小学館文庫、周恩来『一九歳の東京日記』

解説「日中友好の原点となった周恩来の東京日記」

本書は、若き周恩来の東京青春日記である。原題は『旅日日記』で、長い間、中国でも部分的にしか紹介されていなかった(手稿)が、このたび『周恩来旅日日記』(影印本)、『周恩来早期文集』(上巻、1998年)においてようやくその全貌が明らかにされた。本書は、その全文訳である。

まずは周恩来の生い立ちから始めよう。

1.周恩来の生い立ち

周恩来は一八九八年三月五日、江蘇省淮安県城内(馬付)馬巷で生まれた。私は淮安という町を訪ねたことがある。さびれた田舎町の印象をうけたが、かつては交通の要衝として繁栄をきわめた町であり、往時の面影は残っていた。淮安は南北を縦貫する京杭大運河(北京と杭州を結ぶ)と東流する淮河の交わる町であり、清代には「漕運総督衙門」という役所が置かれていた。いま古運河として残る遺跡の風情から、周恩来が生まれるはるか昔の、往時の繁栄がしのばれ、印象的であった。そのころ、周恩来記念館の建設工事もはじまっていた。周恩来の原籍は浙江省紹興小保佑橋百歳堂にある。魯迅逝去二周年記念

のとき、周恩来はこうのべたことがある。「血統では私は魯迅先生の本家筋かもしれない。二人とも浙江紹興の周家だからである」。周恩来の祖父周殿魁の時代に「師爺」となって紹興から淮安に転居した。

師爺──これが周恩来の人生を解く一つのキーワードである。封建時代に読書人の活路は科挙をうけることにあったが、紹興人は科挙をうけて正規の役人になるよりも、官職ではない師爺になり、全国各級の役所で文書を扱う道を選んだ。師爺とは県知事など役人の幕僚であり、老夫子と尊称されていた。県政府では司法担当は刑名師爺(ルビ・シンミンシーイェ)、財政税務担当は銭糧師爺(ルビ・チェンリャンシーイェ)とよばれた。師爺というのは県知事の意をうけて実務をおこなう官僚であり、県知事側としても彼らに依拠して行政をおこなうのが常であった。

師爺はむろん紹興人に限られないが、紹興師爺(ルビ・シャオシンシーイェ)は有能なことで知られ、一つのギルド的な人脈をつくっていた。毛沢東につかえる周恩来の姿は、周恩来が師爺の体質を継承しているとみるとわかりやすい。紹興人に多かったもう一つの職業は商人である。彼らは大都市に雑貨店をひらき、その一角では紹興酒も売り、あるいは呑ませた。師爺といい、大都市商店といい、いずれも都会的なスマートな職業で、各地の情報につうじている。周恩来の体質のなかには紹興人気質、師爺の血統あるいは遺伝子が脈うっている。祖父周殿魁は晩年に淮安で淮安府山陽県(現淮安県)の知県(県知事)を務めた。周殿魁には四人の息子(貽geng、貽能、貽奎、貽淦)がいた(12ページ家系図参照)。次男の貽能が周恩来の父親である。祖父周殿魁は五〇数歳で死に、父親貽能の時代になると、急に没落した。周恩来の母親万氏(十二番目の娘なので、万十二姑とよばれた)の外祖父・万青選の原籍は江西南昌で、やはり師爺出身である。淮安府下清河県(のち淮陰県)で三〇年間知県を務めた。万十二姑は周貽能に嫁いで周恩来と二人の弟恩溥、恩寿を生んだ。周恩来が一歳にもならないときに、最も若い叔父貽淦が病没した。「不孝に三つあり、後継ぎ無きを大となす」の考え方から、周恩来は貽淦の養子となり、養母陳氏に育てられた。陳氏の実家は蘇北宝応の貧しい読書人の家庭で、未亡人となったとき実子はなく、まだ二二歳の若さであった。陳未亡人は周恩来の養育と教育に力をつくした。周恩来は日記のなかで、すでに死去していた継父を「父親」、陳氏を「母親」とよび、実父を「gandie」(義父の意)、生母を「ganma」(義母の意)と呼んでいて、混乱し易いので注意したい。

