朱鎔基 大胆不敵なバブル処理
「経済に強い」新宰相は、アジア通貨危機も逆手にとった
『文藝春秋』1998年6月号318−327頁
三月一九日、中国の新しい総理に就任した朱鎔基が記者会見を行い、「経済成長率の八%維持、インフレは三%以内、人民元は切下げない」などいくつかを公約した。「中国のゴルバチョフ」「エコノミック・ツァー(経済覇王)」のあだ名をもつ朱鎔基にふさしわい颯爽たるデビューであった。就任後初の外遊はロンドンで開かれたアジア・ヨーロッパ首脳会議への出席である。保守党に代わった労働党ブレア首相を相手に「私はまだ就任二週間なので、キャリア一年のあなたから首相学を学びたい」などウィットに富む発言を続けた。これまでの中国指導者にありがちなロボットを想起させるイメージとは相当に異なる清新な印象をヨーロッパ社会に残した。実は朱鎔基は第一副総理をすでに五年務め、数々の実績を収めている。その自負がこの発言を支えている。
朱鎔基が上海市長から副総理まで、中国現代史においても希有な「三階級特進」(第一副総理まで数えると四階級)したのは、九一年四月である。朱鎔基は八七年一〇月の第一三回党大会で中央候補委員に選ばれた。当時は中央委員が一七五人、中央候補委員は一一〇人である。朱鎔基は序列九一位の候補委員なので、全体の序列では二六六位である。しかもこのときは中央委員のうえに中央顧問委員が二〇〇人いたことを計算にいれると、四六六位とみることもできる。朱鎔基のエラさの程度は、辛うじてビリで当選したわが衆議院議員といったところであろう。この種の陣笠レベルの議員が五人の副総理のうちの一人になり、九三年三月には李鵬総理に次ぐ第一副総理に昇格したのであるから、鯉の滝登りにも似た大出世である。天安門事件以後の保守派主導ムードのもとで、改革開放路線が「名存実亡」化している窮状から脱出するために、桔弌峠が敢えて断行した奇策であった。
朱鎔基は一九二八年、湖南省長沙に生まれた。生まれる前に父が病没した「遺腹子」である。母親も一〇歳のとき死去し、孤児となった。孤児は伯父朱学方のもとで育てられ、苦学して名門清華大学電機学部を出た。この大学は理科系の最高学府であり、よくアメリカのMITにたとえられる。
彼の学生時代はまさに中華人民共和国の成立前後であった。多感な青年は中国共産党に入党し、しかも清華大学学生自治会の主席に選ばれるほどの熱心な活動家であった。優秀な学生であるから、当時の花形役所たる国家計画委員会(の前身)に就職し、エリート官僚としての道を歩きはじめた。名門大学の学生運動華やかなりしころのリーダーとして活躍し、エリート官庁の幹部としての道を歩み始めたのであるから、朱鎔基の二〇歳代はベスト・アンド・ブライテストを絵に描いたようなものであった。
三〜四十代は奈落の底に
しかし燦然と輝いていた朱鎔基の人生は突然暗転する。三〇代、四〇代の彼を待っていたのは、奈落の底に突き落とされたような生活であった。政治闘争の渦に巻き込まれたのである。五六年二月、旧ソ連でスターリン批判が始まると、その衝撃は中国にも及んだ。毛沢東は人心収攬のため、「百花斉放」を呼びかけた。国家計画委員会では座談会が開かれたが、口を開く者はなかった。誰もが日和見をきめこむなか、竹を割ったような性格をもつ積極分子朱鎔基は皮切りに三分間スピーチをやった。「一部の指導者は計画や予算を編成するとき、調査研究を怠り、いいかげんにやるのでうまくいかない」。きわめて穏当な発言にすぎないが、敵を作りやすい朱鎔基の性格と相俟って悲劇の発端となった。彼の罪状は「反党分子」摘発という政治の文脈のなかでかぎりなく拡大され、共産党を除名されるという理不尽な処分を受けた。
このエピソードにはおそらく隠された背景があると私は解釈している。成立初期の国家計画委員会を舞台として行われた権力闘争がからんでいる。
