アジア経済研究所第2「組合」「日中交流委」(SI、HK)を糾弾する

一九七六・三・十一

矢吹晋

(これは当日の録音をおこし、 若干手を加えたものである。)

今晩はお忙しいところをお集まり下さり、ありがとうございました。 この会は私(矢吹)が一個人として呼びかけたものであります。「いわれなき中傷に対する私の主張を述べ、 同時に第二”組合””日中交流委員会”なるものを糾弾すること」----それがこの会の趣旨であります。むろん私はここにお集まりの皆さんのすべてが私の主張を全面的に支持するが故に出席されたとは思いません。私の主張にまず耳を傾けていただき、 彼らの中傷と私の主張と比べてどちらが正当であるかを判断していただければ幸いです。

この会をこのような形で開くことになった経緯から申上げます。 私は三月五日午前、第二「組合」のIE委員長に電話し、私を中傷した三月三日付掲示の撤去を要求しました。I氏は 「日中交流委」 の責任者はS君であると答え、S君と連絡をとったわけです。 同日午後、 「日中交流委」を名乗ったSI、HK両君とあい、 掲示の撤去およびこの問題についての公開討論会のもち方について話合いました。 ところが私のこの申入れを彼らが拒否したため、残念ながらこのような会になったわけです。 なお、今朝研究所玄関でH君とすれちがったさい、この会に出席するなら歓迎すると伝えた事実をつけ加えておきます。

初めに一つご報告しておきたいのは、今日(三月十一日)午後『しんろ』誌の編集責任者、上原篤氏と会ったことです。私は雑誌(三月号)の回収と謝罪とを要求しました。これに対し上原氏は「来週半ばまでに回答したい」と答えましたので、 私としてはその回答を待ってつぎの対応策を考えます。この要求は戴國W氏とは別個に私の立場から行なったものです。と申しますのは、戴國W氏は外国人であり、日本においては政治的活動の自由を保証されておらず、私と同じように行動することがむずかしいからです。今日は調研の中村尚司さんに立ちあっていただきましたが、彼は特に「日本に住むアジア人の人権擁護」の視点から、上原氏に対しいくつかの申入れを行なったわけです。上原氏との話し合いで、明らかになったことは、氏が編集責任者であるにもかかわらず、問題の原稿を読まずに印刷に付したことです(失笑)。

本論に入ります。今回の問題は、私が『毛沢東思想万歳』を翻訳したことから始まったようです。『万歳』とは、文革期に中国で編集されたものだといわれております。内容は中国の解放後に行なわれた毛沢東の著作、講話、指示などをまとめたもので、 いわば解放後の『毛沢東選集』続巻の素材ともいうべき重要資料です。『選集』全四巻には、 四九年の全国的解放の前夜までのものしか含まれておりません。 解放後四半世紀に及ぶ中国の社会主義建設の過程で、毛沢東が中国の最高指導者として決定的な役割を果してきたことは周知のとおりでありますが、解放後、毛沢東の著作として公表されたものは、 ごく一部にすぎず、大部分は未公表です。その未公表文献 (の一部)が『万歳』という形で、流布されたわけです。現代中国研究にはいくつかの囲難がありますが、その一つは資料が不十分であることだと私はかねて考えておりました。とりわけ大躍進期以降の中国的社会主義建設の評価をめぐって、中国の内外でさまざまの議論が行なわれたわけですが、この『万歳』は、従来不透明であった部分に強烈な光をあてたという意味で、中国理解、中国研究にとってはどうしても無視することのできない、最も基本的な資料であるといえます。内容の重要性・信憑性については疑う余地がないと私は判断しております。

なお、ご参考までにロンドン大学のシュラム教授の 『チャイナ・クォータリー』(七四年春季号、五七号、邦訳『現代の眼』 七四年九月号)の解説をあげておきます。流通経路についてシュラムはこう書いています。「中華人民共和国で刊行されたと思われる原本を、台湾で写真製版で、リプリントしたものであり、一九七三年の夏に外国の研究者にも利用できるようになった」。私が『万歳』のコピーを初めて見たのは七四年二月下旬であり、当時アメリカの商務省付属政府機関NTIS(ナショナル・テクニカル・インフォメーション・サービス)では全訳が出版されていました。私がアジ研でコピーを見た時点では、このコピーは日本である程度、いわば半公然と流布されていたようです。アジ研でこのコピーを見たのは、私が最初ではなく、私の前にこれを見た人があります。この人物についてはあとでふれます。

