果はだれをも感服させるようなたくみさであった。米中接近への思惑は、脱文革の意図を秘める周恩来と継続革命をねらいつつ方向転換を模索する毛沢東の間に矛盾があるし、また米中間には台湾問題という実にやっかいな争点がひかえていた。これら錯綜した糸のもつれを一刀両断ではなく、根気よく解きほぐしていくような仕事を、周恩来は用意周到にすすめて成功させた。それは確かに不世出の才能には違いないが、あくまでも軍師の知恵であり、皇帝に厳しい諫言を行う勇気を彼は欠いていたのが惜しまれる。