香港とアヘン戦争

『あうろーら』(AUROLA)

1997年4月春、特集「近代の光と闇」、通巻7号176〜183ページ

21世紀の関西を考える会

主題は「近代の光と闇」だが、香港という存在は、歴史の逆説に満ちており、それ自体が主題の陰影を浮かびあがらせるに十分である。かつてキプリングは「西が東と出会うところ」と形容し、またみずからが西洋と東洋の混血でもあるハン・スーインは、租借期間に注目し、「借りた場所、借りた時間」と評したことがある。

かつての植民地アメリカが、その昔宗主国であったイギリスよりも大きな国となったことを知らない者はない。しかし、次のエピソードはどうであろうか。植民地香港の一人当たりGNPは、宗主国イギリスと比べてどちらが大きいか。一九九四年時点でイギリスは一・八万ドルだが、香港は二・一万ドルである。香港の経済的繁栄は、陽光を集めた焦点にも似て燦然と輝いているのだ。かつて「一〇〇万ドルの夜景」「東洋の真珠」と評されたが、いまや二一世紀に向けて躍進する中国経済の牽引力として、ダイヤモンドにさえたとえることができるほどの異彩を放っている。

光と闇はメダルの表裏に似ている。このような経済的繁栄は、それぞれの段階で、いわば「闇の部分」をみずから引き受けることによって、かち得たものである。香港の誕生がアヘンの密輸基地としてであることはいうまでもない。イギリスは中国産の紅茶を必要としたが、中国が必要とするイギリス産品は見いだせなかった。そこで発見されたのがインド産のアヘンにほかならない。香港はいわば東洋に拠点を求めるイギリスの陰謀から、いわば汚い取引のなかから生まれたのだ。ジャーディン・マセソン商会の歴史は、香港史と同義である。一二年前に本社をバミューダに移したが、最近は「これまで一六八年香港で働いてきたジャーディン・マセソンは、これからの一六八年も香港人とともに生きる」と猛烈なテレビ・コマーシャルを展開し、返還以後への意欲を表明している。

アヘン戦争以後、中国が鎖国政策の放棄を余儀なくされ、次々と条約港を開く過程を「西洋の衝撃」(ウェスタン・インパクト)と呼ぶ。このインパクトは確かに「衝撃」であるには違いないが、あたかも漢方薬が長期間の服用を経て、じわりと効いてくるように、その大きさと深さを真に知るまでにはかなりの時間を要した。いまその経緯を簡単に素描してみると中華世界の自己完結ぶり(悪くいえば自閉症ぶり)がよく分かる。

アヘン戦争の敗北を契機として、中国ではまず「洋務運動」がはじまる。洋務運動とは、西洋の「機械技術(とりわけ軍事関連の機械技術が注目された)と自然科学の優越性」を認め、それらの導入によって中国の「自強」を実現しようとするものであった。第二次アヘン戦争において、英仏連合軍は首都北京まで進入し、円明園を焼き討ちして、屈辱的な講和条約を押しつけた。唯我独尊の気概をもって清朝政府を支えていた士大夫(科挙の試験を合格して官僚となった学者たち。旧中国においては学者=官僚という有徳者が民を教化することが政治の本質と観念されていた)たちも、ことここに至っては、清朝政府を滅亡寸前まで追い詰めた西洋の軍事機械技術の優秀さを認めざるをえなった。

洋務運動期と呼ばれるのは、ふつう一八六〇年代半ばから九〇年代半ばに至る約三〇年である。中国はこの時期、西洋の機械技術と自然科学の導入によって「自強」を図り、その問題を解決しようとした(桔弌峠の改革開放を李鴻章の洋務運動と比較する議論は大陸の内外で少なくない。ただし、李鴻章が調印して租借した新界をいま回収(原文=回帰)しようとしているのが桔弌峠である事実は忘れてはなるまい)。洋務運動の失敗を白日のもとにさらしたのは、日清戦争(一八九四〜九五年)の敗北であった。この戦争は日本の富国強兵路線を勝利を確認するとともに隣国の洋務運動の破産をも証明したわけだ。

