ハンガリーの中国学(匈牙利漢学簡史)

by Polonyi Peter ポロニ・ペェテル

大修館書店『月刊しにか』2000年3月号、94〜99ページ

 

ハンガリーと東方

  欧米の東洋学(東方学)は18-19世紀に形成された。これらの諸国では、東洋を植民地を持ち、商業上の往来があり、宣教師が活動したことと関わっている。当時、半独立の状態にあり、海外との関係をもたなかったハンガリーには、これらの要素は存在しなかった。とはいえ、ハンガリー人は東洋に対してこれとは異なる興味を抱いていたのである。

ハンガリー人の信念のなかで早くから書物に書かれて牢固として存在する一つの考え方がある。すなわちハンガリー人の祖先は東方から来たのであり、ハンガリー人は匈奴(きょうど)と近親関係にあるという見方である。しかし次の事実に留意すべきである。ハンガリーということばの漢字表記「匈牙利」のなかでいま用いられている「匈」の文字はあとからのものである。ハンガリー人は『元史』では「馬札兒」(マジャール)と呼ばれている。この表記はハンガリー人の自称に基づく。13世紀ごろにハンガリーに攻め入ったモンゴル人が中国に持ち帰ったものであるが、その後忘れられた。いずれにせよ中国の文化人はHungaryを音訳する時に元朝の「馬札兒」とむすびつけることをせず、「洪加利」と訳した〔訳者注:現代北京音ではhong-jia-li〕。その後、ヨーロッパから来た宣教師たちは中国人にこう教えた。ヨーロッパでは広くハンガリー人と匈奴は近親であるとみなされている、と。そのため「洪」の文字を「匈」に改め、「匈牙利」という書き方が定型となった。

実はハンガリー人と匈奴の近親関係なるものは、今日に至るまで科学的根拠を探し出せないのである。学者はこう考える。中世の歴史書がこの関係を提起するのは政治的目的がある。すなわち9世紀にカルパチア盆地に居を定めたハンガリー人はこの土地に対する権利を固めるために数百年前にこの地方に生活したことのある祖先(すなわち匈奴との関係)を必要としたのである、と。

「東方からやって来た」という問題も比較的複雑である。ハンガリー人は民族大移動のときに数百年の移動を経てウラル山脈一帯から現在の国土に移動した。13世紀のハンガリー族のカトリック宣教師ユリアヌスJulianusは、ウラル山脈以西にも若干のハンガリー人を発見している。

ハンガリー語がフィン=ウゴル語系に属することは19世紀に定論となった。この説明は当時、政府当局の支持を得た。ハンガリー政府教育部長は1877年にこう宣言した。「われわれは国家の利益を重んずべきである。私はフィン=ウゴル語系出自の原則を受け容れる。というのは、われわれに必要なのはヨーロッパであり、アジアとの近親関係ではないからだ。政府はこれ以後フィン=ウゴル語系起源説を主張する学者のみを助けるものである」と。とはいえ、民間と学術界にはハンガリー人はアジアから来たとする考え方が引き続き存在したのは、自然の成行きである。カルパチア盆地から来たハンガリー人が作ったのは、確かにフィン=ウゴル語系の言語であったが、生活方式は中央アジアからやってきた遊牧民族に非常に近かったからだ。

このように、ハンガリーの初期東洋学者たちの中央アジア、東アジアに対する興味は、ハンガリー人のルーツ探しと密接に関わっていた。ハンガリー東洋学の第1の傑出した人物クルシ・チョマ・サンドルKorosi Csoma Sandor(1784-1842、ハンガリー東洋学協会は彼の命名による)は、1819年中央アジアに向けて徒歩で出発したが、その主要目的は匈奴の後裔を探ることであった。なぜなら彼は依然つぎのように考えていたからである。「匈奴こそがハンガリー人の祖先である」と。チョマは目的地に到達しなかったが、ヨーロッパチベット学の創立者となり、インドで生活し、死去した。19世紀から幾人かの美術品コレクター、地理学者が東アジアに至り、ハンガリーではこの地域を紹介する書物が数冊出版された。二流、三流の教師たちはブダペスト大学で中国や日本についての知識を教えた。ハンガリーでは19世紀に権威のある突厥(とっけつ)学とアラブ学は形成されたが、国際的学術水準をもつモンゴル学と中国学はまだ存在しなかった。プローレ・ビィルモシュProhle Vilmos (1871-1946)の指導下のブダペスト大学に東アジア系が設けられたのは1924年のことであった。

