人民解放軍 あとがきと注釈

現代中国の政治経済を研究対象としてきた筆者が解放軍について書いたことを奇異に感じる向きがあるかもしれない。敢えて不遜な言葉を用いるが、おそらくは「平和ボケ」によるものであろう。

「今回の失敗は、完全に書生主観の誤りによるものである。今後は軍事に非常に注意しなければならない。政権は鉄砲から生まれることを知らなければならない」。これが「政権は鉄砲から生まれる」と喝破した毛沢東流の武装闘争論の原点にほかならない。中国共産党の成長と中国人民解放軍の成長とは、メダルの表裏のごとく結びついてきたのである。この事実を強く意識し、「今後は軍事に注意すべし」と題したエッセイを書いたことがある(拙著『チャイナ・ウオッチング───経済改革から政治改革へ』所収、蒼蒼社、一九八六年)。

それからおよそ一〇年、文化大革命期における軍の役割を調べ、林彪事件の秘密を追及し、天安門事件における武力鎮圧の真相を解明するために多くの時間を費やしてきたが、軍事研究の空白部分にメスを入れることによって、空白の大きさと深さを改めて痛感することが少なくなかった。その思いをますます深くしているのが最近の心境である。

というのは、昨今の台湾海峡での両岸のかけひきをあたかも「一触即発」と事実誤認し、「中国の脅威」を声高に語る一知半解の徒がまかりとおる反面、中国の武器装備やその開発の背景については、いぜんどこまで理解しているのか疑わしい状況が続いているからである。有名な『ミリタリー・バランス』の誤訳、不適訳の数々は、中国軍事研究の空白をなによりも雄弁に物語るものではないか(本書六六頁以下)。

孫子の兵法をもちだすまでもなく、「敵を知る」ことなくして、勝利はありえないし、幻想の敵を勝手に描いて、蟷螂の斧を振り回すことほど危険な行為はないのである。

本書の第3、4章は『チャイナ・クライシス重要文献』全三巻、『天安門事件の真相』上下巻(蒼蒼社、一九八九〜一九九〇年)の資料がもとになっている。この作業を一緒にやってくれた白石和良(農水省総合研究所海外研究部長)、村田忠禧(横浜国立大学教育学部教授)、中村公省(蒼蒼社社主)の三氏の協力は、本書の成立にとって不可欠であった。講談社と私のつきあいは鷲尾賢也氏とのつきあいにはじまり、丸本忠之氏(当時、現代新書担当)につづく。本書は選書出版部長池ノ上清氏の巧みなアドバイスで完成した。あわせて謝意を表する次第である。

一九九六年五月二〇日(李登輝総統就任式のニュースを聞きながら)

矢吹 晋

『人民解放軍』注

はじめに

(注1)私は江畑謙介「中国軍事力の評価と予測」『軍事研究』九五年一〇月号の冷静な分析に教えられるところ多かった。ここでは参考のために、中国脅威論に対する中国側の反駁を挙げておく。

1)穆恵民「<中国軍事威脅論>毫無事実根拠」『人民日報』九三年四月一七日コラム「数字与事実」。ここでは九三年の各国国防費と八七〜九一年の武器輸出額の比重に基づいて論じている。2)陳国清「評<中国威脅>的神話」『解放軍報』九三年六月三日。筆者は当時、ワシントンの中国大使館の報道官であった。3)胡平「和平与発展是中国的利益所在


怪胎──駁所謂<中国威脅論>」『解放軍報』九五年一一月三日。筆者は中国国際戦略学会研究員である。5)「駁<中国威脅論>」『中国国防報』九六年一月七日。6)観察家「謹防冷戦思惟台頭──駁<遏制中国>論」『人民日報』九六年一月二六日。

