華人社会に暮し日僑社会を考える

『中央公論』19741月号182-191頁、

日本人社会が「日僑社会」としてとどまるかぎり 反日の流れは大きくなっても消えることはないだろう。華僑社会の変貌から学ぶべきものはなにか

華僑論ブーム

「中国ブーム」の次は「東南アジアブーム」らしい。むろん広がりはぐっと小さいのであるが。そして「東南アジア」 が語られる場合、よく引合いに出されるのが「華僑・華僑経済」---である。世界に冠たるエコノミック・アニマル日本人(だれかがふとつぶやいた自嘲あるいは悪口が、いまや文化交流を論じた外務省の白書にまで登場している。好んで使うわけではないが、私だけ使わないわけにもいくまい)も一目置くスーパー・エコノミック・アニマル、あるいはウルトラ・ホモ・エコノミクス。「華僑」という日本語には、こういうイメージがある。『華僑のビジネス』『第三国人の商法』といった類の本が、売行きのほどは知らないが、相次いで出版されたのも、日本人の「華僑」 イメージをある程度反映するものであろう。「華僑」はまたしばしば「東洋のユダヤ人」とも形容される。亡国の民となり金だけを頼りに生きる守銭奴というほどの意味である。

これらの表現、それによって形づくられるイメージが当事者にとって不愉快なものであろうことはいうまでもないが、「華僑」(註1) に関する限り、最初にこうしたイメージを作り出したのは、どうやらマラヤ半島のイギリス人であったらしい。「羊を飼うのはイギリス人だが、乳をしぽるのは華僑だ」----19世紀末からマラヤ半島に急激に拡大された天然ゴムの白い樹液は、しばしばミルクにたとえられ、この樹液を運ぶためにはりめぐらされた道路はミルキー・ウェイとも呼ばれたが、この貴重なミルクを「華僑」がみな飲んでしまう、とイギリス植民者は非難したのである。ミルクどころか、マラヤ労働人民(マレー人・華僑・印僑)の血と汗を飲み込んで太りつづけたのが誰であったかは、歴史をひもとくまでもなく明らかだが、相手を先にドロボーといってしまえば、自分はドロボーでなくなるような錯覚を巧みに利用したことになる。

一足遅れてハウスニガーの地位まで登りつめた小イギリス=日本は、先輩のやり口を実にていねいに模倣し、それ以上にくわしい虚像を作り上げた。

いささか乱暴にすぎるいい方かもしれないが、私は日本で行なわれている華僑イメージを多少デフォルメしてみたまでのことである。ところでこの華僑論ブームは今回が初めてではない。

戦前、南洋華僑社会に対する関心がピークに達したのは、太平洋戦争の前夜である。朝日新聞社は「昭和一七年二月シンガボール陥落の日」を期して「朝日新選書」を出版しているが、この叢書の一冊に当時東京商科大学(現一橋大学)の教授で、「支那研究」 の大家の一人であった根岸佶(ただし)の『華僑(衣集)記』がある。

序して曰く、「地広く物饒き略々支那に譲らない南洋は、七百余万の華僑の掌中にありと伝へられた。実に重慶政権は彼等に頼り纔かに余喘(よぜん)を保ち、散(ママ)て蟷螂の斧を揮ってゐる。また今次の聖成に依り、南洋は皇国の鴻猷たる大東亜共栄圏の一大南翼となった。それで、対華僑策なるものが急務となり、華僑研究なるもの忽諸に付すべからざることとなつた。

皇国に於て華僑研究の行はるること実に久しい。最近に及んでその研究が白熱化した。有益なる著書前後に輩出したこと同慶にたへぬ。余も亦職域奉公の志あり、華僑の諸事情を知らんと欲し、しかも浩瀚なる載籍を読むに暇のない各位のため、簡易平明なる一小冊子を編纂し、之を華僑雑記と名けた。

