第3節 各線の具体的行動

西線──38軍の対群衆作戦

六月三日夜の西線は、第一梯隊、第二梯隊、第三梯隊からなっていた(注67)。第一梯隊38軍、第二梯隊27軍、第三梯隊63軍の三コ梯隊であったと推定される。通常の先頭なら、第一梯隊が道を切りひらけば、あとは順調な行軍となるが、この軍事常識が全く通用しなかった。第一梯隊が通りすぎると、残された道はすぐに人流によって埋没した。それは快速艇が通りすぎたあと、水路が直ちに波間にきえてしまう姿ににていた。こうして第二、第三梯隊は第一梯隊以上の困難な道をあゆむことにさえなった(注68)。群衆が第一梯隊へのうらみを第二、第三梯隊にぶつけたからであろう。

38軍某師団政治部主任李之雲大校によると(注69)、38軍の先頭部隊は三日夜九時半に公主墳を出発し、四日朝一時半に金水橋(天安門前)についた。

約一〇キロの距離であるから、通常なら四〇分でつけるはずだが、四時間を要したと説明している。38軍はトラック、装甲車、戦車、指揮車、通信車など数百両からなる機械化部隊であった。三八軍の先導としては前述のように、防暴警察部隊をしたがえ、催涙ガスを装備していた。西線部隊は公主墳→木地→復興大街→西単との交差点などで学生、市民側とはげしく衝突した。学生、市民側は車を並べて炎のバリケードを作り、立ちどまった38軍に対して投石の雨をふらせ、これに対して38軍は発砲を繰りかえした(注70)。

天安門広場へむかうこの部隊の行動をもっと詳細に描いているのは、王福義少将の記録である(注71)。六月三日午後五時北京西郊の某軍作戦室〔これは38軍の基地であろう〕では一時間前に軍区会議にでかけた張副軍長(注72)の帰還をまっていた。

張副軍長は時間の節約のために、〔北京〕軍区命令を電話でつたえてきた。「×個〔三個か〕の集団軍編制で、38集団軍が先導となり、西から東へ天安門広場へ進撃する。もし障害にあったら強行して排除し、時間通りに到着するようつとめよ」「38軍は当日夜一〇時までに軍事博物館以東の路段〔復興路〕で集結編隊を完成し、四路縦隊として乗車して東進せよ」。これが戒厳部隊指揮部からの38軍に対する命令内容である。「障害の強行排除」「時間厳守」の二つが命令の骨子であろう。この命令を実行するために、張副軍長は38軍が一キロ以内に密集収縮するよう指示した。政治委員王福義少将は〔北京〕軍区命令と張副軍長の考え方を劉参謀長と司令部に伝え、A、B両歩兵師団が並んで行進し、戦車師団、砲兵旅団、工兵連隊があとにつづくものとした。全体の先頭には約六〇〇人の防暴隊、排障隊が進路を切りひらき、両側は各自の防暴隊が車を護衛し、人と車が相互に援護して前進するものとした。全戦術は集団密集隊形で、人海戦術に対処しようとするもの、原始的な防衛手段で投石、棍棒などの攻撃に対処しようとするものであった。

九時をすぎたばかりのとき、〔北京〕軍区首長〔周衣冰、劉振華ら〕が指揮組をひきいて38集団軍前方指揮部にやってきた。前方指揮部は無線で、B師団は到着したか、軍区首長は出発を催促していると連絡してきた。九時二〇分、トランシーバーは突然砲兵旅団、B師団がすでに先頭位置に到着しているとつたえてきた。こうして九時半に、すなわち予定より三〇分早く、東へむかって行軍を開始した。出発してまもなく車隊はすぐ停止した。このとき政治部のある幹事が前方からかけてきて、軍事博物館で会議をひらくので、陳副政治委員と政治委員王福義に前方にくるよう張副軍長が求めているとつげた。

木地路口で、群衆はバス、トラック、トロリーバスなどをもちいてバリケードを作った。それにガソリンをかけて放火したので、炎のバリケードが進撃をはばんだ。扱いのやっかいなのはトロリーバスであった。車体が長く、真ん中が蛇腹になっているからだ。木地をすぎると、高層建物から時ならず不意の射撃があった。軍区首長は一貫して政治委員王福義らとともに状況を観察しつつ指揮をとった(注73)。

