はじめに──中国の軍事力は脅威か

ポストケ小平時代

中国の軍事演習が話題になっている。九五年におこなわれた二回の核実験および台湾海峡でのミサイル実験、さらには南沙・西沙群島での事実上の軍事基地の建設などが日々の新聞をにぎわした。台湾の選挙を牽制するミサイル威嚇は世界中をおどろかせた。八〇年代半ばにケ小平は第三次世界大戦は当面おこらないと断じて、人民解放軍の百万削減を断行し、世界中から歓迎された。これは九一年暮の旧ソ連の崩壊、それを契機とした戦後の冷戦構造の「解体を先とり」するに等しい先見の明であった。

しかし、いま中国はポストケ小平時代をむかえて、国際情勢や世界平和についての認識をあらためたのであろうか。中国は市場経済化によって経済力を身につけ、その経済力に依拠して軍事力を養い、二一世紀には東アジアにおける地域覇権をめざすのであろうか。本書はこれらの疑問にこたえるために、人民解放軍の素描を試みたものである。

本書では、政治闘争の必要のなかで解放軍がいかに育成され、いかに政治のために奉仕してきたか。複雑きわまりない現実政治のなかで解放軍がいかに成長してきたのかを分析することに力点をおいた。

第1章では、人民解放軍が共産党のゲリラ闘争のために生まれ、そのゲリラ闘争のなかから中華人民共和国が建国された過程において、「党と軍」の関係がいかに形成されたかを分析した。

第2章では、解放軍のなかで共産党がいかに指導という名のコントロールをおこなっているのかを「軍中党」について分析し(第1節)、つぎに解放軍の組織を概説した(第2節)。 

第3、4章では天安門事件における解放軍の軍事行動を分析した。戒厳部隊の記録の解読を通じて、一般には市民に対する「無差別発砲」とみられている事件のなかで、将兵たちがどのように行動したのか、その種々相が浮かびあがるであろう。

第5章は、解放軍の行方を一方では海軍、空軍の現代化から接近し(第1節)、ついで国防と経済を論じた(第2節)。

普通の国へ

本書を読まれた読者は解放軍に対していかなる印象を抱くであろうか。私が特に指摘しておきたいのは、いわゆる「中国脅威論」の虚妄性である(注1)。江沢民総書記は一四期五中全会の閉会式で総括講話をおこなったが、これは中国共産党の公式の見解をしめす資料である(注2)。この講話のなかで、江沢民が展開した「十二大関係論」のテーマと毛沢東の「十大関係論」の項目を比較してみると、二つの時代の違いが明瞭にうかびあがる。両者の対比における大きな違いは、国防建設の位置づけである。毛沢東においては、第三番目におかれていたが、江沢民のばあいは、ほとんど最後の一一番目である。世には中国の国防費の増加傾向やミサイル演習に過度の反発を示すむきも少なくないが、冷静に分析すると、国防よりは経済力こそが安全保障のカナメであることを中国指導部が明確に自覚していることがわかる。民の生活を犠牲にしてまで国防費をふやし「社会主義中国」を武力で防衛する時代は、すでにおわっている。守るべき「社会主義」体制はすでにほとんどうしなわれ、中国は市場経済への道を邁進している。旧社会主義の幻影におびえるのは、あまりにも過去を現在に投影しすぎるものというべきである。江沢民論文は、中国指導部がこれから擁護しなければならないのは、中国の人々の生活であること、その貧しい生活を少しでも速く豊かなものにしたいという「普通の国」への願望をのべたものと読むべきである。

いま、中国の願望は「普通の国」になることだと指摘した。しかし、これがむずかしい。なによりもまず、人口が大きい。大きすぎる。このため、一人当たりGNPでは、数百ドルという「貧しさ」であるにもかかわらず、これに一二億人を乗ずると、一挙にGNP大国になり、現在の経済力、国防力水準においてさえも、周辺からは「大国の脅威」と受けとられる。中国はすでに大国であり、その一挙手一投足が東アジア経済というリージョナル世界に対してはむろんのこと、グローバルな世界経済にも大きな影響をあたえはじめている。昨今では、食糧不足のために、米やトウモロコシなどの輸出を禁止し、小麦の買いつけ予約を行ったことが世界の穀物市場にあたえた衝撃をみただけでも、その一端は容易に理解できよう。中国という巨象には、細心の配慮をもって行動してもらわないと世界が大いに迷惑する。国際社会が中国をいかに迎えいれるか、中国はいかにして歓迎されるパートナーになるか、これは大きな課題である。威嚇や恫喝の繰りかえしは、反発をまねくだけであろう。開放経済に仲間いりする以上、なによりも国際協調を重視してほしい。