惟ふに華僑が南洋に於て勢力を得たのは、母国の配給機構をそのまま茲に移し、その網網を総覧するに由る。また彼等の歓迎を受けたのは、欧洲人や原住民の企て及ばない資源を開発したためである。皇軍が既に南洋を綏定した今日、深く華僑の政治的活動を憂ふるに足らぬ。唯慮るべきは華僑の特長に顧み、彼等をして南洋に於ける資源開発と物資蒐集に努めしめ、大東亜共栄圏の一成員たるべき職責を尽さしむることでなからうか。本書を発刊するに臨み、一言以て献芹の微意を表する。」

この序文は当時の雰囲気をあますところなく語りつくしているように思われる。 いくつかの意味ではなはだ興味深いが、ポイントが @彼等をして南洋に於ける資源開発と物資蒐集に努めしめ、A大東亜共栄圏の一成員たるべき職責を尽さしむる、ことにあったことは明らかである。

さて戦前にこのような遺産(正・負を含めて)をもつ日本の戦後の研究はどう再出発したであろうか。戦後の研究は、約一五年間の空白期を経て、六○年代初頭から再開されたが、「最近に及んでその研究が白熱化」 してきたらしい。しかし、「有益なる著書前後に輩出した」といえるかどうかは疑問なしとしない。というのは、戦後の華僑研究と戦前のそれとの関係がはなはだ不明確だからである。戦前の華僑研究は、膨大な費用と人員とを投入し、かなりくわしい研究を行なっている。その蓄積の批判的総括のうえにこそ戦後の研究は出発すべきであったにもかかわらず、空白期の10余年の間に戦前の研究評価はおろそかにされ、六○年代初頭以降、南進する日本資本主義の需要に応えるべく、戦前の研究の一部が再度動員されることになった。

戦後日本における「華僑論」ブームの背景を鋭く注視している東南アジアの一角から、次のような見方がでてきている。

----戦後日本の南進論学者の目には、東南アジアの華人は依然として他郷に仮住まいし、中国に忠誠を誓う「華僑」と映っているらしく、「華僑問題」の専門家が日本では十分やっていける職業となっている。華文が理解でき、中国大陸の巨大な変革を「見るに忍びない」一部「学者」たちが、最近いずれもつぎつぎと商売替えをして「華僑問題」をやるようになったことは、日本の南進路線のうえで「華僑」がきわめて高い評価を受けているためである。「華僑利用論」ないし「華僑対決論」なるものは「けだし流行の論題なのである----(遥雲「日本の"アジア通"の東南アジア論を評す」シンガポール『星洲日報』一九七二年一○月一三日付。邦訳は『朝日アジアレビュー』一九七三年第二号による)。

私自身は「華僑問題」の専門家ではないし、中国大陸の変革を「見るに忍びない」と 考える者でもないが、東南アジアで二年生活し、 日本・中国・東南アジアの関係につい て関心をもつ者の一人として、ささやかな体験を書きつけておきたい。

日本の「華僑」論ブームに対して、東南アジアからこのような反発・警戒が起こる理由はどこにあるのだろうか。むろん、現在の南進する日本資本主義が東南アジアの各地でさまざまの摩擦を生じさせている事実をさしあたり指摘できよう。しかし、不信感の底流にあるのは、やはり「大東亜共栄圏」のいまわしい悪夢であるようだ。私のような戦後派には戦争の記憶はほとんどなく、わずかに戦後の食糧難を想起する程度なのであるが、東南アジアでは意外にも、あるいは当然のことかもしれないが、若者を含めて日本占領時代のことをよく知っているのである。

この差はおそらく、日本人が戦争を忘れようと努力してきたのに対し、東南アジアでは忘れまいと努力してきたからなのであろう。忘れる、忘れないという意識のほかに、戦後の日本経済社会が戦前とくらべて大きく変化し、他方、東南アジアは基本的には農業社会であるため、変化が小さく、村の片隅に旧日本軍のトーチカが残っていたり、Aさんの父親は日本軍に殺されたというような話が、具体的な顔として残っていることも忘れられない条件の一つである。サラワクのミリという町には、日本占領軍の掘鑿した油井が今なおギィーッギィーッと動いている。