西線の犠牲者

この部隊からでた死者は王其富ら六人で、いずれも北京軍区某集団軍所属であることが確認されている(注74)。この某集団軍が38軍であると推定する根拠はつぎのとおりである。1)この部隊の過去の戦闘記録は38軍のそれに符合している。2)38軍の将校であることが確認されている李之雲の所属部隊と同一である。3)軍事博物館での重要会議に軍長が出席しておらず、軍長不在を示唆している。4)38軍は元来首都防衛を任務としており、首都危急の際に、38軍が万一出動しなかったとするならば、結果的には38軍全体が出動拒否を行ったと誤解されるおそれがあり、当局としては絶対的にこれを投入する必要があったこと、などである。

発砲の情況

西線の従軍カメラマン李靖(『解放軍画報』)の記録によって発砲の経緯をもう少しみておこう(注75)。部隊は三日昼には丸腰で警戒目標へ行進し午後五時退却した。夜に再度広場進撃の命令をうけた。軍事博物館から木地まで二時間余、「天に向けて鳴槍示警」せざるをえなかった。「戦士たちは発砲して少数の暴徒を射殺した」(注76)。このカメラマンは四日午前一時半に天安門についており、西線の先頭部隊〔38軍〕に従軍していたことがわかる。「暴徒を射殺」と明記した珍しい事例である。

南から西線に合流した王連隊(王連隊長、張暁明参謀長、方祥礼参謀長)のばあいはつぎのようである。六月三日夜八時四五分、某連隊(数百人、所属軍不明)に出動命令がでて、九時、完全武装で、かつて馮玉祥将軍が閲兵した大グランドに整列した。この連隊は三営門→木園→公主墳と経由し、九時三〇分に公主墳到着目標、その後西線の部隊に加わり、天安門広場にいけとの命令であった。しかし、東高地、三営門、南苑路口はすべて数万の群衆によって封鎖されていた。そこで部隊は営門から南へむかい、細い道をへて京石公路〔北京・石家荘〕にでた。夜一〇時三五分、部隊は西三環にでて、一一時二三分公主墳につき、師団前方指揮部の田参謀長と連絡をとり、天安門広場にむかった。前方からは「パッパッ」という銃声がきこえてきた。復興門にいくと、群衆の投石がはげしく、数十人の防暴隊ではふせぎきれなかった。そこで部隊に警告発砲を命じた。「ダッダッダッ! ダッダッダッ!」前方の車両の幹部が空へむけて撃った。部隊は二時間余の艱苦の行軍をへて、六月四日午前二時ごろ天安門広場についた。点検してみると一人も死傷せず、銃一丁失わず車両は窓ガラスを一枚わられただけであった(注77)。

東線──瀋陽部隊の苦戦

東線の武力鎮圧前後の情況を二人の死者の足とりをつうじて、追ってみよう。

・于栄禄の場合。戒厳部隊某部某集団軍〔39軍〕新聞幹事于栄禄は五月二九日、命を奉じて駐屯地から北京郊外の通県三間房空港についた。午後、当部隊は「入城して戒厳任務を執行せよ」との命令をうけ、彼は天安門広場へ進撃する前衛団車隊にのった。この車隊はいくども進路をはばまれ、群衆の襲撃にあった。三日夜七時半、部隊は八王墳ではばまれ、南へ迂回した。四日二時ごろ車隊は南磨房でまたもやはばまれた。于栄禄は軍用車をおりて、徒歩で単独で天安門広場にむかった。そこで消息がとだえ、北京協和医院に収容されていた遺体のなかから于栄禄の遺体が確認された(注78)。

・崔国政の場合。戒厳部隊〔39軍〕某連隊砲兵大隊榴弾砲第二中隊戦士。六月三日夜、崔国政は戒厳任務について、四日午前三時すぎ、軍用車が崇文門外大街と崇文門西大街の交差点ではばまれた。前の二台は道をかえて前進したが、崔国政の車は後尾に炊事車を牽引していたために、むきを変える時にガードレールにひっかかった。そこへ投石され、ガソリン火炎瓶がなげられた。そこで中隊長、指導員は車をすててにげた。天橋からさるときに、崔国政は群衆に殴打され、昏倒したところで天橋から下になげ落とされた。そこへガソリンをかけて焼かれ、遺体を天橋につるされた。彼の銃には実弾がこめられていたが、発砲はしなかった(注79)。

