第1章 解放軍の歩み───党から軍が生まれ、銃口から政権が生まれる
1 「銃口から政権が生まれる」
頤和園にて
北京の西郊に名園・頤和園がある。清朝の光緒年間に西太后が巨費を投じて造営させたものである。昆明湖に面し、万寿山を中心にいくつかの建物がならぶ。私はいくどか訪れたことがあり、あるときはそこに宿泊する機会をえた。
この造営費用をどこから捻出したのかについて、海軍の戦艦建造の費用を流用した、日清戦争で日本のような小国に敗れたのはこのためだ、と中国の友人が語ってくれたことが印象深かった。
清朝は元来、満州八旗に代表されるような精鋭の騎馬部隊をもっていたからこそ全中国を統治できたのだが、アヘン戦争以後急速におとろえ、太平天国を鎮圧できないほどに弱体化していた。そこで清朝は郷紳に「団練」という郷土自衛団や義勇軍(郷勇)を組織させて正規軍(八旗と緑営)の力不足をおぎなおうとした。曽国藩や李鴻章などの官僚が湘勇(湖南省)、淮勇(安徽省)とよばれる事実上の私兵をつくる契機はここにあった。李鴻章によってもうけられた上海の江南製造局で弾薬や汽船をつくり、南京の金陵機器局で大砲や火薬をつくったのが中国の洋式軍事工業の濫觴となった。こうした動きが洋務運動の代表的一例である。清朝は三六コ師団の「新軍」建設の構想を建てたが、一四コ師団しか編制されるにいたらなかった。
一九一一年、辛亥革命がおこり、清朝は崩壊した。しかし新生の中華民国はまたたく間に清朝最後の内閣総理大臣をつとめた袁世凱(えんせいがい)に乗っとられた。孫文らは国民党を改組し、第二次広東政府をひらいた(一九二一年四月)。中国共産党もまた一九二一年七月に誕生したばかりだ。守旧勢力の前で弱体な国民党と共産党の両党は「国共合作」をおこない、共同で広東に黄埔軍官学校をつくり、将校を養成し、南から北上する「北伐戦争」をすすめることになった。つまり、まず国民党がうまれ、辛亥革命がおこるが、まもなく国家権力は旧勢力に奪いかえされる。その反省のなかから中国共産党がうまれたことになる。
一九二一年一二月、孫文のもとにコミンテルンの代表マーリンがおとずれ、新たな軍官学校の設立についての話しあいがおこなわれた。北伐のためには国民党独自の革命軍隊が必要なことを説いたが、これこそ第一次国共合作の原点である。一九二三年孫文は蒋介石をソ連に三カ月派遣し、モスクワの労農赤軍の各級、各兵科の学校および赤軍内の党組織、ペトログラードの海軍学校などを参観し、トロツキー(共和国革命軍事委員会議長)とも会見して帰国した。こうして国民党は旧ソ連赤軍を手本として軍事建設をすすめる。コミンテルンの指導下でうまれた中国共産党のばあいも事情はにている。
軍内党・周恩来
「銃口から政権がうまれる」(注1)とは、毛沢東の有名なことばであり、中華人民共和国がゲリラ闘争のなかからうまれたことをズバリいいあらわしている。このゲリラ部隊は共産党によるコントロールをその誕生のときからうけてきた。この出生に起因して解放軍の最大の特徴のひとつは「軍内党」の存在である。解放軍を有機体にたとえるならば、参謀部が血管系統にあたり、政治部が神経系統に相当する。この政治部という神経系統の側面から解放軍を分析することが本書のひとつのねらいである。
一九二四年一月、黄埔軍官学校(中国国民党陸軍軍官学校)が設立され、蒋介石が校長、廖仲トが「党代表」に就任した。軍校に党代表、すなわち国民党代表をおいたのは、国民党がこの学校を直接統制下におこうとしたもので、ソ連赤軍の諸学校のコミッサール制にならったものであった(注2)。多忙で軍校に常駐できない党代表廖仲トのもとで実務をとる政治部主任が任命されたが、この人物も常駐できなかった。この政治部に二四年末、副主任として着任したのが、フランスから帰国したばかりの共産党員周恩来であった。周恩来は抜群の実務能力を発揮して、政治部の業務を掌握するとともに、事実上、党代表の職権を代行するにいたった。こうして黄埔軍校政治部という表看板のうらで中国共産党広東区委員会軍事部(書記・周恩来、委員・李富春、聶栄臻など)が活動していた。