ここから分かるように、中国の洋務運動は、明治前半期の日本の近代化期とほぼ重なる。両国はともに対外的危機感をバネとして、富国強兵という目的の達成のために奮闘した。東アジアの大小二つの国が競争した結果はどうか。大国中国と小国日本が獲得した成果は対照的であった。佐藤慎一教授の近著『近代中国の知識人と文明』(東大出版会、一九九六年)は、こう描いている(一四〜一五ページ)。

日本にあって中国に欠けていたのは、「文明開化」というスローガンである。「文明開化」のスローガンのもと、西洋の制度を大胆に導入した明治日本の指導者と対照的に、中国の士大夫たちが西洋の長所として認めたのは、機械技術と自然科学のみであり、いずれも文明にとって本質的な構成要素とはみなしがたい烽フにすぎなかった。士大夫のみるところ、中国は「文明にとって非本質的な機械技術や自然科学の領域」で「たまたま西洋に遅れをとっている」にすぎなかった。こうした士大夫の立場を前提するかぎり、「文明開化」のスローガンは成立する余地がなかった。中国はすでに文明開化しているのであり、いま改めてそれを呼びかける必要はまったくなかったわけである。

他方、中国にあって日本に欠けていたのは、「附会」の論理である。「附会」の論理とは、外来の事物を中国固有の事物に結びつけることによって、その導入を正当化する論理である。洋務運動の過程で西洋の自然科学や機械技術の導入を図る際にも、この「附会」の論理が援用された。士大夫たちは西洋の自然科学や機械技術が優れていることを承認したが、単に優れているだけでは、それらの導入を正当化するのに十分ではなかった。かくて動員されたのが、『墨子』の所説であった。『墨子』には自然科学や機械技術に関する断片的な記述が含まれる。これに基づいて士大夫たちは、西洋の自然科学や機械技術は中国に起源をもち、インドを経て西洋に伝えられたと解釈した。かくて、西洋の自然科学や機械技術を導入することは「決して西洋の模倣ではない」「それは中国に本来備わっていたものを取り戻すこと」にすぎなかった。

中国の精神的風土において、「文明開化」のスローガンが存在しなかったことと、「附会」の論理が存在したことは、メダルの表裏の関係にある。メダルに刻印されているのは、エリートたる士大夫の精神構造にほかならない。佐藤の強調するように、「士大夫は西洋の制度や学術を学ぼうとはしなかった」が、「これを排斥したのではない。排斥に値するほどの内実が存在するとは認識していなかった」のが真実である。というのは、二度にわたるアヘン戦争で破れたとはいえ、武力に優越した夷狄(周辺異民族)が中国を侵略した事例は枚挙にいとまがなかった。再三にわたる軍事侵略にもかかわらず、中国文明は一貫して持続した。その対外的認識は西洋の衝撃を受けたときにも同じであり、その自己認識は微動だにしなかった。

しかしながら、ウェスタン・インパクトは広がり、深まる。日清戦争の敗北から一九二〇年代に至るまでの間に、中国の知識人の世界に地殻変動にも似た様変わりが生じた。一九〇五年に科挙が廃止されたことの意味が大きい。士大夫たちは後継者を断たれ、孤立した。科挙の廃止を契機として、外国に留学する中国人が激増した。科挙があれば、当然それを受験したであろう士大夫予備軍たちは、外国留学をいわば「成功の階梯」(何炳棣)とみなすようになり、科挙の代わりに「洋行」の道を選んだのであった。これらの洋行帰りの新知識人たちによって一九一〇年代後半に新文化運動が展開されたが、その指導者たちは、陳独秀、李大酥)、胡適、銭玄同など、いずれも外国留学経験者であったのは、特徴的である。陳独秀は北京大学教授の職を辞してマルクス主義の研究に打ち込み、一九二一年中国共産党の創立に参加し、二七年に失脚するまで書記長として党運営の責任者として働いた。陳独秀よりも一四歳年少の毛沢東によれば、「ロシア革命の号砲こそが中国にマルクス主義を送り届けた」のである。かくて毛沢東ら若き知識人たちは、ロシア革命の道を歩んだ。