(注2)江沢民「社会主義現代化建設における若干の重大関係」(以下「十二大関係論」と略称)『人民日報』九五年九月二八日

(注3)『朝河貫一書簡集』早稲田大学出版部刊、一九九〇年

(注4)金子英生訳、ウォーナー宛、『書簡集』五九五頁

(注5)矢吹晋「<中台関係>不介入が賢明」『読売新聞』一九九五年六月九日付。

第1章

(注1)原文=槍杆子里出政権、「戦争和戦略問題」第二節、一九三八年一一月六日。『毛沢東選集』

(注2)川島弘三『社会主義の軍隊』一〇八〜一一二頁

(注3)「三湾改編」の簡潔な説明としては、『辞海』歴史分冊、中国現代史、二六頁(注4)『中共中央文件選集・四』(一九二八)中央档案館編、中共中央党校出版社、一九八九年、四九一頁

(注5)『中共中央文件選集・四』四九一頁

(注6)『中共中央文件選集・五』(一九二九)中央档案館編、中共中央党校出版社、一九九〇年、八一一頁

(注7)『中共中央文件選集・七』(一九三一)中央档案館編、中共中央党校出版社、一九九一年、四七八頁

(注8)『中国共産党資料集・五』日本国際問題研究所中国部会、勁草書房、七二年、五三三〜五三五頁、原資料は『赤匪文件彙編・八』九〜一五頁

(注9)『中共中央文件選集・七』七九九頁

(注10)川島弘三『中国党軍関係の研究』上巻、慶応通信、一九八八年一一月、一九頁、四七頁および川島『社会主義の軍隊』一二四〜一二五頁。原資料は『中国共産党史資料集・五』日本国際問題研究所中国部会、勁草書房、七二年

(注11)八路軍は三七年九月に第一八集団軍と改称されたが、その後も八路軍の通称は用いられた。

(注12)『中国人民解放軍発展序列一九二七〜一九四九』星火燎原編集部編、解放軍出版社、一九八五年。『中国人民解放軍五大野戦部隊発展史略』袁偉編著、解放軍出版社、一九八七年。『中国人民解放軍戦史簡編』国防大学編、解放軍出版社、一九八六年などに詳しい記述がある。

(注13)張国(一八九七〜一九七九)は、一九三五年六月紅軍第一、第四方面軍が会師したのち紅軍総政治委員となったが、紅軍の北上についての中共中央の決定に反対し、党と紅軍を分裂させる活動を行なった。三六年六月「第二の中央」をやめて紅軍第二、第四方面軍とともに北上し、一二月に陝北に着いた。三七年九月から陝甘寧辺区政府副主席、代主席になったが、三八年四月陝甘寧辺区から逃走し、中共中央から除名された。四九年香港に逃れ、のちカナダに移り、トロントで病死した。『軍事大辞典』鄭文翰主編、上海辞書出版社、九二年一二月、一一八四頁。

(注14)朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争』岩波書店、一九九一年、二〜三頁。

(注15)たとえば朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争』岩波書店、九一年、第五章参照。

(注16)『彭徳懐軍事文選』中央文献出版社、八八年九月は彭徳懐の書いた主な軍事問題についての著作を収めている。

(注17)廬山会議については、李鋭『廬山会議実録』北京、春秋出版社、国内控制発行、八九年が詳しい。

(注18)林彪「人民戦争の勝利万歳」『人民日報』六五年九月三日

(注19)これはいわゆる国防三線建設とも密接に関わっている。

(注20)「深く洞を掘り、広く食糧を積む」典拠は『明史』朱升伝。朱升が「高築墻、広積糧、緩称王」と提言したことを踏まえたもの。

(注21)『邦連制』金驥著、香港百姓文化事業公司、九二年四月、三六頁

(注22)李可、生章『文化大革命中的人民解放軍』中共党史資料出版社、一九八九年、二四一頁。

(注23)李可、生章『文化大革命中的人民解放軍』中共党史資料出版社、一九八九年、二四四頁。

(注24)私は一九八七年九月一五日に東京で彼を中心とする訪日団諸氏と会った。他の二人は王淇・党史研究室室務委員兼党史研究会秘書長、汪裕尭・文献研究室室務委員・毛沢東研究組組長であった。「先方のご指名ですから」としぶる私をその席に連れて行ったのは、村田忠禧横浜国立大学教授であった。