北伐軍が上海に近づいた二七年三月、周恩来らは上海八〇万の労働者が参加した第三次上海暴動を組織した。これに脅威を感じた蒋介石は共産党を排除する四・一二クーデタを断行した。これに対して共産党側は同年八月一日、武漢で南昌暴動をおこすために、現場指揮を担当する党の「前敵委員会」(書記・周恩来)を組織した。このとき賀竜、葉挺にひきいられた蜂起部隊は国民革命軍第二方面軍の名をもちいた。蜂起の翌日に組織された機関の名称も中国国民党革命委員会と称された。しかし国民党の冠を用いることによって国民党左派の大部分を結集しようとする戦略はみのらず、南昌を放棄して敗走することをよぎなくされた。こうして南昌暴動は失敗におわったものの、共産党が国民党から自立した独自の武装力を建設しようとした試みを記念して、そのご八月一日を建軍記念日にさだめた。二七年九月二九日、毛沢東は秋収蜂起をおこしたが、国民政府軍に反撃されてやぶれ羅霄山脈にのがれた。井岡山へいく途中、江西省永新県三湾村で「三湾改編」(注3)をおこなない、もとの三団(連隊)からなる工農革命軍第一軍第一師を工農革命軍第一軍第一師第一団に縮小するとともに、部隊に各級の党組織をもうけた。すなわち班(分隊)と排(小隊)には党の小組を、連(中隊)には党の支部を、営(大隊)と団(連隊)には党委員会をおいた。連(中隊)以上の各級には「党代表」をもうけ、党の前敵委員会を成立させ、毛沢東がその書記になった。軍内に末端まで党組織をおき、軍隊に対する党の絶対的指導を貫徹する基礎はこの三湾改編によって形作られたのであった。
モスクワでの党大会
中国共産党第六回大会は中国国内ではなく、モスクワで開かれた(二七年六月一八日〜七月一一日)。この事実は「コミンテルンの支部」としての中国共産党の地位を象徴的にしめしている。大会では「軍事決議案」が討議されたが、「紅軍の建軍問題」の項にはこうかかれていた。「ソ連赤軍組織の経験を採用し、政治委員と政治部制度を実行する」と。その理由について、南昌暴動が失敗して葉挺と賀竜の部隊が破壊されたのは、「反動的官長を粛清する手だてをとらず、政治委員を実行せず、政治訓練機関を設立しなかったからである」と説明していた(注4)。
「党の軍事組織」の項では、一切の軍事工作は中国共産党中央軍事部に集中すべきであり、各地には軍事委員会をもうけよ。それは地方党部の指導をうけて工作するが、軍事技術面では、中央軍事部の直接的指揮をうけよ。中央軍事部と各地軍事委員会はともに中国共産党中央の規定した計画書に依拠して工作せよ、としていた(注5)。
他方、都市での活動が不可能になり、山間でゲリラ活動をはじめていた毛沢東らは、一九二九年一二月に福建省西部の古田において中国共産党紅軍第九次代表大会をひらいたが、この決議がのちに「古田会議決議」としてよく知られるようになる。決議では、紅軍内における共産党組織の位置づけを「党代表」制から「政治委員」制にかえた。すなわち「連(中隊)に支部を建設」し、「班(分隊)に小組を建設」することを紅軍における党組織の原則とした(注6)。
政治委員制の意味をとくに強調しているのは、中央ソビエト区第一回党代表大会(一九三一年一一月)で採択された決議である。いわく、紅軍のなかの党組織を強化し、党の政策の実現を保証するために、「政治委員」制と「紅軍政治工作条例」を実行せよ。各級の党組織は各軍の政治部が管理せよ。「政治委員と軍事指揮員は明確に分業すべき」である(注7)。
「中国工農紅軍政治委員工作条例」(一九三〇年)では、「政治委員」の目的と条件について、紅軍内で政治工作を指導するために、団(連隊)、師(師団)、軍(軍)、軍団(軍団)、軍区(軍区)で、「最も階級的自覚の高い党員」を政治委員に任命する、と規定した。「政治委員」の義務と権限はこうであった。