40軍の進軍

なお、東線のうち40軍は二環路周辺でとまったために、死者はだしていない。40軍について二つの記録をかかげておく。四日七時三〇分、東直門に到着。東北線の40軍軍長呉家民少将の部隊に対して六月三日午後三時三五分に出動命令がでたが、七時三〇分まで四時間近く、先頭団に同行させた先遣指揮組と連絡がとれなかった。この軍は軍区前方指揮部の命令により、先頭団と主力部隊からなる三路にわけて行進していた。七時三〇分にとどいた先頭部隊からの連絡によると、中間で分断され、ある大隊だけが東直門橋六〇メートルについた。このとき〔瀋陽〕軍区前方指揮部からも指示がとどき、「万寿路の戒厳部隊〔38軍をさす〕は鳴槍示警で群衆を駆逐し、迅速に進軍した」と通報してきた。そこで40軍軍長呉家民はこう決定した。1)対空発砲によって群衆を駆逐し、四日四時までに指定位置に到着すること。2)指定位置に到着した部隊は後続部隊を接応すること。3)集団軍参謀長楊福臣、政治部主任籍顕文が突破行動を組織すること。4)対空発砲の前に宣伝車から宣伝を行うこと、である。こうして太陽宮、三元橋をへて、東直門に到達した(注80)。

南線──済南部隊と空挺部隊の進撃

・発砲厳禁の54軍A師団

六月三日午後三時一〇分、大興県東南の集結地から出発した54軍A師団は七時四八分に豊台区六里橋一帯についた。この部隊の副政治委員張少将が54軍所属であることは『平暴』に明記されている(注81)。これはたいへん珍しいが、発砲厳禁のゆえに大きな犠牲をはらったことで、解放軍のひとつの模範であり、それゆえに所属部隊コードを削除しなかったものと考えられる。六里橋についた時点ですでに四時間半行軍している。九時五〇分、徒歩で天安門広場にむかえという命令がでた。張らは六里橋、広安門、菜市口、虎坊橋、南新華街をへて、天安門広場へ行軍した。この部隊の前衛は「葉挺独立団」の後身であり、それに後続したのはもうひとつの「紅軍団」であった。彼らは六列縦隊で行進した。午後一〇時半、広安門の鉄道と公路の交叉地点で群衆は列車をとめて行進をはばんだ。さらに群衆は旧式歩兵銃や空気銃を加えた投石作戦をおこなって抵抗した。隊列が広安門護城河に到ったさいに群衆は第二のピケをはっていた。五〇余人が倒れ、兵士たちは連隊長徐乃飛と政治委員に対して弾丸を求めた。しかし連隊長と政治委員は「命令を執行せよ、発砲は禁止!」と指示した。部隊が広安門内大街にはいるとバリケードはますます厳重になり、胡同を通るごとに投石の雨にあった。部隊が南新華街にいたったとき、北京大学、中国政法大学、北京師範大学などの旗をふる者が煽動し、攻撃はいっそう激しくなった。張の警護要員、工作要員もちりぢりになり、偵察兵が二名残るだけとなった。張は事態がすでに反革命暴乱に発展していることを知らずにこう命令した。「一切の代価を惜しまず、速やかに天安門広場へ進撃せよ」。和平門全聚徳鴨店に近づいたとき、大石が左腿に当たり、地面にたおれた。気がついたときは北京市救急センターにかつぎこまれていた。この部隊は死亡者一名、重傷二四六名、軽傷一五〇〇人、失踪一五〇人という巨大な被害をうけたが、一発も発砲することなしに六月四日午前零時一九分に天安門広場西南側の集結地域についた(注82)。

・南線〔大興県──宣武門〕のB連隊の進撃

大興県で待機していたこの集団軍の師団長黄棟甲大校は六月三日午前私服で宣武区を偵察した。宣武門飯店、実験小学、三四〇一工場などを検分して帰るや集団軍軍長〔54軍〕からB連隊の先頭として市内に進駐するよう命ぜられた。木園一帯は群衆に遮断されているので、馬家堡──太平街ルートを通って宣武門に近づいた。宣武区武装部の王参謀、天橋弁事処主任王洪恵らに助けられながら、四日早朝師団全員が天安門広場に到着し、広場の整頓に参加した(注83)。

