援助、自立、国際感覚-----「期待しない。絶対に何も」の意味

Forum 1974春、14号、39〜45頁

1972年の旧正月ごろ、 私は東マレーシアシアのサバ、 サラワクを一人旅していた。旧正月とはいっても、なにしろ赤道の真下に近い島のことだから、日本の7、8月号の暑さで、私はバティク(ジャワ更紗)のシャツに半ズボン姿であった。サラワクの州都クチンの華人街で耳をつんざくばかりの爆竹の音、極彩色の龍舞に接することがなかったら、季節を思い出すことが全くなかったかもしれない。実際わたしにとって2年間の東南アジア生活はあたかも長い長い夏休みの感じであった。もっとも、旅行者にとっては夏休みであるとしても、その地で労働し、生活する民衆にとっては、やはり明確な季節感があり、それは雨量や風向きによってとらえられていたようである。

〃稲作の技術指導は素晴しい

ある日、私はコタキナバル市から乗り合いジープにゆちれてキナバル山の麓まで出かけ、道中二人のアメリカ青年に会った。一人はアメリカのある大学で公衆衛生学を専攻するPh. D. Candidate(博士論文提出の資格を持つ者)で、バンコクの公立病院で働きながら博士論文の材料を集める作業を2年やって、帰国の途次キナバル登山を試みようとしていた青年であった。

私たちは登山口のロッジで薪を燃やしながら、夜おそくまで語りあった。ニクソン訪中、田中首祖の対中姿勢、両者の東南アジアに対する影響、などがおもな話題であった。 そういえばサラワク州のシブ市で会った華人系知識人とはイタリアの作家モラピアの中国旅行記が話題になるなど、当時は「ボルネオの山の中」 でも中国ブームだった。

翌日私は再び唯一の交通手段である荷物車付き乗り合いジープで山また山の悪路を下ったのであるが、途中から一人のアメリカ女牲か乗り込んできて、まもなく彼女は乗物酔いに見舞われた。そのジープには英語を話せる乗客はいなかったから、いきおい私が、次の峠の茶屋まではあと何キロ、何分だといった類のことを、華語とごく限られたマレー語で聞きあて、それを彼女に伝える役となった。

数時間後、 コタキナバル市に近づくころ、彼女はようやく元気を回復し、 私が日本人であることを知るに及んで、 がぜん早口の米語でしゃべり始めた。-----あなたはほんとに日本人なの? だってこれまでずっとマンダリン(北京官話)を話していたわ。意味はわからなかったけど、中国人の運転手が考え考え話していたからきっとマンダリンよね。客家語や広東語ではなさそう。私、平和部隊のメンバーで英語を教えているのよ。日本の平和部隊は全くすばらしい。稲作の技術指導をしているのだけれど、 全く技術だけで、 費用をかけずに立流な成果をあげているわ。農民も喜んでいるし、 ほんとに日本の平和部隊がうらやましい。私たちアメリカ人は努力してもなかなか日本人のようにとけこめないの。日本人に見習わなくちや。 でも彼らは英語を話す人がいないので、 私残念なことにつきあえないの-------。

日本の木材買付け業者が、ボルネオの山を裸にしてしまったとか、 電器製品をやた らに売りまくっているとか、芳しくない話ばかり耳にしていた私にとって、 彼女のことばは多少おもはゆい感じであったが、 稲作の技術指導自体についていえば、たしかに好評のようであった。

しかし残るのはヒマと借金

ただ稲作の技術指導が苗代の作り方、田植えのやり方にとどまる間は全く問題なしに評価されているのに、 それが肥料・農薬・農機具の販売と結びつけられたとき、大きな問題を引き起こすことを知るまであまり時間はかからなかった。 つまりこれらの日本商品のの投入によって念 土地生産性・労働生産性が飛躍的に高まることはたしかだが、農民の収入はこれらの投入財費用を十分カバーするほどではなく、 結局農民の手もとには、機械の借金とヒマとが残されることになる。 機械化貧乏の東南アジア版だ。