一九〇四年、六歳の周恩来は実父貽能、母十二姑、継母(陳氏)、弟たちとともに、外祖父(実母・万氏の祖父)家のある清河県清江浦に転居した。大家族なので家族内でよくもめごとが起こり、母十二姑が調停に活躍した。万家には蔵書が多く、周恩来はここで『西遊記』などを読みふけった。実父貽能はお人好しだが、いささか才覚に欠け、月給一六元の下級職にしかつけなかった。母十二姑は苦労のあまり、一九〇七年に病に倒れた。翌一九〇八年七月、継母(陳氏)も肺結核で死去した。実母と継母の死によって周恩来家は一家離散となる。実父は湖北へ出稼ぎに行った。一〇歳の周恩来は九歳の恩溥と四歳の恩寿を連れて淮安の生家にかえるが、借金と家事は周恩来の肩にのしかかった。周恩来が一二歳の年に、伯父(父の実兄)たる貽geng(いこう)が奉天財政局の科員となり、生活が少し安定した。伯父貽gengには子女がなかったので、周恩来を引きとって育てることになった。つまり周恩来は幼くして「実父の(すでに死去していた)弟〔叔父〕の養子」となり、一二歳で「実父の兄」(伯父、四伯)に預けられたのである。「このとき家を出なかったならば、私の一生は、成就するところなく、家に残った弟たちと同じように、悲劇的な未来にむかったであろう」と周恩来はのちに回想している。一九一〇年春、周恩来は奉天府へ行き、まず鉄嶺の銀崗書院(初級小学)で半年学んだ。秋に第六両等小学堂(のち奉天東関模範学校)が完成したので、奉天にもどり高等丁班に入学した。奉天で出版されていた『盛京時報』を購読し、時事問題への関心をふかめた。一二年一〇月、一四歳の周恩来は「奉天東関模範学校第二周年記念日感言」を書いて、中国を富強にするには、教育から出発しなければならないと論じた。これは現存する周恩来の文章のうち、最も初期のもので、のちに『中学生国文成績精華』に収められるほどの出来ばえであった。一九一三年二月、伯父貽geng(いこう)が奉天から天津に転勤となり、一五歳の周恩来は天津市緯路元吉里に転居した。八月一六日南開学校の入試をうけ、秋からまる四年、一九歳までここで学んだ。これは一九〇四年厳氏家塾を再編してつくられた、欧米流の近代的教育をめざす私立中学校として内外に有名であった。学生時代の周恩来の印象を後に級友は、「厳粛活発」の四文字であらわしている。成績は優秀、とくに国文は抜群であった。一九一七年六月二六日、南開学校の卒業式では国文が最優秀賞に選ばれ、卒業生を代表して「答辞」を述べている。課外には『史記』、顧炎武や王船山の著作、ルソー『民約論』、モンテスキュー『法の精神』、ハクスレー『進化論』などをよんだ。南開時代に新劇『一元銭』を演じたさい、周恩来が舞台装置をつくり、女形を演じた演劇青年であったことはよく知られている。卒業時の級友たちの評価はこうであった。「君は性温和、誠実にして、最も感情に富み、友誼に厚く、凡そ朋友と公益のこと、力を尽くさざるなし」。南開学校の校長張伯苓は周恩来を南開で最良の学生とほめ、しばしば自宅にまねいた。学校理事の厳修も周恩来の人柄と才能をほめ、娘の婿に所望したが、周恩来が固辞した一幕もある由だ。

2.なぜ日本への留学か

周恩来が東京に着いてまもなくロシア革命が起こり、東京での留学を断念して帰国した直後に五・四運動が起こっている。すなわち周恩来の東京生活は、まさにロシア革命と中国の五四運動に挟まれた「疾風怒濤の時代」であった。経緯をたどると、一九一七年七月下旬、周恩来は、同級生李福景(字は新慧)らと北京へ出向き、「日本への官費留学」の道を模索し始めた。奔走の挙句、友人や恩師などから借金してどうやら最低限の費用は工面できた。そこで九月、有名な七言詩「大江歌罷」を残し、天津港から日本に船出し、横浜港に着いた。日本ではまず早稲田に住み(張瑞峰と同室)、ついで神田の「日本人の旅館」に下宿し、「慣れない日本食を食べ、多数の魚を食べ」、東亜高等予備校に通った。「日本旅館は中国旅館よりも静かで、喧嘩がなく、勉強するのに便利だ」(陳頌言宛書簡、一七年一二月二二日)。

周恩来の日本留学前後の事情を調べてみよう。ロシア一〇月革命前夜という大状況、アジアのなかの日中関係という中状況、周恩来自身の家計という小状況があった。青年周恩来はまさに時代の子であり、運命を決する事情はいりくんでいた。まずロシア革命の勃発は一七年一一月七日である。これは周恩来が東京高等師範や一高入試の準備のために日本語の補習を始めたときである。日記のなかに東京堂で求めた新刊『露西亜研究』誌から抜き書きし、ボリシェビキ(過激派)とエスエル(社会民主党)、カデット(立憲民主党)についてのメモを残したのは五カ月後(四月二三日付)である。周恩来は北洋軍閥に権力を簒奪され、混迷を深める祖国の「救国」を考えていたが、隣国ロシアでは「自由と民主」を掲げた革命が始まったのである。

