日本にとっての台湾の重み、呉濁流の作品が語るもの

『週刊東洋経済』197391日号122-125

「日中復交」で、いわゆる台湾問題は一応の解決をみた。だが、日本の植民地統治の落とし子としての真の台湾問題は決して解決されてはいないのである。われわれが台湾の民衆を忘れ去ろうとしているまさにその時に、日本は東南アジア諸国との間にさまざまなきしみを生み出しているのはなぜか。われわれが本当にアジア諸国との友好を願うならば、その原因を探って原点に立ち返り、台湾問題の本質をとらえ直す必要がある。

日本以上に日本的な台湾

二年間の東南アジアでの留学生活を終えて帰国するとき、私は台湾に立ち寄った。日中復交後の台湾の実情を自分の目で確かめておきたかったからだ。松山空港で友人の出迎えを受け、安宿に旅装を解くやいなや私は台北の街をぶらついた。街のたたずまいは、私がそれまで暮らしていたシンガポールや香港、あるいは東南アジアのその他の都市のチヤイナ・タウンとそう変わりはない。しかし、人は同じ中国人でありながら、かなり違うように思われた。どこがどう違うのか、そのときははっきり自覚できなかったが、私は顔面筋肉がほぐれ、肩の力がすうっと抜けていくのを感じていた。全く台湾でメロメロといった具合なのである。おそらく日本に着いたような錯覚を起こしたのに違いない。私がそう錯覚するほど、台湾の人々は日本的であった。日本人以上に日本人的であったとさえいえるかもしれない。一○日後、実際に帰国した私は、物価高と空気汚染の東京で人々がガサガサしているのを発見し、逆に肩がこったのを覚えている。シンガポールでは中国語(彼らは華語と呼ぶ)を学び、香港では広東語(正確にいえば広州語)を使って生活していた私は他の日本人と比べたらはるかに自由な生活ができ、言語障害からくるストレスは少なかったに違いない。にもかかわらず、台湾でこのような体験をして、私は五○年間の日本統治に思いをいたさずにはいられなかった。

この一文を書く動機はもう一つある。 ここ一〜二年の中国ブームのなかで、中国についてあるいは日中関係についてさまざまのことが語られたけれども、今度もまた台湾の民衆は無視された。戦後日本の中国研究者の間で、いつのまにか台湾をタブー視する風潮が形成され、台湾研究は少数の例外を除いてほとんど行なわれなかった。日本政府は台湾政権を唯一の中国政府と認めるという虚構のうえに戦後の日中関係を展開したのであるが、これを批判した中国研究者の論理は政府の論理の裏返し以上のものではなく、台北ではなく北京こそ正統であると主張することによって、台湾を中国研究の対象から外してしまった。台湾を含めての一つの中国という主張のなかで、台湾は事実上、忘れ去られ、一九六九年の日米共同声明の重大性を見落とし、70年春、周恩来4原則をつきつけられて、初めてあわてるという醜態を演じたのである。

いま「南進する日本資本主義」は、東南アジア各地でさまざまな矛盾を生んでおり、これをめぐっていくつかの議論が行なわれているが、これらは彌縫策でなければ「現状では実現不可能のものが多い。われわれが真に日本と東南アジアとの矛盾を解決するためには、やはり原点に立ち帰って、問題の本質をとらえなおすことから著手しなければならないだろう。この意味ではいまこそ台湾に関心を向けることがどうしても必要である。かつてそうであったのと同じく、戦後も台湾は南進する日本資本主義の原点であるから。

呉濁流の苦渋に満ちた人生

さて、台北で私は旧知の作家・呉濁流氏を訪問し、長いこと話し込んだ。氏が七二年二月東南アジアを旅行された際に、シンガポールでお会いし、シンガポール案内をさせてもらい、そのとき、機会があったら台湾でお会いしましょう、と約束していたからである(氏はそのとき詠んだ漢詩を『濁流詩草』台湾文芸雑誌社刊、1973年に収めている)。市内の小さな家の二階で、氏は著書二冊が相次いで東京で出版されたことをたいへん喜んでおり、もう一冊別のが出る予定だと、あとがきの原稿を見せてくれた。こう書いてあった。「およそ人間というものは、自分のしたことが客観的に間違っていても容易にその非を認めない。過去の日本帝国主義者は、東洋平和という偽りのスローガンを掲げて中国を侵略し、戦争を起こし、多くの人民を殺して台湾等を植民地化した。第二次大戦後後にも、やはりかつての日本と同様、強国が弱小国を侵略し、戦争を引き起こして多数の人命を正義の名のもとに殺傷しつづけてきた。このときにあたり、かつて日本の植民地だった台湾の現実を描いた拙著『アジアの孤児』を出版して、植民地体制の本質を新たに考えようとする、心ある日本人がおられることに頭が下がる」。「心ある日本人」でありたいとは思っていても、そうであるといえる自信のない私は、呉濁流さんよりももっと低く頭を下げるほかなかった。