国家計画委員会の初代主任は劉少奇のライバルと目された高崗(一九〇五〜五四)である。彼はスターリンから乗用車を特にプレゼントされるほどの英雄であった。毛沢東からも支持されていると誤解した高崗は共産党の主流は軍人、勇士たちであるべきだと主張し、劉少奇ら国民党地下で活躍してきたグループに挑戦したが、逆に権力闘争に破れ、高崗は獄中で自殺した。五四年初めのことである。高崗グループとして処分された人々のうち見落としてならないのは、馬洪(一九二〇〜 )の名である。三四歳の馬洪は当時、国家計画委員会副秘書長、つまりは高崗の秘書格であった。馬洪は事件のとばっちりを受けて国家計画委員会の主流から外れ、五六年に国家計画委員会から分かれて年度内の経済調整を担当する部門として成立した国家経済委員会の「政策研究室」に左遷された。つまりは調査マンである。馬洪の名は政治の表舞台から消えたが、代わりに官庁エコノミスト牛中黄(馬洪の筆名)が現れ、何冊もの本を書いている。
この馬洪こそが最初に朱鎔基の能力を発見し、以後一貫して朱鎔基を見守ってきた伯楽ではないかと私はみている。五二年に国家計画委員会が北京に成立した時、東北人民政府から多くの幹部が北京に配転になったが、そのリストに朱鎔基の名を加えたのはおそらく上司・馬洪である。文化大革命の後期、すなわち七〇〜七八年に馬洪は北京石油化学工業区建設指揮部の副指揮をつとめたが、朱鎔基は七五〜七八年に石油工業部パイプライン局の「副主任工程師」である。馬洪が中国社会科学院工業経済研究所所長になると、朱鎔基をこの研究所の「研究室主任」に引き上げている。右派分子のレッテルを外し、復党の事務手続きにも馬洪がかかわっている可能性が強い。馬洪はその後、国務院のシンクタンク「発展研究センター」の主任を長く務めて、中国版「官庁エコノミスト」の総帥となった。八〇年代の前半、朱鎔基は国家経済委員会の「技術改造局長」として国有企業の改革に取りくみ、まもなく副主任に昇格するが、市場経済の推進機関たるこのグループには馬洪人脈が多い。私は改革派エコノミストの群像を調べる過程で両者の深い関係に気づいた(『日中経済協会会報』一九八八年五月号の馬洪論を参照)。
国家経済委員会の副主任というのは、日本の役所でいえば経済企画庁の政務次官程度であろう。朱鎔基は八三年、五五歳でこの地位に就いた。このあたりで彼の人生はようやく三十〜四十代の暗さから脱却し、エリート官僚にふさわしいところまで回復した。八四年には国家経済委員会のナンバーツーの地位(党組副書記)にまで昇進したが、八八年春の行政改革で、この役所は国家計画委員会に吸収されてしまった。市場経済への歩みに逆行する動きを主導したのは計画経済にこだわる陳雲・姚依林・李鵬ラインだが、私はこの逆流が中国の市場経済化をおよそ一〇年遅らせたとみている。ポストを失った朱鎔基は上海市長に転出するが、上海で彼の政治家としての素質が花開いたのは皮肉である。
「国家経済委員会で彼は副主任を務めたが、周辺との折り合いが悪かった」「朱鎔基はナンバーワンはやれるが、ナンバーツーはダメだ。朱鎔基の性格は容易に敵を作りやすい」。これはケ小平の朱鎔基評である。「上海市長になって、こんなにうまくやるとは、誰も予想できなかった」という賛辞が続く。朱鎔基の剛毅な性格をケ小平はよく見抜いていた。剛毅さの点では二人は酷似している。ケ小平の人生における「三下三起」(三回失脚し、三回復活する)は有名だが、朱鎔基が右派分子として二〇年間ほされつづけ、その後は一瀉千里、総理まで出世したことも中国現代政治の激動の産物にほかならない。
剛直な右派分子の政治犯には近づく者がいないから、両袖に賄賂はなく、あるのは清風ばかりだ。朱鎔基の波瀾の人生を見ると、孟子の言を想起しないわけにはいかない。「天の将に大任を降すや、必ず先に其の心志を苦しめ、其の筋骨を労せしむ」である。朱鎔基という男に中国経済の再興という大きな任務を与える前に、その能力を鍛えるため数々の試練を課したのかもしれない。この数奇な朱鎔基伝説はいまや彼の政治的資産と化した。これは中国の政治と経済の行方を分析するうえで重要な要素になる。彼の号令に重みを加えるからだ。