・政治委員はソビエト政権の紅軍内での全権代表であり、政権と党を代表するという二重の意味で、紅軍内で党の政治路線および紀律を執行する責任者である。
・政治委員はすべての軍事行動、軍事行政を監督し、督促する権限をもつ。
・政治委員は軍事委員と共同してその部隊の教育指導と訓練指導をおこななう。指揮員、軍事要員、政治工作要員を選抜し、考察し、検挙する工作に参加するとともに、人事上の任命および異動命令に署名する。すべての作戦、動員、教育、点検上の計画および命令の編成、起草に参加し、かつ命令に署名する。
・政治委員は政治の面で「単独に命令を発する権限」をもつ。
・政治委員と同じ級の軍事指揮員との間に確執がしょうじたばあいには、政治委員は「軍事指揮員の命令を停止させる権限」をもつ。
・政治委員は紅軍内での中国共産党の全権代表であり、軍隊内での政治会議の主席をつとめる。
・政治委員は直属の上級政治委員に従属し、軍事行政面では上級の軍事指揮機関に従属する(注8)。この規定から政治委員の役割の大きさを知ることができよう。
中華ソビエト第一次全国代表大会(一九三一年一一月七〜二〇日、瑞金)で採択された「紅軍問題決議案」では紅軍の「政治委員、政治部」は、「共産党とソビエト政府の紅軍内の直接的代表」である(注9)と規定されている。
政治委員の副署(カウンター・サイン)の権限をはじめて確認したのは、前述の古田会議決議である。これいご、軍事指揮員(軍長など)は単独で命令を発する権限をうしなった。三〇年の「中国工農紅軍政治委員工作条例」は、元来はモスクワの東方大学にまなんだ傅鍾、李卓然らが「ソ連赤軍の政治工作条例」を翻訳して作成したものだが、両者には大きな相違点がある。訳文で政治委員に対して、カウンター・コマンド(すなわち指揮官の命令を阻止する権限)をあたえたことは、ソ連赤軍のコミッサール制にさえみられない権限であり、「党の軍隊としての紅軍」の性格をよくしめしている。
ソ連赤軍の政治将校は「指揮官の補佐あるいは代理の位置」にあり、中国紅軍の政治委員のような「公然たる全面優位」のものではない。ソ連赤軍が「戦闘組織としての基本」を守っていたのとくらべて、中国紅軍における「政治委員の優位性」はきわだっていた。これが「党の軍隊」としての性格を象徴していた。
長征・紅軍の成立
党の軍隊を建設するモデルつくりに成功した毛沢東らは政治工作と軍事工作をたくみに結合して根拠地を一歩一歩拡大した。そのご、モスクワ帰りの指導者たちが根拠地にうつってきたことにより、根拠地の指導権をめぐる権力闘争がはじまり、三二年一〇月、寧都会議で毛沢東は批判され失脚した。毛沢東とともに失脚したなかにはケ小平や毛沢覃もふくまれる。しかしコミンテルンの権威をかさにきただけの現地の実情にあわない戦闘命令をだす指導部のもとで国民党の包囲討伐作戦を撃退できなくなり、江西ソビエトの放棄をよぎなくされた。三四年一〇月、紅軍主力は瑞金を出発し、長征とよばれる逃亡に旅立った。三五年一月、貴州省遵義にたどりついた紅軍は遵義会議をひらき、毛沢東はふたたび指導権を奪いかえし、三五年一〇月、紅軍は陝西、甘粛解放区に到着し、一万キロをこえる長征がおわった。長征をつうじて紅軍の存在がひろく全中国に知られるようになったことは、そのごの発展にとって種まき機の役割をはたすことになった。
紅軍が延安について一年余、西安事変を契機として国共合作がなった。一九三七年八月、紅軍四・五万名は国民革命軍第八路軍(八路軍は一一五師団、一二〇師団、一二九師団の三コ師団からなっていた)に再編成され、政治委員制度は一時廃止された。国民革命軍の組織にあわせたためであった(注10)。しかし、三九年末には国民革命軍第一八集団軍(注11)政治工作条例をさだめて、共産党の指導を強調してこうかいた。「第一八集団軍は共産党の指導下の軍隊である。軍には共産党の支部、共産党の代表(すなわち政治委員)および政治部が存在する」と。
