『治安フォーラム』

1996年x月y日

一九八九年の天安門事件を中国では単に「六四」と日付で呼んでいる。古くは「五四運動」があり、また建党記念日は「七一」であり、建軍記念日は「八一」であるから、この呼称は自然であり、しかも事件の評価とは無関係に誰でも用いることのできる利便さを備えている。さすがに歴史の国だけのことはある。評価がどのように変わっても、困らないようになっている。今年も「六四」はなにごともなく過ぎた。当局が治安維持のために細心の注意を払ったことはいうまでもないが、なにごともなくすぎたことの理由を単に治安対策に求めるのは本末転倒であろう。政治行動の爆発は時には、あらゆる治安対策を超えて爆発するのだ。天安門事件以後、中国の治安が維持されているのは、なによりもまず中国の経済発展を通じて大衆の生活が向上しているからだ。インフレは高い水準にあるが、それ以上に所得が増えている。インフレは基本的に所得の伸び率の範囲内にとどまっており、大衆の生活水準は全体として悪化するどころか、大幅に改善されている。この事実こそが硬い事実であり、中国の政治的安定の基礎なのである。

あたかも狼少年の虚言のごとく、「今年こそは何かあるぞ」と人々を威しつづけてきたマスコミも、ついに「六四の風化」を語るようになった。冷静に見れば、後遺症に悩まされたのは、九一年六月までの約二年間であり、九一年の旧ソ連解体とこれに対するケ小平流の対応を意味する九二年南巡講話以後は、流れは変わっていたのだ。「民主化は必要だが、ヘタにやると旧ソ連解体の二の舞であり、人々の生活が悪化する。当面は、高度成長のもとで中国社会構造の変化を促すことが将来の政治改革にとって有利だとする冷静な判断を人々が行うようになっている。

この潮流を的確に把握しなければならないのである。マスコミが競って書き立てた趙紫陽はすでに七七歳の老人であり、毛沢東後にカムバックした七三歳(当時)のケ小平よりもはるかに老いている。しかもケ小平は失脚して一年足らずで復活したのだ。安易な対比を行ってきたのは、分析能力の欠如を示す以外のものではない。台湾海峡での軍事演習を通じて体制固めを強行した江沢民は、ポストケ小平期の指導者としての地位を着々と築きつつある。今後の見どころは、来年秋の第一五回党大会人事である。引退年齢の規定や憲法における三選禁止規定にひっかかる指導者が続出する。たとえば喬石は来年七三歳になるし、総理李鵬は三選禁止規定に触れる。引退する指導者がそれぞれの人脈により、後継者たちに勢力基盤を譲ることは、人治の中国では当然のことである(日本でも政治家や経済界の一部でみられる)。したがって、党レベルの人事が決定する九七年秋の党大会および政府と国家人事の決定される九八年春まで、中国は「人事の季節」であり、さまざまの動きがみられるであろう。しかし、これらは所詮はコップの中の嵐にとどまらざまをえまい。権力闘争が爆発して、指導部が吹き飛ぶような争いは、避けられるはずである。というのは、中国共産党にはもはやそれほどの体力がないとみるからである。とはいえ、そのような混乱を避けて、改革開放路線をなんとか堅持していくうえでの最小限の能力を欠くほどに衰弱してはいない。まだまだ中国を導く能力を備えているとみてよい。そこを見誤ると、中国の動向がまるで理解できなくなる。