つまり、日清戦争の敗北を契機として、中国の知識人はようやく外国の自然科学や機械技術を支える「思想や制度の意味」を理解したのである。それはかつて士大夫たちが軽視したのと違って、単に「中体西用」論で説明できるほど単純ではなかった。ここから一方で「全盤西化」(全面的西洋化)を図る近代化論者とマルクス主義により、一挙に「近代の超克」を図る左翼知識人との二つの潮流が生まれた。

中国はここで、いわばマルクス・レーニン主義という「夷狄の方法」を利用して、外国帝国主義という「もう一つの夷狄」に対抗する作戦に取り組む。当初は地主対貧農の階級闘争の図式を応用するが、日中戦争の開始に伴って、ナショナリズムが金科玉条となった。「救亡」を訴えるナショナリズムに鼓舞されて反帝国主義戦争に多くの人々が動員された。経済的に安価なことを主な理由として留学先に選ばれた日本を媒介基地として西洋の先進的機械技術を学ぼうとした中国の新しい知識人たちは、やがて日本帝国主義との対決を余儀なくされ、民族の独立を優先させる道を選んだ。毛沢東によれば、「先生(日本)はどうして生徒(中国)を侵略するのか」という慨嘆になる。

抗日民族統一戦線が成功した四九年前後、植民地香港は風前の灯火に見えたが、周恩来、毛沢東らはその事前の回収を思いとどまった。「竹のカーテン」を封じ込めようとしているアメリカの意図を見抜き、イギリスが中立を保つことを条件に香港の現状維持を容認したのであった。その香港に上海から大量の紡績資本が没収を恐れて脱出し、戦後香港経済の基礎を形成した。戦後の冷戦体制のもとで香港は、中国にとってあたかも金の卵を生むニワトリのごとく、有力な外貨の獲得源であり、またココムやチンコムの制約のもとで合法・非合法さまざまな形での機械やプラントの輸入を図る戦略的中継基地として大いに役立った。「合法・非合法」を巧みに使い分ける香港の機敏さには誰も叶うまい。生き馬の目を抜くという表現は、むしろ香港社会の融通無碍を表現する言葉として最もふさわしい。

端的に言って、マネーロンダリングという汚いお金の洗浄を香港ほど巧みにやってのける世界は、ほかには多くはないはずだ。卑近な例では、香港から大陸への直接投資が目立つが、その一部は「大陸起源の人民元」のはずである。人民元が香港で「外資に変身」し、大陸に投資され「外資としての優遇」を受けるのだ。大陸に眠っていたタンス預金は、こうして香港旅行を一度体験することによって、見事に「資本」に変身したわけである。麻薬のカネであれ、汚職のカネであれ、素性を問わず、洗浄してくれる社会的機能は道徳の世界とは別に断固として存在している。香港はいわば「三不管」(宗主国イギリスも、租借を許した中国も、植民地都市たる香港自身も、誰も管理しない、の意)を逆手にとり、たくましく生きてきた。ブランド商品のコピー問題(すなわちニセ・ブランド商品)もいかにも香港らしい現象である。