シンガポールの場合は、皮肉なことに戦後十数年経たのち、日本の「経済協力」用ブルドーザーがかって虐殺した白骨を掘り起こすことになり、いわゆる血債問題が再撚した。一九六七年二月「日本占領時蒙難人民記念碑」の除幕式が行なわれてようやく一段落したのもっかの間、これまた皮肉なことに、このころから、新しい日本批判---軍国主義批判が起こってきた。東南アジアに広がる日本批判をはじめは無視していた日本政府も、 ついに一九七一年文化使節団を派運するに至った。

現地国では「経済侵略」の矛盾を「文化交流」で糊塗しようとするものと警戒的な見方が大勢を占めたが、使節団自身はどうみたであろうか。東南アジア文化使節団のあるメンバーはいう。

「こうした事態(東南アジアと日本との間の心の隔たり)の原因は、同じアジアの国のものよりも、遠い欧米諸国の文物の移入にばかり熱心であったわれわれアジア人共通の旧弊に基くものであるが、その責は日本の方が多く負わなければならないであろう。戦争中は軍隊で押し入り、最近は経済的に異常な速度で進出しながら、それ以外の面での心の触れあいに対してほとんど意を用いなかったことの報いを、行く先々で思い知らされた。日本の驚異的発展に目を見張り、それを見習いたいと願う一方、日本人の強引な営利追求主義と現地人無視の生活態度に対する警戒心はもとより、憎しみさえ持ち始めているのである」(外務省「国際文化交流の現状と問題点」 一九七三年)。

ようやく事熊の深刻さに気づき始めたようである。本稿ではまず「もはや中国に忠誠を誓う〃華僑〃 ではない」と主張する華人社会の変化をとりあげ、次いで日本人社会のいくつかの問題をとりあげることにする。

華僑から華人へ

華僑社会は二重の意味で近代帝国主義の産物であった。 一方では一八四○年のアヘン戦争以後、中国封建社会の解体を促進し、無数の土地なき豊民を作り出したのは、イギリスを初めとする帝国主義諸国(日本を含めて)であり(移民の供給側要因)、他方これらの労働力を、あるいは仲介商人として、あるいは鉄道建設、スズ鉱山などの労働者として需要したのも、ほかならぬ帝国主義諸国とその植民政策であった(移民の需要側要因)。

むろん華僑社会はアヘン戦争以前にも存在したのであり、華僑とマラッカ王朝との関係、鄭和のアフリカ遠征など中国と南洋とは歴史上深い闘係をもっているのであるが、 これは鎖国以前の南洋日本人町と同じく近代の華僑社会の問題とは区別して考えていい。帝国主義者たちがインドシナ、マラヤ、インドネシアなどの国々で華僑なり印僑なりを利用したのは、必ずしもそれらの国々の労働力の質の問題にかかわるものではなく、むしろマレー人、イシドネシア人などがそれぞれの封建社会のなかで自給自足的生活を送っていたために、華僑や印僑とちがって植民政策に積極的に協力する必要がなかったからにほかならない。こうして彼らは伝統的な農村社会にとどまることになり、その上に華僑、印僑社会が成立し、この三者(あるいは印僑を除く二者)を分断支配することが植民政策の要諦となったのである。この相互に分裂した社会は、経済的分業をその基礎としただけではなく、地域的にも離れて生活し、労働するというモザイク的社会であった。たとえばマラヤ半島の場合、マレー人の大部分が豊民として農村に住み、印僑の大部分がゴム・プランテーション、鉄道の労働者として働き、華僑の大部分がスズ鉱山労働者、仲介商人として生きた。少数のマレー人上層がイギリスの植民地行政に参加して特権を享受し、少数の華僑・印僑ブルジョアジーが帝国主義のエイジェントとして豊かな生活を保証されたわけである。

華僑社会は対マレー人、インド人社会との面で分裂していただけでなく、対内的にも分裂していた。いわゆる幇bangである。幇とは主として地縁・業縁(職業が同一)の原理で結ばれた集団であるが、たとえばシンガポールには、福建、潮州、広東、客家、海南、福州・三江などの幇があり、それぞれ相互に通じない方言を話し、相互に異なる職業に従事し、相互に異なる地域に住んでいた。今でもシンガポール放送は、華語の標準語のほか、(門虫)南(いわゆる福建語)、潮州、広州(いわゆる広東語)、客家、海南(瓊)、福州(榕)の六つの方言でニュースその他の番組を放送している。

