追悼・伊藤正二教授

アジア経済研究所の「二大帝国」の回想

横浜市立大学論叢、第49巻人文科学系列 2-363-66

 

国際文化学部伊藤正二教授の訃報に接して、驚きと悲しみを禁じえない。伊藤教授と私はかつてアジア経済研究所(通称・アジ研)で長らく同僚であり、しばしば激論をたたかわした仲間である。まずアジ研という世界を語ることから始めたい。私も還暦を迎えようとしているが、アジ研はいまや風前の灯火である。政府の行革の標的とされ、同じ通産省系列のJETROに吸収合併され、幕張に移転することになった。私がアジ研をやめた20数年前、その名はまだごく一部の人びとにしか知られていなかった。新しい職場において、前職の説明にかなり苦労したことを覚えている。最近は様変わりだ。「昔、アジ研におられたそうですね」と挨拶されることが少なくない。いまや横浜市立大学よりもはるかに名が通っているらしく、講演会などのおりに現職よりもそちらを強調して紹介され、とまどうことがいくどかあった。研究者としての実力を身につけた人びとが続々登場し、激変する国際情勢分析の需要を満たすべく活躍しつつあることを示唆するものであり、慶賀に堪えない。伊藤教授はまさにそのような要請に応えて本学に招かれた研究者の一人であった。

顧みると、私がアジ研で受けた学恩はたいへんなものがある。私は研究者としての「原始的蓄積」をアジ研で行なった。東畑精一会長や小倉武一所長、そして滝川勉調査研究部長(調査研究部はその後地域研究部と改称された)など高い見識をもつ農業経済学者諸氏から多くのものを教わった。いま中国研究者に限って列挙すると、先輩や同僚には戴国(火輝)(前立教大学、現台湾総統府国家安全会議諮問委員)、小島麗逸(大東文化大学)、小林弘二(関西大学)、川村嘉夫(神田外語大学)、小林文男(広島大学)、徳田教之(筑波大学)、嶋倉民生(愛知大学)、中兼和津次(東京大学)、加々美光行(愛知大学)、丸山伸郎(愛知大学)などの各教授である。先輩や同僚諸氏から学んだものは、数えあげるとキリがない。韓国・朝鮮研究者たちとも時に同室であった。

ただし、特筆大書すべきは、途上国研究はまず当該国・地域の言語のマスターから始めよ、という東畑・小倉流の教えであろう。先進国の方法論と言語で書かれた書物の研究はむろん必要だが、方法論の普遍性はどうか。書物にまだ書かれるに至っていない世界があるはずだ。そのほうがもしかしたら書かれた事柄よりもはるかに重要かもしれない。途上国の人びとの実際の生活を調べることから初めて、書物を批判的に読め。それゆえアジ研の若者はすべからく途上国に赴き、そこで生活し、生活のなかから学ぶべし、とたたきこまれた。この教えがその後、いささか薄れたごとくである。学位論文を書くには、現地からのアプローチはテマヒマがかかりすぎる。そこで先進国の快適な研究環境に向かう功利主義的雰囲気が広まったとも聞く。しかし、私や伊藤教授の世代(たしか年齢は私が一〜二歳若いはずだ)には、アジ研草創期の精神が脈打っており、教授は長らくインドで研究生活を続けられた。当時、中華人民共和国政府はアジ研の研究者を「日本反動政府の手先」とみなし、入国を認めなかった。私はやむなく東南アジアを放浪した。この意味で研究対象国にそのまま入り込める伊藤教授のようなインド研究者たちが私にとっては羨望の的であった。

キリスト教徒の目でアラブ世界を見ると偏見を免れまい(逆も真である)。豚肉を好む人びととこれをタブーとする人びとはいかに共生できるのか。私は経済学の普遍性を再考することから初めなければならなかった。社会科学や人文科学がどこまで「科学」でありうるのか、グローバルな普遍性を主張する学問方法論の「普遍性の限界」を確かめること、いいかえれば当該地域はどこまで特殊なのかを考える必要に迫られた。

以上のような理由で私の遊学生活は、米中対決、中ソ対決下の中国研究をシンガポール南洋大学から始めるという回り道になったが、「禍福はあざなえる縄」とは、古今の真理である。私は「鎖国する中国」に入れなかったおかげで、開国を急ぐ中国の事情は手にとるように理解できたのである。桔弌峠時代が始まり、改革開放の路線が急展開されたが、「風は南から吹く」であった。私はいわば風の吹き出す風源で暮らしていたわけであり、風圧や風速を体感できる幸運に恵まれた。

6070年代のアジ研において、インド研究グループと中国研究グループは、研究所内の「二大帝国」であり、お互いに「敬して之を遠ざく」の嫌いなきにしも非ずであった。中印紛争があったからとて、中国研究者とインド研究者が争うのは滑稽だが、当時、われわれは時に鋭く対立せざるをえない事情があった。それは中国共産党の中間地帯論とのかかわりで、第三世界のゲリラ闘争をどのように評価するかが途上国開発論や途上国研究の大きな争点になっていたからである。しかもこれは単に研究方法上の論争にとどまるものではなく、日本の労働運動ともかかわっていた。私自身についていえば、まずブンド・シンパ、次いで「台湾の特務」、「ソ連の助演者」、同時に「中共の同調者」、社会党「協会派」、毛沢東主義者などさまざまなレッテルを貼られる始末であった。誤解を招きそうだが、これは伊藤教授の側が私をこう呼んだのではない。そのような「政治の季節」にあって、私は伊藤教授とは、地域研究の対象においてもイデオロギーの面でも、別のグループにいたという意味である(ついでに想起したが、三島由紀夫が自決した市ヶ谷自衛隊本部は、われわれの研究室のすぐ裏側であり、窓越しに建物が見えた。当日はヘリコプターの騒音の中で本を読んでいた)。毎週水曜日午後に行われた部内研究会で、方法論や資料の扱い方などをめぐって、時折激しい議論になったことを記憶している。

とはいえ、私は地域研究の先達として同氏を仰いでいたし、教授が市大に赴任し、同僚になってからは、唯一のアジ研OBとして懐かしさを込めて挨拶を交わすのが常であった。教授のインドおよび市ヶ谷の研究所(アジ研の所在地)での長年にわたる研鑽の成果をようやく後進の学生に伝えうる立場になったばかりの時点における突然の不幸には、言葉を失うばかりである。通夜の客は過半がアジ研の仲間たちであったと記憶している。教授は赴任してまもなく、この悲劇に見舞われた。新しい職場よりは30年以上勤めた元の職場に知己が多かったのは当然であろう。

「人、中年に至りて万事休す」の危機感を教員組合委員長就任の挨拶とした私にとっては、過労死症候群がついにわが身近な同僚を襲ったかとの思いが痛切である。

令夫人のおはがきによると「亡夫は、今、生前の激務から解放されて、心安らかに眠っている事と信じます。インド経済と闘った証しとして位牌にインドの<>の字を冠しました」とある。ご冥福を祈るとともに、日本におけるインド研究、ひいては途上国研究の前進を希求してやまない。それこそが故人の志を継ぐことである。