『留学生新聞』19979 151-2

日中国交正常化25周年、今こそ21世紀に向けて真の日中対話を

日中戦争が終わったのは一九四五年のことだが、日中両国が国交を正常化したのは七二年まで延びた。冷戦のなかで、両国が異なる陣営に組み込まれたため、戦後処理が遅れたわけだ。今年は正常化二五周年にあたり、各分野でさまざまの記念イベントが行われているが、ハイライトはやはり橋本龍太郎首相の九月訪中、一一月の李鵬総理の来日である。この両者を盛り上げて、日中のギクシャクした関係を修復する試みが双方の関係者によって年初から積極的に行われてきた。たとえば廬溝橋事件の六〇周年がらみの中国側報道は控え目であったし、尖閣列島(釣魚台)の領有権をめぐる問題の扱い方は日中双方とも慎重であった。とはいえ、カンボジア問題に際して日本が断行した自衛隊機のタイ派遣に中国は危惧の念を示し、日米防衛協力の指針(ガイドライン)の範囲に台湾海峡を含めると解釈した梶山官房長官の発言に中国が抗議するなど波風も絶えない。橋本首相は訪中で防衛庁長官と国防相、統幕議長と解放軍総参謀長との防衛トップ交流を提案する意向と伝えられるが、誤解を解くことは喫緊の課題である。

「和戦両様」で推移する両岸関係

私は夏休みを利用して七月の一カ月を台湾で暮らし、海峡両岸の来し方行く末を考えた。日本の風潮も、政治家の認識も両岸問題の根本をどこまで理解しているか疑わしい。日本の平和的な戦後と冷戦構造のなかで武力対峙してきた台湾海峡の戦後は、対照的である。語弊をおそれずにいえば「平和ボケ」の日本人には、「和戦両様」の構えを崩さない両岸の姿勢は、理解しにくい。とりわけ九五〜九六年の中国によるミサイル演習は、「晴天の霹靂」と受け止められた。顧みると、台湾海峡の「戦後」は、決して平和ではなかった。一九四九年の中華人民共和国の成立直後の一〇月二四〜二八日に、中国は金門奪取作戦を展開したが、ゲリラ戦の猛者も海戦には不慣れなため、失敗した。その後、五八年八月二三日から一〇月六日にかけて福建前線部隊が金門に砲撃を加え、その後「奇数日は砲撃し、偶数日は砲撃しない」という奇妙な作戦を続けたが、毛沢東の執筆した「台湾同胞に告げる書」はその舞台裏をこう説明している−−。海峡両岸のわれわれは中国人であり、「三十六計、和を上計とする」。金門への戦闘は懲罰性のものだ。台湾政府が過去に長期にわたって航空機を大陸に妄りに雲南、貴州、四川、青海まで飛来させ、伝単を撒き、特務を下ろし、福州を爆撃し、江蘇・浙江を攪乱した。それゆえ若干の砲撃を行い、「あなたがたの注意を引こうとする」のだ。国共内戦は三〇年(一九二七〜五八年)やっているが、まだ終わらない。平和的に解決するよう提案したい−−。

その後十余年、七一年のニクソン訪中で米中関係は緩和に向かい、台湾は経済の高度成長を経て自信をつけ、八七年に戒厳令を解除した。まもなく海峡両岸の経済交流が活発化し、今日に至った。私の見るところ、台湾には政治的にも経済的にも「独立」できる条件はないが、「独立しない」と公約することは難しいし、近い将来の統一も難しい。つい昨日まで大陸反抗を呼びかけ、反共宣伝を続けてきたのである。他方、大陸側は台湾の同胞を武力統一する意図は毛頭ないが(同胞であるかぎり、武力は使えない)、「武力行使をしない」との約束はしにくい。両者ともに「交渉の最後の切り札」を残しておきたいのである。とはいえ、台湾が独立宣言する現実的可能性がほとんどありえないのと同じく、大陸が武力行使という切り札を実際に使う可能性はまずないとみてよい。事柄はいわば夫婦喧嘩の類なのだ。かけひき上手の中国人同士にまかせておくほかない。日米が容喙する余地はない。いまでは観光客寄せのアトラクション化している金門島前線のトーチカをめぐりながら、私はこの持論を再確認した。香港返還を無事に終えた大陸の市場経済がよりいっそう発展し、経済的に離陸してこそ、大陸の政治的民主化の展望が切り開けるはずである。条件が成熟してこそ海峡両岸の話合いはスムーズに展開できよう。「夜長夢多」(夜長ければ、悪夢多し)ともいうが、海峡両岸にはまだ冷静な対話の条件が十分に整っていないと私は分析している。