(注25)張雲生『毛家湾紀実──林彪秘書回憶録』春秋出版社刊。同出版社は党史研究室付属の出版社である。余談だが、私は約六〇平方米もある林彪の寝室に紛れ込み林彪のトイレで用を足すことになった。

(注26)『鏡報』一九八八年八期

(注27)姚明楽『林彪の陰謀と死亡』『文芸春秋』に抄訳あり。

(注28)符浩「九一三事件補白−党史重大事件紀実」『党的文献』一九八八年一期。なお現在は「内部」ではなくなっている。

(注29)符浩「九一三事件補白」『党的文献』一九八八年一期。邦訳は『林彪秘書回想録』蒼蒼社、所収。

(注30)許文益「歴史が私に与えた特殊な任務−九一三事件の対外交渉」『党的文献』一九八八年一期。邦訳は『林彪秘書回想録』蒼蒼社、所収。

(注31)孫一先、沈慶沂、王中遠「林彪逃亡機墜落現場視察記」『党的文献』一九八八年一期。邦訳は『林彪秘書回想録』蒼蒼社、所収。

(注32)なお、孫一先は「罪と罰」と題した単独の記録を『解放軍報』八八年四月二五〜五月三〇日に発表している。

(注33)彼らが事故現場で遺体を見たのは九月一五日午後四時である。

(注34)なお、これらの点については研究者于南の分析もほぼ同じである。于南「林彪集団の興亡初探」『十年後的評説<文化大革命>史論集』中共党史資料出版社。

(注35)原文=提前「接班」。ここでいう「提前」の意味が問題だが、これは「毛沢東の生前」の意味であろう。

(注36)『三中全会以来重要文献選編』下冊、六六四頁。

(注37)金春明『文化大革命論析』

(注38)七二年八月二日付小平書簡に対する毛沢東の八月一四日付批語。矢吹晋『毛沢東と周恩来』講談社現代新書、一九八九年、一五〇頁。矢吹晋『小平』講談社現代新書、一九九三年、八四頁。

(注39)U.S.News & World Report,January 31,1994.pp.52-54.by Peter Hannam in Mongoria. およびSolved:The Mystery of Lin Biao's Death,by Peter Hannam, AsiaWeek,February 2,1994.pp.28-35.なお、この謎を解いたピーター・ハナムはオーストラリアのフリーランス記者であり、当時ウランバートルをベースとして記事を書いていた。

(注40)『蒼蒼』九二年二月一〇日号。のち矢吹晋『ペキノロジー』所収。

(注41)金驥『邦連制・中国的最佳出路』香港百姓文化事業公司、一九九二年、三七頁。唐代の節度使が安史の乱をもたらしたことは、よく知られていよう。唐はまもなく四分五裂し、五代十国の割拠局面がもたらされた。 

(注42)一九七四年一二月。これは林彪事件を契機として、復活した小平の大きな仕事であった。

(注43)林彪事件後の小平による人事異動の状況は次のごとくである。一一大軍区の司令員一一名のうち、留任は三名で、八名が交替した。

(注44)たとえば「軍隊要求整頓」(七五年一月二五日)、「軍隊整頓的任務」(七五年七月一四日)、「在中央軍委全体会議上的講和」(七七年一二月二八日)、「在全軍政治工作会議上的講話」(七八年六月二日)、いずれも『小平文選』第二巻、所収。

(注45)「致中共中央政治局的信」(八九年九月四日)『小平文選』第三巻、三二二〜三二三頁

(注46)たとえば『解放軍報』八四年五月一八日付評論員論文は文革期の「三支両軍」問題を論じて、「三支両軍における左派支持とは、派閥支持であり、どの派を支持したとしても誤りである」と断定した。八四年一〇月九日、瀋陽軍区司令員李徳生は三支両軍における誤りを自己批判する文章を『人民日報』に発表し、瀋陽軍区における軍の整党状況を示唆した。『現代中国の歴史』有斐閣、八六年一二月、三八七〜三八八頁