インドネシアを訪れたとき、 ジャカルタで同じく稲作の技術指導を続けてきた日本人専門家と会う機会があったが、氏は「われわれの技術指導の成果を、農機具メーカーがめちやめちやにしてしまう」と怒りをぶちまけていた。

こうなると、 せっかく好評の技術指導も、結果的には、日本製農機具販売のための露払いという位置づけで評価され、機械化貧乏の押しつけとみなされてしまう。

私は旧中国での宣教師の活動を思い起こさないわけにはいかなかった。 かって数多くの宣教師たちが、中国の片田舎まで足を伸ばし医療活動や教育文化事業に力を入れ、 それなりに成果をあげたにもかかわらず、全体としては「帝国主義の走狗」と規定され、1949年の革命によってそれが一掃されるに至った歴史を、 である。バイブルならぬ、 商品カタログをたずさえた「宣教師」というイメージほど平和部隊の青年の意識から遠いものはないが、 これらの善意あふれる青午たちの努力が、そう批判されてしまうというのは、悲劇でなくて何であろう。私のあげたのは一例にすぎない。この一例から日本の平和部隊全体の功罪を論ずることなどむろん不可能である。ただ、この一例からでも、 経済協力のむずかしさはうかがえるのではないだろうか。

医療活動とか、純粋な技術指導は、本来「カネもうけ」とは無関係であり、誰からも喜ばれるはずのものである。にもかかわらず、無条件で肯定するわけにはいかない一面が残る以上、「カネ」 のからむ経済協力がさまざまの問題をはらむことはいうまでもない。

植樹のカネは払っているが

先にふれた木材の乱伐については、 この旅行のとき、 ある日本人業者に次のような 話を聞いた-----。山の木を残らず切ってしまう皆伐方式は避けるべきで、当然間伐方式 が望ましい。 しかし、 間伐だと費用がかかりすぎてウマ味がない。とはいえ、裸山にしてしまっては申訳ないので、植樹をすることにした。 われわれは植樹のための費用を現地政府に支払った。 ところが、 その金は誰かのポケットに入ってしまい、山の入り口に申し訳程度の植樹が行なわれただけでした----。_

日本の業者としては、植樹用の費用を支払った以上、責任は果たした、ということになるのかもしれない。しかし、現実には十分な植樹が行われるには至らず、裸山のまである。洪水の恐れは依然残るだろう。その場合、洪水の被害に悩む民衆の目は、やはり皆伐した日本人業者に向けられるにちがいない。

当時、私はこれらの話を聞いて漠然とした不安をいだいたにすぎなかったが、日本の東南アジアへの経済協力は、その後急速度で発展し、1972年には「海外投資元年」と呼ばれる事態さえ登場するに至った。

それにつれて、日本と東南アジアとの矛盾も広がり深まり、72年秋にはバンコクで日貨排斥デモが発生、73年秋には日本企業と癒着し、腐敗したタノム政府が学生デモによって打倒され、さらに74年1月の田中首相の東南アジア訪問に至って、各国で反日暴動が爆発したことは周知の通りである。

こうした動きのなかで、72年9月財界(日本商工会議所、東京商工会議所)は、「国際投資憲章について-----国際的合意への提言」を発表し、73年6月経済5団体(経団連、日本商工会議所、経済同友会、日経連、日本貿易会)が「発展途上国に対する投資行動の指針」を発表するなど、ようやく再検討への動きがもり上がり、学界などからの「提言」もいくつか発表されるようになった。

初めての包括的問題提起

たとえば現代総合研究集団(代表=大河内一男、松前重義氏)は、「日本企業の海外進出に関する提言」(執筆者=宮崎義一、神代和欣、西川潤氏)を74年1月に発表したが、これは次の9項目について問題の所在を検討し、最後に五つの提言を行っている。9項目とは、(1)基本的な立場、(2)国家主権との関係、(3)現地社会との関係、(4)現地企業との関係、(5)防衛問題と企業進出、(6)雇用問題、(7)労働基本権、(8)賃金、労働条件についての国際労働基準、(9)企業進出と経済福祉の9つである。