ケ小平路線は発展主義

橋本首相との日中首脳会談を終えた中国では、第15回党大会が開かれる。5年ごとに開かれる今回の党大会は、ケ小平亡きあと最初の党大会になるが、現行の江沢民体制の続投の線で大方の人事と路線はほぼ確定したごとくである。まず路線についていえば、ケ小平路線の堅持の一語に尽きる。ケ小平の「改革開放」の路線を私自身は「社会主義の有言・不実行、資本主義の不言・実行」体制と解釈している。いいかえれば「中国的特色をもつ社会主義」の建設とは、「中国的特色をもつ資本主義」の発展にほかならないわけだが、その種のイデオロギー論争を棚上げして、中国の経済発展を第一義に考えるのがケ小平路線である。私は『ケ小平文選』電子版を用いてキーワード25語の出現頻度を分析したことがある。「社会主義」は第1巻71回、第2巻410 回、第3巻468 回、計949 回である。これに対して、「発展」は第1巻 191回、第2巻317 回、第3巻558 回、計1066回である。ケ小平は「社会主義」者であるよりは、むしろ中国「発展」主義者なのである。彼は中国の「発展」のためにまず「社会主義」という手段を選択したが、まもなくその限界を痛感して、白猫黒猫論に転じたのである。晩年には「姓資姓社論」否定(改革開放路線を資本主義路線と批判する保守派への反批判)までたどりついたわけだ。論理の整合性からいえば、保守派の「万言書」の論理のほうが筋が通っているともいえるが、中国の経済を再建し、高度成長をもたらしたのは、ケ小平の実践哲学であって、保守派の論理ではない。白猫黒猫が大方の中国人に歓迎されたのは当然であり、いまやその「一国両制」論を、沖縄に輸入しようという声もあるほどに人気が高い。旧ソ連陣営が脱社会主義の道筋で失敗したのと対比すれば、ケ小平路線の勝利は明らかである。江沢民ら中南海の指導部がその継承を誓うのは当然であろう。

路線を担うのは人だ。路線を変えない以上、人事も最小限の入替えにとどめたいいう基本線ですでに一致したとみられる。李鵬総理は憲法の三選禁止規定に触れるので、総理のポストを経済通の朱鎔基副総理に譲り、喬石が手放す全人代委員長のポストに就く。喬石がこのポストを手放しつつ、常務委員会に留任するのは、一つは73歳という年齢のため、もう一つは彼が共産党内の政法委員会のボスとして調整の機能を期待されてのことだろう(政治局常務委員の定年は75歳であり、5年後の2002年の年齢を想定しているわけだ)。高齢の劉華清将軍は引退し、軍代表の張万年副主席と交代する。現行の7名のうち6名が留任するが、その序列は安定団結第一のため変えない方針らしい。政治局レベルから丁関根、李嵐清あたりが常務委員に昇格し、定数が9名にふえる。政治局に北京市書記賈慶林が入ることは確実である。北京市は指定席をもつわけだ。これらの政治局人事は新規の中央委員会によって選挙されるが、中央委員会は3分の1以上が入れ代わるものとみられる。高齢者は引退するし、政府や軍で一定の地位に就いた者は必ず中央委員に選ばれるシステムのためである。中国共産党が第16回党大会を開くのは2002年であり、それまでの指導部がいま成立しようとしている。翻って日本国内を見ると、橋本再選は固まったものの、「次の次」をめぐって百鬼夜行のムードが漂い、折からの景気低迷もあり、迷走は当分続く可能性が強い。

薄れる日中双方の親近感

総理府の世論調査によれば、日本人のいだく中国に対する親近感は急激に変化しつつある。中国が改革開放路線に転じた80年代前半、「親しみを感じる」層が7割を超えていた。89年の天安門事件を経て中国イメージは一挙に悪化し、5割台に落ちた。92年秋、国交正常化20周年を期して天皇訪中が成功裏に行われ、「親しみを感じる」層は5割台の半ばまで回復した後は、低下傾向にある。憂慮すべきは、94年以来「親しみを感じない」層(中国ぎらいの層)がついに2割台に達したことである。中国の核実験や台湾海峡における軍事演習を通じて「親しみを感じない」層が過半数を超えたわけである。日本人の中国に対する冷たい視線は、中国の若者にも反映せざるをえない。97年2月16日発新華社電は、中国青少年発展基金会と中国青年報社が共同で実施したアンケート調査の結果を報道した。10万枚の回答のうち1.5 万枚のサンプル抽出の結果をまとめたものだが、調査対象者の99.4%が「日本による侵略の歴史を忘れない」と答え、96.8%が「日本政府要人の靖国神社参拝に強い憤りを示している」由である。中日両国の子々孫々にわたる友好は主として何によって決まると考えるかとの質問に対してはこう答えている。「中国の富強」と答えたもの66.5%、「日本軍国主義が復活しないこと」と答えたのは60.4%、「歴史的に残された両国の問題の正しい解決」と答えたのは85.5%であった(『中国青年報』97年2月15日)。この文脈で私が強い違和感を懐いているのは、一連の『ノーといえる中国』シリーズの日中双方における扱い方である。彼らの日本論、アメリカ論は幼稚きわまりない。このような意見が一部に存在しても不思議ではないが、中国の世論全体あるいは中国の指導部の見解であるかのごとく誤認し、一方で「中国脅威論」を煽り、他方で「中国解体・分裂論」を煽る日本マスコミの見識の欠如は、批判されてしかるべきである。21世紀を迎えていまこそ相互理解のための真の対話が求められている。