文化大革命期には紅衛兵や造反派たちが暴動を組織し、香港経済は痛手を被ったが、七〇〜八〇年代のアジア・ニーズの四小龍、そしてASEANの三匹のタイガース(タイ・マレーシア・インドネシア)の発展を支える後方基地として、香港自身も大きく成長した。香港返還が一年以内に迫った九六年夏から秋にかけて、香港と台湾で尖閣列島問題が再燃した。自称愛国者の日本のある右翼団体が尖閣列島に灯台を建てた。この軽はずみな行動を契機として香港、台湾、大陸の疑似ナショナリズムに火が着き、きわどいところまで燃えた。九月二六日抗議のために海に飛び込んだ香港の活動家陳毓祥が溺死した陳毓祥事件は火に油を注いだ。一〇月七日、台湾、香港からなる抗議船団の第二陣の数名が強行上陸し、青天白日旗と五星紅旗を掲げたことが一種の達成感を与え、以後沈静化に向かった。香港では日本領事館に乱入するまでに対日批判が拡大したが、その背景を最も巧みに解いたのは香港『九十年代』編集長李怡であろう。香港で「保釣運動」(保衛釣魚台の略)が盛り上がったのは、「愛国競争」のためだ、というのが彼の解釈である(「保釣的社会基礎」『九十年代』九六年一〇月号、余英時・李怡対談「中国人能否超越民族激情」『九十年代』同一一月号)。「愛国競争」とはなにか。九七年七月一日をもって香港返還が行われる。返還後の香港は「港人治港」すなわち「香港人による香港統治」による。ここで「香港人」の含意が問題だ。北京は「愛国愛香港」の人物によるべきだとし、「愛国」を強調している。「愛国」の中心は「北京」に向かう。香港の民主派は天安門事件前後、「中国の愛国民主運動を支援する香港聨合会」を組織してデモを繰り返した。かくて、香港人の考える「愛国」と北京(中南海)の主張する「愛国」とは、同床異夢であった。

香港の民主派(マーティン・リー=李柱銘議員などがその代表)は、パッテン香港総督の動きに呼応して、立法評議会の一般選挙議員数の増枠など、いわゆる民主化を進めた。これに対して北京は強い姿勢をとり、この議会を九七年以降は「解散する」方針を決め、独自の議会を推薦制で設けることにした。香港民主化派の試みは、一つ一つ、北京によってつぶされ、香港社会には欲求不満がうずまいた。尖閣問題という恰好のリトマス紙が現れたのはこのときだ。「尖閣は中国のものだ、日本から実力で奪い取るのが真の愛国主義者ではないか」。錦の御旗を掲げた煽動は強い。大陸支持の香港左派はむろんのこと、中間派も反対する理由はない。こうして「愛国」とはすなわち「愛領土」なり、とするキャンペーンはまたたくまに香港社会を覆う。「愛国」の看板は、もともとは江沢民指導部が提起したものだが、香港民主派はそれを逆手にとり、江沢民の愛国はニセモノと切り返したことになる。その証拠に「保釣運動」に熱心なのはわれわれではないか。

この「愛国競争」には大義名分があり、コストがかからない。香港人がとびついたのはそのためだとは李怡の皮肉な解釈である。香港の日系デパートで日本商品ボイコットをやり、日本総領事館におしかけ、日本・香港関係が危機にさらされたとしても、香港・大陸関係あるいは香港・台湾関係ほど大きな経済的痛手を受けることはない。「保釣運動」は「安全な運動」であり、コストがかからず、しかも返還を間近に控えてモヤモヤした欲求不満を解消できる妙薬であった。

一部の中国人のもつこのような情緒を在米の華人歴史学者余英時は、西側文明に対する羨望と憎悪のないまぜになったルサンチマン・コンプレックスと表現している。「二一世紀は中国の世紀だ」とか「二一世紀の中国は科学技術大国になる」といった議論は、現状に対するコンプレックスの裏返しだと喝破するわけだ。その一例は「台湾独立」観念の無限拡大論にみられるという。かつては「中華民国」「国民党」を「大台独」とし、台湾独立分子を「小台独」と規定し、両者は峻別していた。つまり、後者は許さないが、前者は大めに見る態度であった。ところが李登輝訪米以後の北京の議論は「大台独」を「小台独」と同一視し、すべてを台湾独立分子とみる偏狭な見方に変わったという。台湾の民主進歩党の一部は確かに台湾独立を主張しているが、李登輝総統の立場はそれと同じではない、と私は説明してきた。この意味で余英時の分析に共感する。中南海が一時、このような議論を繰り返したのは、李登輝訪米と総統選挙以後の政策見通しを誤解したからであろう。江沢民体制が固まり、李登輝の台湾とは時間をかけて交渉していくほかないことを理解するにおよび、いずれ「大台独」を「小台独」とを区別する論調が復活するはずである。