・天兵の場合

李永超の回想(注84)、劉建軍の回想(注85)、劉建軍の回想(注86)、木石署名の記述(注87)などから、この部隊の行動を知りうる。

天兵の第一梯隊。これは群衆を引きつける陽動作戦を結果的に担うことになり、広場到着は最も遅れ、被害も最大であった。朱双喜上士の連隊八八〇名は六月三日午後五時二〇分、南苑空港を出発し、二五キロを急行軍し、一六回進軍をはばまれ、五一一名が負傷して、四日午前二時、天壇公園東門についた。四日午前三時二〇分、残りは一時間しかなく、予定集結地点正義路南口までつけるがどうかを危惧しつつ、いそいだ。四時五分、六万の市民が約半分に減ったところで、四名の将校が対空射撃をおこない、機に乗じて、天壇東側から出発して崇外大街に沿って正義路南口に予定時間通りに集結した(注88)。

ここから南線の集結目標地点は前門であったことがわかる。

天兵の第二梯隊。空軍15軍副軍長左印生大校の日記には、威嚇射撃をしつつ、進撃したことが、こうかかれている。「群衆に対して“雷は鳴るが、雨は降らない”方法をもちいた。こうして四日午前一時二五分に約六〇〇人が人民大会堂についた(注89)。

天兵の第三梯隊。武運平旅長、樊主任が率いる第三梯隊は四日午前一時一七分、空挺15軍のトップを切って人民大会堂についた(注90)。結局空挺15軍は第三、第二、第一の逆の順序で人民大会堂にはいった。

・装甲車部隊

【装甲車〇〇三号】これは「燃える装甲車」としてテレビ画面に写しだされ、多くの視聴者に強い印象をあたえたものである。六月三日夜戒厳任務を担う装甲車パトロール隊は「東高地」から天安門広場に進撃する命令を受けた。この装甲車縦隊の正副隊長は喜剛、解双喜であった。喜剛は四六歳、某機械化師の副師長、解双喜は四八歳、北京軍区装甲兵部副部長である。彼らは事前に数種の行動案を作り、おこりうべき数十種の処理方法を検討していた。投石によって負傷した場合に、包帯をまきやすいように、八〇〇人の隊員はすべて丸坊主にかりあげていた。出発前に喜剛は各装甲車の指揮員と逐一握手して「命令執行は軍人の天職なり。死んでも金水橋に到着すべし」と繰りかえした。進撃は二路〔右路と左路〕にわかれて天安門広場にむかった。二人の大佐の乗った指揮車は「右路車隊」について崇文門の陸橋まできたが、たいへんな人ごみとバリケードであった。十字路には三台のバスが並べてあり、車上には人が満員であった。指揮車の前にいた装甲車が停止させられ、群衆がそれをとりかこみ、投石した。喜剛は運転手に命じてアクセルをふかさせ、障碍物にぶつかってこれを動かし、隙間を作って前進した。装甲車は障碍物と群衆をさけるために「之の字」形で通りぬけた。このとき後続車が追いつけなかったので、〇〇三号は東単をまわり、長安街にきた。二〇、三〇メートルおきにもうけられた障碍物をぬけながら、夜一一時すぎ〇〇三は金水橋についた。広場到着の装甲車第一号であった。装甲車はたちまち群衆にかこまれ、二〇数本の鉄棒が装甲車の荷重輪と誘導輪にさしこまれ、装甲車は停止したまま動けなくなった。解双喜が潜望鏡からみたところ、燃えている段ボール箱が排気筒に詰めこまれ、一部の者が装甲車をたたいている。このときガソリンを染みこませた綿いれに火をつけて通気筒に投げこまれた。燃えたガソリンがアンテナ線を伝わって流れこみ、通信士の服装が燃えはじめた。こうして飛びだした解双喜も喜剛も群衆に殴打された。重傷をおった解双喜と喜剛は人民英雄記念碑東側にもうけられていた屋外の救急センターにかつぎこまれ、そのご別々に民間の病院に送られた。六日朝北京軍区総医院におくられた(注91)。

【装甲車三二二号】三日夜一〇時三〇分、助理工程師李勃上尉はパトロール隊の装甲車三二二号にのった。一〇時五〇分に始動し、東高地→劉家窰→天壇公園東口→磁器口南端→和平門十字路をへて、夜一一時三二分に正陽門東側から天安門広場にはいった。広場には他の部隊は到着していなかったので、広場の周囲を二回転したあと、崇文門→宣武門へ迎えにいき、また広場にもどり人民大会堂西側に停車した。そこで群衆にかこまれ、広場の高自聯指揮部へいって、指揮部の〇〇八号指導者と交渉し、三二二号の安全を確保した(注92)。

【装甲車三三九号】四日零時一五分前門に車体番号三三九号装甲車が出現。全速力で広場の脇を走りぬけ、長安街を走る。市民が作った障害物を踏みこえ、西単の方向に走りさる(注93)。