エピソードを一つ。一九九五年四月二七日、首都北京のナンバーワン陳希同書記が解任された。この事件は、中国に蔓延する汚職と腐敗への追及がついに北京市のトップ、政治局委員という高い地位にある人物にまで及んだことで世界の耳目を驚かせた。「一〇一個の棺桶」物語は、この事件にからむものである。朱鎔基はこう述べた。「腐敗退治は、まず虎を退治してから狼を退治する。百個の棺桶を準備せよ。私の分も一つ要る。連れ立って地獄へ行き、それと引き換えに国家を繁栄させ、庶民の支持を獲得するのだ」(香港『明報』九八年二月二六日)。すさまじい迫力ではないか。「連れ立って地獄へ」という殺し文句は、単なるレトリックのように聞こえるかもしれないが、九三年に祖先の墓に爆薬が仕掛けられたのは事実であるから(香港『明報』二月二三日)、暗殺者が現れても不思議ではない。
今年の一月末、私は渡辺幸治氏(前ロシア大使・現経団連特別顧問)のお供をして、オックスフォード大学近くのディッチリー・パークで開かれた「中国と近隣諸国」をテーマとした国際会議に出席した。ケ小平の死去(二月一九日)、香港返還(七月一日)、第一五回党大会(九月一二〜一八日)という九七年の中国を特徴づける三つの出来事を踏まえて、今後の中国とのつきあい方をレビューするために、西側の有識者三〇余人が集い、討論した会議である。ナチス・ドイツとの交戦期にはチャーチル元首相が秘密の司令部に用いたほどの由緒ある貴族のマナーハウスに二泊三日泊まり込みで議論を交わした。最も印象深い知見は、香港問題が片づいたので、イギリスは過去のしがらみから自由な立場になって中国との関係を発展させることができるのだという現状認識であった。彼らが覚めた眼差しでアジアや中国を見つめ、東アジアとの関係を再構築しようとしていることが印象に残った。この会議を包む冷静な対象認識に深い共感を抱くのは、日本のマスコミや半可通の識者たちの中国認識に強い違和感を覚えてきたからである。私が「『ポスト桔』の空騒ぎを嗤う」を書いたのは、三年前のことである(『諸君!』九五年四月号)。ケ小平死去を契機とした「中国崩壊」や「中国解体」などを語るのは、オオカミ少年の戯言に等しいと私は主張してきた。ポストケ小平が現実のものとなってすでに一年余、危言聳聴の誤りは事実によって論破されたはずである。にもかかわらず、中国の現実を敢えて色眼鏡で見ようとする潮流は、いぜん日本マスコミ界の主流であるように見受けられる。香港返還前後、「金の卵を生む香港」を北京の指導者たちが崩壊させる危惧あり、とする議論も広く行われた。さらに第一五回党大会で江沢民が後継体制を維持できるかどうか疑わしいとする議論も絶えなかった。これらの悲観論がすべて事実によって覆された段階で九七年秋から新たに登場したのが「中国発の通貨危機論」である。これは前から続いていた「中国経済バブル論」と連動して、人々の不安を煽り立てた。アジアの優等生たるタイやマレーシア、そして韓国までもが通貨を五割も切り下げたのであるから、「劣等生」中国がこれに対抗するには、切下げ以外にはない。いまや焦点は、切下げの「有無」ではなく、切下げの「時期」である、といった議論がまことしやかに繰り返し報じられ、論じられている。私がこの小稿を書いているのは四月中旬であるが、「人民元切下げなし」の判断は昨秋以来のものである。大新聞がこぞって一知半解の解説や予想を書き始めた。たとえば『朝日新聞』九八年一二月一四日付朝刊一面のコラムで船橋洋一記者が「香港・中国発の第三波が引き起こされる可能性」に言及した。これは韓国のウォン切下げに驚愕し、次は香港中国と煽ったに等しい。実はヘッジファンドが香港ドルを攻撃し、香港通貨当局(HKMA)がこれを撃退したのは、ウォン攻撃の一カ月前である。香港当局が胸をなでおろしたあたりから日本での騒ぎが大きくなった。香港ドル防衛が一勝負ついた時点でそれを認識できず、ひたすら不安を煽ることしかできない半可通ぶりはまことに嗤うべきである。