『しんろ』のS君の文章にこう書いてあります。「さてこの 『万歳』だが、文革当時一部の極〃左〃紅衛兵が国の文書庫にも乱入し、国家機密などと一諸に盗み出したものだ」(五四頁)。私はこの「事実」を知りませんでした。彼がどうして知っているのか教えてほしいものです。「林彪の惨死後、この『文集』 は台北の国民党情報部を経てアメリカ、西独、日本へ極く的をしぼって送りつけられた。ソ連も入手した。日本の受皿は、台北の国際関係研究所と交渉のある内調委託の国際情勢研究会」(五四頁)。この「事実」も私は知りません。「「中国側の責任ある筋はこの『万歳』モノを〃以訛伝訛〃(いつわりをもっていつわりを伝播するもの) としかみていないのである」(五六頁)。これはどういうことでしょうか? もし「国の文書庫」から「盗み出したもの」ならホンモノであるにちがいないし、 逆にニセモノならば、わざわざ「国の文書庫」から「盗み出す」 必要はありますまい。S君はいったいどちらだというのでしょうか。またホンモノだからといって必ずしも「盗み出された」とは限りますまい。 私は直接確めることはしておりませんが 「中国側の責任ある筋」ならこうはいわないのではないかと思います。

『万歳』 に目を通して、そのなかの一つの文献(「ソ連『経済学教科書』読書ノート」 ) を私は三月に十日ほど費して訳し、アジ研の所内資料として二○○部タイプ印刷しました。 約七○部は研究所内部で配布されましたのでご承知のことと思いますが、 念のために実物をお回しします。 これは、七四年度から発足した文革研の参考資料の一つとして作ったものです。作成および配布は、研究所の定めた基準に従っています。 その後私はこの資料および 『万歳』を紹介する文章をいくつか書いております。

@「毛沢東 政治経済学を語る」東大出版会『UP』誌七四年七月号、

A大内力氏他との座談会「毛沢東の政治経済学」『現代の眼』七四年九月号、

B「毛沢東の『経済学教科書』批判」 「経済評論』七四年九月号、

C「毛沢東のスターリン批判」 『展望』 七四年九月号。

所内資料に対する反響はきわめて大きく、 200部のタイプ印刷は一カ月前後でなくなりました。その一部が現代評論社の編集者の目にとまりD『毛沢東 政治経済学を語る』 という題で現代評論社から七四年七月末に出版されました。一万部印刷し、八割以上が売れたと聞いております。

Cおよび 『万歳』 について伊東光晴氏が 「東京新聞』 の論壇時評で紹介しております (七四年八月三一日夕刊)。また 『週刊朝日』 七四年九月六日号でも「雑誌から」の欄で紹介されています。切抜きをお回しします。訳者としての私の態度を説明したものとして2つあげます。

E「訳者から読者へ」『北郊文化』 七四年一○月一日号(この印刷物の最後に再録しました)。

F「ある革命家の 〃遺書〃「万歳」について」『日中』 七四年二月号。

Eの『北郊文化』とは、東京のある団地の新聞ですが、編集者(この方は戦前以来の活動家であることをあとで知りました)の強い要請で書いたものです。私の文章に対して、ある読者が 『北郊文化』 七五年二月一日号につぎのような読後感を寄せました。ご紹介します。「最近、 一寸した書店に行けば、中国に関する書物は氾濫している。全く中国については語られる情報は海のようである。私は丁度、大海に漂流する難波船の一人のように、真水を求めつづけて久しい。この情報の海の中で最近やっと、たんのうするまでに満足するものを見つけ出した。その一つが『毛沢東思想万歳』であり、その訳書『毛沢東政治経済学を語る』である。 矢吹氏のタイプ刷に強い反発、反感を示した一部の人々こそ、訳者らがウンザリさせられた中国論をぶった元凶か、その同類ではなかろうか?