こうして四二年以降は、軍隊の政治委員が地方の党委員会の書記、軍隊の軍政委員会(政治将校と軍事将校の調整機関)の主席をかね、全体を統括する制度ができあがった。
解放から建国へ
ここで解放軍の呼称を整理しておきたい。
井岡山にゲリラ根拠地を作って以来、抗日戦争がはじまるまでは、「中国工農紅軍」が正式名称である(「紅軍」と略称された)。国共内戦を一時停止し、団結して侵略戦争に対処する抗日戦争がはじまると「中国人民抗日紅軍」となり、これは国民党の部隊の一翼にくみこまれることになったので、その対外的呼称は「国民革命軍第八路軍」(一九三七年八月二五日)となった。もうひとつ、共産党系の軍としては「国民革命軍陸軍新編第四軍」(一九三八年一月)が存在した(「八路軍」「新四軍」が略称である)。一九四五年日本が敗北し、抗日戦争がおわると一年をまたずして国共内戦が再燃した。このため一九四六年六月から「中国人民解放軍野戦部隊」として活動しはじめた(これ以来「解放軍」が略称となった)。各野戦軍の名称を「中原」(ちゅうげん)など地域名からアラビア数字にあらためたのは四九年一月であり、野戦軍の全国展開に便ならしめるためであった(注12)。
一九四八年九月八〜一三日、河北省西柏坡(せいはくは)で政治局拡大会議がひらかれた。解放軍が最後の勝利を獲得するうえで決定的な戦いとなった三大戦役(遼瀋戦役、淮海戦役、平津戦役)および揚子江渡河作戦の動員令をきめたのはこの会議である。
遼瀋戦役とは九月一二日から一一月二日まで戦われ、東北地区(旧満州)を解放したものである。つづく淮海戦役は一一月六日から翌四九年一月一〇日まで戦われ、連雲港から徐州、蚌埠にいたる地域を解放した。つづく平津戦役は四八年一一月二九日から四九年一月三一日まで戦われ、ついに北平(北京)、天津を解放した。破竹の勢いの解放軍は揚子江をこえて南下する。
揚子江渡河作戦は四九年四月二〇日から六月一日にかけて展開されたが、いご文字通り「一瀉千里」のごとく解放軍は全中国を席捲し、国民党軍は台湾、澎湖、金門、馬祖だけを支配することになった。
建国に際して活躍した四大野戦軍と華北野戦軍のうち、功績の特に大きかったのは、林彪の指揮する第四野戦軍と劉伯承、ケ小平の指揮する第二野戦軍であった。華北野戦軍の聶栄臻らの軍功は林彪、劉伯承らにおよばなかった。解放軍総部の朱徳、葉剣英らには顕著な軍功はなかった。徐向前と賀竜ら第一野戦軍は元来第二、第四方面軍であったために、重用しにくい事情があった(注13)。第三野戦軍の陳毅(ちんき)は周恩来が国務院によびよせ、軍籍をはなれた。こうして建国当時の解放軍実力者は、第四野戦軍の林彪、第二野戦軍の劉伯承、そして第一野戦軍の彭徳懐などであった。
〔地図1三大戦役・『戦史簡編』〕
建国当時、各野戦軍はそれぞれが解放した地域に、軍事管制体制を樹立して行政をおこなった(これは「以軍代政」と称される)。各野戦軍はそれぞれ西北、華東、中南、西南、東北、華北の六つの中共分局をもうけて、各大区内の数省の党務を管理した。ゲリラ戦争をつうじて局部的に権力を獲得していく過程では党政軍の三大系統は事実上一体化していたが、この形態を全国的に拡大したものである。
このようにして成立した中華人民共和国は初期においてはよりあい所帯の印象をいなめなかった。その欠陥が高崗、饒漱石事件で暴露された。高崗は東北解放いご、スターリンから乗用車をプレゼントされるほどの東北の実力者であった。饒漱石は党中央の組織部長であった。二人が結託して劉少奇や周恩来を打倒し、その地位にかわろうとしたが、失敗して失脚した。これを契機として、六つの中共分局をすべて廃止し、各分局の党の実力者をすべて北京によびよせた。これは国防部を組織し、軍事における統一指揮をはかるうえでも、また第一次五カ年計画の執行のために権力を集中するうえでも必要な措置であり、この事件をへて中華人民共和国はようやくひとつの国家になったとみてよい。この事件処理の実務工作において、ケ小平は抜群の有能さを発揮し、中央指導者としての地位をかためた。