この三冊の本とは、昨年から今年にかけて東京で出版された『夜明け前の台湾----植民地からの告発』、『泥濘に生きる---苦悩する台湾の民』 (以上二冊は社会思想社刊)、『アジアの孤児---日本統治下の台湾』(新人物往来社刊)のことである。呉濁流氏は一九○○年、日本帝国主義下の台湾に生まれ、「公学校」(小学校ではない)、「国語学校」(後に「台北師範」と改称、ここでの国語とはむろん日本語を指す)を経て、「公学校訓導」(教諭ではない)を二○年勤め、その後新聞記者生活のかたわら作家活動にはいり、現在は季刊雑誌『台湾文芸』を主宰して旺盛な活動を続けている人物である。その経歴からうかがわれるように、彼は日本統治下の台湾に育ち、数多くの台湾民衆とともに苦渋に満ちた人生を生きてきた。一例をあげれば、 一九四○年、彼はそれまでの二○年の教員生活に別れを告げることになるが、これは新埔(彼の故郷)で開かれた郡主催の運動会のとき、郡視学をひやかしたために公衆の面前でなぐられたことがきっかけであった。「内台融和」「一視同仁」のスローガンとはうらはらに、現実には「本島人」 への露骨な差別が行われており、ふだんから心の中に鬱積していた不満、憤りが一挙に爆発した。彼は郡視学の謝罪を要求したが容れられず、結局これに抗議して教員を辞任した。反骨教師が郡視学に抗議して辞任した、というのはごく小さな出来事にすぎず、あえてとりあげるには及ばないエピソードかもしれない。しかし、この郡視学が日本人であり、旧植民地での日本人は多かれ少なかれこのような態度で民衆に接したことを考えれば、このエピソードはかなり普遍性をもつであろう。 ここには当時の帝国主義日本対植民地台湾の関係が、直接的に反映しているのである。それだけでなく、こうした構造は戦後の日台関係あるいは日本と東南アジアとの関係においても、再生産されている事実に注目しなければならない。私はいま、数年前、バンコクのナイトクラブで日本人商社員がホステスによって射殺され、同じころシンガポールで、 ある日本人主婦が殺された事件を想起している。むろん戦前の日本植民地の民衆と戦後の商社員が全く何じだというのではない。

達意の日本文が語るもの

呉濁流の三冊の本は、いずれも日本語で書かれている。彼は「もう官庁では、日本語のできないものは、馬鹿同然だ」といわれる風潮のなかで日本語を学び、「公学校の児童のアクセントが悪いのは、本島人教員の責任だ」という日本人校長のもとで、教員生活を送ったのである。フランツ・ファノンの「黒い皮膚・白い仮而」と同じく、あるいはアルベール・メンミ、カテブ・ヤシーヌなどのように(島田尚一「重み増す第三世界の文学」『朝日新聞』七三年七月一一日夕刊)、台湾の民衆も経済的収奪に加えて、言語と文化を奪われ、日本語という猿ぐつわをはめられた。彼らはいま敵の言語で、その屈辱、苦悩を語っている。こうみてくると、呉濁流の日本語が達意であればあるほど、その「重さ」にまず打たれる。それにしても、私がここで「ファノンやメンミのように」と、はるか遠いアルジェリアを引き合いに出してわが台湾を語るというのは、なんとも奇妙な状況ではあるまいか。朝鮮文学や台湾文学を援用してアルジェリア文学を語るフランス人の話なぞ、私はまだ聞いたことがない。それはさておき、この三冊に収められた小説、エッセイを執筆順に並べると、次のごとくである。『アジアの孤児』1943〜45年、『陳大人』1944年、『夜明け前の台湾』1947年、『ボツダム科長』1948年、『泥濘』1950年、『無花果』1968年。