日中関係はどうか。日本政府が袁世凱大総統に旅順大連の租借期間延長や山東省ドイツ利権の譲渡などを含む「二一カ条の要求」をつきつけたのは一九一五年一月のことである。周恩来が南開学校を卒業した一七年六月、日本政府は石井菊次郎を米国大使に任命し、中国における日本の特殊権益などについて米国代表ランシングとの交渉に当たらせ、一一月二日に調印した。この間、一〇月一〇日に在日中国人留学生が石井演説に抗議し在日中国公使を問責する事件が起きた。周恩来は「初めて会議に出たとき、公使館を包囲攻撃することに出会い、暴動行為はことごとく眼底に入り」と評した。この事件を「暴動行為」とむしろ否定的に受け止めていることが注目される(前掲、陳頌言宛)。半年後の一八年五月六日、在京の中国人学生が「日華共同防敵軍事協定」に反対する集会を開き、二五人が拘留されたが、この事件は当日こう記されている――。五月六日、早稲田に行くが、友人の南開同学会総幹事童啓顔(冠賢)に会えない。本郷に行くが友人に会えない。夜九時再度早稲田に行き、ようやく童啓顔と会えた。翌五月七日の記述はこうである――。前夜宴会を名目に「維新号」(中華料理店名)に集まり、授業をボイコットして帰国することを決めた、一部の者が警察に拘束されたことを知ったと、その経緯が記されている。

日中関係の争点はパリ講和会議(一九一九年一〜六月)の行方に集約された。山東半島のドイツ利権の日本への譲渡問題をめぐって北京では五月四日、学生三〇〇〇余が示威運動を行い、東京では五月七日、中国人留学生二〇〇〇人が「国恥」(こくち・ルビ)記念デモを行った。これはちょうど周恩来の離日前夜であった。周恩来が日本を離れたのは五月五日、朝鮮、瀋陽を経て郷里天津に戻ったのは五月九日である。翌一〇日に南開学校の学生集会に参加し、以後学生運動の先頭に立った。北京では五月一九日から日貨ボイコット運動が始まった。哀れな故国に対して強権的な政策を採る日本の現実に直面して中国人留学生たちは親日か反日か、留学か授業ボイコットか、踏み絵を迫られた。周恩来は欧米の先進文化を輸入して近代化をなしとげ、アジアの強国となりつつある日本から富国強兵の秘密を学ぼうとしていた。そのような視点から、日本留学仲間を冷静に分析した。「一つは、勉強に没頭し、太平と乱世を聞かない(社会問題に無関心の意)。一つは、出しゃばるのが好きで、いたるところで声を張り上げる。一つは、徹底して愚かで、わけが分からないグループだ」。「神州(中国のこと)をみると、悲しい思いが極点に達する」(前掲、陳頌言宛)。またいう。「一〇年前に日本に留学した学生に思いをはせると、大半が二派に分かれた。一派は革命に従事し、一派は君主立憲に賛成した」。「両派は日々旗を振って人を排斥しながら、まったく実力がなく、帰国してことをなす段になると、一人一人化けの皮がはがれた。どうして国のためになすことができよう」(一月二四日付)。当時中国からの日本留学生は数千の規模に達しており、一つのブームをなしていたこと、留学生仲間の間でのみ気勢を挙げ、日本には学ぶべきものなしと断ずるような者も少なくなかったことが分かる。周恩来にとって日本留学にはより切実な経済的理由があった。運良く東京高等師範や東京第一高等学校など「日中両国政府間協定で指定された学校」に合格したばあいに、中国政府が「官費留学生として認める制度」が設けられており、これを利用すれば貧しい周恩来にとっても留学の夢が実現できるはずであった。周恩来は早稲田大学の友人を訪ねてしばしば早稲田に行き、また慶応大学の学則も調べたりしている。南開大学の同窓生で慶応大学に合格した者も少なくない。しかし、周恩来にとっては経済的理由からして、就学の可能性のあるのは東京高師と一高に限られた。

3.東京生活・青春の彷徨

・受験を妨げる社会問題への芽生え

周恩来は、一七年一〇月、神田区中猿楽町七番地の東亜高等予備学校にはいり、主として日本語を学んだ。南開学校では数学、物理、化学などをすべて英文のテキストで教わっていたため、その知識を日本語で表現する苦労をあじわった。一九一八年三月四〜六日、来日半年後に、東京高等師範の入試があり、日本語、数学、地理、歴史、英語、物理、化学、博物の八科目のほかに口頭試問も行われた。一五日になって南開学校で同室だった張鴻鵠(輪扉)に合格通知が届いたが、周恩来には届かないことが明らかになった。不合格を予感した周恩来は一一日の日記に「今後勉強に没頭する」決意を書き、「睡眠七時間、勉強一三時間半、休憩その他三時間半」の時間割を決めている。いまや残された可能性は七月の一高入試一本、背水の陣であった。