毛沢東によって導かれた一九四九年革命を「第一の革命」とすれば、ケ小平が一九七九年以来導いてきた脱社会主義の道は「第二の革命」と呼んでよい。「第一の革命」は半植民地からの民族独立を経て社会主義国民経済を建設するもので、計画経済体制を理想とした。「第二の革命」は、モデルとされてきた計画経済を否定し、市場経済体制に置き換えるものだ。当初は誰もこれほどの大転換になろうとは予想していなかった。計画経済のなかに若干の商品経済活動を密輸入するもの、生産財部門ではなく、生産関係の枠は崩さない消費財の分野に限るものと想定されていた。しかし、商品の生命力はすさまじい。かつて封建社会の胎内に生まれ、共同体と共同体との間でのみ行われていた商品交換が封建社会を解体した近代史の復習にも似た過程が中国で展開された。中国で解体された体制は「産品経済社会」と呼ばれている。その定義は論者により異なるが、資本主義化が未熟な半封建社会に計画経済の名において統制経済の網をかぶせたような経済構造と考えてよい。消費財の一部に導入された商品は、それ自体の活力により生産手段の分野をも含めて中国経済の全分野に浸透し始めた。疑似計画経済体制を解体し、市場経済に置き換える過程は急テンポである。第一二回党大会(八二年)が開かれた前後、商品は小鳥になぞらえられ、計画経済は鳥籠にたとえられた。「小鳥よ、鳥籠のなかで自由に飛べ」という時代であった。これは「計画経済を主とし、市場調節を従とする」段階である。まもなく「主と従」の地位が逆転した。商品という小鳥こそが本質であり、鳥籠は大きいほうがよい。あるいは鳥籠はないほうがもっとよいという考え方に変わった。すなわち「計画を備えた商品経済」とする見方である。

この場合、「計画を備えた」という形容句を単なる飾り(保守派に対するリップサービス)とみる商品経済肯定派と「計画」という枠を強調する商品経済懐疑派の間で解釈をめぐって綱引きが行われた。前者を改革派、後者を保守派と呼んでいい。この対立を底流として、八九年には天安門事件が起こった。この年を含めて三年間、中国のGNP成長率は一桁台に落ち、改革開放路線は危胎に瀕した。危うさが極点に達したのは、九一年の旧ソ連解体前後であった。陳野萍(中共中央組織部長)は『人民日報』論文で「わが党は趙紫陽同志の一連の誤りを清算したが、その中には生産力を基準として幹部選抜を行ったこと、才を重んじ徳を軽んじた誤りも含まれる」と書いた(九一年九月一日付)。これは一見、趙紫陽批判に見えるが、実はケ小平批判にほかならない。趙紫陽が生産力を強調するとき、ケ小平の白猫黒猫論を踏まえてのものであることは天下周知の事実であった。

天安門事件以後の政治引き締め、経済低迷のなかでケ小平路線が、厳しい試練にさらされていたことの一端が理解できよう。江沢民は天安門事件直後に上海からいきなり抜擢されて中南海に来たものの保守派の鼻息に流されるばかり、後日こう述懐した。「中南海の門が〔南北東西〕どの方角に向かって開いているのかさえ分からなかった」と(香港『鏡報』九六年二月号、二四頁)。江沢民はケ小平から「改革開放を堅持しない者は指導部を去れ」と叱責されてようやく改革開放の方角に気づいた。改革開放は「社会主義的なのか、資本主義的なのか、その本質を問うべし」とする保守派の批判に反撃するなかで、ケ小平は白猫黒猫論の旗幟をより鮮明にし、第一四回党大会(九二年秋)で「社会主義市場経済論」を採択した。これは画期的な用語法であった。それまでは「商品経済」なるコンセプトは許容されるが、「市場経済」は資本主義の同義語として退けられていた。ケ小平の一喝を契機として、この用語が市民権を得た。とはいえ、当然ながら「社会主義」という形容句がついていた。これが飾りに過ぎないことは、ケ小平時代の「用語法の発展」に鑑みて明らかだ。社会主義、社会主義を繰り返しながら、それを骨抜きにすのがケ小平流の脱社会主義戦略にほかならない。「石を摸して河を渡る」がケ小平流実践哲学の真骨頂である。脱社会主義という河がどのような激流であり、どのような危険を秘めているのか分からない。鳥籠経済論を肯定した八〇年代初頭の時点で、今日の「市場経済論」まで到達することを予見するのは、おそらくケ小平にとっても困難であった。目標はただ「小康を得た水準」であり、そこへ至る方法は二義的だと彼は主張してきた。商品経済の力が多くの中国人を説得し、ケ小平自身をも説得してここまで導いたとみてよい。