北線──二環路で待機した北京部隊

さきにみたように、北線をになった北京軍区の部隊は二路にわかれて進んだが、二環路の徳勝門、安定門ラインで進撃を停止して待機し、天安門広場の整頓には参加しなかった。そのうち東直門についた部隊の行動を追ってみよう。

・東直門立体交叉橋を占領

六月三日午後三時三五分、沙河空港の某軍〔24軍〕に対して秘密電話で「緊急命令」がでた。五〇分、東直門へむけて出発した。軍長〔周玉書、のち武警司令員に昇格〕は処長劉新力上校ら三人に対して海運倉に指揮所をもうけるよう命じた。劉新力上校らの北京二一二ジープがA連隊に追いついたのは三元橋近くであった。ここでA連隊、C連隊が群衆に包囲されたために、劉新力は八回にわたって、ここを行ったり来たりして連絡に当たった。そして四日午前三時二〇分に東直門立体交叉橋を占領した(注94)。

・三元橋で足止め

北線の24軍連隊長張振生上校に対して沙河空港から市内への出動命令がでたのは六月三日午後四時四五分であった。一三分後の四時五八分に連隊の四一台の車隊は西へ疾走した。京順路〔北京・順義〕と西八間房の交差点で兄弟部隊が群衆に包囲されているのを発見し、通常はトラックの通行を禁止されている首都空港路にはいった。三元橋から八〇〇メートルのときに、一台のバスが進路を横ぎり、ついで三〇〇〇、四〇〇〇人がおしかけてきた(注95)。

・和平街北口に到着

北線の某集団軍〔24軍〕五コ連隊、一コ旅団は六月三日夜八時ころ太陽宮に指揮所をもうけた。四日三時一〇分、群衆の包囲を対空発砲で突破し、和平街北口についた(注96)。・徳勝門へ到着

北線の24軍副軍長劉書明大校、副政治委員張伝苗少将の部隊は、六月三日夜沙河空港を出発してまもなく、清河鎮で群衆に包囲された。京昌公路〔北京・昌平〕は馬甸橋から清河鎮までバスやトラックで封鎖されていた。集団軍車隊は一〇キロ後退して細い道にはいり、ひらすら前進して四日午前零時五分に指定位置についた。夜明けにはいくつかの連隊が続々と馬甸橋、双井橋、安貞橋、和平街北口などの指定位置についた。そこで戒厳指揮部は徳勝門へいくよう指示した。上級からの指示は「空へ向けて発砲してよい」であった。われわれは空へむけて発砲し、群衆を駆逐して、四日午前九時二四分、二コ連隊が徳勝門についた(注97)。

5 発砲の経緯──「38軍の経験」

これまでの分析から、1)戒厳部隊司令部が天安門広場の整頓を目的として広場進駐を命じたさい発砲厳禁を指示していたこと、2)最初の発砲は西線で軍事博物館での会議前後に38軍によっておこなわれたこと、3)この情報はただちに他の部隊にもつたえられ、いわば「38軍の発砲経験」を援用する形でつぎつぎに発砲に踏みきったこと、4)しかしこの発砲解禁の情報に接することなく行軍をつづけた部隊(54軍)の存在したこと、などが明らかになった。

発砲問題について香港誌の魯人論文(注98)は興味深い記事をかかげている。六月三日夜六時ごろ、ケケケ小平の許可をえて、楊尚昆が中共中央および中共中央軍事委員会の名において戒厳部隊に対して強行入城の命令をだした。その大意は「北京で今日反革命暴乱が発生した。各戒厳部隊は今晩城区に進軍し、採用できる一切の手段を採用して、断固として反革命暴乱を平定せよ」であった。この命令には指定位置への到達時間はさだめられていたが、発砲の可否については言及されていなかった。軍内事情を知る者によれば、六月三日夜六時ごろ解放軍三総部の責任者(総参謀長遅浩田、総政治部主任楊白冰をふくむ)は入城する各部隊責任者に任務をあたえたさいに発砲の可否をとわれた。これに対して「発砲はありえない」と答えた。某集団軍高級幹部の漏らしたところによれば、同軍は群衆にはばまれて前進できないなかで、無線によって発砲の可否を問いただした。当初は明確な回答はえられなかった。しばらくして「×××軍が発砲したところ、群衆は散りはじめた。効果はすばらしい。各部隊は情況におうじて機断の処置をとるべし。ただし規定時間内に到着せよ」との指示があった。この指示以後、他の部隊も発砲するようになった。