東京高師に失敗した直後のある日気晴らしに日比谷公園にでかけた周恩来は、二人の小学生が草花を植えて遊ぶ姿に接して感動する。「中国人は口を開けば、日本は襤褸の邦というが、どうして襤褸であろう。日本の国民が中国人を軽蔑するのは不思議ではない。中国人は一知半解である」(三月九日)。一高受験の勉強が始まってまもなく、五月六日「大中華民国救国団」のメンバー四〇数人が神田区の中華料理店維新号で秘密会議をひらいているところへ日本の警察が踏みこみ、全員が逮捕される事件が起こった。このため周恩来の受験勉強は少なからず邪魔される。五月五日、一部の留学生が「大中華民国救国団」を結成し、日本の対中国政策に抗議して帰国しようとする動きが見られた。周恩来はこう書いた。「このことに対して、私は消極反対の主義を持し、口を閉ざして言わず」(五月四日)。周恩来の気持ちは日本での勉強継続論に傾いていたことが分かる。このあたり、万事に慎重な判断を行う穏健派・周恩来の面目躍如たるものがある。まもなく一高の受験日を迎えた。七月二〜三日、第一高等学校の入試も無残な結果に終わった。「日文の書取の成績がはなはだ悪く、おそらく合格の望みはない」(二日)、「会話の成績がはなはだ劣り、合格の望みがいっそうなくなる」(三日)。「試験に失敗し、非常に堪えがたい。友に負け自分に負け、自暴自棄だ」(四日)。「日本にやってきたのに日本語をうまく話せず、どうして大いに恥じずにいられよう。官立学校に合格できず、この恥は生涯拭い去ることができない」(五日)。「朝、はなはだ晩く起きる。連日頭をつかったので疲れた」(七日)。一三日に一高の発表を見に行く。張鴻鵠(輪扉)と楊伯安は合格したが、王嘉良(子魚)と周恩来は失敗した。周恩来にとって東京高師に次ぐ二度目の大きな挫折である。これで官費留学生になる可能性が消えたことになる。私はいま「もしも」という仮定を禁じ得ない。周恩来がもし東京高師あるいは一高に合格し、官費留学生として留学生活を経済的に保証されたとしたら、彼は東京での留学生活を続けたであろうか。それともやはり帰国の道を選んだであろうか。受験に失敗したのは、まず一八年三月(東京高師)、次いで七月(一高)である。失意のなかで煩悶し、帰国を最終的に決意するのは一九年五月である。この一年足らず、周恩来の煩悶や葛藤はどのようなものであったか。周恩来の人間形成にとって大きな意味をもつ出来事であったことは疑いない。読者は日記の端々から周恩来の内面をさまざまに読むことができよう。

中国に残る家族への想い

貧しさのゆえに離散した家族を思う周恩来の心はせつない。東京に着いて数カ月後、叔父周貽奎の訃報に接した。「私は身が海外にあり、不意にこの訃報を受取り、そのときは痛みも悲しみも感じず、まるで知覚がなくなってしまったようである」。翌日こうつづける。「叔父(八伯)の病は、持病といっていたけれども、現在まで病んでいたのに、医者に行って一銭でも費やしたことがあっただろうか。ずばりいえば、貧乏のどん底だったのだ」(一月九日)。

周恩来日記の空白部分

芳しくない受験結果を報告し、今後の方針を考えるため、周恩来は夏休みを利用して一時帰省した。七月二八日朝鮮経由で天津に帰郷し、九月四日東京にもどっている。旅行中の日記は詳しいが、東京に戻った九月以降、周恩来日記の記述は極端に少なくなる。ほとんど手紙の発信と受信のみしか記述がない。これはもともと記述がないのか。それとも公表をはばかり編集者が削除したものか、理由は不明である。その短い記述も一九年一二月二三日をもって終わる。それから一九年五月初めの帰国まで、周恩来の生活、いわんや内面の葛藤を知る資料は欠けている。年が明けて一九年三月、母校南開学校に大学部が併設されるとのニュースが伝わり、彼は帰国して母校で学ぶ決意を固めたとされている。帰国前の四月五日京都嵐山を訪れ、「雨中嵐山」の詩を書いた。日本滞在は一年七カ月(一七年九月〜一九年四月)にすぎなかった。日記の空白期に周恩来がどのような生活を送り、何を煩悶していたのかはまだナゾとして残されている。