毛沢東時代の階級闘争一辺倒を排して、経済建設を基軸に据えた結果、中国経済は過去十数年、年平均約一〇%の高度成長を続け、中国社会を大きく変えてきた。脱計画経済の姿を国有企業の衰退、非国有部分の成長から見ると、かつては八割近くを占めていた国有企業のシェアは九四年時点で三四%に減少している。今年からの第九次五カ年計画が終わる西暦二〇〇〇年には三割を切ることは確実である。国有企業の安楽死問題は大きな課題ではあるが、すでにその帰結は見えている。人々の生活は急激に豊かになりはじめた。上海ではいま「一年で様変わり、三年で面目一新」が合言葉になっている。徐匡迪市長はこのキーワードを引いて、上海市の大いなる変貌を説いているが、「いまや指令性計画は三%にまで減少し、生産手段の八割以上が市場経済によって生産調節が行われている」と説明した(『解放日報』九六年二月一一日付)。国有企業のメッカ、計画経済の中心地がこのように変貌したのである。

中国の三種の神器は、七〇年代は、腕時計、ミシン、自転車であった。八〇年代はカラーテレビ、冷蔵庫、洗濯機になった。では九〇年代はどうか。マイカー、マイホーム、携帯電話だという(『中国市場経済報』九五年一二月号二七日)。マイカー、マイホームはまだ高嶺の花かもしれない。これらの消費財が夢ではなく、現実的考慮の対象となり始めたことの意味が大きいはずだ。中国もようやく東アジア世界の隣人たちから少し遅れて経済的ティク・オフの時代に突入しつつあることを象徴する現象であるからだ。

食生活も変わりつつある。豚肉は脂身よりは赤身が好まれるようになり、脂身が売れ残る。ラードで炒め物をする段階から植物油で炒め物をする段階に変わったためだ。九四年の食品価格高騰のさいに最も値上がりしたのは植物油である。これは生産量が一割以上伸びたなかで六割も値上がりした。新生の中国中産階級たちはサラダを食べるようになり、大連の日清製油工場の「日清沙拉油」(るび・サラダオイル)は引っ張りだこ、ニセモノ対策に悩まされるほどの人気である。服装が多様化し、オシャレになり、街角に生花店をみかけるようになった。インフレが話題になるが、昔と同じ生活をして支出が増えているのではない。高度成長のなかで消費生活が高度化しているのだ。日本の高度成長期に似た現象がいくつもみられる。

経済構造のこのような変化は、政治体制と相互に影響しあいつつ展開されてきた。第一二回党大会(八二年九月)での憲法改正を契機として、政治改革の動きも進んだ。憲法改正以後、「民主化と法制遵守」についての認識が高まった。八二年憲法のもとで第一の課題は、立法機関たる人民代表大会で「選挙されるポスト」において党による任命と選挙の関係をどう扱うかであった。各級人民代表大会で選挙されるポスト、全人代常務委員会によって任命されるポスト、国務院と省級人民政府の任命するポストは、「全国人民代表大会組織法」「国務院組織法」「省級人民代表大会、省級人民政府組織法」など関連規定によって、厳格に処理しなければならない。任命予定者は党委員会で「審査内定」したあと、人民代表大会で選挙してもらう。選挙に先立って「党委員会の名義」で外部に発表してはならない。「任期が法律で規定されているポスト」については、任期満了前に軽々しく異動させてはならない。こうして選挙ポストは党による恣意的な操作に枠がはめられた。第二は、企業、機関などの幹部の任免の扱いである。これらの首脳の任免は、事前に「主管の行政当局の意見」を求めたのち、党委の集団で討論・決定し、「主管の行政当局の名義」で任免すべきであり、「主管の党委員会の名義」で下達してはならない、とされた。つまりそれまでは行政ポストであるにもかかわらず、党委員会の名で任免する例がみられたわけだが、これも不可能になった。国有企業の幹部の任免が党よりも行政当局優位に転換したわけである。

天安門事件後には一時的に逆流が生じた。事件前の「企業法」の作成過程では「工場長の独裁」が賞賛され、党書記の影が薄かったが、天安門事件以後ふたたび党委員会書記が権威を取り戻した。しかし、企業改革の潮流のなかではかつてのように政治工作だけしかできない党書記の影響力は限られるようになった。市場経済のなかでの企業経営を理解できない書記ではなく、経済の分かる書記への変身が迫られた。つまり、中国で進展しつつあるのは、一つは党の直接的にコントロールする分野の縮小であり、もう一つは、党員自身のテクノクラート化である。党は「政治工作の党」から「経済工作の党」へと変身しつつある。