不可解な話だが、切下げ論しか脳裏に浮かばないこれらの論者には、香港ドル防衛がなぜ現実的に可能なのか、そのメカニズムに無知であり、朱鎔基が第一副総理として陣頭指揮をとった過去五年間に中国経済が決定的な変化を遂げた事実がまるで見えていない。彼らは天安門事件直後の混迷状況がいまも続いていると誤認しているのだ。かつての「劣等生」がいまや優等生になりつつあるのは、劣等生であることの痛切な自覚のうえに必死の努力をつづけてきたからにほかならない。中国が夜郎自大を改めて、国際的に受け入れてもらえる基準に合わせる努力を行い、それが効を奏してきたことは、偏見を排して虚心に観察すれば経済指標から容易に読み取れる。最近の報道によると中国の対外債務残高は一三〇九億ドルである。外国からの借金は輸出などで得た外貨で返済するほかない。九七年の中国の輸出は一八二七億ドルである。対外債務残高と輸出額との比率を「債務率」と呼ぶ(正確には、輸出だけでなく、サービスに対する受取を含めた経常収入だが、輸出がほとんどである)。中国の債務率は朱鎔基が金融秩序の整頓に乗り出した九三年には九四・五%であり、国際的警戒ラインの一〇〇%台に近づいていた。しかし九五年は七〇%に下がり、九七年末は六三・二%である(『人民日報』九八年四月七日)。対外債務の総額は大きいが、輸出が堅調なので、警戒ラインを大幅に下回る。対外債務の重さを測るもう一つの指標は、デット・サービス・レシオ(DSR、中国語=償債率)だ。これは債務の総額ではなく、各年の債務元利金返済額を分子にとり、輸出額を分母にとった比率である。中国のばあい、九三年には九・七%であったが、九五年は七・三%に落ち、九七年も七・三%である。この指標の国際的警戒ラインは二〇%であるから、警戒ラインのはるか下にある。分かりやすく説明すれば、住宅ローンの返済額と月給の関係に似ている。ローンが多額でも月給が多ければ問題にはならないし、またローンの返済期限が長ければ、元利返済は容易であろう。朱鎔基の舵取りのもとで、中国経済がすでに劣等生の地位から脱却して、基礎的な体力を十分につけてきていることをこれらの指標は教えている。この過程をもう少し詳しく分析してみよう。
人民元はすでに切下げ済み
図1は、過去一〇年間にアジア諸国通貨の対米ドル交換レートがどのように推移してきたかを描いたものである。九七年秋から冬にかけて、タイのバーツやマレーシアのリンギ、そして韓国のウォンが五割程度切下げられたことは周知の通りだが、これだけの大幅切下げにもかかわらず、いぜん中国よりは高い水準にある。中国よりも低いのは、事実上破産したインドネシアのルピアのみである。マスコミは「過去半年の変化」をとらえるばかりであり、「人民元の相対的水準」についての認識を欠いているため、人民元は切下げ必至と誤認する。人民元は「すでに十分に切下げてきた」ことを忘れている(九四年の人民元切下げこそが今回の通貨危機の元凶だとする見方については、後述)。
人民元切下げの経緯を確認しておこう。図2はケ小平時代の約二〇年、人民元の対米ドル交換レートは約五分の一に切下げられたことを示している。円との交換レートは円高もあずかって、約一〇分の一に切下げられている。問題の核心は、何を基準として人民元を切下げてきたのか、である。答は単純だ。中国が輸出競争力をもっていたのは、繊維製品など低付加価値の産品である。たとえば繊維製品を輸出して一〇〇万ドルの外貨を稼ぎたいと仮定する。それだけの製品を国内で調達するために必要な資金(調達コスト)がたとえば八〇〇万元ならば、「一ドル=八元」としたのである。交換レートは「外貨獲得のコスト」から割り出した。中国は工業化のために先進的な機械設備の輸入が不可欠であり、輸入用外貨を獲得するためにこそ輸出を拡大してきた。重要なことは、その過程で毛沢東の鎖国時代に恣意的に決定していた人民元がとほうもなく割高な事実を発見したことであった。経済の実態を無視した恣意的なレートの水準は、中国経済の実力にあわせて下方修正するほかなかった。