ここで蛇足を一つ。これまでのいくつかの周恩来伝説はこの日記によって訂正される可能性がある。まず中国発の伝説だが、中共中央文献研究室編の『周恩来年譜』には、日本滞在中に周恩来はジョン・リード『世界を揺るがした一〇日間』でロシア革命への理解を深め、幸徳秋水『社会主義神髄』(一九〇三年、中国語訳一九〇六年)、などを読んで、アナキズム、ギルド社会主義、日本の「新しい村」運動やマルクス主義に接したと書かれている(二七ページ)。しかし、周恩来の日記にはこれらについての直接の記述はみられない。ロシア革命に具体的に言及したのは四月二三日付の日記のみである。周恩来が「これらの本に接しなかった」とまではいえまいが、この伝説を確証するに足る資料は不足していると見るべきであろう。

もう一つは、東京発の捏造記事である。日中国交正常化に際して周恩来ブームが起こった時、便乗記事が氾濫したことがある。その一つは、週刊誌『女性自身』(七二年一月一五日号、二二日号)の報道であった。ここには、『東京日日新聞』神近市子記者による周恩来インタビューなるエピソードが書かれており、後日、『日本における周恩来』(中国語訳『周恩来与日本朋友們』)にも紹介されている。『東京日日新聞』が維新号での五月六日事件を七日付で報じたのは事実だが、このとき神近はすでに新聞社を辞めており、この記事を書いた可能性はない。いわんや神近が周恩来を三回インタビューしたというのは捏造である。故岩間芳樹(劇作家、周恩来の東京留学時代を描いたテレビ番組『隣人の肖像』の脚本を書いて、1999年7月急逝)は日記を踏まえながら、『東京の周恩来』(未定稿)で誤りを綿密に批判している。

周恩来の日本留学は予備校通いの苦学生として、「灰色の青春」のまま終わった。恋愛する余裕はなく、女性との交流はわずかに下宿先の女中から日本語を手ほどきしてもらう程度である。明治維新から大正デモクラシーの日本に学ぶ、日本の近代化の精神を学ぶ、欧米の科学技術を日本経由で学ぶ――さまざまな可能性は開かれていたが、実を結ぶには至らなかった。これは惜しいことだが、青春の浪費と見ることもできまい。若い周恩来は日本文化や日本人の国民性についての感性的な知識を得て帰国したのであり、それは大宰相(そして宰相を支えた廖承志ら日本通の政治家たち)の日本理解の適切さとしてその後しばしば話題になった通りである。多くの年輩世代の日本人間に周恩来ファンが少なくないのは、彼が日本人とのつきあい方の原点を若い日に学んだことがあずかっていると私は感じている。一言で言えば、周恩来は「軍国主義日本のイメージ」の前に、「大正デモクラシー下の日本国民の実像」に接していたのだ。

. 周恩来の帰国

周恩来は大連経由で帰国し瀋陽に伯父を見舞い、五四運動が燃え始めた天津にもどった。五月一七日南開学校の茶話会に出席し、そのまま学生運動に飛びこんだ。九月一六日天津学生聯合会は不定期の小冊子『覚悟』を出版し、覚悟社を結成した。「覚悟宣言」は周恩来が起草した。革心と革新の精神によって、自覚と自決を求めるという趣旨であった。九月二五日四年制の南開学校大学部が開かれ、文、理、商の三科がもうけられた。周恩来は一期生として文科にはいった。一〇月下旬から二カ月余が覚悟社の活動のピークだった。李大zhaoらをまねいて講演会をひらいた。覚悟社の活動は世間の話題になり、一一月二五日付北京『晨報』はこれを「天津の小明星」と評し、その活動をたたえた。二〇年一月二九日、周恩来はデモ隊五、六千人を指揮して直隷省公署におしかけ逮捕されたが、最初で最後の逮捕であった。七月一七日刑期満了で釈放されるまで約半年の試練をへて、国家の命運と社会改造に関心を抱く進歩的学生は、職業革命家に成長した。彼自身、革命意識の萌芽はこのころ始まったと述べている。しかし、まだマルクス主義者になったわけではない。周恩来が出獄すると、南開学校の創始者厳修、校長張伯苓らは、周恩来や李福景をヨーロッパに留学させるよう提案し、渡航費用をだしてくれた。一〇月八日、マルクスの故郷ヨーロッパに旅立った。周恩来のマルクス主義への関心はまず日本で芽生え、五四運動を通じてよりたしかなものに成長していった。一九二〇年一一月七日、周恩来ら一九七名の中国人学生がフランス船ポルトス号でマルセイユにむかったが、それは「中国フランス教育会」の組織した第一五群のフランス「勤工倹学生」たちであった。当時イギリス留学生は二百人、フランス留学生は二千人であった。パリ郊外のフランス語学校でフランス語を学び、まもなく天津の四名の勤工倹学生とともに、フランス中部の町でフランス語を学ぶかたわら『益世報』に通信をかくアルバイトをした。第一次大戦後、フランス社会の矛盾は大きく、二〇年にフランス共産党が成立しており、マルクス主義の書物を入手することは容易だった。周恩来は英語版の『共産党宣言』『空想から科学へ』『国家と革命』などをむさぼり読んで、共産主義への信念を固めた。日本留学時に初めてマルクス主義に接触し、五四運動の洗礼をうけ、半年の獄中生活、そして欧州での各種新思潮への接触──これら三年間の熟慮をへて決断をくだし、二一年に張申府夫婦の紹介で中国共産党に入党した(張申府は前北京大学講師であり、李大酥とともに中国共産党の創立に参加したあと渡欧し、連絡を担当していた)。中国留学生の一つの中心はモンタルジュという小都市であった。一四〇余の中国留学生のなかには蔡和森、李富春、李維漢、蔡暢などがモンタルジュ公学と同女子公学にいた。もう一つの中心は重工業都市クルーゾである。ここには趙世炎、ケ小平などがいて、鉄鋼会社で働いた。一九二二年六月、欧州で中国人青年の間に共産主義組織・旅欧中国少年共産党が生まれ、第一回大会はパリ西部のブローニュの森でひらかれた。フランス、ドイツ、ベルギーから代表が出席し、周恩来はドイツからかけつけた。本部はパリ市ゴドフロワ街一七号の小さな旅館におかれた。二三年二月一七〜二〇日には臨時大会をひらいて、旅欧中国共産主義青年団と改名し、共産主義思想を信ずること、本国の中国社会主義青年団を上部機関として認めることを決定している。機関誌『少年』は二二年八月一日に創刊され、のちに『赤光』と改名された。その印刷担当がガリ版博士ケ小平であった。陳独秀は二二年六月三〇日にコミンテルンにあてた報告のなかで、当時の中国共産党員は一九五人、うち在ソ連八人、在ドイツ八人、在フランス二人と書いているが、彼ら党員が社会主義青年団を指導していた。

