横浜市立大学論叢人文科学系列、第47巻第3 号37〜53ページ、伊東昭雄教授退職記念号

近代中国における連邦構想

一九九一年八月、旧ソ連でゴルバチョフのペレストロイカに反対する保守派のクーデタが発生した。クーデタ自体はまもなく鎮圧されたが、これを契機として、九一年暮れに旧ソ連が解体した。ロシア革命以後七〇余年、膨張をつづけてきたソ連帝国が解体したのであった。旧ソ連の解体から二年余(一九九四年五月四日)、フランスのストラスブールで開かれた欧州連合(EU)の欧州議会本会議は、ノルウェー、オーストリア、フィンランド、スウェーデンの四カ国のEU加盟を承認した。こうしてEUは九五年一月を期して、一六カ国からなる拡大EUとして発足することになった。

一方で旧ソ連帝国が解体し、他方で欧州連合が拡大されるという、一見相反する「国家状況」が生まれている。こうしたなかでいま連邦中国論が登場しようとしている。むろん連邦中国論にはその前史があり、現在の状況だけの産物ではない。

連邦の定義を調べるために『政治学事典』を開くと、こう定義されている。

英語ではfederal state 、ドイツ語ではBundesstaat 、フランス語ではEtat federal という。単一国家を英語ではunitary state 、ドイツ語ではEinheittsstaat、フランス語ではEtat unitaire というが、これに対して複合国家を連邦国家あるいは連合国家Bundesstaat という。

アメリカ合衆国、スイス、カナダなどでは、多数の「支分国(支邦)」が単一主権のもとに強力に結合し、それ自身一つのネーションとして国家を形成している(この点で国家の単純な結合にすぎない「国家連合」と異なる)。

連邦を構成する各支分国(州、支邦、カントン)は、連邦の意思決定に参与し、あるいは広範な自主組織権をもつ点で単なる地方自治体と異なり、他方それが主権(最高性)をもたない点で普通の国家とも異なる(注1)。

旧ソ連は一六の加盟共和国の自由意思による結合であり、建前としては自由な脱退権がみとめられていた。白ロシア、ウクライナなどは一国家として国連に加盟していた。

これらの例示から分かるように、さまざまな内容をもつ連邦の存在がありうるが、ポイントはつぎの二つであろう。

第一は、連邦の構成単位が通常の地方自治体よりも強い自治権(主権に限りなく近い権限)をもつこと。第二は、連邦が主権をもつ単一の存在であること、である。前者は構成単位の「自治権」の程度にかかわり、後者は「主権」にかかわる。

1 「大一統」観念の形成とそれに対する反発

中国には古来「大一統」という観念がある。ここで「大」とは、「重視する、尊重する」という意味の動詞であり、「一統」とは、「天下の諸侯を天子が統一すること」の意である。王者による天下統一を重視するこの観念の初出は、「一国が二つに分かれることは許されぬ」とする『春秋左氏伝』(公羊伝・隠公元年)の記述である。紀元前二世紀に漢代の歴史家董仲舒(ルビとう・ちゅうじょ)がこのくだりに基づいて、『春秋』にいう「大一統」こそが「天地の常経にして、古今の通誼なり」(注2)と論断して以後、「大一統」が中国の中央集権制を象徴するキーワードになった。なおここで「常経」とは「つねに守るべき永久不変の道」の意であり、「通誼」とは「人の行なうべき正しい道」の意である。

以後およそ二〇〇〇年、中国ではこの大一統イデオロギーが支配的であり、「地方分権」の観念や「連邦制」論は存在しなかった。天下の大勢は「分かれること久しければ必ず合し、合すること久しければ、必ず分かれる」(分久必合、合久必分)の繰り返しであり、「合」と「分」の循環こそが歴史であると観念されてきた。

アヘン戦争以後、中国は「西方の衝撃」(るびウェスタン・インパクト)を受ける。アメリカ合衆国の「連邦制」思想を初めて中国に紹介したのは、清代の学者魏源(湖南邵陽の人、一七九四〜一八五七)の書いた『海国図志』だといわれる。

福建総督を務めた徐継(ルビじょ・けいよ)は、外国人宣教師たちの資料をまとめて『瀛環(ルビ・えいかん)志略』(一八四八年)を書いたが、ここにも欧米の連邦制が紹介されていた。