(注47)陸鏗によるインタビュー、香港『百姓』半月刊、八五年六月一日号、矢吹晋『ポスト小平』蒼蒼社、八八年三月、四一頁

第2章

(注1)路滔、楊玉辰編著『新兵必備』北京、団結出版社、二四四〜二四五頁。

(注2)ちなみに、彭徳懐国防部長も林彪国防部長も、国防部長の地位は形式的だが、軍委第一副主席として軍委の日常工作を主宰し、軍内をきりまわしたのであった。

(注3)『軍事大辞典』鄭文翰主編、上海辞書出版社、九二年一二月、一三六頁

(注4)『軍事大辞典』鄭文翰主編、上海辞書出版社、九二年一二月、一二六頁

(注5)『軍事大辞典』鄭文翰主編、上海辞書出版社、九二年一二月、一二六頁

(注6)『軍事大辞典』鄭文翰主編、上海辞書出版社、九二年一二月、二一頁

(注7)『中国共産党執政四十年』増補版、中共党史資料出版社、九一年、五八七〜六一八頁から作成

(注8)「旅護」を「旅湖」に、「江衛」を「江威」とする誤訳は江畑謙介論文(『軍事研究』九五年一〇月号、四八〜四九頁にもみられる。加藤武「中国海軍と潜水艦隊の脅威」(同誌、七三頁)も「旅護」を「旅湖」に間違えている。「親亀こけたら孫亀こけた」の類は枚挙にいとまがない。ただし、同誌の青木謙知論文は「殲撃」「強撃」「轟炸」「運輸」「水轟」と適切な表記を用いている。ただしここでルビつきだが、ローマ字を添えていないのが惜しまれる。英語文献と中国語文献の対照に不便であろう。