このほかにマレー語、タミール語(インド人のため)、英語による放送があるわけで、全部で10種類のことばを使っている。イギリス植民者は幇の有力者に治安判事Justice ofthe Peaceなどの称号を与え、彼らを通じて華僑社会を分断し間接支配に努めたのである。こうしてマレー人、華僑、印僑社会が対立、衝突したのみならず、華僑社会内部においても、武力による衝突(械闘)がしばしば発生した。

幇自体は、「棄民」としての華僑移民が自らの生活、職業を団結して防衛するために組織したものであるが、それが一○○年以上も生き永らえたのは、植民政策と密接な関係がある。

一九四二年から四五年八月までの日本占領時代(彼らが「三年八ヵ月」というのはこの時期のこと)はイギリスとは逆の意味で分断支配であった。日中戦争の拡大する過程で、英中は同盟国となり、 イギリスは華僑社会の「援華抗日」運動を支持するが、マレー人社会の反英独立闘争にはきびしい弾圧をもって報いる。日軍はマレー人社会に対しては「白人支配からの解放者」として接し、逆に「敵性国民」華僑をきびしく弾圧する。「五千万円奉納金」問題(注2)、「検証大屠殺」(注3) で知られるのはその一例にすぎない。しかし、ムチとアメの政策のもと、日本軍政に協力した華僑も少なくなかった。彼らは日本敗退後、しばらくは「日かげの花」となるが、一九六○年代以降再び浮かびあがってくる。

第二次大戦後、状況は一変した。一方では中華人民共和国が成立し、移民の流出が停止した。他方、従来の植民地国----仏印・英領マラヤ・蘭領東印度などが相次いで独立し、新しい国家建設が始まった。華僑は従来の亡国の民とちがってそれぞれの独立国家の公民として国家建設に参加することになった。

彼らは中国語を国語でなく華語と呼び(国語はマレー語、インドネシア語等になる)、自らを「華僑」でなく「華人」と規定し、「中国の在外公民」としてではなく、 シンガポール、マレーシア、インドネシア、フィリピン、タイなどの国民として生きる道を選択しはじめた。しかし、この転換は必ずしも容易ではない。華人民衆の側に中華思想は依然根強く、他方新興国家の当局者はたえざる華人抑圧政策に加えて、その支配体制が危機に瀕するや、華人をスケープ・ゴートに仕立てあげ、 階級対立を人種問題にすりかえるような煽動を行なうため、一九六五年のインドネシア九・三○事件、 一九六九年のマレーシア五・ 一三事件のように不幸な衝突が依然なくならない。

これらの衝突あるいは弾圧が「華人化」への努力を妨げ、相互不信の悪循環となっている側面も否定はできないが、大勢としては、「華人化」への道を歩みつつあるとみていい。「華人化」とは現地社会への「同化」あるいはいわゆる「現地化」とは異なり、華人系マレーシァン・華人系シンガポーリアン、華人系インドネシアン、あるいはマレーシア華人・シンガポール華人・インドネシア華人として、自らの母語・文化を保持しつつ、国語を学び複合他民族の言語文化を尊重して対等の原則のうえに国家建設に参加してゆこうとするものである。このような「華人化」路線はしばしばマレーシア・ナショナリズム、インドネシア・ナショナリズムと衝突するが、たとえばマレーシアの場合、マレー人・華人の人口比はほぼ一対一に近く、完全なマレー化などとうてい不可能であるし、比較的同化の進んでいるといわれるタイでも華僑を口実としたクーデタが一九七一年に発生したという事実は、同化の不足が問題なのではなく、「華人=中国の第五列」説がそもそも階扱の問題を人種対立にすりかえている現実を何よりも雄弁に物語っているとみるこどができる。