清朝末期の維新派の代表的人物梁啓超(広東新会の人、一八七三〜一九二九)は、原著が出版されて四〇年後に『瀛環志略』を読んで目を開かれ、湖南省巡撫(総督に次ぐ官位で、その省の民政と軍政をつかさどった)陳宝箴(ちん・ほうしん)に建議書を書いて、西側の連邦制をモデルとするよう進言している。すなわち湖南省がまず「地方自立」を実行し、その「自立」を基礎として「変法維新」を行なうべしと進言したのであった。西側で行なわれている「省自治」の規模と論理は「一国と同じ」というのが梁啓超の認識であり、湖南省は中国のなかでも最も「地方自立」の条件を備えていると、彼は主張した(注3)。

戊戌(ルビ・ぼじゅつ)維新が失敗するや梁啓超は日本に亡命し、「ルソー学案」なる一文を発表したが、ここでは中国において連邦制を実行せよとする主張がより明確に語られている。梁啓超はルソーの民主主義論を紹介しつつ、中国は各省、各州、各郷、各市、それぞれを団体とするならば、ルソーの理想とした国家になることができると論じたのであった(注4)。

孫中山も興中会を創立したとき、「合衆政府」のことばを用いて連邦を論じている。一八九七年に日本を訪問したさいに、宮崎滔天、平山周にこう語っている。地方の豪傑が争ったのでは数十年たっても統一はできない。無辜の民が禍を受けるばかりである。中国においては声望のある者が各地方の首領となり、それから中央政府を樹立し、連邦の枢軸をつくるべきだ、と(注5)。

一九一一年一〇月一〇日、辛亥革命が起こり、一二月二日、各省都督(都督とは省レベルの最高軍政長官)代表連合会は「中華民国臨時政府組織法大綱」を採択した。大綱には「参議員は各省三人とする。その派遣方法は各省都督府が決定するものとする」とあった。この事実について、これは権限の源泉を「各省都督府」に求めたもので、最初期の中華民国は連邦制の特徴をもっていた、とみる解釈も行なわれている(注6)。

袁世凱が帝制の復活をもくろんでいた一九一四年七月、張東(一八八六〜一九七三、中国の哲学者、民国初めに南京臨時政府に参加した)は「自治」と「連邦」をこう論じた。連邦とは「まず邦があり、それが約を結んで国となる」ものだ。自治とは「民をもって邦のもととする公理」である。中国が強大になるには、なによりも地方自治が必要であり、自治にこそ連邦制の精神がある。中国で求めるべきは「自治の実であり、連邦という名ではない」(注7)。

これに対して章士(一八八二〜一九七三、当時上海『蘇報』主筆)はこう論じた。連邦を組織するうえで「邦が国に先んずる必要」はない。アメリカでは邦から国へ、であるが、メキシコ、コロンビア、アルゼンチン、ブラジルでは単一国から連邦になった。連邦を実行するには「革命」ではなく「世論の力」が必要なのだ(注8)。

一九二〇年夏、湖南省で省憲法を制定して自治を行なう「省憲自治」の運動が起こった。七月二二日、湖南省軍閥譚延(ルビたん・えんかい)は湘軍総司令の名で「湖南自治」を宣言し、一一月、後任の湘軍総司令趙恒慯(ルビちょう・こうてき)は「湘人治湘」(湘とは湖南省をさす。「湖南人による湖南省の自治」の意)を実行すると述べた。一九二一年一一月、湖南省では全省の公民投票が行なわれ、省憲法を採択し、一九二二年元旦からの施行を公布した。

湖南省の省憲法自治運動に影響を受けて、浙江省、四川省、広東省でも省憲法起草委員会が組織された。雲南省、広西省、貴州省、陝西省、江蘇省、湖北省、福建省などでは当局が制憲自治宣言を発表した。一九二二年八月、国是会議は憲法草案を発布したが、その第一条では、中華民国を「連省共和国」となす、と規定されていた。この「連省」とは、「連邦」の別名とみてよい(注9)。