第3章

(注1)『中国人民解放軍軍語』中国人民解放軍軍事科学院編、解放軍戦士出版社、一九八二年一二月。一九〇頁。

(注2)旁旁(筆名)『胡耀邦之死』香港大地出版社、八九年七月、一二八頁。

(注3)『現代中国の歴史』有斐閣、矢吹晋稿、二四九頁

(注4)香港『明報』一九八九年五月一六日付。

(注5)『ニューヨーク・タイムス・マガジン』八九年一一月一二日号、六六頁。

(注6)「北京軍区のある軍人」署名「三八軍徐軍長の解任経過を記す」八九年五月二九日『中国民運原資料精選(第二輯)』所収。

(注7)香港『明報』五月一六日

(注8)矢吹晋、白石和良、村田忠禧編『チャイナ・クライシス重要文献』(以下『重要文献』と略称)第二巻IX・18。

(注9)香港『サウスチャイナ・モーニングポスト』八九年一二月二八日付

(注10)香港『鏡報』八九年一一期

(注11)『山西日報』八九年七月一八日ほか

(注12)『平暴英雄譜──平息北京反革命暴乱英模事跡報告集』光明日報社、八九年八月二五一頁〔以下『平暴』と略称〕

(注13)『北京周報』八九年九月一二日、第三七号。

(注14)『北京周報』第三七号、九月一二日。

(注15)『中国民運原資料精選(二)』一八頁。

(注16)『重要文献』第二巻九二〜九三頁。

(注17)『戒厳一日』下、総政文化部徴文弁公室編、解放軍文芸出版社、八九年一〇月、一〜三頁〔以下『戒厳(下)』と略称〕。

(注18)『戒厳(下)』一〜三頁。

(注19)『在戒厳的日子里』鄭念群著、解放軍文芸出版社、八九年一一月、三一頁〔以下『在戒厳』と略称〕

(注20)『在戒厳』三一頁。

(注21)『在戒厳』一〇頁。

(注22)『在戒厳』一〇頁。

(注23)『重要文献』第二巻VIII・5〜8。

(注24)穆望「中南海高層闘争真相」『鏡報』一九八九年六月号。

(注25)『重要文献』第二巻VIII・27。

(注26)『重要文献』第二巻VIII・26。

(注27)『重要文献』第二巻VIII・28、29。

(注28)『重要文献』第二巻VIII・30。

(注29)香港『文匯報』程翔記者。

(注30)『在戒厳』二一頁。

(注31)『在戒厳』二七頁。

(注32)『戒厳(下)』四〜五頁。

(注33)『戒厳(下)』六〜九頁。

(注34)『戒厳(下)』一〇〜一一頁。

(注35)『戒厳一日』上、総政文化部徴文弁公室編、解放軍文芸出版社、八九年一〇月、一〇〜二五頁〔以下『戒厳(上)』と略称〕。

(注36)『戒厳(上)』二六〜三一頁。

(注37)『戒厳(上)』三二〜三七頁。

(注38)『戒厳(上)』一〜四頁。

(注39)『人民日報』六月一日。

(注40)同上『人民日報』。

(注41)『歴史的碑文──一九八九武警部隊制止動乱平息暴乱紀実』陳生庚主編、経済管理出版社、七頁〔以下『碑文』と略称〕

(注42)『戒厳(上)』二二四頁。

(注43)『在戒厳』三九頁。

(注44)『在戒厳』三九頁。

(注45)『在戒厳』四〇頁。

(注46)『重要文献』第三巻一四九頁。

(注47)『戒厳(上)』八〇〜八三頁。

(注48)『戒厳(下)』三四〜四一頁。

(注49)『重要文献』第三巻XII・5。

(注50)『在戒厳』三八頁。

(注51)陳生庚主編『歴史的碑文』経済管理出版社、一九八九年九月〔『碑文』〕。

(注52)『平暴英雄譜──平息北京反革命暴乱英模事跡報告集』光明日報出版社、一九八九年九月〔『平暴』と略称〕

(注53)『平暴』一三九〜一四三頁。

(注54)『平暴』一五一頁。

(注55)『捍衛社会主義共和国』総政治部宣伝部、解放軍報編集部編、長征出版社、四二四頁〔以下『捍衛』と略称〕。

(注56)『捍衛』三五四〜三五七頁。

(注57)『解放軍報』一九八九年六月二一日、のち『捍衛』三五九〜三六〇頁。

(注58)鄭念群著『在戒厳的日子里』解放軍文芸出版社、一九八九年一一月、四〇〜五一頁。

(注59)『戒厳(上)』五七頁。

(注60)『平暴』二四五頁。

(注61)『在戒厳』四六頁。

(注62)『解放軍報』七月二四日。

(注63)『戒厳(下)』九八〜一〇〇頁。

(注64)『戒厳(上)』二五五〜二五八頁。

(注65)『戒厳(上)』一七四頁。

(注66)『在戒厳』五一頁。

(注67)『在戒厳』四二頁。

(注68)『在戒厳』四二頁。

(注69)六月一六日記者会見、『戒厳(下) 四一七〜四二八頁。

(注70)『重要文献』第二巻一一四〜一一七頁。

(注71)『戒厳(上)』八四頁以下。

(注72)『在戒厳』二七頁によれば、張美元。軍長が抗命で不在のため副軍長がでかけたとみてよい。

(注73)『戒厳(上)』八四〜九四頁。

(注74)『共和国衛士』北京軍区政治部組織部編、解放軍出版社、八九年八月、六頁。(注75)『戒厳(上)』一七五〜一八一頁。

(注76)『戒厳(上)』一七九頁。

(注77)『戒厳(下)』五四〜五七頁)

(注78)『捍衛』三四六〜三四八頁。

(注79)『捍衛』三三〇〜三三九頁。

(注80)『戒厳(下)』九一〜九五頁。

(注81)『平暴』二四五頁、二四九頁。

(注82)『戒厳(下)』一六五〜一七一頁。

(注83)『戒厳(上)』一九〇〜一九三頁。

(注84)『南方日報』一九八九年八月一日。

(注85)『南方日報』一九八九年八月一八日。

(注86)『戒厳(下)』二一六〜二一九頁)