外交の精神

一九九五年の夏休みのある日、必要にせまられてかつて私自身も編集にくわわった『朝河貫一書簡集』をひもとき読みなおした箇所がある(注3)。私が今回、印象づけられたのは、朝河のつぎの一語である。すなわち「外交とは、相手の精神の理解をとおして、自分の目的を達成すること」(注4)だという発言である。念のために原文を記しておく。

Diplomacy consists in gaining one's point through an understanding of the view of the other party. p.114 

これは外交のイロハであるかもしれない。このようなあたり前の発言に新鮮な衝撃をうけたのは、私が昨今の国際的な「外交不在」現象に危惧と憂慮を感じているからだ。中国の核実験に対して、日本政府は強く抗議した。私は核実験反対を支持しないのではない。問題は反対の論理である。ややもすれば、「唯一の被爆国の立場」が金科玉条視される。しかし(その是非はさておき)日本が侵略戦争をはじめたからこそ原爆投下という帰結があったという因果関係についての批判がありうるし、より現実的には「アメリカの核の傘でまもられている日本に、他国の核実験を批判する資格があるのか」という声へのこたえも必要であろう。「唯一の被爆国」という自己中心的な論理におぼれ、国際社会の現実を理解しようとしない性癖が日本人の骨の髄までしみこんでいるのではないか。そのような日本人が国民感情や世論の名において、外国にものをいうのは内政と外交との区別を忘れたものというべきであろう。外交の本質が朝河貫一の警句のように「相手の精神の理解をとおして」「自分の目的を達成すること」にあるとすれば、これはほとんど外交以前の気休めである、といわなければならない。

中国の核実験強行を台湾問題と結びつけて考えることをおこたり、一方で核実験反対を主張し、他方で李登輝来日を歓迎せよ、と主張する人々は、おそらく「愚に非ざれば誣なり」の徒である。米国がコーネル大学への訪問を認めた以上、アジアに位置し、しかも台湾と深い交流のある日本が同氏を母校京都大学へ招待してなにが悪い、とする主張が日本の一部にみられたので、私は『読売新聞』(注5)でこうコメントした。「これは思慮を欠いた素人談義か、さもなくば歴史と国際政治の現実を忘れた空論であろう。台湾問題に対して米国と日本の立場は決定的に異なる」と。

日本は介入するな

経済的側面では、世界一、二の外貨を誇る台湾の経済力といま離陸をはじめたばかりの大陸の経済とは、相互補完のまことによい関係をむすびつつある。とはいえ、一人あたりのGNP格差はいぜん桁数が違うほどのものである。さらに戒厳令を解除していご、民主化を急速にすすめ、九六年三月にはついに直接選挙によって総統を選んだ台湾と、その実質はさておきいぜん「社会主義」の看板をおろさない大陸との間では政治体制上の垣根がまだ高すぎる。近い将来に政治的統合が可能だとは思えない。とはいえ経済的連携の深まりを考えると経済的土台を無視して台湾の「独立」が現実に可能なのか、また「独立」の必要性の根拠もあらためて問題になるであろう。要するに、現状では、統一も独立もその条件を欠いている。

この課題はつぎの世代、二一世紀に先送りしてなんら不都合はないはずだ。日本人としては台湾問題を語るばあいに、その歴史的経緯を忘れてはなるまい。海峡両岸のトラブルに日本が介入することは、歴史の教訓にてらしても、今日の国際政治の力学からみてもさけるべきだというのが私の主張である。繰りかえすが、「統一でもなく、独立でもなく」、「平和共存をつづけること」───これが内外の諸条件なのである。

このような状況を冷静に認識しつつ、海峡両岸ともそれぞれの「内部事情」から、虚々実々の駆け引きを繰りひろげている形だ。

大陸が計画経済を放棄し市場経済に転換するうえで、台湾の経済発展の成功は大きな牽引力となった。今後はその政治的民主化の成功が大陸全体の民主化の牽引力となるはずだ。つまり、台湾の経済的繁栄と政治的自由は、大陸全体の繁栄と民主化によってこそ最終的に保障できると見なければならない。

ナショナリズムに鼓舞されて人民解放軍はどこへ行くのか。みずからは帝国主義列強からの劣等意識、被害者意識から脱却できない。しかし、列強を除く他の隣人たちからは逆に「脅威」と受けとられているのが人民解放軍の戦力である。意識した劣等感と無意識の大国意識の矛盾交錯するなかで、中国の行方が注目される。それを象徴する存在が人民解放軍にほかならない。