一九二二年九月、共産党が機関誌『嚮導』を創刊したとき陳独秀は創刊号に「連省自治と中国の政情」を書いてこう論じた。「連省自治」の主張は人民の要求に発したものではなく、地方軍閥が発したものだ。武人による割拠こそ中国の政情混乱の源泉であり、割拠論に乗った連省論は「分省割拠」「連督割拠」の隠れ蓑にほかならない。かくて陳独秀は革命的手段による中国統一を訴えたのであった。むろん、連省制や連邦制の理想に彼が反対したわけではない。中国共産党の初期の有力な活動家であり、毛沢東の親友でもあった蔡和森は、『嚮導』二期の誌上でこう述べている。中国政治の混乱の根本的原因が軍閥にあるからには、軍閥をくつがえすこと、すなわちいかに革命するかが根本の問題である。第一歩は民主革命である、と(注10)。地方軍閥による連省自治か、反軍閥による民主革命かがここで争われ、歴史は革命による中国統一の方向へと流れることになる。

2 毛沢東の湖南共和国運動

共産主義に出会う前の若き毛沢東が、「湖南モンロー主義」や「湖南共和国の建設」を唱え、積極的に運動を組織したことは比較的よく知られている。一九二〇年七月、毛沢東は日本の明治維新に学べとこう論じている。

湖南省の人口三〇〇〇万は明治維新当時の日本の人口と同じである。条件が同じだから学び易い。/日本は「充実した邦」であるから、これに学び「湖南改造」に取り組むべし。/湖南改造の第一義は「自決主義」、第二義は「民治主義」である。つまりは、「自決」と「民治」(「民治」とは「官治」とツイになる考え方)を強調したのであった(注11)。

毛沢東がここで湖南省という「小さな対象」に着眼したのは、つぎの反省からであった。すなわち中国四千年来の政治はすべて「大規模、大方法」によるものであった。その結果「外見は強そうだが、中身は干からびたもの」、「上には実があるが、下は虚ばかり」、すなわち「見掛け倒し」であった。民国以来、名士偉人が憲法、国会、大統領制、内閣制と大騒ぎしてきたが、その結果はますますデタラメになるのみ。「砂上の楼閣」であり、建物の完成を待たずしてすでに倒れている(注12)。

「大方法」や「外面」ではなく、「小方法」や「内面」に着目する彼の視点が浮かび出ている。その二カ月後には、ズバリ「湖南共和国」の建設を主張し、「大中華民国」に反対してこう呼びかけた。かつては今後の世界で生存していけるのは「大国家だけ」だとする謬論があった。その流毒によって帝国主義を拡大し、自国の弱小民族を抑え、海外に植民地を争い、未開民族を奴隷化してきた。顕著な例は、英・米・独・仏・露・オーストリアである。彼らは幸いにも成功したが、実は「成果なき成功」であった。

中国は「成果なき成功」にさえも成功していない。中国が得たのは、満洲人を消滅させ、モンゴル人、回人(回族)、チベット人を気息奄奄たらしめ、一八省をメチャメチャにした。老百姓は日々殺され、財産を奪われ、外債は山の如くである。

「共和民国」を称しているものの、共和とは何かが分かっている国民はいくらもいない。四億人、少なくとも三億九千万人は手紙を書けず、新聞を読めず、全国に一本たりとも「自前の鉄道」がない。

ニセ共和の九年間の大戦乱(一九一一〜一九二〇年)の経験を通じて、全国の「総建設」は完全に希望のないことがわかった。したがって「総建設」をきっぱり断念するのがよい。各省を思い切って分裂させ、各省の「分建設」を図ることである。合計二七地方において各省人民による自決主義を実行することだ。最良は二七国に分けることである。

湖南はどうか。三千万の一人ひとりが覚醒しなければならない。湖南人にも別の道はない。唯一の方法は湖南人の自決自治である。湖南人は湖南地域で湖南共和国を建設することである(注13)。

ここには辛亥革命以後、名だけは共和制になったものの、実際には革命の成果を軍閥に横取りされて、真の共和制に移行できない中国の現状に対する毛沢東の強い不満が現れている。毛沢東はまた「湖南人による湖南の自治」(原文=湘人治湘)を呼びかけている。外省人を排して、湘人による「湘人自治」を主張するのは、「官治」に代えて「民治」を行なうためだとしている(注14)。この「民治」は「全自治」でなければならないとする主張もみられる。すなわち単に湖南省の「省」を「国」に変える名称の変更ではなく、「全自治」の「湖南国」を獲得すべきであり、「半自治」で満足することはできないのだと主張している(注15)。毛沢東の「湘人治湘」の表現は、後年の小平の「港人治港」(香港人による香港自治)を連想させる。