華僑資本はかつて絶えず安全を求めるビヘイビアのため流通資本にとどまっていたが、華人資本化して以後、懐妊期間の長い産業資本化への動きが徐々に進みつつある。シンガポール工業化の担い手の一つは、この華人資本である。華人が現地政権から抑圧されるとき、華僑化に逆戻りし、中華意識が復活するが、中国は有効な保護手段をもたないし、むしろ華人化の進展を期待している。このようなディレンマのなかで、華人の心はゆれ動き、東南アジア唯一の華人多数派国家シンガポールの存在に目を奪われる。この国は少なくとも華人であるが故に弾圧されることはないが、さりとて近隣からの華人を収容する余裕はない。結局、日本円にして三千万円を払える金持だけが、シンガポール市民権を買え、数多くの華人プロレタリアや中産階級にとっては、ひたすらそれは憧れる対象となるにとどまる。国家よりも地域社会を上におき、生活しやすい国で生きようとする「華人的国家意職」、子弟の留学国を分散させ−種の保険となし、たえず世界情勢に敏感な反応を示す「華人的国際性」、中国の国連復帰を誇らしげに思いつつ、香港・シンガポールの低俗文化にひたっている「華人的文化意識」----これらはすべて矛盾そのものではあるが、彼らの社会の多様性、重層性は単純そのものを絵に描いたような日本人社会のまさに対極にあるように 思われる。

戦前の日僑社会

「落葉帰根」の華僑社会から、「落地生根」の華人社会へと、彼らの社会は大きくかわりつつあるが、わが日僑社会のほうはどうであろうか。初めに戦前の日僑社会をスケッチしてみよう。次の引用は戦前の日本移民が、当時の華僑とあまり違わない状況にあったことを示している、

「日本とインドネシアの経済関係は、日露戦争後の行商人の進出当時にまでさかのぼ る。これらの行商人は、『仁丹』に代表される薬品や衣料、雑貨をかついで、インドネシアの各地をまわり、その地で小資本をためると『トコ・ジュパン』とよばれる小売店を各地で開いた。かれらは現地社会にとけこんで、住民の信頼を得た。戦前のピークには、八○○○近い邦人がインドネシア各地で店舗をもち、なかにはゴム栽培など農園企業に投資する者もいた。初期の堤林数衛と小川利八郎、 およびスラバヤで千代田百貨店を開いた岡野繁蔵、ジョクジャカルタ富士洋行の沢部磨瑳男、クトアルジョの金子憲次などが知られている。かれらを通して一九三○年代には綿製品を中心とする日本製品が大量にインドネシアに輸出され、蘭領東印度の日本からの輸入額は、一九三○年代中期には、オランダをしのいで世界第一位となった」(土屋健治「インドネシア」『東南アジア・ハンドブック』所収、毎日新聞社、一九七二年)。

「仁丹」等の行商から始まって小金をため、雑貨店を開き現地社会にとけこむ----このパターンは華僑のそれと全く同じである。私がマレーシア東海岸の漁村で、あるいはサラワクのカピ町で、そしてインドネシアの古都ジョクジャカルタ郊外で見たり聞いたりした話、ある華僑がどうして村の雑貨店を開くに至ったかの物語と全く同じといっていい。他方、運よく資金を用意できた人々が、ゴム農園を経営するという部分も含めて同じだ。なるほどゴム園で働くクーリーのような労働者は少なかった。文字通り裸一貫という男子労働者は少なく、何がしかのもとでを持っていたという意味でpig trade の対象であったまさに豚の子同様の華僑よりは、恵まれていた。しかし、女性の場合には肉体以外に売るべき物をもたない人々もあった。からゆきさんがそれである。

かつて森繁が演じて評判になった稀代の女街伝『村岡伊平治自伝』(南方社、一九六○年)に次の一節がある。

「(女どもは)国元にも手紙をだし、毎月送金する。父母も安心して、近所の評判にもなる。すると村長が聞いて、所得税を掛けてくる。国家にどれだけ為になるかわからない。主人だけでなく、女の家もまた裕福になる。そればかりでなく、どんな南洋の田舎の土地でも、そこに女郎屋がでけると、すぐ雑貨店がでける。日本から店員がくる。その店員が独立して開業する。会社が出張所を出す。女郎屋の主人もピンブ(嬪夫)と呼ばれるのが嫌で商店を経営する。一カ月内外でその土地の開発者がふえてくる。そのうちに日本の船が着くようになる。次第にその土地が繁昌するようになる」。