余英時はまた中国のいわゆるナショナリズムを「民族主義」と呼ぶことに異議を唱えている。中国のそれはむしろ「民」を「国」と置き換えて、「国族主義」と呼ぶのがふさわしいという。確かにヨーロッパのネーション・ステイトと異なって、中華民族にはチベットやウィグルなどの少数民族さえ含めようとしている。言語や文化などを民族のアイデンティティとみる見方からすれば、チベットやウィグルが漢民族でないことは自明であろう。つまり民族主義ではない(むしろ国家主義、あるいは国権主義である)。

中国は由来「華と夷」の区別を重んじてきた。胡人も「華」文化(漢字の名や箸を用いること)を受け入れて漢化すれば、中国人になった。「漢化したもの」と「漢化せざるもの」とは区別してきた。マルクス・レーニン主義は毛沢東によって漢化されたかに見えたが、結局のところ「夷狄の文化」であり、共産党は「五胡乱華」(外国の夷狄が中華を乱す)の類とみる論者さえあり、それが本来のナショナリズムだという。夷狄の思想を奉じる共産党がナショナリズムを煽動するのは自己矛盾だと衝いているわけだ。

江沢民指導部は香港や台湾での「保釣運動」が矛盾をはらんだものであることに気づき、運動の盛り上がるや直ちに大陸内での引き締めに転じた。反日運動の矛先が日本に対して「屈辱的な姿勢をとる江沢民指導部」に転じる危険性を察知したからである。江沢民指導部は今年七月一日前後の過渡期の波乱を防ぐために、細心の注意をはらって対策を練りつつある。この時期を乗り越えれば、あとは秋の第一五回党大会まで一瀉千里である。返還以後の香港はどうなるのか。香港の国際金融市場としての機能が失われ、中国のローカルマーケットに変質することはありえまい。国際金融を支える条件はなに一つ失われない。ロンドンがイギリスにありながら、東京が日本にありながら、国際金融市場であるのと同じように、返還後の香港は中華人民共和国の主権下にあっても、その国際性が失われるはずはないのだ。中国が金の卵を生む鶏を絞め殺すとみるのは、杞憂にすぎまい。むしろ、かつての香港はイギリスが大いなる中国に設けた橋頭堡であったが、今後の香港は中国の南玄関として、中国とASEAN、中国と西側を結ぶゲイトウェイになろう。中国が改革開放の政策に転換して以後、香港経済と大陸経済との相互依存関係は日々強まってきた。この文脈で、香港経済はすでに大陸経済と切り放ちがたく結びついている。「香港経済の大陸化」は必至である。しかし、同時に、大陸の経済もまた香港経済や台湾経済の強い影響を受けて、「香港化」が旧ピッチである。政治的にみると、香港は大陸に吸収される印象が強いが、経済的にみると、むしろ大陸の経済こそが香港を呑み込むことによって「香港化」しつつある。広東省の香港ドル圏化は、日々進んでいる。百数十年前、捨て子同然で里子に出された香港がたくましく成長し、里親イギリスをしのぐほどの力を身につけた。その孝行息子が実家に帰り、大陸経済の市場経済化のために奮闘する。斜陽イギリスから勃興する中国へ。世界経済の転換に際して、その転轍機の役割を果たすであろう。