朝鮮戦争参戦の功罪
中華人民共和国を建国した翌年六月二五日、朝鮮戦争がはじまり、一一月には解放軍の一部を義勇軍として朝鮮に出兵させた。それから五三年七月二七日の停戦までの約三年、実質的には中国軍対米軍の戦いとなった。中国は二五コ歩兵軍団(七九コ師団)および一二コ空軍師団、一六コ砲兵師団、一〇コ鉄道工兵師団、一〇コ戦車連隊など約三〇〇万が参戦した。西側推定によれば、義勇軍の死傷者は六〇〜九〇万であり、中国側は戦闘による死傷者三六・六万(うち死者は一三・三万)のほかに、大量の非戦闘による死者(寒冷、飢餓、事故など)がでたとしている(注14)。
朝鮮戦争への介入が中国国内の反革命の動きを封じこめ、共産党の支配体制をかためるうえで役だったことは確かだが、国際的にはそのごニクソン訪中にいたるまで約二〇年間にわたりアメリカの「封じこめ政策」に苦しめられることになった。日中国交の正常化も大幅におくれた。今日からみると、冷戦体制をかためる結果をもたらしたこの戦争の後遺症の大きさを改めて痛感せざるをえない。
朝鮮戦争が発生したとき、林彪は勝算なしとして朝鮮戦争への出兵に反対した(注15)。このため、彭徳懐が志願軍司令となった。彭徳懐はゲリラ戦法により初戦では勝利したが、そのご米軍の本格的な介入がはじまると、米軍の近代的装備に圧倒され、志願軍は敗北をかさね、犠牲が続出し、冒頭のような死傷者をだした。朝鮮戦争後、彭徳懐が国防部長に就任するとソ連の経験にまなび、解放軍の改造に着手した。すなわち「ゲリラ流」を排除し、「正規化、現代化」を進める道である(注16)。彭徳懐の戦略とは、ソ連の提供する核のかさにはいり、ソ連製の通常兵器を大いに導入し、海軍、空軍を近代化し、陸軍の機動兵力を高めようとするものであった。
軍中党委の権威
朝鮮戦争がおわり、中国はようやく新国家作りに乗りだす余裕ができた。五四年に憲法ができると、人民解放軍は憲法にそって国防体制に組みいれられた。国家主席が統帥権を掌握し、国家主席のもとに国防委員会が発足し、国務院に国防部が設置された。国防委員会、国防部の設置により、それまでの中央人民政府人民革命委員会、中国人民解放軍総指揮部は廃止された。大軍区、大行政区も廃止され、国防部のもとに「一級軍区」、「二級軍区」(省級軍区)、「軍分区」が配置された。
「党の軍隊」はここで「国家の軍隊」に変身する動きがみられたが、それはうわべだけにとどまった。国防委員会は主席の諮問におうずる組織にすぎず、国防部も外事局、弁公室などスタッフメンバーしかなく、全軍の指揮をとることは不可能であった。つまり、国防委員会も国防部もたんに人民解放軍を国防軍として体裁をととのえる「名目上あるいは形式上の存在」(川島弘三)にすぎなかった。
人民解放軍はあくまでも「党の軍隊」であり、それゆえ「軍の最高指導組織」とは、「党の最高組織」そのもの、すなわち中共中央委員会にほかならない。そして中央委員会の直属部門として軍事問題を専門に担当する軍事委員会がもうけられた形である。こうして中共中央軍事委員会こそが人民解放軍の最高指導組織である。その権威は中央委員会自身をも凌駕するほどである。中共中央軍事委員会(略称・中央軍事委員会あるいは単に中央軍委、軍委)が最高統帥部として機能できるのは、中央軍委が最上級の軍内党委員会(軍中党委と略称)の位置にあり、各レベルの軍中党委がそのレベルの軍隊を指導し、こうして全軍が動くメカニズムが存在するからだ。いいかえれば軍中党委の権限は、この解放軍全体にビルトインされた軍中党委制度に発している。軍内にくまなくはりめぐらせた神経系統に対して命令をくだすことができるからこそ中央軍委に権威がうまれるのである。