山崎朋子『サンダカン八番娼館』 によると、村岡伊平治の記述には史実に合わぬ部分が少なくない由であるが、この一段に関する限り、日本植民政策と女郎屋の関係を語りえて妙である。山崎の『サンダカン八番娼館』は私には実におもしろく、聞取り調査のやり方を教えられたわけだが、ここで彼女の本から次の一節を孫引きしておきたい。

「サンダカンの一名物たる彼のお国婆さんを見舞ふことにした。其の容貌は誠に柔和な、少し長みの顔をして居て、特徴としては右の顎に小豆大の痣があり、其の端から三吋許りの長い白髪が三本程生えて居ることであった。お国婆さんは、其の身終始娘子軍の隊長の様な生活をして居たにも似ず、仲々の愛国家で、先年南支南洋一帯にわたって起った、日本品ボイコット当時の話を此の婆さんから聞いたが、其の一端にも彼女の面目が躍如として居る。『あの時は、ほんにひどうござりましてな、ちやんころの奴が日本品だと言ふと、片端からどしどし焼いて仕舞ひますばい、妾はあいつらに、そげい、いらん品なら妾に呉れんかい、妾に其れを呉れたら妾はお前等が幸福になるやうに神様に祈ってやるばいと申しますると、彼奴等(きゃつら)も、私等は真から日本品を排斥する心は無いが、仲間からやかましく、言はれるから仕方が無いと言ひますばい、 其れを見る妾は真に口惜しくって口惜しくって、若し妾が男であったら、彼奴等の十人許り突き殺してやり度いと思ひましたぱい』と、当時を思ひ出したと見えて涙を流して斯う語るのであった」(田沢震吾『南国見たままの記』)。

田沢の南国紀行は大正十一年、一九二二年刊であり、この日本品ボイコットが、中国の五四運動―--シンガポールの反日デモ---サンダカンと波及したことは明らかである。この意味で実に興味深い引用であるが、私にとってより興味深い---日僑社会の原型を探るという意味で---のはむしろ次の点である。

田沢の描く「お国婆さん」像と、『サンダカン八番娼館』に流れるおクニのイメージとは若干ちがう。田沢によればおクニは「仲仲の愛国家」で、日貨ボイコットの「支那人」「十人許り突き殺してやりたい」と思い、そのくやしさに「涙を流す」のであるが、おクニの養女おサクによればこうだ。明治22(1889)年おクニがサンダカンに向かう船上で、「広東生まれの支那人」と知り合い、その紹介状こそカフェー(実は娼館)を開業する糸口となったのであり、その後も酒やコーヒーの仕入れ、空き瓶の引取りはこの「支那人」が扱い(当時彼女は、唯一の日本人であった)、後に彼も成功し、二人はたがいに「ママさん、達者か」「タウケ」(頭家・ミンナン語で地主あるいは商店の旦那の意)と呼び会う関係になる。要するに、「支那人や土人にも本気で尽くして」(山崎著、214頁、217頁)いたらしく、こうした人間関係に包まれていただけに、晩年「日本には帰ろうごたなか」(山崎著、130頁)といい、サンダカンに没するのだ。

むろん、おクニは「日本の南遣艦隊が湊にはいったときには、将校から水兵にまで到れり尽くせりにして」(山崎著、217頁)サービスしたのであり、決して「愛国家」でないとみるわけではないが、彼女と現地社会との交流の深さから想像すると、「十人許り突き殺してやりたい」というのは、田沢の感情移入のように思われるのであるが、どうであろうか。とはいえ、この聞き取りを試みた山崎自身、おクニさんの「心の秘密」については保留しているのであるから、乏しい材料をもとに断定することは避けなければならないが、私としては、この辺に「華僑」ならぬ「日僑」の原型をとらえたいと考えている。このような「華僑」と「日僑」との平和共存が破壊されるのは、1931年9月、日本が「満州国」を作ったときであり、さらに決定的になるのは1941年12月、日本が太平洋戦争に突入したときである。