図2は人民元の弱さが年を追って明らかになる過程を物語る。ここでは七八〜九三年末までのAレート期と九一〜九三年末のA・Bレート併存期、九四年初以後のBレート期に分けて問題の所在を検討してみたい。この図でAレートと仮に名付けたのは、中国当局が公表していた「公定レート」である。このレートを決定する考え方は上述の通りである。中国の輸出入政策だけを考えれば、このレートだけで十分である。しかし、中国国内に外資との合弁企業が多数設立されるにともない、新たな問題が生まれた。外資系企業のうち輸出企業は、獲得した外貨を人民元に交換して従業員の賃金を支払うことになる。外資系企業のうち中国国内市場を対象とする企業は(当初は認められなかったが、しだいにふえつつある)、売上げ代金は人民元で得るが、原材料や部品などの輸入のためには外貨がほしい。こうして外資系企業の間に「ドル売り・人民元買い」の需要と「人民元売り・ドル買い」の需要が生まれた。両者を有無相通ずるために、中国当局は「外貨調整センター」を設けた。これは当初は散発的な相対取引であったが、しだいに上海や侮框など地域ごとに市場レートが公表されるようになった。こうして九一〜九三年は「Aレート」(公定レート)と「Bレート」(市場レート)が併存した。「外貨調整センター」なる存在は、いわば政府公認の外貨ヤミ市場にほかならない。この市場レートは当然需給で決まり、政府が一方的に公表していた公定レートよりも三〜四割方「ドル高・元安」であった。重要なことはBレートを決定するメカニズムは、需給の一致という市場経済の原理に基づくことだ。人民元の真の実力はいまやBレートの水準として白日のもとにさらされた。
九四年元旦を期して行われた朱鎔基の英断の意味はここから理解できよう。朱鎔基はヤミ相場たるBレートこそが真のレートたるべきだと断定し、当局による恣意的な「Aレート」を廃止し、「Bレート」に置き換えた。これによって人民元は表向きは約三〜四割切下げられた。「表向き」というのは、実はこの段階で現実の貿易決済の八割はBレートで行われていた。この意味では実質的な切下げ幅は七%程度にすぎないと専門家は分析している(丸川知雄稿『中国・過渡期の政治経済』中居良文編、アジア経済研究所、一九九八年)。
貿易の競合についてみると、アパレルや玩具など安価な中国産品がアセアン諸国の市場の成長部分を一部奪ったことは事実だが、九四年初の人民元切下げこそがアジア通貨危機の元凶だとするごとき議論の虚妄性はここから明らかであろう。朱鎔基による交換レート一本化は、「レートの水準」を変えたことよりも、外貨の需給に基づいてレートが決まるという「レートの決定メカニズム」を転換させたことに本質的な意味がある。この改革以後、人民元のレートは下げ止まり安定し、今日に至っている。これは人民元がその実力にふさわしいところまで落ち、そこで安定したという話にすぎない。
交換レートの安定に伴い、貿易黒字が確実に増大したことを図2の右肩上がりの折れ線が示している。特に九四年から九七年にかけて伸びが著しい。ちなみに九七年の貿易黒字は四〇〇億ドルである。この黒字と直接投資の流入によって中国の外貨準備高は年初に一四〇〇億ドルを超えた。朱鎔基が担当しはじめたとき、外貨準備高は二〇〇億ドル足らずであった。朱鎔基は約五年でこれを七倍にふやし、世界第二の地位まで押し上げたのであった。これがアジア通貨危機のなかで人民元レートを堅持できる秘密であり、朱鎔基の自信を裏付ける実績なのである。九四年の切下げが「抜き打ち」であったとする誤解も流布しているが、実は朱鎔基は九三年一一月二日に日本商工会議所代表団(団長は稲葉興作会頭)に切下げの意向を語っている。この会見と事後の騒動は田舎芝居もどきの悲喜劇である。日本側は切下げ時期を「九四年一月以降」と勝手に誤解し、報道した(『日本経済新聞』九三年一一月三日、岡崎守恭特派員電)。この誤報の責任は特筆に値する。
政治と経済全体のリストラ
さて今後の展開だが、中国の輸出はどうなるのか。中国の輸出の半分は、委託加工方式によるものだ。これは香港などから原料を輸入して加工し、再度輸出するものである。この場合、中国は手間賃を稼ぐ形である。人民元を切下げて輸出ドライブをかけようとしても、原材料の輸入価格が高くなったのでは切下げ効果は疑わしく、この分野で切下げのメリットはない。中国の輸出のうち残りの半分は外資系企業が担っている。ここで中国の賃金コストが問題になる。鈴木峻教授(神戸大学経済学部)の試算を紹介しよう。ジェトロが通貨危機の前に調査した資料によると、中国の賃金コストはアセアンの主要国と比べて最も低かった。