ソ連式の現代化、正規化を実現するために、彭徳懐は国防部の指揮機能を強化し、軍内の政治系統の勢力をよわめ、軍事指揮を集中しようとした。すなわち中共中央軍事委員会を棚あげし、「一長制」единоначалийを実行した。またソ連軍の編制と階級制度を導入し、軍隊を職業化しようとした。五五年以前、中国の軍事費用は主として人件費であった。五五年に彭徳懐が二七〇万人の兵員削減をきめた。五七年には中国の軍事費用の過半は武器装備にもちいられていた。
フルシチョフは五八年七月の訪中にさいして「聯合艦隊と指揮無線局構想」を提起した。これは彭徳懐の大躍進反対と同時にあらわれたので、毛沢東は彭徳懐の意図をうたがった。彭徳懐が大躍進批判のまえにたまたま東欧を訪問していたことも毛沢東の疑惑をふかめた。廬山会議で毛沢東は彭徳懐、黄克誠(こうこくせい総参謀長)らを反党分子として解任し、林彪を国防部長に任命した(注17)。
中国は当時、核兵器を開発中であったが、実戦配備までは時間をようした。この状況でソ連の核の傘からはなれれば、アメリカの核攻撃の脅威にさらされる。林彪は盟友ソ連から自立し、「人民戦争の復活」を決意した(注18)。毛沢東はこれを賞賛した。
林彪の整軍の主な内容は、彭徳懐の正規化、現代化戦略を放棄し、遊撃戦、持久戦戦略に転換するものであった。また軍隊の政治工作系統を強化し、全民皆兵をねらうものであった。こうして「人の要素第一」が提起され、「唯武器論」批判がおこなわれた。
正規の装備をもつ野戦軍と全民皆兵の民兵勢力とを結ぶために、林彪は軍隊の地域化をはかった。すなわち全国を「一三大大軍区、二六の省レベル軍区と二つの衛戌区(えいじゅく)」にわけた。野戦軍は各大軍区内に分散させ、その基幹的防衛力とした。地方部隊と民兵はこれと協調して行動する建国前の三位一体の軍事体系が復活した。
この地域化のねらいは、敵味方の戦線が明確になり、核攻撃の標的になるのをふせぎ、戦線の交錯する状況をつくりだすことにあった。このため各軍区には大量の武器弾薬をそなえ、完全に独立した指揮系統のもとで、長期にわたって独立した作戦をおこなうことを可能にする態勢づくりをねらうものであった(注19)。
中ソ関係の悪化にともない、ソ連が仮想敵国となった。中ソ国境は数千キロにおよぶので、人民戦争こそが最適と考えられ、「深く洞をほり、広く食糧をつむ」方針のもとで地域化建設が加速された(注20)。
一三大軍区はそのご各軍区の指揮系統と後勤支援系統に便利なように一一大軍区に再編制された。空軍も一一軍区に対応させた。海軍は北海、東海、南海の三艦隊にわけて済南、南京、広州軍区に帰属させた。
各大軍区のうち済南軍区だけは他の大軍区への支援任務をおった。空運機動部隊はこの軍区におかれた。すなわちパラシュート三コ師団と空運一コ師団である。これらの空軍機動部隊に軍区内の陸軍装甲兵三コ師団、歩兵一九師団を加えても済南軍区総兵員は当時、北京軍区の二九コ師団、瀋陽軍区の二六コ師団におよばず、済南軍区の支援能力には限界があった(注21)。
軍事体制「地域化」の結果、各大軍区司令が指揮できる部隊は、きわめて大きくなった。たとえば済南軍区司令は装甲師団三コ、歩兵師団一九コ、空軍師団一二コ、パラシュート師団三コ、空運師団一コ、計四〇万であった(八五年当時)。さらに後勤その他の補助兵員をくわえると、五〇万をこえる。各大軍区司令はこのほか軍事工業生産体系、大量の弾薬と必需品の準備、各種の防御工事と独立して指揮できる通信系統ももっていた。
軍事指揮の一元化のために、軍レベル以上の軍事単位で軍事首長責任制を実行した。すなわち軍事首長が同級の党委員会書記に、政治委員は副書記に任命されたので、軍事首長が最高権力をもつようになった。
文化大革命までは党主席が中央軍委主席を、国防部長が軍委第一副主席を、元帥級軍幹部が副主席を兼務し、総参謀長が秘書長に、総政治部主任が副秘書長につくのが慣例であった。