五つの提言とは、(1)平和憲法を土台とした友好関係の確立、(2)開発途上国の領土、領海、資源に対する主権の尊重、(3)現地における前近代的部分との癒着を戒め、現地の国民経済形成に貢献すること、(4)「国際労働基準」の実現に努力すること、(5)経済協力資金の実態調査、である。

この提言の基礎をなしている現状認識、提言の内容が妥当であるかどうか、実現可能性があまか、などについては、大いに議論されてしかるべきだと思われるが、いずれにせよこういう形で包括的な問題提起が行われたのは、わが国にとっては初めてのことであり、これを素材として問題に接近することができよう。

ここで個々のの論点にくわしくたち入る用意はないが、現状認識の(1)基本的立場にかかわる問題を一つ出してみたい。

手きびしい発言

この三月初め、 日本生産性本部が東南アジア五ヵ国の駐日大使を招いてセミナーを 開いたとき、 タイのスチャリトクル大使は 次のように語ったという。

「私に与えられたテーマは『貴国は日本産業界に何を期待するか』というものだ。だが聞いていただきたい。まさにこういっ たモノの考え方が問題を起こす根元なのだ。タイ国民にたずねたら、おそらく答は『何も期待しない。絶対に何も……』であろう。そしてわが国民はこう反問するだろう------いったい、どこの世界に、よその国の産業界に何かを期待する国があるだろうか」。

この手きびしい発言を前にして、日本産業界人が困惑したであろうことは想像にかたくない。 七三年秋の政変、七四年一月の反田中デモの興奮さめやらぬ感のある小気味よいタンカであるにはちがいないが、日本産業人がこれに対して何と答えたかについて新聞は何も伝えていない。

この記事を読んで私の感じたのは次のことである。日本側がかりに五年前に同じ問いを駐日大使に投げかける余祐をもっていたとしたら、答えはおそらく違っていたのではないか。あるいはまたこの間いに対してタイ側が5年前に同じように答えうる態勢をもっていたとしたら、七二年の日貨ボイコット運動はもとより、それに引き続く政変も起こらなかったのではないか。

ベトナム戦争の収束、ニクソシ訪中という戦後世界の大転換が東南アジアをその根底からゆさぶりつつあるのではないかという思いを深くせざるをえない。 つまりベトナム戦争の意味についてはさまざまの理解が可能であろうが、私の受取り方は次のようなものだ。「ベトナムはアメリカに何を期待するか」という問いに対して、なにがしかのものを期待した南ベトナム政府が、アメリカには「何も期待しない、絶対に何も」という解放戦線によって、道義的にも物理的にも敗れていった過程こそベトナム戦争であった、と。

辺と縄の影は、 深く静かに東南アジアに広がり始めたようである。むろん私はドミノ理論を信じようというのではなく、ベトナムの吹は……といった類の予想をしようというのではない。ただ、ただ、 もしベトナム戦争がなかったら、反共軍事政権があのように肥大化することはなく、 したがってタイの政変、フィリピンの戒厳令のような事態はありえなかったであろうとみるだけである。

容易ならざる曲折の道

ベトナム戦争を契機として、アジア現代史の舞台が大きく回り始めたとすれば、 この歴史の流れを無視して日本と東南アジアの今後の関係を論ずることはできまい。

「何も期待しない。絶対に何も」という拒否反応をどう受け止めるべきかについては、あるいはまたタイがこの姿勢をどこまで貫いていけるかについては、いくつかの検討が必要であろう。日本・タイ関係の矛盾の爆発については、なによりもまずエコノミックアニマル日本企業が批判されることに異議はないが、他方タイ側には、日本企業にそのような活動を許した責任が存在するはずであって、こうした自己批判およびそれに基づく自己変革なしに日本企業を一方的に批判するだけでは、問題の解決になるまい。学生を中心としたタイの民衆はタノム政権を打倒するという形で変革への第一歩を踏み出したわけであるが、この道は容易ならざる曲折した道となるだろう。