(注87)『捍衛』三九五〜三九七頁。

(注88)『戒厳(上)』二〇九〜二一二頁。

(注89)『戒厳(上)』一八五〜一八九頁。

(注90)『戒厳(下)』二一一頁、『南方日報』八月一日。

(注91)『解放軍報』二面、のち『捍衛』三六一〜三六五頁所収。当事者たる喜剛ら乗員の証言は『戒厳(上)』一〇三〜一一二頁。

(注92)『戒厳(下)』一一〇〜一一六頁。

(注93)「三三九号装甲車的控訴」『人民日報』七月一六日。

(注94)『戒厳(上)』二二四〜二三二頁。

(注95)『戒厳(上)』二三三〜二三七頁。

(注96)『戒厳(上)』二五一〜二五四頁。

(注97)『戒厳(下)』一五四〜一五八頁。

(注98)魯人論文『鏡報』九〇年一期。

(注99)魯人論文『鏡報』九〇年一期。

(注100 『捍衛』四二三〜四二四頁。

(注101 『戒厳(上)』一〜一九頁。

(注102 『戒厳(下)』一一〇〜一一六頁。

(注103 『解放軍報』七月七日付、のち解放軍総政治部宣伝部『捍衛社会主義共和国』三一四頁所収。

(注104 死者一名、重傷二四六名、軽傷一五〇〇名、行方不明一五〇名──『戒厳(下)』一七一頁。

(注105 『南方日報』八九年八月一日付。

(注106 『戒厳(上)』二五九〜二六二頁。

(注107 『戒厳(上)』二六三〜二六八頁。

(注108 邦訳『チャイナ・クライシス』第三巻一五三頁以下。

(注109 『戒厳(下)』二一六頁。

(注110 『戒厳(下)』二〇八〜二一五頁。

(注111 『重要文献』第三巻XIII・7。

(注112 この連隊は一九八八年六月にベトナム戦線から帰還したばかりであった。『戒厳(下)』二一六〜二一九頁。

(注113 『南方日報』八月一八日。

(注114 『人民日報』八月一一日。

(注115 『捍衛』二〇八頁。

(注116 『捍衛』三二五〜三六〇頁。

(注117 『在戒厳』七二頁。

(注118 李久練上校『南方日報』八九年八月一六日。

(注119 李鵬の伊東正義訪中団に対する九月一七日談話。

(注120 『経済参考』八九年七月二日、『学潮・動乱・反革命暴乱真相』中共北京市委員会宣伝部編、中国青年出版社、八九年八月。

(注121 『重要文献』第三巻XV・20。

(注122 唐静論文『百姓』九〇年五月一日号。

(注123 『読売新聞』八九年一二月四日夕刊。

(注124 『蒼蒼』九〇年八月号、のち拙著『ペキノロジー〔世紀末中国事情〕』所収。(注125 『チャイナ・クライシス重要文献』全三巻、八九年八〜一二月。『天安門事件の真相』上下、九〇年六〜九月。

第4章

(注1)「軍委拡大会議研究部署明年軍隊工作」『解放軍報』八九年一二月一四日

(注2)王誠漢「毫不動揺地堅持党対軍隊的絶対領導」『解放軍報』八九年一二月一八日。なお、この問題については、川島弘三『社会主義の軍隊』二一二〜二一五頁および平松茂雄『続・小平の軍事改革』勁草書房、九〇年一二月、四四頁以下で分析されている。

(注3)柏軒「堅定不移地堅持党対軍隊的絶対領導」『解放軍報』八九年一二月一九日(注4)楊中美著『江沢民伝』台北、時報文化出版事業、九六年一月、二七四頁。

(注5)台北『中国時報』九二年五月三日、北京特派記者盧伯華。

(注6)五〇万削減の具体的内容はつぎのごとくである。1)各地の守備区を廃止し、その任務を省軍区および軍分区にゆだねる。2)一部の初級軍官学校、技術院校を含む一部の軍事院校を廃止し、あるいは合併する。3)大軍区、集団軍、省軍区の宣伝部門、文化部門を合併し、組織部と幹部部を合併する──これら三項目の措置はすでに着手されている。なお、一部の削減計画は第二段階の改革とあわせて行う。