中国学の創始者・リゲティ

ハンガリーでこの分野を建設したのはリゲティ・ラヨーシュLigeti Lajos(1902-1987)である。彼は1925年から1928年にかけてパリで東洋学を研究した。リゲティは当代世界で最も優秀な東洋学者マスペロMaspero やペリオ Pelliot から、中国学、モンゴル学、チベット学を学んだ。帰国後、ハンガリー当局の賛助を得て中国、内蒙古を3年にわたって調査した。

リゲティの出発点はハンガリーと中央アジアの関係を明らかにすることであった。彼は第1次資料だけを用い、厳粛な科学的方法を用い、一切の幻想を破壊した。彼が1940年に出版した『認識されざる内陸アジア』は、この態度に基づく典型的な著作である。彼には簡明な中国史もある。彼もハンガリー人の起源を知るために中央アジア、東アジアの研究を始めたのだが、みずからの仕事の中心を、偽りの科学的主張を粉砕することに向けた。紹介的な著作は非常に多いが、彼自身は新しい、肯定的な論点を少ししか提起していない。みずからはハンガリー人の初出に傾き、起源はウラル山脈一帯だとした。

みずからの研究のほかに、リゲティによるハンガリー東洋学に対する最大の貢献は、親しく中国学者、モンゴル学者、チベット学者を数代にわたって養成したことである。彼は1939年からブダペスト大学内陸アジア学科の教授となり、ここで主としてモンゴル学をやり、1942年からはチベット語を教えた。同年に、彼はブダペスト大学東アジア学科の主任のポストに就き、チョンゴル・バマバスCsongor Bamabas(1923〜), トゥケイ・フィレンチTokei Ferenc(1930〜)など一群の中国学者を育てた。

リゲティは主として内陸アジア地区の民族の言語と歴史を研究した。古代漢語は彼にとってなによりもまずツールであった。というのはこれらの民族の歴史と言語の研究の最も主要な源泉は漢語で書かれた歴史資料であったからだ。リゲティはこう考えた。ハンガリー民族は中央アジア地区の民族と関係がある。これらの民族は漢語資料を通じてのみ研究できる。それゆえハンガリー中国学の主な任務はこの研究のために奉仕することである、と。

民国建国と中国学の高まり

しかし、中華人民共和国が1949年に建国されて以後、ハンガリー中国関係は迅速に発展した。ハンガリーの読者の中国史、中国文化、中国文学に対する興味はますます大きくなった。この需要を満たすために、ハンガリーの中国学者は(中国周辺から)中国自体に移行し、中国の古典や現代の著作を大量に翻訳した。現在に至るまでに翻訳した書物の数量は世界各国と比べてまれに見るほどである。この成果は中国学者トゥケイ、北京大学卒業の中国学者カルマル・エヴァKalmar Eva(1938〜)と密接に関わっている。1978〜1993年に欧州出版社は中国文学作品の出版を組織した。トゥケイは1962年に『中国古代哲学』(全3巻)を出版した。この本には孔子の『論語』、老子の『道徳経』全訳が含まれ、墨子、庄子、韓非子などの抄訳が含まれている。

この数年、詩経、楽府、古詩19首、曹植、李白、杜甫、白居易などの全訳、抄訳の単行本が出版された。1967年にチョンゴルとトゥケイが共同で選び、中国語から直接訳した『中国古典詩歌選』が出版された。数百首の詩歌はハンガリーで最もすぐれた詩人が訳したものである。すぐれた古典小説はほとんどすべてがハンガリー語に翻訳されている。基本的には(重訳ではなく)直接中国語からの翻訳である。『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅(きんぺいばい)』『肉布団』『紅楼夢』『儒林外史』『(薛子)梅花』『老残遊記』などがある。『今古奇観』(抄訳)、『聊斎志異』(抄訳)などの短編小説選もある。現代文学の作品、魯迅、郭沫若、茅盾、老舎、曹禺、趙樹理、王蒙、古華などの著作も出版された。これらの書物の序文と後書きはいずれもハンガリーの中国学者が書いたものである。このほかに、トゥケイとミクロシュ・パルMiklos Pal(1927〜)は、1960年に『中国文学簡史』を出版した。この本は非常に簡明ではあるが、ハンガリー中国学の創設者の中国史、中国文学に対する独特の見方が含まれている。