日中の不幸な歴史は、正確にいえば1894年の日清戦争に始まるというべきだし、日本の対華21カ条要求に端を発する五四運動の波が南洋華僑社会に波及し、たとえばシンガポールでは華僑労働者、学生の反日デモが英植民地警察と衝突する事件(シンガポール『中華総商会60年史』)も発生したこと、1925年の5.30事件の影響なども無視するものではないが、1920年代ごろまでは、日僑、華僑は矛盾、緊張をはらみながらも共存していたのである。

すでに日本は帝国主義段階に入っていたとはいえ、このプチ帝国主義は1920ごろまで海外売春婦の送金を蓄積の一部とせざるをえない状況にあったし、他方南洋華僑社会の「援華抗日」運動は満州事変を機に盛り上がるのだ(この「援華抗日」運動は、1941年12月以降、運動の中心地マラヤでは「衛馬抗日戦」運動(マラヤ防衛を通じて抗日)として発展する)。

ここで特に指摘しておきたいのは、以上のような状況にもかかわらず、祖国の半植民地化過程で土地を失って海外に流浪した中国人と帝国主義国家の最底辺に生きる日本女性との間には、しいたげられた貧しい者同士の連帯感がまだ存在したことである。

劉継宣、束世徴『中華民族拓殖南洋史』(商務印書館、1934年8月)は、1920年代後半からの日本移民、日本南洋(英領マラヤ、蘭領東インド、米領フィリピン)貿易の急増を指摘し、日本はやがて華僑にとってかわり、さらにはイギリス、オランダ、アメリカを駆逐するであろう、と警鐘を乱打しているが、この記述は逆にそれ以前の相対的安定状熊を裏付けているとみることができる。 また同書は、日本移民政策の特徴として、@政府主導、A専門家の指導、B国内数十の南進援助団体の存在をあげ、華僑とのちがいを論じている。たしかにこの指摘のとおりであろうが、これらの特徴が十分発揮されるのはむしろ戦後の南進であるといえよう。この意味では、戦前の日僑社会はある程度まで華僑社会との同質性をもっていたとみていい。

日人社会への展望

戦後十余年の空白期を経て、 日本資本主義は一九六○年初頭から再び南進運動を始める。あれからすでに十余年、新たに形成された東南アジアの日僑社会は、語の本来の意味で日僑(仮住いの日本人)社会となりつつある。

戦前の日僑社会がからゆきさんをも含み現地社会とかなり深くまで底辺レベルにおいても交琉していたのとくらべて、戦後の日僑社会は表面的な交琉に止まっている(にもかかわらず、経済大国としてより大きな影響力を行使しうる立場にめるから危険なのである)。

戦後割合早い時期に東南アジアへ進出した商社や中小企業の製造業などは、まだくすぶる反日ムードの中で慎重な行動をとらざるをえなかったし、戦後の混乱を土着化することによって生きぬいた元皇軍兵士その他の日系東南アジア人を、必要に迫られて現地採用の形で利用した。この段階ではまだ東南アジ アに日僑社会は成立しなかった。ところが「日本資本主義の南進が本格化するなかで、商社はエリート社員を大量投入し、製造業その他の分野でも大企業が進出するようになると、かつての日系東南アジア人は存在理由を失うことになった。半現地化した彼らの生活・労働のテンポと、本社採用のエリート社員の論理と行動とが矛盾するだけでなく、本社採用の要員が必要を充足するだけ増員されたからである。さらに日本資本は、その高い生産性・競争力のゆえにアジア市場への進出が容易に可能であった。極言すれば、購・販売努力はたといゼロであっても、日本資本に原料を売り、商品を買い、そのもとで働く現地従業員が増加することになったのである。

こうして日僑社会が成立すると、それは現地社会から遊離した形で一人歩きを始める。東南アジアに住む日本人が増加すればするぼど、現地の民衆との接触は拡大するどころか縮小するというパラドックスが生まれる。 つまり、よくいわれるように、JALで飛び、日本資本経営のホテル(あるいは日本人コロニー)に住み、 日本料理屋だけで日本式宴会をやり、日本人クラブにたむろし、日本人同士でゴルフをやる、といったぐあいである。私がシンガポールで知りあったある日本人小学校教師は、生徒の作文を見るたびにウンザリしているとよくなげいていた。つまり、生徒の作文の内容が全く同じだというのである。