この内幕消息は本書でこれまでに分析した内容と基本的に符合している。ただし、三日午後六時ごろに出動命令をあたえたとしているのは、時間がおそすぎる。戒厳部隊指揮部は三日午後二時三〇分に緊急出動命令をだし、それらは三〜五時に各部隊にとどいている。各路指揮部はこの命令にもとづいて、第一次集結地〔北京郊外〕から第二次集結地〔三環路周辺〕へ、そして最終目標への到達手順を決定した。

六月三日午後の出動命令は軍事委員会主席ケケケ小平の発意により、楊尚昆が軍事委員会の名において発出したとする『鏡報』の報道(注99)は、そのとおりであろう。戒厳部隊指揮部はケケケ小平、楊尚昆のほか、軍事委員会メンバーおよび出動軍区首脳からなっていたと考えられる。すなわち劉華清上将(軍事委員会副秘書長、のち副主席に昇格)、楊白冰上将(総政治部主任、のち秘書長に昇格)、遅浩田上将(総参謀長)、趙南起上将(総後勤部部長)、周衣冰中将(北京軍区司令員)、劉振華上将(北京軍区政治委員)、曹生少将(済南軍区副政治委員)、固輝少将(済南軍区副司令員)、朱敦法少将(瀋陽軍区副司令員)、李京文少将(瀋陽軍区副政治委員)などだが、彼らもこれを支持したものとみられる。天安門広場到着の目標時刻はおそらく四日午前零時までにというものであったと思われる。この命令を執行するうえでやむなく38軍が、おそらくは北京軍区の首脳周衣冰、劉振華らと協議のもとに警告発砲を決定した。これは戒厳部隊指揮部に事後報告され、以後他の部隊も「38軍の経験」にならったというのが発砲問題の真相であろう。

・発砲の責任は誰にあるか

ケケケ小平、楊尚昆は軍事委員会の首脳として鎮圧を命じたが、発砲の可否については言及しなかった。そこで38軍がまず発砲し、戒厳指揮部は「38軍の経験」を紹介する形で、各部隊に「対空鳴槍」「鳴槍示警」を示唆した。各部隊は早速「対空鳴槍」「鳴槍示警」を行った。しかし、「空へ撃てば、アパートに命中し、地面へ撃てば、流れ弾が群衆にあたる」(注100 ような状況がしばしば発生した。

むろん西線の軍属カメラマンがはっきりかいているように、軍側が「暴徒を射殺」したケースも少なくないはずである。金水橋周辺での発砲が水平撃ちであった事実は、テレビでさえ報道された。こうして大量の死者が発生した。結局デモ隊が百万に達した時点でケケケ小平らは戒厳令発動に踏みきり、武力鎮圧の方向を決定したことがそもそもの問題である。流血をさけようとするならば、趙紫陽らの対話路線以外にはありえなかった。しかし、ケケケ小平、楊尚昆らはあえて対話を拒否し、流血への道を選んだ。発砲命令の直接的責任はおそらく北京軍区首脳と38軍指揮部にあるが、彼らが発砲を余儀なくされるような事態に追いこんだ政治責任は、明らかにケケケ小平、楊尚昆、李鵬ら保守強硬派にあり、流血の悲劇の最終責任、政治的責任が彼らにあることは言をまたない。

38軍善玉、27軍悪玉説

最初の発砲を決定し、しかも最もはげしく発砲したのが38軍であったという分析は、おそらく意外な結果であろう。事件直後の観測では38軍は学生運動の味方であり、27軍が流血の下手人であると見られていた。この情報が広範につたえられたことにはいくつかの理由がある。まず三八軍軍長の抗命問題は学生側に広くつたえられた。学生側はまた38軍で軍事訓練をうけた経験などから一定のパイプをもっており、さかんに説得工作を試み、それは一定の成果をあげさえした。学生側はこの事実を過大評価し、38軍に対する期待あるいは幻想をふくらませすぎた。学生にとって「味方の38軍」「敵の27軍」というイメージがひろがったのは、おそらく戒厳令布告から五月末までの段階での両軍と学生運動との関係に由来している。38軍は軍長の抗命問題および接触した部隊の柔軟な交渉態度からして、学生たちは大きな期待をかけていた。これに対して27軍は38軍の行動を牽制すべく出動したのであるから、当然学生側から疑いの目でみられていた(注101 。