この六編のうち、最大の力作であり、よく読まれたのは、やはり『アジアの孤児』であろう。この作品が一九五六年日本で出版されたとき、呉濁流は次の「自序」をつけている。「この小説は戦時中、すなわち一九四三年に起稿し、一九四五年に脱稿したものであって、台湾における日本統治の史実の一部分を背景にして小説を綴ったものである。ただし、当時、何人もあえて筆にしなかった史実ばかりであって、これを忌憚なくありのままに描写したものである。そもそも胡太明の一生は、 この歪められた歴史の犠牲者であって、精神の住み家を求めて故郷を離れ、日本にさまよい、大陸にも渡ったが、どこにも彼を安住させるだけの楽園がなかった。で、彼は一生悶えて、光なき憂鬱を覚え、絶えず 理想に憧れ、常に理想からつき離され、ついに戦争の過酷な現実に遭って、もろくも一時は発狂してしまった。当時、筆者の住んでいる家の前には北警察署の官舎がずらりと並んでいた。その中には顔見知りの特高も二、三人いた。この小説の第四編、第五編を書くのにすこぶく都合の悪い所で、したがって竦(すく)まざるをえない。しかし、案外、燈台もと暗しでかえって宏全だと思って別に場所を換えなかった。けれども万一の場合にそなえて、細心の注意だけは払っておいた。二、三枚書いては勝手の炭籠に隠し、これがたまると田舎の故郷へ疎開するようにした。この小説の良し悪しは別として、第四編、第五編は筆者にとっては命がけの作品である」。

私は文学には不案内であり、この作品のできばえについて論ずることはできないが、日本の台湾統治がどのようなものであったのか、そのなかで台湾の民衆は、知識人はどのように生きてきたのかについては痛いほどよくわかったように思う。 いや「ノド元過ぎれば」といわれるくらいで、自分で経験した痛みでさえ忘れてしまうのが人間であるとすれば、他人の、多民族の苦痛なぞ、とうてい理解不可能だといったほうが正しいのかもしれない。「日本の台湾統治は、植民地支配のもっとも成功した例である」といった類の自己弁護はかなり広く行なわれている。私のような戦後派は、ややもすればこの種の謬論を反駁できず、「ソンナモンカナァ」と無批判に受けとりかねない弱さをもっていたが、「この作品を読めば誰でも「成功した植民地支配」なるものが形容矛盾にすぎないこと、コトバの遊戯にすぎないことに気づくであろう。かつて私は台湾人から「蒋介石よりは日本統治時代のほうがよかった」というのを聞いて、日本の統治はそこるで台湾人を変えてしまったのかと驚いたものだが、この作品で「皇民ボーイ」「皇民文士」を知るに及んで、ようやく彼の発言の背景を理解できたように思う。「二〇年も前から皇民化につとめ、和服と味噌汁の生活をつづけ、……自分が任官できない理由が皇民化のふそくにあると思いますますそれに精を出し、台湾人に対しては思い切って尊大であり、日本人に対しては思い切って卑屈」である「哀れな皇民派」の悲劇は決して「皇民派」だけの悲劇ではない。日中戦争が拡大するなかで台湾人は「帝国二等臣民」として同胞の殺戮にかり立てられていき、彼らは同胞からさえ敵視・疎外されることになる。

日本はいよいよ破局へ向かって下り坂をごろげ落ち始めるが、ここで作者は日本人「佐藤」を登場させ、時局批判を行わせ、「植民地捧取の合理化、その精神的武装の本拠」とての台湾大学を痛烈に批判させる。当時このような「佐藤」がどれだけいたか、なにほどのことをなしえたのか、よく知らないが、日本人の読者としては、かろうじてここに救いを見出すことができる。植民地支配は基本的には抑圧者日本人に対する被抑圧者台湾人という図式に尽きるが、作家の目は、「日本人の手先となって台湾人を苛斂誅求」する台湾人とともに、日本人のなかの「佐藤」をも鋭くとらえている。『アジアの孤児』の主人公胡太明は、結局発狂して「それ見給え、どれもこれも虎の面をしている。人の肉を夷のようにあれ狂っている」と叫び、やがて失踪するが、「どれもこれも人の肉を食う虎の面」という妄想は、魯迅の『狂人日記』と酷似している。