中国において劉少奇、林彪がたたえられれば同調し、否定されればまた何の苦しみも痛みもなくこれに同調して否定する。同調と否定との間にどんな共通の物指しがあるというのだろうか! 私もかつて、ウンザリする(させる)中国論に、物足りなさばかりでなく、これら無節操な中国評論家に憤りすら覚えている一人である。 これらの評論家が求めているらしく思えるのは、真の日中友好よりは、自分個人と中国の某々有名人との友好ではないだろうか? われわれ一般の市民の日中友好は、中国人と孫子の末までも、親子や親友のような付合いをしたいからである。 かってマルクス主義もレーニン主義も毛沢東思想も語らなかった兵隊や百姓出身の中国人労働者に心がしびれる程の温かさと、私心のなさを体験して来た。そんな私に日本人を通じて中国が紹介されると、どうしてこうも異質のものを感じてしまうのだろうか?

この度、矢吹氏の訳書〔紹介〕が北郊文化に発表されたことによって、文化大革命当時のように、天まで届く程、口や筆でたたえられた毛主席でなく、矢吹氏等の訳書の中に現われる淡々と政治経済学や、文化大革命を語る毛主席の論旨に接し得た。これらの訳書を見て、俺は間違っていなかった。自分のあこがれ、ひたむきに求めていた中国の指導者の実像こそこれだったのだと、こみ上げる感動を覚えた。末筆ながら矢吹氏と北郊文化編集氏に、深い謝意を捧げる」 。私はこの読者がどういう方なのか、文章から読みとれる以外のことは知りません。 しかし、このような読者の要求に応えることこそ中国研究者の責務だと考えております。