毛沢東はまた「湖南憲法」を制定し、「新湖南」を建設するよう呼びかけている。いわく、湖南自治の根本法の起草について、一カ月来議論が行なわれてきた。ある者は省政府が起草するよう主張し、ある者は省議会が起草すべきだとし、ある者は省政府と省議会が合同して起草すべきだとし、ある者は省政府、省議会、省教育会、省農会、省工会、省商会、湖南弁護士公会、湖南学生連合会、湖南報道会連合会などが合同して起草すべきだという。これらの主張にわれわれは賛成できない。われわれの主張は「湖南革命政府が湖南人民憲法会議を召集し、湖南憲法を制定し、新湖南を建設しよう」というものである。この主張こそが理論的に筋が通り、実際的にもうまくやれるものである、と(注16)。

3 湖南共和国から中華連邦共和国へ

素朴な連邦論は単に毛沢東個人の考え方にとどまるものではなかった。中国共産党の第二回大会(一九二二年七月)で採択された「中国共産党第二回大会宣言」には「連邦」構想が提起されていた。近年の情報公開のなかで、中共党史の基本的資料がオリジナルあるいはそれに近い形で歴史資料として公表されるようになったが、その一つである『中共中央文件選集』(注17)から引用してみよう。連邦制構想の骨子は次のごとくである。

第一、中国各省(少数民族地区を除いた各省を指す)では連邦制をとらない。

中国各省には、経済上において根本的相違はない。辛亥革命以来一〇年余の割拠現象を合理化し、「省をもって邦となす」よう主張し、これを「連省自治」の美名で飾ろうとしている。これはまったく道理のないものである。なぜなら一〇年来、すべての政権は完全に各省武人の手にあり、「省を国と称し、督軍を王と称する」のみだからだ。それゆえ、連邦の原則は中国各省では採用できない。

第二、蒙古、西蔵、新疆は自治邦を促進し、中華連邦共和国をつくる。

蒙古、西蔵、新疆などの地方は各省とは異なる。これらの地方は歴史上異種民族が久しく聚居してきた区域であるばかりでなく、経済上中国の各省と根本から異なる。というのは、中国各省の経済生活は「小農業手工業からしだいに資本主義生産制に進む幼稚な時代」にあるのに対して、蒙古、西蔵、新疆などの地方は「まだ遊牧の原始状態」にあり、強いて中国に統一するならば、軍閥の地盤を拡大する結果となり、蒙古などの民族自決、自治の進歩を阻害するからであり、各省人民にとっていささかの利益にもならないからである。一方では軍閥勢力の膨張から免れ、他方で辺境人民の自主を尊重し、蒙古、西蔵、回疆の三自治邦を促進し、それから連合して中華連邦共和国になってこそ真の民主主義的統一である(注18)。

こうして第二回党大会の政体にかかわるスローガンはつぎのごとくであった。

第一、中国各省(東三省を含む)を統一し、真の民主共和国とする。

第二、蒙古、西蔵、回疆の三地区で自治を実行し、民主自治邦とする。

第三、自由連邦制を用いて中国各省、蒙古、西蔵、回疆を統一し、中華連邦共和国を樹立する(注19)。

ここから創立初期の中国共産党の考え方は「連邦案」であったことが分かる。このような考え方の源流はロシア革命で提起された連邦制にほかならない。民族問題にかかわるロシア革命の理念は、そっくりロシア革命からそっくり中国共産党に引き継がれたとみてよいであろう。

4 民族自決、連邦制、民族区域自治

中国共産党第二回党大会からおよそ一〇年後、毛沢東らは江西ソビエトでゲリラ闘争に従事していたが、一九三一年一一月七日、中華ソビエト第一回全国代表大会で採択された中華ソビエト共和国憲法大綱(全一七項からなる)の第四項は「ソビエト共和国の公民」の内容をこう定めていた。ソビエト政権領域内の労働者、農民、紅軍兵士およびすべての労働する民衆とその家族は「男女、種族、宗教」にかかわりなく、ソビエト法律の前で一律に平等であり、等しくソビエト共和国公民である。ここで「種族」の括弧内に挙げられているのは「漢、満、蒙、回、蔵、苗、黎、および中国にいる台湾、高麗、安南人など」である。