(注7)集団軍は二四単位、北京に三四コの単位があるとすれば、残りの十いくつは、北海、東海、南海の各艦隊などであろう。

(注8)台北『中国時報』九二年五月三日、北京特派記者盧伯華。香港『信報』九二年九月八日

(注9)小平は九〇年六月、次のように述べて物議をかもした。「中国が乱れたら、香港に五〇万、タイに一〇〇〇万、インドネシアに一億の難民がおしよせる。そうなれば、もはや誰にもこの混乱を治めることはできまい」。矢吹晋『小平』講談社現代新書、九三年、二一〇頁

(注10)『小平文選』第三巻、三七一頁。なお小平ファミリーと解放軍との関係は次のごとくである。次女榕は解放軍選出の全国人民代表、大佐である。その夫賀平は解放軍総参謀部装備部部長、少将であり、義妹(継母の娘)先群は解放軍総政治部群衆工作部部長、その夫栗前明は砲兵部隊副司令員、小平弁公室主任王瑞林は解放軍総政治部副主任、解放軍紀律検査委員会書記である。

(注11)『人民日報』九三年六月八日。。

(注12)『人民日報』九四年六月九日。

(注13)『人民日報』九六年一月二三日。

(注14)劉華清「堅定不移地沿着建設有中国特色現代化軍隊的道路前進」『求是』一九九三年第一五期、八月一日

(注15)楊金森ほか著『中国海洋開発戦略』(中国ソフト科学叢書、華中理工大学出版社、九〇年一一月)には、南沙群島について次のような記述がある。「この海域は三地区に分けられる。南部地区はマレーシアが九つの島礁を占拠し、自己の石油開発区としている。マレーシアはこの鉱区で石油天然ガス資源を開発しはじめた。マレーシア鉱区の北部は中国の伝統的国境内に入る。中国政府はいくども声明を発表している」「東部地区ではフィリピンが大面積の鉱区を画定し、西側の石油公司に租借している。そのうち礼楽灘地区ではアメリカとスエーデンの石油公司が一九七六年に天然ガスを発見している。尹慶群礁、鄭和群礁、巴拉望の西地区ではフィリピンがアメリカの公司に租借し、石油天然ガスを発見している。これらの租借区は中国の伝統的国境内に入る。これについて中国政府は七六年六月一四日声明を発表している」「西部地区ではベトナムが一一の島礁を占拠し、石油開発区を画定している。これについて中国政府は七四年一月一一日サイゴン当局に抗議している。七五年ベトナム新政府の成立後はソ連と合作して石油天然ガス開発を始めたので、八〇年に再度声明を発表した」(同書一七五〜一七六頁)。

中国の南沙・西沙群島に対する主権の主張を示すのは「中国対西沙群島和南沙群島的主権無可争弁──中華人民共和国外交部文件(一九八〇年一月三〇日)である。なお、この資料は以下の三資料(1)新華社評論員、『人民日報』評論員「既是供状、又是丑行・一評越南外交部関於越中関係的白皮書」『人民日報』一九七九年一一月一五日、2)新華社評論員、『人民日報』評論員「越南抗法、抗米闘争時期的中越関係・二評越南外交部関於越中関係的白皮書」『人民日報』一九七九年一一月二一日、3)新華社評論員、『人民日報』評論員「為什麼越南統一後中越関係悪化了?・三評越南外交部関於越中関係的白皮書」『人民日報』一九七九年一一月二八日)とともに、『中国対西沙群島和南沙群島的主権無可争弁──評越南外交部関於越中関係的白皮書』人民出版社、一九八〇年二月、に所収。

なお、ナツナ群島(ジャカルタの北約一一〇〇km、カリマンタン島と、マレー半島に挟まれた海域))の北方海域の一部を中国が自国領と解釈している事実が九三年にインドネシアが主宰した南沙・西沙諸島六カ国有識者会議で明らかになった。

(注16)劉華清「堅定不移地沿着建設有中国特色現代化軍隊的道路前進」『求是』一九九三年第一五期、八月一日。

(注17)秦耀祁主編『小平新時期軍隊建設思想概論』解放軍出版社、一九九一年一二月、四四頁。

(注18) SIPRI Yearbook 1995 Armaments,Disarmament and International Security,Stockholm International Peace Research Institute,Oxford University Press, 1995.