私の二冊の訳書(もう一冊は 『毛沢東社会主義建設を語る』 現代評論社七五年一月)に対する書評は、 私の知るかぎりでは以下のとおりです。

@藤村俊郎「ソ連乗越える中国の路線説く」 『公明新聞』七四年九月一六日

A菊地昌典「厳しいソ連批判」「ソ連社会主義を反面教師に」『琉球新報』七四年一○月二○日、『信濃毎日新聞』七四年一○月二一日

B三木ひとし「中国革命の精髄みる」『新左翼』七四年一○月二四日

C岩村三千夫「弁証法を駆使した革命理論」『公明新聞」七五年三月三日

D坂本徳松「階級的な観点の確かさ−−−人間的な豊かさと強靭な弾力性も」『週刊読書人』 七五年三月二四日

E降旗節雄 「強烈な個性と実践の処方箋」『朝日ジャーナル』七五年四月四日

F徳田教之「原典が伝える毛沢東の面目」『エコノミスト』七五年五月六日

なお書評ではありませんが、 私の訳書にふれたものとして、さしあたりつぎのものをあげておきます。

G岩田昌征『労働者自主管理』紀伊国屋新書七四年六月 二四一I二四三頁

H高橋正雄 『マルクスとケインズの対話』月刊ペン社七五年一月 118-122頁

I井手啓二 「毛沢東 『ソ連政治経済学読書ノートを読んで−−K氏への手紙」『中国研究』七四年一二月号

J副島種典「毛沢東『ソ連八政治経済学読書ノート』にかんする理論的考察」『中国研究』七五年三月号

K尾崎庄太郎「『毛沢東思想万歳』他の毛主席の解放後の諸著作を読んで」『中国研究』七五年三月号

L岩田弘・川上忠雄・矢吹晋編 『労働者管理と社会主義』社会評論社七五年五月

M大内力編 『現代社会主義の可能性』東大出版会七五年六月

なお、 外国語での 『万歳』紹介として私の知っているのはつぎのようなものです。

@S・シュラム 『マオ・ゾートン・アンリハースト』ペンギン七四年

AH・ マルチン 『マオ・ヅートソ・ノーティッェン』 ハンブルグ七五年

BJ・ギティングス「ニューライトオンマオ (1)」 『チャイナ・クォータリ』 七四年三月

CR・レピィ「ニューライトオンマオ (2) 」 『チャイナ・クォータリ』 七五年三月

DA・ホワイトティング 「ニューライトオンマオ (3)」 『チャイナ・クォータリ』 七五年六月

以上のような反響だけからみても、私の訳書が歓迎されたことは明らかだと思います。読者からの手紙もたくさんいただいております。次に私が 『万歳』を訳したことの意味について申上げよす。おそらく、これが、問題の核心であります。まず内容の信憑性について。繰返しになりますが、これは疑いない。疑っているのは真田君ぐらいのものではないか。流通経路の問題----ここにはたしかに問題はある。台湾政府から流れたというのは事実らしい。問題の根本は、こうだと思います。@この資料は中国側が公表したものではなく、 公表を望んでいないらしい、 Bしかし、中国研究にとっては不可欠の資料であり、 日本の民衆に紹介すれば中国理解を深めることはほぼ疑いない。-----このディレンマをどう考えるべきか。この種の資料をどう扱うべきなのか?

私の結論は、こうです。中国との友好は、中国を十分理解することによって初めてゆるぎないものとなるであろう。日本人の中国理解を促進するものであるかぎり『万歳』 の翻訳は日中友好にとって長い目でみれば必ずやプラスとなるであろう。紹介してほしくないという中国側の見解と私の見解とが鋭く対立したわけですが、このとき、私が結論を下した基準は、日本人の中国理解を促進するか否かを第一義的に考える、ということでした。ここにもう一 つの問題があります。それはこの資料が権力・体制の側に握られていたという事実であり、私はこの意味を重視しました。もともとは中国側の資料ですが、 それがいま、その政敵であるところの台湾政府、より大きな政敵であるアメリカ、ソ連の権力側、そして日本の内調にある。権力・体制の側のみがその資料を握り、ほんとうに中国を理解し、中国との友好を願う日本の民衆の手にはその資料はない。これははなはだ不当なことではないのか、そこで私は、『万歳』を翻訳することによって、権力の側からその資料を奪い返すことを試みたわけです。それは決して権力との野合ではなく、むしろ権力との対決を意味すると考えています。私は内調とはいかなる関係もない。資料は内調から流れたもののようですが、私はアジ研でそれをみることができたというだけです。くり返しますが、 中国社会主義の精髄を理解するのに不可欠の資料が、権力の側にのみあって民衆の側にない現実を放置してよいのか否か。私のこのような態度を支持して、雑誌『日中』(七四年二月号)の須田禎一一周忌特集は 『万歳』をとりあげています。

須田禎一と「万歳』とどんな関係があるのかわかりにくいかもしれませんがこういうことです・須田はその絶筆「潮流に抗する」(『毎日』七三・九・ 一八)において、ある自己批判を行なっています。それは中共九全大会のとき、党規約のなかで、後継者名を指名したことに対し疑問を感じ、「筋が通らない」とする原稿を書いたけれども、「日中友好運動からの追放」を危倶する友人の「善意」に負けて、その原稿を没にしたことへの反省です。須田はその絶筆でこう書いております。「それが善意にあふれるものだったので、気の強いぼくもついに折れた。だが、ばくが友好運動から追放されたにしても、 それは小事である。やっぱり折れるべきでなかった。今度の十全大会では 〃後継者〃 ウンヌンはすっぱり削られた。ぼくは中国共産党員でも、日本共産党員でもないが、隣邦人民の一人として結構だと思う。流れのままに、そのときどきの旗色のよい方に拍手する生き方は、〃生活の知恵〃 とはいえまい。 それはサル知恵にすぎない。大衆追随は裏がえされた大衆蔑視である。大局にかかわる事については、自分に忠実に孤立をおそれず、 潮流に抗しよう」。さてこのような須田のことばを受けて、この特集の執筆者・岬暁夫氏(埼玉大学助教授・物理学者としてかって北京シンポジウムに参加、現在日中学術交流問題で奮闘中) は、「台湾情報の利用と中国研究者の基本姿勢」としてこう述べております。