では切下げ後はどうか。他の条件を不変と仮定して、九八年二月時点での為替レートで試算すると、中国の賃金はインドネシアを別とすれば、いぜん最も低く、労賃での競争力は衰えていない(鈴木峻「最近のアジア経済動向」『景気観測』九八年二月号、国民経済研究協会)。こうして主な経済指標を検討してみると、切下げにほとんどメリットのないこと、逆にデメリットはきわめて多いことが分かる。対外的にはアジア経済の混乱を激化させると非難され、米中貿易摩擦を激化させ、WTO加盟問題にもマイナスである。香港ドルへの投機も誘発する。国内的にはいま抱えている外債をふやすことになる。なによりも重大なのは、親方日の丸の国有企業や金融機関の合理化への努力を妨げ、既存のぬるま湯的体制を温存する結果を招くことである。切下げという選択肢は実際にはありえないのだ。
朱鎔基は三月一九日の記者会見で輸出減少分を補うに足る「新しい成長点」の模索を呼びかけた。つまりは内需拡大だが、モノは農村や内陸地区に売る。人は非公有部門や三次産業に向ける。カネは鉄道建設などインフラや科学技術に投入する。目玉は住宅の商品化などいくつかである。実は朱鎔基戦略の核心は、アジア通貨危機という逆風を逆手にとるものである。逆風を利用して中国経済を離陸させようとする作戦にほかならない。長野オリンピックでジャンプ競技が話題になったが、ジャンパーを飛翔させるのは追い風ではなく、向かい風であった。狭義の経済のレベルでは、輸出減少分は内需で補うほかないが、そのやりくりだけでは限界があろう。朱鎔基はアジア通貨危機という外圧を極力利用して国論を統一し、改革への跳躍板とすることを構想した。この試みはすでに半ば成功したと私は解釈している。単に経済だけのレベルで問題を扱うのではなく、世論を喚起し、政治と経済全体のリストラによって対処しようという姿勢である。外圧や逆風を利用して行政改革をやり、国有企業や金融体制を改革するのだ。三月の全国人民代表大会をウォッチして私が最も驚いたのは、行政改革案への反対票がわずか二%にとどまった事実であった。ちなみに李鵬を全人代委員長に選ぶ投票では一一%が反対しており、その不人気ぶりは対照的である。
市場経済化の最終段階
朱鎔基は九七年秋以来の一連の会議(金融工作会議、中央経済工作会議、中国人民銀行支店長会議)を通じて、アジア通貨危機の影響が予想よりも大きかったと分析した。これに対処するに生易しい課題ではない、「壮士、腕を断つ」覚悟によるほか道はないと訴えてきたが、説得に九八%成功したことを全人代の得票数が示している。わがマスコミは四十の役所を二十九に減らす。人員を半減する、など表面的な報道に終始している。私の見方では行政改革案の核心は、国家計画委員会の骨抜き(事実上の解体)である。市場経済のシェアがもはや三分の二を占めるに至った現在、計画経済の推進機関として設立された国家計画委員会は無用の長物、官僚主義者たちの巣窟にすぎない。代わって市場経済を推進するための国家経済貿易委員会こそがより重要な役所になる。朱鎔基が副総理に就任したのは九一年四月だが、六月には国務院生産弁公室を発足させ、みずから主任になった。翌九二年六月には国務院経済貿易弁公室に発展させ、腹心王忠禹を主任に据えている。そして翌九三年六月には国家経済貿易委員会(主任・王忠禹)に拡大し、国家計画委員会と同格の組織に格上げした。その五年後、国家計画委員会にメスをふるい、国家「発展計画」委員会に縮小し、国家経済貿易委員会に旧国家計画委員会の機能を大幅に吸収させた。ただし、もはや「物資動員」的経済体制は放棄したのであるから、国家経済貿易委員会の機能は、市場経済を前提したうえでの調整機能にとどまる。旧ソ連のゴスプランを模倣したスーパー官庁・国家計画委員会の消滅は、中国経済の市場経済化がいまや最後の段階に突入したことを象徴する出来事にほかならない。国家計画委員会の誕生時にこの役所に入った朱鎔基はいまやこの役所の歴史的使命の終焉を確認し、埋葬に努力している。