. 総理・周恩来

周恩来は毛沢東の片腕として、中華人民共和国の国務院(内閣)総理を一九四九年から七六年まで二六年間、文字通りその死まで務めた。「鞠躬、人事を尽くして、死してのち止む」(鞠躬尽瘁、死而後已。諸葛孔明「後出師表」)姿そのものである。総理(宰相)の激務を四半世紀にわたって務めるのはただごとではない。毛沢東をかりに中華人民共和国の「建国の父」とよぶとすれば、周恩来は「建国の母」、共和国の主婦であった。周恩来の人際間調整能力は幼児から鍛えられ、後年たぐい稀な調整能力を発揮する大政治家となった。周恩来と接触したことのある人々の多くは、温和、謙遜、平静、忍従などの言葉を用いて形容する。たしかに周恩来は他の指導者と比べると、調和し妥協し、自己批判することが比較的多かった。これは彼の大局を識別する能力、融通無碍の弾力性とかかわっている。周恩来は二つの勢力の闘争においては、調和的あるいは中庸の態度をとることが多かった。よく言えば民主的、寛容的だが、悪く言えば曖昧な態度となった。あれだけハンサムでありながら、浮いた話がないことについて周恩来「恐妻家」説がある。妻deng穎超のヤキモチをおそれたからだともいう。しかし、これはあまりあたっていない。周恩来の生き方は禁欲的であり、この態度は対女性関係にもあらわれているとみてよい。この点で堅物周恩来は奔放な毛沢東と対照的だ。長征の過程で毛沢東が党内の指導権を握ったのが、遵義会議(一九三五年一月)であることはよく知られている。フランス帰りという毛並みのよさもあずかって、毛沢東より高い地位にいた周恩来が毛沢東支持に転じたのはなぜか。長征の過程で周恩来が軍事指揮の誤りを痛感したのは、湘江戦役(三四年一一月下旬)で部隊の半分をうしない、隊列が三万余に急減したときだ。このあと、一二月一一日に湖南省通道で、一八日貴州省黎平で、つづいて三五年一月一日貴州省烏江南岸の猴場で、「紅軍の進撃」というよりも「逃亡の方向」をきめるための現場会議をそのつどひらいている。これらの会議における毛沢東の主張の妥当性を周恩来が率直に認めたのである。これは党内において上級にいた周恩来が現場のゲリラ指導者毛沢東の実力を評価し、自らはその脇役に変身する過程であった。それについて彼は「革命の大義」のため、「毛沢東の判断の正しさ」を指摘するのみで、内面の葛藤を何も語っていない。大躍進政策が失敗し、調整政策を余儀なくされて以後、毛沢東は意識的に個人崇拝を利用して、権力を固めようとするようになり、特に文化大革命期に個人崇拝は極点に達し、あたかも皇帝のごとく全中国に君臨した。毛沢東が「皇帝化」するにしたがって、周恩来はしだいに「宰相」「軍師」の地位から「執事」に転落していった。周恩来は当初、現実主義的な立場から大躍進に懐疑的であったが、毛沢東からその動揺性をきびしく批判されたあと、毛沢東の急進路線に追随した。大躍進の失敗を批判した彭徳懐が、その批判を受けいれられるどころか、逆に解任されたとき、周恩来は彭徳懐を支持することはなかった。