「台湾情報のわれわれの手による公開が、日中友好運動にプラスかマイナスかを判断するには、日中友好の原点に立ち帰って判断すればよい。われわれの立場は明瞭である。 われわれの日中友好の第一義的課題は、日本の変革であり、それを抜きにしては中国人民との友好はない。繰り返す必要はないと思うが、われわれの日中友好は----それをわれわれは「真」の友好と呼びたいが----日本人民と中国人民の友好であり、とりわけ日本人民が、自国のなかに抑圧者を許し、その必然として人民をふくめた総体としての日本が他国を侵略している現状において、気恥しくもなく声高に日中友好を論ずることは、日本人民の倫理感が許さない、というふうな日中友好でありたい。従って、このような意味で台湾情報のわれわれの手による活用が、必要ならば、日本人民の利益を第一義的に考え、ためらってはなるまい。矢吹書による訳書「毛沢東政治経済学を語る--ソ連政治経済学読書ノート」は、 このような意味で現代中国を研究する研究者の基本姿勢を問うことになるであろう。台湾版『毛沢東思想万歳』の原本覆刻版出版---現代評論社発行---の意義は、これまで体制側の手に「捕獲」されていた毛沢東思想を人民側へ奪還する一歩を踏みだすことにあるといえよう。われわれは、毛沢東思想を、権力者がおのれをきたえるために利用することを許し、人民がこれを正面教師として活用することを許さない本末転倒した現状を、このまま放置しておいてよいだろうか」。この雑誌が出たのは、 七四年秋で、いまから一年半前であります。 同じ号に私が文章を書いていることはすでにお話したとおりです。私の立場。主張はおよそ以上のとおりであります。

つぎに私を批判したものとしては、 藤村俊郎氏が書評のなかで、 翻訳出版を「スッバ抜キ」であり、「節度を越えたもの」だと書いています。大谷竹山氏のやっている 『日中往来』(七四年○月号)では、匿名座談会でヤリ玉にあげられています。菅沼正久氏は『アジア経済旬報』七五年三月号、 九六五号において 「日中友好を妨げる逆流の側に立っていると思う」と書いています。

さて、わがS君は七四年一二月二六日、 第二“組合〃 の掲示板に「日中交流委ニュ−ス」第一号なるものを貼り、 次号で、『万歳』と矢吹を攻撃すると予告しましたが、 その後一年余り、第二号が第二 〃組合〃 の掲示板に貼られることはありませんでした。ただこの間、彼は怪文書をコピーしては新聞社、関係団体などに送りつけていたようです。現代評論社や龍渓書舎等にも何度かいやがらせの電話をかけております。 その後の経緯を申しますと三月初め、『しんろ』 三月号が発売され、三月三日付声明が「戴國W、矢吹晋のアジ研放逐にあたって」と題するものです。三月五日に私が公開討論会を申入れましたが、それが実現しなかったいきさつは、その申入れに立ち会った中兼和津次氏のビラ「中傷・誹誇の構造と論理」(二日朝配布)に明らかです。三月六日に私は三日付声明への私の主張を「覚書き」にまとめました。この「覚書」 に対し、三月八日付声明「矢吹ビラを駆し「辞海」など龍渓書書モノの総撤去を要求する---正々堂々たる日中学術交流の大道を歩もう」が掲示されました。続いて今朝の三種のビラ---岩田昌征・今井圭子・大内穂三氏の「〃放逐〃論批判序説」、山田睦男氏の「したくもされたくもない〃放逐〃 と“総監視〃」、それに中兼氏のビラが配布されたわけです。その後、今日の昼彼らが攻撃の焦点を戴氏にしばった掲示「問題の本質は何か」が貼られたわけです。第二 〃組合〃 の日中交流委員会の三枚の掲示および 『しんろ』 にみられる論理とかれらの行動の矛盾を指摘します。