歴史を見る目の確かさ

作中人物は失失踪したが、作家呉濁流氏はこの狂気の時代を生き抜き、光復後、次々に作品を発表する。まず「陳大人」。典型的な漢奸であった一巡査補の半生を軽快なタッチで描いたもの。領台後間もなく「花はせんだん、人は警察官」といわれた時代に、テニオハ抜きの迷通訳として名を揚げ、抗日ゲリラを逮捕して手柄をたて、「陳大人」と呼ばれ民衆から恐れられるようになるが、ついに横領罪で検挙され、釈放後は乞食となる男の物語。次にエッセイ『夜明け前の台湾』。これは二・二八事件の二ヵ月後に書かれたものだが、実に醒めた目で情況を見つめ、台湾青年の歩むべき道を論じている。「外省人」が「本省人」を「奴化」と非難すれば、後者は前者を「豚」と反撃するような状況のなかで、同じ中国人としての協力を説く主張は、実に説得的である。「奴化」をもたらした日本統治の功罪を論ずるくだりにも、歴史を見る確かな目が光っている。第三、『ポツダム科長』。これは日本軍占領下の中国大陸で督察処特工科長をつとめ、日本降伏後台湾へのがれてきた漢奸范漢智と、夢多き台湾娘玉蘭との恋物語である。恋のきっかけは范が玉蘭にとって、あこがれの「祖国」から来た男であったことによるが、玉蘭の甘い夢はやがて裏切られる。この漢奸范漢智に代表されるものこそ腐敗と汚職の国民党政権であり、かつて「立派な日本人」となるため、和服の着方まで習った皇民ガール玉蘭が台湾民衆の代表であることは容易に読みとれる。作者は玉蘭を通して、台湾民衆の祖国への期待が国民党政権によって裏切られる過程を描く。第四、『泥濘』。主人公沈天来はもともと貧農であったが、人並みはずれた勤労と節約によって中農・富農へと上昇していく。やがて高利貸しをテコとして没落村長から土地をまきあげるや、こんどは小作人を骨までしゃぶり沈頭家(頭家とは地主のこと)となり、ついには当時の台湾における最高の名誉である紳章を授与されるに至る。彼は同胞の小作人からはこのうえなく無慈悲に搾取したが、日本人の「派出所大人」 (警察官)に代表される植民地支配者に対しては「賛成先生」とあだ名されるほど、徹底的に協力、迎合した。沈頭家は妾を囲い、さらに貧農の娘に手を出そうとして失敗、水争いで殺された小作人の亡霊に悩まされ狂死する。作者は日本統治下に生きる台湾農民の姿、特に地主・小作関係を、沈天来の一生を通して生き生きと描いている。第五、『無花果』。 これは作者の自伝的長編であり、七○年の「平凡な人生」を淡々と語ったもの。祖父から抗日の物語を聞きつつ成長し、日本人と台湾人の対立する教育界で悩み、『アジアの孤児』書きつつ光復を迎え、二・二八事件で失望するまでの歩みを身近かな素材に引きつけて展開していく。『無花果』の「私」の歩みは巧まずして領台から没落へ至るまでの日本統治史と重なっており、時代の証言としてたいへん興味深い物語となっている。作者の歴史を見る目の確かさを随所に発見し、大地に根をおろした中国人の強さに驚き、その人柄に親しみを覚えるのは私ばかりではあるまい。

台湾問題をタブー視する事大主義、権威主義がはびこるかと思えば、他方で民衆不在の台湾論が横行するといった状況のもとで、私は『無花果』の次の一段を一人でも多くの日本人にかみしめてほしい、と切に思う。「台湾は自分たちの祖先が開拓したものであって、われら子孫はそれを守る義務がある。われわれの祖先が幾多の艱難辛苦と努力によって建設してきた村には、一寸の土地に一寸の汗と血と涙が流れている/いま義民廟に祭ってある魂はみな村のために戦った英雄である/この義民爺の精神が知らず知らずのうちに台湾人の血のなかに流れている/それで日本軍が来たというだけで抗日感情が湧き、抗日思想が生まれ、抗日行動となって、 みずから進んで抗日戦線にはせ参じて戦ったのである/台湾人はこのような熾烈な郷土愛もまたもっている。私は明治三十三年、すなわち日本に領有されてから五年目に生まれたので、もっぱら日本教育を受けて大きくなったのである。祖国の文化に接していないから、祖国の観念があるはずがないようではあるが、ことはそう簡単に理屈だけでは解釈できない。この目に見えざる祖国愛は、もちろん観念であるが、しかしなかなか微妙なもので、つねに私の心を引力のごとくひいていた。ちょうど親に別れた孤児のように知りもしない親を慕う気持で、ただ恋しい、懐かしい気持ちで慕い、とにかく親の膝下におりさえすれば温かく暮らせるものと一方的に心のなかできめていた。……この感情は知るものぞ知るであって、おそらく異民族に統治された、植民地の人民でなければ分からないのだろう。こういう気持はかつて清朝治下の民であったものなら当然であるが、それが私のように日本領台後に生まれたものに、 この気持があるのはじつにふしぎである/これがすなわち民族意識だろう」。

帰国後、私は呉濁流さんにお礼の手紙を書き、写真を二葉同封した。数日後返信があり、一葉を雑誌に載せる予定だと書いてあった。私はその雑誌の届くのを楽しみに待っている。