さて日本としては、 このような苦闘を決意した東南アジアの民衆に対して連帯するのかそれとも敵対するのかという判断を迫られることになる。経済協力あるいは経済授助は、 それが東南アジア経済の自立を促すのか、それとも日本への従属を深めるのかが、 たえず問われることになる。 いいか えれば、その援助が誰に対する援助か、という問題である。対外援助が実は日本企業に対する「対内援助」にすぎないとか,援助による利益にありつけるのは、外国資本に癒着した腐敗した一握りの現地国政権担当者だけであるという批判は、従来からしばしば行われてきた。日本企業の海外進出にあたっては、このような批判にどう答えるのかが、緊急の課題であるといっていい。

ところでこうした問題を国民的レベルで考えていくためには、どうしてもわれわれ日本人の国際感覚を改めて問題にしてみる必要がありそうである。

本誌前号はこの点を特集していて教えられることも少なくなかったが、日本人の国際感覚の欠如あるいは日本的国際感覚についてはもんともっと論じられるべきだと思う。前に引用したスチャリトクル大使の批判する「こういったモノの考え方」をわれわれが克服していくためには、多くの努力が必要である。「こういったモノの考え方」しかできないのは別に産業界人に限らず、ある意味では一億の日本人に共通する欠陥であるように思われるからである。

シンガポールと日本

一例をあげよう。 ことしの一月末、シンガポールで製油所爆破事件が起こり、あっというまに日本が矢面に立たされるはめに陥った。「田中首相の東南アジア訪問のとき、いちばん友好的であったシンガポールでこんな事件を引き起こすとは」という声が何度もマスコミに登場したが、実は「いちばん友好的」であるような国だからこそ、アラブ・ゲリラにねらわれたのではないかというのが私の感想である。

東南アジアなどで日本不信が叫ばれるとき、よく使われるセリフが「朝鮮戦争で息を吹き返し、 ベトナム戦争でもうけて」という表現なのだが、 後者に関する限り、 シンガポールも全く同じ批判を受けているわけである。 たとえばシンガポールの南ベトナム向け石油輸出は六○年代に約一○倍に伸びたが、 その大部分は六○年代後半、ベトナム戦争における北爆の強化に伴って伸びたものである。 このほか船舶修理の基地として、 あるいはベトナム帰休兵の休息・娯楽地として、 ベトナム戦争に 「貢献」した。シンガポール政府経済部、シンガポール大学の著名なエコノミストによるThe Singapore Economy(Eastern University Press. 1971.)は、特に1章をもうけてシンガポールの経済発展とベトナム戦争の関係を論じているほどである。

それだけではない。 シンガポールはマレーシアからの分離後、 マレーシア・インドネシア・フィリピシのミンダナオ鳥という 回教徒に三方を囲まれた国として、 自らをアラブの大海に囲まれたイスラエルになぞらえ、イスラエルから戦車を購入したり、軍事顧問を招いたり、というのは その一例にすぎない。 そういう国であったから、 パレスチナ・ゲリラがシンガポールに標的を定めたのは、 実に的確な判断であったわけで、 しかもこの矢が的中したとしたら、 その影響はオイル・ショックで大騒動の日本と比べて勝るとも劣らない、 否、シンガポール政府にとって致命的な彫磐さえ与えかねかかったのである。

事態のその後の展開は、リー・クワンユー首相が、この危機から巧みに、 実にみごとに逃れたことを示している。 製油所爆破事件の処理に対するシンガポール政府と日本政府の対応の仕方は、 月とスッボシぐらいの差があったように思う。

いつの間にかに 〃主役〃

事件発生後直ちに、 リー首相はデリラを安全に希望する国へ送り届ける、と全批界に言明した。この声明が当時中東を訪問し、アラブ寄りへの軌道修正を遊説していたラジャラトナム・シンガポール外相(ちなみに氏はタミール系シンガポール人である)への支援の一石であったことはいうまでもあるまい。その後もゲリラの要求を受け入れ、新聞・ラジオを差し入れるなど、みずからを「中立の立場」に位置づけるための努力を行う。