まず彼ら(SI・HK両君)が中国で公表していない資料を使うべきででないと主張している点には一理あることを認めます。彼らが一貫してその立場を貫くのであれば、尊敬に値するかもしれない。ところが、彼らはこれまでその立場をとってきたわけではない。@文革期に紅衛兵新聞を集め、またアメリカから『紅衛兵新聞』のマイクロフイルムを買いアジ研の図書館に入れたのはH君なのです。H君はその後せっかく購入した資料を放置したため、私と加々美君が協力して「紅衛兵報総目」全四巻を編集したわけです。A文革期に 「紅衛兵新聞・大字報」 からなるコピーの「資料集」なるシロモノを作り、 神田の中国関係書店を通じて販売したのはS君であります。B動向分析部で編集した所内資料(但し編者名なし) 「中国主脳発言集」 (六八年三月)の主たる材料は、 「紅衛兵新聞・大字報」であります。Cそして、 先ほどアジ研で私より先に『万歳』を読んでいたというのは実はほかならぬH君なのです。彼らが『万歳』の入手経路を私よりも詳しく知っているのはまさにこのためです。 その彼が私を 〃追及〃 しているわけです。私は、彼らのように「一斉総監視」などをしたことはないし、 するつもりもありませんが、 研究所の同僚としてこの程度のことはすぐわかるわけです。 しかし、 私は彼がそれを読んだことを非難するつもりは全くない。私と「同類」でありますから。私が理解に苦しむのは、 彼らが自分の行動を棚にあげて私を一方的に中傷していることです。D彼らは私が六九年に台湾を訪問したことを攻撃していますが、実はH君もS君も台湾を公費で訪問しています。私はこの点についても直ちに彼らを非難しようとは思わない。しかし、自分たちの台湾訪問は棚にあげて、 一方的に私だけを攻撃するとはどういうことでしょうか。(中国研究者が台湾を訪問することの意味についてはここでは申上げません。 しかし、台湾でも民衆が生活している事実だけは忘れてはならないでしょう) 。

以上の五点だけからでも、 彼らの主張と行動は矛盾しています。百歩譲って、彼ら日中交流委の主張に理があるとしても、 彼らの主張に賛同しない者を「一斉総監視」 のもとにおき、「放逐する」という論理をどう考えたらよいでしょうか。私にはファシズムの論理、 魔女狩りの論理としか考えられない。「中国が公表しない資料を使う者」は「反中国」であり、「ソ連社会帝国主義の助演者である」とする論理も相手を納得させうる論理といえるでしょうか。彼らは私が「公明正大でない」などといっておりますが、私の書いたもの・作業はすべて研究者としての私の責任において、私の名を明らかにしてやっております。 いったい、彼らと私とのどちらが公明正大であるのか、皆さんに判断していただきたいと思います。 〃組合〃 の掲示板を利用し、正体不明の日中交流委なる隠れミノを用い、 あるいは怪文書、怪電話をかけ続けたS・Hの行動と私のそれとを比べてみて下さい。彼らの無節操。無責任・非論理は明らかではないでしょうか。 これはもはや資料の扱い方、 日中交流のあり方にかかわるレベルの問題ではなく、彼らの人間としての品性の程度にかかわる問題です。

残された問題に簡単にふれます。私は戴國W氏の立場に深く同情しております。 『万歳』と戴氏は全く無関係であるだけに、ますます、『しんろ』 のデッチ上げに腹が立ちます。戴氏は外国人であるため、政治活動はできない。いわば手足を縛られたまま、殴られ、ツバをかけられているようなありさまです。戴氏は台湾出身者であり、中国人の一人であります。最も身近な中国人であり、しもこれまで十年近く同僚であった戴氏をかくも傷つけることによって行なわれる 〃日中交流〃とは、 いったい何でしょうか。この種の中傷・誹誇によって日中交流を発展させることができるでしょうか。私は戴さんとの交際のなかで、彼がこの程度の攻撃に屈するほど弱くはないことを知っていることがせめてもの慰めですが、私としては、自分のために、戴氏のために、ァジ研の仲間のために、そして真の日中友好のために、 SI・HKのごとき卑劣な男どもをきびしく糾弾します。アジ研を離れてからも闘い続けていく決意であります。ご静聴ありがとうございました。