国有企業についての二つの神話を検討してみたい。一つは、国有企業の従業員の比率である。最新の『中国統計年鑑一九九七』四一二頁を開くと、国有工業の労働者は全国総計の六六%に当たると書いているが、次頁(四一三頁)には工業総生産額のうち、国有工業の部分は二八・五%と書いている。つまり、中国の国有企業は全国の六割以上の労働者を雇用しながら、生産額は三割にも満たないことになる。ここから中国内外のマスコミが国有企業の人員整理のむずかしさを論ずるパターンが生まれた。これは誤解なのだ。第三次全国工業センサス(『人民日報』九七年二月一九日)によると、九五年末の時点で従業員総数は一億四七三六万人である。このうち国有企業のそれは四六五二万人であり、三一・六%を占める。ちなみに総生産額は全国で八・二三兆元、国有企業のそれは二・六八兆元であるから、比率は三二・六%である(詳しくは、矢吹晋、S・M・ハーナー共著『図説・中国の経済(第二版)』蒼蒼社、一九九八年一四七頁)。つまり、国有企業でも中小レベルでは人員整理が進んでおり、従業員の比率は生産額の比率に対応しているのだ。
もう一つは赤字問題である。朱鎔基は記者会見で、国有企業のうち赤字企業が五割だというのは、零細な企業をも含めた「企業数レベル」での話にすぎない。国有企業のうち特大企業五百社が納税額の八五%を占めるので、この五百社が重要だと指摘した。五百社のうち約一割、すなわち五十社の赤字問題が当面の改革対象である。ガン細胞のありかを確認できれば、「三年以内にメドをつける」という自信も生まれるであろう。朱鎔基自身は前から「国有企業の赤字は外で騒がれているほど大きな課題ではない」漏らしている。税引き後の統計で見ると、赤字額の比率は五割になるが、税引前では二割である。税制改革を行い、税引き後の数字を強調することによって赤字問題を浮き彫りにしたのは、国有企業改革のために外堀を埋める作戦にほかならない。
朱鎔基なしに江沢民もない
朱鎔基は過去五年、保守派との抗争で時に足を救われそうな危機を乗り越えて、果敢に改革を進めてきた。朱鎔基マシーンが本格的に始動したのは九三年七月である。中国人民銀行総裁李貴鮮を解任し、みずからそのポストに就いて、金融秩序の整頓に大ナタを振うことから始めた。こうして高度成長を維持しながらインフレを抑えることに成功し、外貨準備高を七倍増させ、さらに国税と地方税とを分けて徴収する「分税」制を導入して中央政府の財源を確保するなど、バブル処理はなかば成功したのである。経済の再建において確かな実績を挙げてきたからこそ、朱鎔基が引退する李鵬と同年という「年齢の壁」を例外的に超えて総理に選ばれたのである。まさに「経済のわかる男・朱鎔基」(桔弌峠の一語)以外にこの難局を乗り越えられないという認識で中南海が一致したからである。
凡庸極まる前総理との対照はいまや誰の目にも明らかであり、宰相朱鎔基への内外の期待は絶大である。では総書記江沢民と総理朱鎔基の関係はどうか。基本的には党務と政務の分業関係に尽きるであろう。むろん行政改革と国有企業改革や金融改革が進展するなかで、党組織自体の再編成もいずれは避けられまい。両者の部分的、限定的なトラブルは予想し得る。ただし、朱鎔基は戦略をもったテクノクラートであるし、二〇〇〇年前後には呉邦国か温家宝のいずれかに総理のポストを譲る覚悟である。このような「改革の鬼」の気迫と実力を江沢民はただ利用することによってのみ、トップとしての面子を保ちうるであろう。その原型は上海時代に求められる。天安門事件当時、上海市は江沢民党書記、朱鎔基市長のコンビであった。肝心の六月四日前後、江沢民は北京におり、上海での指揮は朱鎔基が直接とった。朱鎔基が上海の混乱を未然に防いだおかげで江沢民が総書記に昇進できたことは明らかな事実である。意に反して李鵬と組まざるを得なかった趙紫陽の悲劇とは対照的に、江沢民は朱鎔基と組むことによって幸運を得た。
戦後復興から高度成長を経てバブルの崩壊へという日本経済の歩みを最もよく研究してきたのは、朱鎔基周辺のエコノミストたちである。彼らは日本経済の歩みから、よい経験(たとえば製造業の活力、メインバンク制、総合商社の機能など)と悪しき教訓を虚心に学んできた。朱鎔基の中国経済はいまようやく離陸しようとしている。