「日曜の朝、パパはアイランド・カントリークラブでゴルフ、 ママはゴルフ場の中にあるボーリング場でボーリング、私はその隣のプールで水泳。午後は伊勢丹デパートで買物、夜は日本人だけで日本料理を食べました」。

この日僑社会は東南アジアの人々はもとより、日系東南アジア人をも排除する。たとえばシンガポール華人に嫁したある日本人女性は次のように書いている。

「そのうちに、日本人がだんだんふえるにしたがって、トラブルがふえて来た。日本人が国際結婚をした日本女性をノケ者あつかいにするのである。私は主人が有名人の息子であるというので、ホンコンの日本人クラブに入会させていただいたが、 ほかの人たちは入会禁止であった。それならばと、私は私の同胞である、たったひとり異郷に嫁に来ている女性たちのために、桜会という会をつくって、互いに助け合うことにしたが、わずかな日本人をのぞいては、ホンコンに赴任していた日本の方たちには思いやりが感じられなかった」(胡暁子『国際人へのパスポート』番町書房、一九七三年。なお、著者は当時香港に住んでいた)。

七二年五月、ジャカルタに住むインドネシア人に嫁した日本人女性が、ジャカルタの日本人クラブは彼女に日本語新聞の閲覧さえ許さないと投書していたのをご記憶の読者もあるだろう。

七二年秋、パリに次いでデュッセルドルフにも日本人小学校が設けられたという報道に接したが、東南アジアの大都市にはいずれも日本人学校があり、欧米での少なさと著しい対照をなしている。これは欧米に住む日本人たちがいかに「現地化」に努力し、他方東南アジアに住む日本人がいかにそれを拒否しているかを端的に物語っている。つまり英語やフランス語の学習には熱をあげるが、タイ語やマレー語には背を向ける。二、三年という東南アジア滞在、日本におけるその有用性を前提とすれば、彼らのこうした選択はいちがいに批判できないのであるが、こういう側面に、日本と東南アジアとのつきあい方が、欧米とつきあうときとくらべて全く異なっていることがはっきり現われている。

市民生活のレベルで没交渉であるのみならず、日系企業内部においても、その断絶は驚くほど深い。フリンジ・ベネフィットを重視した年功序列的賃金制度、明確な作業マニュアルに基づくのでなく、on the job trainingを主体とした「日本的温情主義」的労務管理が現地でスムーズに槻能しているとはいえないし、日本人職員は自己の月給を現地人従業員に知られることを極度に恐れているが、彼らは日本人の高給ぶりを生活の観察を通じてすでに知っている。

このようにみてくると、反日論・反日運動にはそれぞれ根拠のあることが明らかである。七二年のタイ反日デモの直後、あるいはインドネシア学生団体の動きに対して日系大企業が競って奨学資金などの寄付申入れを行ない、「寄付アニマル」の異名をとったと伝えられるが、このような形での矛盾の解決は、さらに大きな矛盾を生むであろう。

シンガポールのある日系企業責任者は、「アニマルからバクテリアヘ」と呼びかけている。氏は在シンガポール十余年の経験をもとに、氏なりの現地化路線を提唱しているのであるが、 日本人社会が日僑社会としてとどまる限り、反日の流れが大きくなっても消えることはないことを身にしみて感じた経営者の発言である。

日僑社会から「日人社会」 への脱皮のために、われわれが華人社会形成への教訓から学ぶべきものは少なくないと私は考えている。

註(1)「僑」とはもともと「外国に仮住いする」の意。第二次大戦後「華僑」の大部分は中国国籍を放乗して、現地国の公民となる道を選び始めた。これを「華人」という。

註(2)日本占領軍は一九四二年、華僑社会に対し 五千万マラヤ・ドルの強制寄付を要求した。当時 マラヤ・ドルの発行残高が二億二千万ドルであっ たことからその金額の大きさがうかがわれよう。

註(3)日本占領軍は一九四二年、 シンガポールで「抗日分子」粛清の名のもとに一連の大虐殺を行なった。死者は五千名、二万名など諸説がある。