参考資料−−−訳者から読者へ                矢吹 晋

原載『北郊文化』74年10月1日号

毛沢東がソ連の 『経済学教科書』 に対してくわしい 「評注」を書いているという話を聞いて私はぜひとも読みたいものだ、と数年前から待っていました。 私はある研究所に勤めており、 そこで中国経済の既究をすることになっているのですが、実際には「矛盾論」を読み返してみたり、文化大革命について雑文を書いたりするばかりで、 なかなか「経済の研究」 にとりかかる糸口をつかめずマボロシの「評注」を追い求めてこれさえあれば、と考えていたわけです。もちろん、 この「評注」 がなければ、 経済の研究ができないというのではありませんが、 ナマケモノの私は、てっとりばやい一冊の本を、果報は寝て待て、の調子で待っていたというのが正直なところです(こういう考え方は少なくとも「毛沢東思想」に反するものですが六○年代前半の劉少奇路線をこれこそ毛路線であるとか、 一転して、やれ林彪時代であるとか、周恩来時代であるとかネコの目の変わるように変わるわが国の中国論にウンザリさせられていた者の一人として、 ホンモノの毛沢東路線とはいったい何なのか、多少時間をかけてつかまえてやろうという気にならざるをえなかったのは、 ムリからぬなりゆきでした)。さてことしになって待望の原書(「毛沢東思想万歳」 一九六九年版覆刻版)を読む機会を得て、そのおもしろさに興奮しつつ、手当り次第に人をつかまえてはその内容を紹介しているうちに、そんなにいい本なら訳してみては、と中国語の読めない友人からすすめられ、ナマケモノの私には珍しく一○日ほどかかって訳したのがこの本です。実は訳してみたもののこの訳がいきなり本になったわけではなく、 はじめ私の研究所の内部用研究資料としてタイプ刷りで少部数印刷したのですが、 圧倒的好評でまたたく間に品切れとなり、その一部が編集者の目にとまり、活字になった次第です。タイプ刷りを読んだ読者からは暖かい励ましのことばをたくさんいただきましたが、 同時に強い反発・反感をもつ人々もごく一部でしたが現れました。 その理由は、この原書は中国が公表したものではない。中国が公表していない資料を使う人間は反中国的であり、 日中友好の精神に反するということのようでした。「ようでした」というのは、私に対して直接こういった人はなく、すべて口コミで間接的に伝えられたものなので、 その真意は、 よくわからないのです。 しかし、 こういうウワサが一部で広く行なわれたことは事実であり、 私はそのことを非常に残念に思っています。私はこの十余年、いわゆる日中友好運動を組織的に行なったことはありませんが、 真の日中友好とは何かを考え続けてきた点では人後に落ちないつもりですし、私なりの努力は小さいながらも試みてきたと自負しているわけで、 少くとも日中友好に反することはやっていないつもりです。私の考えている日中友好と、私(のようなチンピラ)を暗闇から批判しているらしい人々の日中友好とは、どうやら中身がちがうらしいのですが、どちらが真の日中友好であるかの判断は、結局のところ日本の大衆の判断に委ねるほかはないでしょう。そこで私としてはさしあたり、私のつたない訳をお読み下さる読者に対して、この本を読むことが中国社会主義の理解にとってプラスか、マイナスかを判断してほしいと切望しています。中国への理解が深まれば深まるほど、ゆるぎない日中友好への道が開けるものと思います。さて、 せっかくの紙面を毛沢東の政治経済学とは直接かかわりのない、 はなはだ次元の低い(?)話で埋めてしまったのは、この新聞の読者に対して申訳ないことでしたが、私としてはどこかで一言いっておきたいとかねて思っていたものですから、 つい編集者の好意に甘えることになりました。最後になりましたが、 この本は毛沢東がソ連の 『経済学教科書』を徹底的に批判しつつ、「社会主義への中国の道」を追求するために書いたもので、中国における社会主義建設の理念を知るうえでも中国のソ連修正主義批判の論点を知るうえでも、毛沢東の思想方法、 工作方法を知るうえでも、最も基本的な文献の一つといってよいでしょう。 どうかご一読下さいますよう。

(追 記)その後三月十五日までに配布さたたビラはつぎの通りである(三月十五日 矢吹晋)

三月十二日配布 石井 章氏「労働組合の名による人身攻撃をやめよ」、三月十五日配布 岩佐佳英氏「本つくりの立場から----『しんろ』 三月号真田論文を読んで」、五百部印刷