シンガポール政府に代わって、いつのまにか「主役」にされてしまったのが日本外務省である。ゲリラのなかに日本人がいたという理由から駐シンガポール大使が「説得」にかけつけ、武装解除を求めてみたり、東京からいち早く捜査官を派遣したり、ゲリラの安全を保証するというシンガポール側の高度に政治的な判断と、あわよくば犯人逮捕をねらう日本側の脱政治的判断は当初から著しい対照をみせていた。

ゲリラのなかに日本人がいるなら話せば わかってもらえると考えたとしたら、実に甘い判断だというほかないし、日本側がもしシンガポール政府の主権を尊重するのであれば、処理は彼らに委ねるべきであって、後から顔を出してオロオロする必要はなかったのではないか。事情は知らないが、 たとえシシガポール側からどんなに強い要請があったとしても、である。

脱出用の航空機の提供にしても同じことで、シンガポール政府がシンガポール航空を使いたくないとしても、自らチャーターする道があったはずで、日航機を日本側の責任において使うかどうかが焦点となると いう事態がすでにおかしい。

こうして徒らに時が過ぎ、日本側捜査官は「事件の解決に役立っていない」と内務次官から批判されてスゴスゴ引き上げることになる。ここでも事件解決に対するシンガポール側の「積極性」、日本側の「消極性」が浮かび上がってくる。やがてクェートの日本大使館が占拠されるに及んで、日本政府は態度を豹変、全面的に譲歩し、事件は解決に向かう(シンガポールからクェートに向かう日航機に、シンガポール政府関係者同情した目的が、ゲリラを日本当局から「保護する」ことであったというコメントが「警察国家・ニッポン」のイメージを全世界に印象づけた事実も記憶されてしかるべきであろう)。結局、シンガポール政府が点数をかせぎ「いい子」になり、日本政府は初期は優柔不断、最後には譲歩というブレをさらけ出して幕を閉じる。

この一大ドラマを眺めて、私はリ−首相の処理の「巧みさ」と日本側の 「まずさ」との対照に驚きを感じないわけにはいかなかった。

この両者の対応の差を浮かびあがらせた要因はいくつか指摘できようが、私の痛感したのは、シンガポール側の豊かな国際感覚と日本側の国際感覚の欠如である。

深窓の処女・ニッボン

人口約200万、国土が淡路島の大きさという都市国家シンガポールが独立を維持し、生存していくためにはいやおうなしに国際感覚をとぎすまさないわけにはいかない。シンガポールは大国のバランスの上にのみ存立が可能なのであって、このバランス感覚を失うことは致命的である。リー首相が個人として聡明な人物であることは疑いないが、より重要なのは、氏を支えているシンガポール華人社会の国際感覚であろう。リー首相と華人社会の間にも矛盾がないわけではなく、たとえば71年5月の南洋商報事件は章十月一例であるが、豊かな国際感覚という点は両者に共通している。

シンガポールは華人・マレー人・インド人からなる多民族国家であり、その公用語を英語・華語(いわゆる北京語)・マレー語・タミール語(インド南部の方言)としていることからわかるように、人種・民族間の複雑・微妙な問題に直面しつつ、国家形成に努めており、彼らの国際感覚、対異民族感覚はいやおうなしに豊かにならざるをえない。

これに対するわが日本人の国際感覚はどうか。1972年のロッド空港事件のとき、過剰な謝罪によって「イスラエル寄り」を印象づけたのも、その後の「アラブ寄り」政策で問題の焦点パレスチナを見失ったのも、 いずれもバランス失した判断ではなかったか。 要するに、「海千山千のタヌキオヤジ」と「深窓の処女」とのちがい程度の差のあることを暴露したのがシンガポール製油所爆破事件であった。なにがしかの持参金はあるが世間知らずのこの「深窓の処女」は、いかにして荒海での溺死をまぬがれることができるか。