第一四項では少数民族の自決権、連邦への加入・離脱権をこう宣言していた。中国ソビエト政権は中国境内の少数民族の自決権を承認し、各弱小民族が「中国から離脱し、自己が独立の国家を成立する権利」を一貫して承認してきた。蒙古、回、蔵、苗、黎、高麗人など、およそ中国地域内に居住する者は「完全な自決権、すなわち中国ソビエト連邦に加入し、あるいは離脱するか、あるいは自己の自治区域を樹立する権利」をもつ。中国ソビエト政権はいまこれらの弱小民族が帝国主義国民党軍閥、王公、ラマ、土司(元代に西南少数民族地区でその首領を宣慰使、宣撫使などの官を授けたもの)などの圧迫統治から完全な自主を得るよう努力している(注20)。

ここでは「連邦への加入、離脱権」をも含めて、少数民族の自決権を完全に認める立場に立っていたことが分かる。

毛沢東は延安で行なった「新段階を論ず」(一九三八年に一〇月)という報告のなかで、こう述べている。敵がすでに進めているわが国内の「各少数民族を分裂させようとする詭計」に対して、当面の任務は各民族を団結させ一体となし、共同で日寇(日本という外敵)に対処することである。この目的のために、以下の各点に注意しなければならない。 第一に、蒙、回、蔵、苗、ケモノへんにヨウ(現在は瑤と表記)、夷、番各民族と漢族が平等の権利をもち、共同で日本に対する原則のもとで、自己の事務を自己が管理する権利をもち、同時に漢族と連合して統一した国家を樹立することを許す。/第二に、各少数民族と漢族が雑居する地方では、当地の政府は当地の少数民族の人員からなる委員会を設置し、省県政府の一部門として、彼らと関わりのある事務を管理し、各族間の関係を調節し、省県政府委員のなかに彼らの位置をもたせるべきである。/第三に、各少数民族の文化、宗教、習慣を尊重し、彼らに漢語や漢文を学ぶよう強制しないだけでなく、彼らが各族みずからの言語文字を用いた文化教育を発展させるよう賛助すべきである。/第四に、存在している大漢族主義を是正し、漢人が平等な態度を用いて各族と接触し、日増しに親善を密接にし、同時に彼らに対して侮辱的、軽蔑的な言語、文字、行動を禁止するよう提唱する(注21)。ここでは、「分裂の詭計」に対して、「各民族の団結」を強調した点が特徴的である。毛沢東は一九四五年、第七回党大会で「連合政府を論ず」と題した報告を行なったが、そのなかで、毛沢東が言及したのは、一九二四年に孫文が書いた中国国民党第一回大会宣言の一句である。すなわち国民党は、中国の「各民族の自決権」を承認する。帝国主義および軍閥に反対する戦争に勝利したあと「各民族が自由に連合した、自由な統一した中華民国」を組織する、という箇所である。

毛沢東は孫文に言及してこう約束した。中国共産党は「国民党の民族政策」に完全に同意する。/共産党員は各少数民族の広範な人民大衆がこの政策を実現するために奮闘するのを積極的に援助すべきである。/各少数民族の広範な人民大衆が政治上、経済上、文化上の解放と発展をかちとり、民衆の利益を擁護する少数民族自身の軍隊を成立させるよう援助すべきである。/彼らの言語、文字、風俗、習慣、宗教信仰を尊重しなければならない(注22)。そして七回大会党規約では、「独立・自由・民主・統一・富強の、各革命階級の同盟と各民族の自由な連合からなる新民主主義の連邦共和国を樹立する」と規定した。ここから革命期の中国共産党は、民族自決権の承認、連邦制の実行、民族区域自治の実行という三つの主張を行なっていたことを確認できよう。

しかしながら、国共内戦期から抗日戦争期にかけて樹立された自治地方は、理念通りに実行されたものではない。一九三六年には陝甘寧省預海県に回民自治政府が樹立され、一九四一年には陝甘寧辺区に一群の区レベル、郷レベルの蒙古族、回族の自治政権が樹立された。さらに四五年から四六年にかけて、党中央は内蒙古で「民族区域自治」の方針を実行した。四七年五月一日に成立した内蒙古自治政府は省レベルのものとして中国初めての民族自治地方であった。