(注19)銭其「在<不拡散核武器条約>審議和延長大会上宣布支持<条約>的順利延期、併全面闡述中国関於核裁軍立場」『人民日報』一九九五年四月二〇日。銭其「始終不渝地奉行独立自主的和平外交政策」『求是』一九九五年一二期。

(注20)『中国社会科学』一九八八年六期は、庫桂生の書評を掲げた。本書の出版自体が目新しいし、権威のある『中国社会科学』隔月刊誌が書評を掲載したのも初めてである。

(注21)陳炳福「近十年中国軍費支出変化的経済分析」『経済研究』九〇年六期、七七〜八一頁。

(注22)中華人民共和国国務院新聞弁公室「中国的軍備控制与裁軍」『人民日報』一九九五年一一月一七日

(注23)『中国国防経済管理研究』一三九〜一四〇頁

(注24)『中国国防経済管理研究』一四五〜一四六頁

(注25)『中国国防経済管理研究』一八七頁

(注26)『中国国防経済管理研究』一九一頁

(注27)『中国国防経済管理研究』一九二〜一九三頁

(注28)『中国国防経済管理研究』一九六頁

(注29)『中国国防経済管理研究』一九八頁

(注30)『中国国防経済管理研究』一九八頁

(注31)王紹光(エール大学)が「正税養軍」を論じている。王紹光「中国軍隊経商的特点」『留学生新聞』一九九六年一月一日号

(注32)王紹光「中国軍隊経商的特点」『留学生新聞』一九九六年一月一日号

(注33)『中国組織別人名簿一九九六』一九九五年一〇月、ラジオプレス刊。二五五〜二五九頁、五一七〜五一八頁。新時代公司は国防科学技術工業委員会の管轄下にあり、先端技術を扱う。

余談だが、私は八八年夏休みに、北方工業公司(当時)の射撃場をのぞいたことがある。そのさいのメモを引用しておきたい───中国の「北方公司」といえば、例の高性能ミサイル「シルクワーム」をイランに輸出してアメリカをきりきり舞いさせた武器輸出会社である。北方公司所属の「中国北方国際射撃場」が観光客に公開されたのは八七年夏のこと。万里の長城に行く北張公路を南口ロータリー(「環島」)で左折し、踏切を越えたところに、この射撃場がある。武器買付け商人に中国製武器の性能を直接確かめてもらうために旧武器工場を改造して開いたものだが、「小銭も歓迎」とばかり、一般観光客に対しても射撃サービスを始めた。ただし、人民元は受け取らず、兌換券か外貨に限る。料金は六四式軍用ピストルが六〇元、実弾一発につき二元、六七式軽機関銃一二〇元、実弾一発につき三元、四〇ミリ・ロケット砲が実弾一発五六〇元、六〇ミリ迫撃砲が実弾一発一五〇元、といった具合である。

(注34)王紹光「中国軍隊経商的特点」『留学生新聞』一九九六年一月一日号

(注1)『李登輝総統の言論選集』行政院新聞局、九五年四月、一二三頁

(注2)同上、一五九頁。

(注3)『人民日報』一月三一日付。

(注4)同上、一二三〜一二四頁。

(注5)『週刊朝日』九四年五月六日号。

(注6)台北『中国時報』九五年一〇月一七日。

(注7)前者は『中国国防報』九六年一月七日。後者は『人民日報』九六年一月二六日。

(注8)『解放日報』九六年一月六日。

(注9)『読売新聞』九六年三月六日付、杉山特派員電。

(注10)香港『FEER』誌二月二二日号。