ポストケ小平期の指導者として体制を固めつつある江沢民は、先頃「指導幹部は必ず政治を重んじよ」と呼びかけた(一四期五中全会講話)。江沢民いわく、「西側の敵対勢力は、中国を「西欧化」させ、「分裂化」させようとして「民主化」と「自由化」を強要している。「警戒せず、闘争しない、ということでよいだろうか」。江沢民のいう「民主化」とはむろん、アメリカの人権外交などを指す。また「分裂化」とは台湾独立を西側が支持する傾向に対する危惧である。このような「外圧」を強調することによって、「中央の権威」のもとで一致団結せよ、という要求になる。江沢民はいま巧みにアメリカ流の「民主主義の押売り」と台湾の選挙スローガン用「独立騒ぎ」を大陸の内政固めに利用していることが分かる。

江沢民の語る「政治を重んじよ」とは、経済優先の弊害を糊塗するための一種の気休めであろう。実際には中国が当面は、少なくとも今世紀内は経済発展しか考えていないことを逆の面から示す形である。当面は経済発展に必要な限りにおいて管理体制を改革する。つまり「行政改革は行う」が、政治の「民主化、多元化は先送り」する戦略だ。ではいつまで先送りするのか。経済発展が「小康を得た水準」に達するまで、そして九年間の義務教育が普及し、識字率を高め、普通選挙が現実的に可能になるまでである。ここではまず経済改革、ついで時間をかけて政治改革へという二段階戦略が明確に意識されている。

この戦略が明確な形になったのは、旧ソ連解体以後、あるいは南巡講話以後である。それまでは経済改革から政治改革へ、政治改革から経済改革へ、経済改革と政治改革の同時平行などさまざまの戦略が想定されていた。旧ソ連でゴルバチョフがペレストロイカを始めた途端にペレストロイカは終わってしまい、あとにはただ混乱と混迷だけが残された。そこから中国の人々は最大の教訓を引き出した。いわば旧ソ連解体を反面教師として混乱なき脱社会主義への道を確認したわけである。

中国の高度成長はまだ始まったばかりである。今世紀末から二一世紀にかけてこの成長にはますますはずみがつくものと予想される。高度成長を支える原動力はなによりもまず中国の人々のハングリー精神である。消費の欲望に目覚めた人々の眼はギラギラしている。人々の生活が「小康を得た水準」に到達した暁に、中国では何が始まるのか。

今日の台湾における民主化が明日の中国の姿を示唆しているのではないか。かつて大陸が商品経済を導入するうえで決定的な契機を与えたのは、香港や台湾を含むアジア・ニーズの経済発展の経験であった。そこでは計画経済システムではなく、市場経済システムにより高度成長を実現していた。この現実の前にそれまで優勢であった新植民地主義論や従属経済論は急速に色あせた。これがケ小平路線の原点にほかならない。二一世紀初頭には、経済的離陸を達成した中国社会は新たな課題に直面するであろう。それこそ政治体制改革の課題であり、現在の開発独裁あるいは権威主義的政治体制はあくまでも過渡期の形態である。経済的に離陸し、市場経済が経済社会を動かすようになった状況にはきわめて不適合である。その段階で政治の民主化は不可避であろう。大陸が政治的民主化を進めるうえで台湾の経験はよき参考になるはずである。