この内容について、最近の論者(李瑞)は、次のようにその意図を再解釈している。わが党は一切の「民族分立の要求」を無条件に支持していたわけではない。わが党は外国帝国主義者が策動した「偽満洲国、偽蒙疆自治政府、偽トルキスタンイスラム共和国、西蔵の反動的上層人物の独立活動」には断固として反対してきた(注23)。つまり「民族自決」の方針が帝国主義者によって「民族分立」に逆用される危険性があったために自治を限定したのだ、と弁解しているわけだ。

5 連邦論から民族区域自治論への転換

四九年九月、政治協商会議で「共同綱領」が採択された。ここでは「各少数民族の聚居地区では、民族の区域自治を実行し、民族聚居の人口の多少と区域の大小におうじて、各種の民族自治機関をそれぞれ樹立する」とされていた。

五四年の憲法では「各少数民族の聚居する地方では区域自治を実行する」という総方針のもとに、民族自治地方(自治区、自治州、自治県)の自治機関は、自治権を行使することが明確に定められていた。しかし文革末期の七五年の憲法では五四年憲法の「各少数民族の聚居する地方では区域自治を実行する」という方針が削除された。その三年後、七八年憲法では五四年憲法の精神が一部復活され、五四年憲法の精神が全面的に復活したのは、八二年憲法においてであった(注24)。

毛沢東は一九五六年四月、「十大関係論」と題する講演を行なった。1)重工業、軽工業と農業の関係、2)沿海工業と内陸工業との関係、3)経済建設と国防建設との関係、4)中央と地方との関係、5)漢民族と少数民族との関係、6)中国と外国との関係など「一〇個の関係」をとりあげて、矛盾の正しい処理の仕方を述べたものであった。毛沢東が特に強調したのは、ソ連の経験を戒めとして真剣に教訓を学ぶことであった。たとえばソ連は農民をひどくしぼりあげるやり方をとっているとして、農業重視を呼びかけ、平時には国防建設費を削減して経済建設を強化するよう訴えた。また中央と地方の関係においては、「ソ連のように、なにもかも中央に集中して、地方をがんじがらめに縛りつけ、少しの裁量権も持たせないといったやり方をとってはならない」と地方への権限下放を主張した。少数民族問題については「ソ連では、ロシア民族と少数民族とがきわめて不正常な関係にあるが、われわれはこの教訓を汲み取るべきである」など、ソ連の社会主義建設の弱点を鋭く剔抉し、それを「反面教師」として中国の建設に活かすよう呼びかけたのであった(注25)。毛沢東が中央集権の弊害を指摘し、「地方と協議してやる作風」(作風とは、工作のやり方の意)を提唱したとき、その口調は「総建設」を否定し、「各省の分建設」を主張した「湖南共和国」構想と酷似している。毛沢東の分権化構想は大躍進期(一九五八〜一九六〇年)に、極端な形で強行され、中国経済を大混乱に陥れた。その結果、毛沢東の指導権は大いに揺らぎ、文化大革命の発動につながった。文化大革命に毛沢東は一時、コミューンの夢を語ったが、そのときに出たのが「虚君共和」の四文字であった。

一九六六年三月二〇日、杭州で開かれた中共中央政治局拡大会議の席上、毛沢東はこう述べた。やはり虚君共和がよろしい。イギリスの女王も、日本の天皇も、いずれも虚君共和である。中央はやはり虚君共和がよく、政治の大方針だけを扱う。大方針でさえも地方からの意見を集めて作るのがよい。中央は加工工場を設けて、〔地方からの原料で〕大方針を作るのである。省レベル、県レベルから意見が「放」されて初めて、中央は大方針を作れるのである。つまり中央は虚だけを管理し、実を管理しない。あるいは少ししか実を管理しないやり方だ(注26)。

毛沢東が一九二〇年(当時二七歳)に夢想した「各省の分建設」と一九五六年の「十大関係論」、そして一九六六年の「虚君共和」には、相通ずるものがある。あえて違いを一つ挙げれば、一九二〇年、一九五六年には少数民族問題が念頭にあったが、一九六六年の時点では、これに言及しなかったことである。民族問題は階級闘争論に埋没してしまったのである。