トゥケィは周代の土地制度、社会制度、哲学、文学に対して研究を行い、こう結論した。「周代の宗法-官僚社会は源資共産主義社会と古代社会間の過渡期社会である。……周代は中国史の基礎作りの時代であり、その基礎が中国の発展全体に烙印されている。それゆえわれわれは中国文化のほとんどあらゆる特徴のルーツを周代に探るべきである」と。彼はこのとき、マルクスのアジア的生産様式の理論を深く体得し、それを中国史全体に応用した。この理論は彼自身の理論となったばかりでなく、中国学研究の主導思想となった。そして同時に、ハンガリー中国学の最も主要な理論となった。彼がアジア的生産様式について書いた本は、いくつもの版が出版され、いくつもの外国語に翻訳された。トゥケィは1973年にアカデミー通信会員に選ばれ、1972〜1994年にかけて科学院東洋学協力グループを指導した。このグループはアジア的生産様式の理論の精神で問題を研究し、著作を出版した。このグループの学術顧問はエチェディ・イルディコEcsedy Ildiko(1938〜)であり、みずからは『中国辺境の遊牧部落と商人』(1979年)および『中国国家の起源』(1987年)を書いて、その思想で中国史を解釈した。50年代に北京大学を卒業したポロニ・ペェテルPolonyi Peter(1935〜)が書いた『中国史』(1988年)は、トゥケィの観点の影響を受けている。いずれにせよ、ハンガリー中国学の著作で中国史を紹介するときに基本的には「封建社会」という概念は用いない。

このほかに、特筆すべき人物として19世紀ブダペストの光学儀器商店主人、ホップ・フィレンチHopp Ferenc(1833-1919)がいる。彼は5回にわたって世界を周遊したが、旅行中に文物の収集を始めた。ホップは死去に際して収集した文物と自分の家を国家に寄贈した。ホップ・フィレンチ東アジア芸術博物館はこれを基礎としたものである。50年代から少なからざる中国学者がこの博物館で働いた。そのうち特に名を挙げる必要のあるのは有名な中国学者ミクロシュ・パル(前出)である。彼は北京の中央美術学院の大学院で学んだ。帰国して中国美術、文化、仏教に関わる本を何冊も書いた。たとえば『敦煌千仏洞』(1959年)、『画竜点睛』(1973年)である。

現在、ハンガリー国内では、エドヴェシ・ロラーンド大学中国文学学科のほかに、ブダペスト外国貿易大学でも専門家を養成している。ハンガリー東方学の雑誌としては、Acta Orientaliaのほかに、ハンガリー語のKeletkutatas (『東方研究)がある。ハンガリー人の祖先を依然として東方に求めようとする人々があり、彼らはTuranという、科学と偽科学を結合した雑誌を作っている。伝統的な中国学以外の活動としては、ハンガリー中国友好協会がある。その主席はターラシュ・バルナTalas Barna (1928- )、副主席はメーサロス・クララMESZAROS KLARA (1943- )である。彼らの研究対象は現代の中国経済である。同じく協会の副主席にブダペスト大学政治系教員のヨルダン・ジュラJORDAN Gyula(1940- )がいる。彼は英語とロシア語の資料に基づいて現代中国の歴史と政治の問題を研究し、1999年に20世紀の中国を紹介する本を出版した。ブダペストには仏教学院もあり、ブダペスト大学中文系主任代理のハマール・イムレHAMAR Imre (1967- )も仏教史を研究している。

[著者紹介]

私は一九九九年夏休みの四〇日間をハンガリーの首都ブダペストで暮らした。ハンガリー大使糠沢和夫氏のお勧めにしたがい、ハンガリー科学アカデミー世界経済研究所日本・東アジア・東南アジア研究センターに受け入れてもらい、主としてハンガリーの中国研究者と意見を交換した。そのなかで最も印象深い一人がハンガリー人シノロジストである本稿の著者ポロニ・ペェテル氏であった。ポロニ・ペェテルPolonyi Peter氏は一九三五年ブダペストの知識人の家庭に生まれ、今年六四歳だが、年齢より老けてみえる。一九五三年ブダペスト大学ハンガリー文学科に入学したが、五四年に友好国の首都北京に派遣された。北京大学留学生班で中国語を二年学んだあと、五六〜六一年中文系に学んだ。六一年に帰国し、『北京留学記』(一九六二)を書き、『儒林外史』(一九六六)、『老残遊記』(一九八五)などの古典や、王蒙の短編小説(一九八四)、古華の『芙蓉鎮』などを翻訳した。六一〜六九年はブダペスト東アジア美術館で中国文学とは関わりのない仕事に従事したが、六九〜八九年は社会主義労働者党の社会科学研究所で働き、中国の政治や社会問題を研究した。一〇年前の体制改革に伴って人員整理が行われた際、五五歳で引退し、以後年金生活のなかで『毛沢東伝』を執筆中である。

余談だが、同氏が「台湾海峡の緊張は、半年以内に武力衝突に発展する」と強く主張したので、見通しの当否を賭けた。この勝負はどうやら私の勝ちに終わりそうである。(矢吹晋)