韓国や台湾の経験、すなわち高度成長による中産階級の形成を受け皿として民主化をすすめる「アジア型の経済発展の道」Asian Path of Development がほとんど唯一の道ではないか。その構図は図3のように描けるであろう。旧ソ連解体により冷戦体制は崩壊したが、新たな秩序はまだ見えてこない。米中関係も台湾海峡両岸の関係も緊張している。しかし、中国でいま繰り広げられている現実を直視するならば、二一世紀の東アジアの平和と協調の構図はおのずから浮かび上がるはずである。昨年九月、一四期五中全会が開かれたが、これに向けて力群(元中央宣伝部長)の主宰する研究グループが「わが国の国家安全に影響する若干の要素」と題する調査報告をまとめ、党内の高層グループに配付した、と伝えられる。いわく「国有制経済の比重が低下し,公有制経済が萎縮している」「外国企業の直接投資の比重が増大し、外国への依存が強まっていることは、わが国の国家安全に不利な影響を与える」「民間ブルジョア階級がすでに形成され、官僚ブルジョア階級と買弁ブルジョア階級の萌芽が現れている」「ブルジョア階級は共産党の内部闘争に介入し、党内の資本主義の道を歩む改革派を支持し、社会主義の道を歩む改革派に打撃を与え、公然たるブルジョア独裁がプロレタリア独裁にとって代わるであろう」(『鏡報』九六年三月号、三一頁)。保守派あるいは極左派によるケ小平路線の攻撃であることはいうまでもない。

ただし、これはほとんど戯画に等しい構図である。文化大革命期の「資本主義の道を歩む実権派」概念をそのまま入れ替えた言葉遊びに近い。力群はその後「第二の万言書」を江沢民指導部に提起した戸伝えられる。題して「今後の一〇、二〇年に中国の国家安全についての内外情勢と主な脅威についての初歩的検討」(香港『星島日報』九六年四月二四日付)である。中身は「第一の万言書」と大同小異である。力群は「左翼のキング」のニックネームをもつが、もはやほとんど「老いの一徹」であろう。それが天下の大勢に影響しうる段階はとうに過ぎた。

顧みると、「資本主義に包摂され、堕落する社会主義」という被害妄想に似た議論が冷戦期には広く行われ、説得力を得た。しかし、人々は「堕落した社会主義」の味を覚えたのだ。たとえば、次のような落首を見よ。「(共産党いわく)社会主義は理論が素晴らしい。(庶民いわく)資本主義は実践が素晴らしい」「(共産党いわく)社会主義は制度が素晴らしい。(庶民いわく)資本主義は生活が素晴らしい」。これはほとんど掛け合い漫才である。社会主義の優位性など信じる者のないことが理解できよう。日本で戦時中に「贅沢は敵だ」というスローガンを「贅沢は素敵だ」と書き換えたひそみに何と似ていることか。昔懐かしい『毛沢東語録』の冒頭の一句はこう読まれている。「われわれの事業を領導する中核的力は銀行(=中国共産党)である。われわれの思想を指導する理論的基礎は金銭(=マルクス・レーニン主義)である」。

もう一つ。「マルクス曰く、社会主義は全世界で勝利しなければならない。レーニン曰く、社会主義は一国で勝利しなければならない。金日成曰く、社会主義は半国で勝利しなければならない。チャウセスク曰く、社会主義は家庭で勝利しなければならない」。庶民はルーマニア崩壊の悲劇も、北朝鮮の混迷もよく知っているのだ(岡益巳『現代中国と流行り謡』御茶の水書房、九五年、一七七〜七九頁)。

ポスト毛沢東期にケ小平は毛沢東路線を覆したが、ポストケ小平期にその歴史は繰り返されるのか。ありえまい。毛沢東の修道院的社会主義は飽きられていたが、ケ小平の「限りなく資本主義に近い社会主義」は大方の中国人に歓迎されているからだ。中国ではそれを「中国的特色をもつ社会主義」と称しているが、それは「中国的特色をもつ資本主義」とほとんど同義であろう。この転換を終えたとき、中国共産党はしずかにその歴史的生命を終えて、別の政党に権力の座を譲るものと私は読んでいる。それまでは共産党の看板を掲げ続けるが、その任務を社会主義建設であると誤解してはなるまい。中国共産党がいま担っている社会的役割は、発展途上国・中国の経済的離陸なのであり、それ以上でも以下でもないのだ。つまり、看板は「中国共産党」だが、実質的には「中国発展党」なのである。ケ小平はズバリこう言い切っている。「発展こそが硬い道理だ」と(『ケ小平文選』第三巻、三七七頁、中国語版)。人口に膾炙した「白猫黒猫」論は、まさに「中国の発展」のためであり、その任務の前では、社会主義イデオロギーもまた発展のための道具、手段であるにすぎないのである。ケ小平は実に偉大なプラグマチストだと私は評価している。