(注1)『政治学事典』一三九四頁、平凡社、一九五四年。なお、ここでカントンとは、スイス連邦を構成している二二の構成単位であり、それぞれ主権と憲法をもち、アメリカ合衆国の州以上の権限をもっている。

(注2)小倉芳彦訳『春秋左氏伝』(上)岩波文庫、二四頁。隠公元(前七二二)年の項。および『漢書・董仲舒伝』。

(注3)梁啓超「上陳宝箴書」『中国近代史資料叢刊・戊戌変法2)』五三四頁。

(注4)『清議報』一九〇一年、のち『飲冰室全集』第三冊所収。

(注5)『孫中山全集』第一巻、一七三頁、中華書局、一九八一年。

(注6)厳家其『聯邦中国構想』一〇頁。

(注7)張東「地方制の終極観」『中華雑誌』一巻七号。

(注8)章士「学理上の連邦論」『甲寅雑誌』一巻五号、一九一五年五月。

(注9)厳家其『聯邦中国構想』一四頁。

(注10)蔡和森「武力統一と連省自治──軍閥専政と軍閥割拠」『嚮導』二期、一九二二年九月二〇日。

(注11)「湖南モンロー主義」長沙『大公報』二〇年九月六日付。長沙『大公報』二〇年七月六日および七日付。(注12)『毛補巻』1、蒼蒼社、一九九頁。

(注13)長沙『大公報』二〇年九月三日付。『毛補巻』1、二一七〜二一八頁。

(注14)長沙『大公報』二〇年九月三〇日付。『毛補巻』1、二三五〜二三六頁。

(注15)長沙『大公報』二〇年一〇月三日付。『毛補巻』1、二三七頁。

(注16)長沙『大公報』(二〇年一〇月五日付および六日付)。のち『毛補巻』1、二三九〜二四一頁。なお憲法制定の呼びかけは、何淑衡、彭、朱剣凡、龍兼公ら三七六人の連名による呼びかけであり、毛沢東はその一人にすぎないが、この考え方に基づき、「湖南人民憲法会議選挙法の要点」および「湖南人民憲法会議組織法の要点」を起草したのは、毛沢東、彭、龍兼公であったと、龍兼公自身が二年後に長沙『大公報』(二二年一〇月九日付)で証言している。「選挙法の要点」は長沙『大公報』(一〇月八日付)に発表され、のち『毛補巻』9、一〇三〜一〇五頁に所収。

(注17)中央档案館編、中共中央党校出版社、一九九一年。

(注18)『中共中央文件選集』第一冊、一一一頁。

(注19)『中共中央文件選集』第一冊、一一五〜一一六頁。

(注20)『中共中央文件選集』第七冊、七七三頁、七七五〜七七六頁。

(注21)中共中央六期六中全会(一〇月一二〜一四日)の報告の第四章「全民族の当面する緊急任務」、第一三項「中華民族を団結し、一致対日せよ」。『毛沢東集』6、蒼蒼社、一九八三年、二一九〜二二〇頁。

(注22)一九四五年四月一二日報告。第四章「中国共産党の政策」、「われわれの具体的綱領」第9項少数民族問題。『毛沢東集』9、蒼蒼社、一九八三年、二五五〜二五六頁。

(注23)李瑞「党の民族区域自治政策の形成と発展初探」『民族問題理論論文集』青海人民出版社、一九八七年、七七〜七九頁。

(注24)史「中華人民共和国民族区域自治法について」『民族問題理論論文集』青海人民出版社、一九八七年、四二〜四三頁。

(注25)『毛沢東選集』第5巻、人民出版社、一九七七年、二七五頁。

(注26)『毛沢東思想万歳』丁本、一九六九年八月、六三八頁。この一句は『中華人民共和国経済大事記一九四九〜一九八〇』(房維中主編、中国社会科学出版社、内部発行、一九八四年)に、次のように引用されている。「中央はやはり虚君共和がよい。中央は虚だけを管理し、政策方針だけを管理する。実は管理しないか、あるいは少しに減らす。中央部門が集めた工場生産物が増えたら、集めたものはすべて中央から地方へ出さなければならない。人も馬もすべて出す」(四一〇頁)。