.外国人のみた周恩来イメージ

周恩来の才能が外交面でとくに目立つのは、周恩来の個性とかかわっている。周恩来の才能はあたえられた戦略のなかでどのように戦術を駆使して目的をたっするか、という仕事のすすめ方のなかで最もよく発揮され、その過程と結果はだれをも感服させるようなたくみさであった。米中接近への思惑は、脱文革の意図を秘める周恩来と継続革命をねらいつつ方向転換を模索する毛沢東の間に矛盾があるし、また米中間には台湾問題という実にやっかいな争点がひかえていた。これら錯綜した糸のもつれを一刀両断ではなく、根気よく解きほぐしていくような仕事を、周恩来は用意周到にすすめて成功させた。それは確かに不世出の才能には違いないが、あくまでも軍師の知恵であり、皇帝に厳しい諫言を行う勇気を彼は欠いていたごとくである。

周恩来の才能と知性に感服した外国人はすくなくない。キンシンジャーは、いままでに会った人物のなかでもっとも深い感銘をうけた二、三人のうちの一人にかぞえ、「上品で、とてつもなく忍耐つよく、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と評している。ハマーショルド(元国連事務総長)は「外交畑でいままで私が出あった人物のなかで、もっとも優れた頭脳の持主」と断言している。これらの証言を引用しつつ、『周恩来伝』を書いたジャーナリストD・ウイルソンはケネディやネルーと周恩来をくらべ、「密度の濃さが違っていた。彼は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と最高級のほめ方をしている。周恩来にほれこんだ日本人もすくなくないが、代表的な一人をあげるとすれば、故岡崎嘉平太(元日中経済協会顧問)がいる。私はいくどか岡崎老の周恩来への傾倒ぶりに接する機会があった。周恩来の才能が外交面でとくに目立つのは、周恩来の個性とかかわっているようにおもわれる。周恩来の才能はあたえられた戦略のなかでどのように戦術を駆使して目的をたっするか、という仕事のすすめ方のなかで最もよく発揮され、その過程と結果はだれをも感服させるようなたくみさであった。女優の高峰秀子のエッセイ集『にんげんのおへそ』に「梅原龍三郎と周恩来」と題した一篇が収められている。梅原のモデルをしばしば務めた高峰がある時、梅原に「なぜ女ばかり描いて男を描かないのか」と問うたことがある。梅原答えて曰く、「ボクが描きたい男は、世界中にたった一人いるよ。周恩来だ」(同書一〇二ページ)。梅原がもし描いたとしたら、どのような周恩来像が生まれたのか興味は尽きないが、審美眼のプロフェッショナルから「男のなかの男」と評価された周恩来のイメージは、戦後かなり長期にわたって、日本人のなかに生きつづけた周恩来像の輪郭を浮き彫りにしている。隣国の画家をかくもとりこにした周恩来の魅力とは、その風貌だけのことではなく、革命家のシンの強さを外交家の微笑で包む人間周恩来の魅力であったことはいうまでもない。

周恩来は中国のかかえるさまざまな外交案件を、それぞれみごとに解決した。五四年のジュネーブ会議における国際舞台への初登場、五五年バンドン会議における平和共存五原則の提唱、六〇年代におけるフランスとの接近、七〇年代における日中正常化、米中接近、これらの外交交渉は、周恩来の横顔とふかく結びついて人々の記憶にのこっている。

7.周恩来の留学とその後の日中関係

周恩来が日本留学を決意した当時の国際情勢と日中関係を俯瞰してみよう。一九一四年七月、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した。日本はこの戦争に日英同盟を根拠として参戦し、素早くドイツがアジア侵略の拠点としていた山東省膠州湾と南洋諸島を占領した。翌年一月には大戦のどさくさに紛れて対華二一カ条条約を中国に押しつけた。これは有体にいえば、火事場泥棒に近い行為だが、帝国主義の時代にはこのような強権外交は日常茶飯事であった。その後、一九三一年の満州国建国、一九三七年の日中戦争へと展開し、一九四五年の敗戦によって一つの区切りがついたのは現代史の教える通りである。たが、歴史はただひたすら破局へ向かって突き進んだわけではあるまい。それぞれの時点でいくつかの選択肢を誤って選択した結果、そのような帰結に立ち至ったものと見るべきであろう。たとえば石橋湛山(一八八四〜一九七三、元首相)の回顧談を聞いてみよう。「第一次世界大戦のときは、僕自身は、むしろ政治問題、社会問題に関心があった。例えば中国の革命に同情したですね。二一カ条条約や青島占領には非常に反対した」(『湛山座談』岩波同時代ライブラリー、一〇ページ、一九九四年)。

もう一つ、証言を挙げよう。朝河貫一(一八七三〜一九四八、元イェール大学教授)は、アメリカに在って、母校の総長から首相になった大隈重信に書簡を送り、「将来の大利のために目前の小利を捨てて」、膠州湾を中国に返還することの必要を説き、二一カ条のような侵略主義的な「力の外交」は、アメリカ国民の日本に対する信頼を失墜させるであろうと警告し、慎重な対応を求めている。朝河によれば、日本の東洋外交は、「日中共進、東洋自由、東西協同の三原則」を守り、中国民族の自由と独立を尊重する覇権なき「正義の外交」でなければならないのであった(『朝河貫一書簡集』二一二、二三三ページ)。

当時はまだ「力の外交」か、「正義の外交」か、日本政府自身が試行錯誤を繰り返していたのである。そのような状況だからこそ、石橋も朝河も「もう一つの可能性」を信じて諫言を続けたのであった。ただし、これらの事情を当時の周恩来はむろん知らない。

周恩来の日記に登場するのは、吉野作造である。吉野は一九一六(大正五)年一月号の『中央公論』で民本主義を提起し、保守派の上杉慎吉が同誌三月号でこれを批判し、四月号で吉野が反論し、民本主義論争が行われた。一九一七(大正六)年八月に吉野は『支那革命小史』を発表している。一九一八(大正七)年一一月二三日、吉野らはデモクラシー思想をめぐって立会演説会を行い、学生たちがこれを応援する運動を起こした。いわゆる大正デモクラシーである。デモクラシーの旗手吉野に会うべく、いくども訪問したことは日記に記されている。アナーキストたちが労働運動研究会を結成し、大杉栄を中心に月二回の研究会を始めたのは一九一六(大正五)年二月、河上肇が「貧乏物語」を『大阪朝日』に連載したのは一九一六年九月一一日〜一二月二六日、単行本は翌一七年三月刊である。周恩来が東京での留学生活を送った大正時代の半ばはそのようなアナーキズム、デモクラシー、国家社会主義、ボリシェビズムなど新思想の百家争鳴の時代なのであった。その可能性はさまざまに開かれていた。第一次世界大戦は一方でロシア革命とボリシェビズムを生み出し、他方でその反動としてのファシズムを生み出すが、日本の大正時代は可能性に満ちた混沌の時代であった。そのような時期に周恩来は新思想の息吹に接したのである。

帰国した周恩来は五四運動の先頭に立って親日派曹汝霖の南開学校の理事就任ボイコットをやり、やがて西安事件で抗日統一戦線をまとめ、抗日戦争の指導者として、共産党内部での地位を固めていく。建国に際して総理となり、以後その死去まで総理の地位にあったことは前述のごとくである。このような周恩来の経歴を率然と読むと、日本に留学して単に「反日」だけを覚えて帰国したように見えるかもしれない。しかしそれは皮相な観察であろう。

歴史にifは無用だが、周恩来が一高に合格し、留学生活を続けえたならば、というのは面白い愉快な想定であるし、また日本政府が「正義の外交」を行う可能性も絶無ではなかった。日中戦争への道は、かならずしも必然的な、不可避の成行きというものではあるまい。中華人民共和国の総理としての周恩来は、冷戦下の厳しい状況のもとで対日関係を処理し、ついには一九七二年に国交正常化を導いた。その過程で日本人の国民性や風俗習慣を熟知する周恩来の見識が十分に活かされたことは明らかである。たとえば一九七三年四月、国交正常化を記念して大相撲の中国親善興行が成功裏に行われた。これが知日派の宰相の決断によること当時は常識であったが、いまでは知る者も少ない。周恩来、宰相を支えた「江戸っ子」廖承志(一九〇八〜一九八三、元中日友好協会会長)という知日派大物が消えて久しい。日中間での小さな誤解が大きな混乱を招いている事例に接するたびに、私は知日派の先達魯迅・周作人兄弟や若き周恩来を想起する。そして私の胸のなかで、周恩来東京留学の後半のナゾ、日記の空白部分への興味がいよいよ深まるのを禁じ得ない。

一九九九年盛夏、ブダペストへ旅立つ前夜に記す    矢 吹 晋