第3章 人民と対峙した解放軍──天安門事件1
第1節 政治過程への軍隊の動員
軍事機密を探る
一九八九年六月四日未明、解放軍正規部隊が民主化を要求し天安門広場ですわりこみをつづけていた学生や市民を排除する行動を展開した。デモ隊側は天安門広場にいたる道路にバリケードを築いて軍の進駐に抵抗した。軍が東西南北の四方向から天安門広場にむけて進撃する過程および天安門広場のすわりこみグループを排除する過程でなにがおこったのか。軍とデモ隊がいかに衝突したのかを分析することが本章のねらいである。
いずこの国でも軍事機密は厚いベールにとざされている。機密の意味を再考してみると、それは敵からの防衛のためにほかならない。しかし、味方に対しては秘密を保持する必要はなく、むしろ情報を知らせるべきである。たとえばどの部隊のどの兵士が敵と最もよく戦ったのか、信賞必罰の対象はどの部隊、どの兵士たるべきなのか──。これらが仮に軍事機密の名において、軍隊内部においてさえ曖昧なままに残されるならば、指導部による恣意的な論功行賞が横行しかねない。そのような軍隊は軍内世論の支持を得ることはできまい。この事実は「軍事機密」が「軍内部における情報公開」と紙一重であることを物語っている。言いかえれば、軍の情報を機密あつかいすることには矛盾があるわけだ。一方で敵に対して機密を保持し、他方で味方に対して情報として知らしめる矛盾である。だから軍事機密としてボカされた情報でさえも、軍内部に視点をおいたものと仮定して解読するならば、真実にせまりうる可能性がある。現代社会主義諸国は基本的に情報支配を権力維持の特徴としており、チャイナ・ウオッチングの目的のひとつは、秘匿された真実を周辺の情報から解読することにある。そのような訓練を心がけてきた者にとって、同じ方法を適用して、軍事情報を解読する試みはたいへんスリリングである。
では、軍事機密として指定されているのはなにか。手もとの『中国人民解放軍軍語』を開いてみると、こう定義してある。「国防、軍隊の安全と利益にかかわる、規定範囲外に公開してはならない事項のこと。たとえば部隊の番号、実力、作戦行動、軍事計画、重要軍事施設などである。その機密度に応じて、絶密、機密、秘密の〔三段階に〕わかれる」(注1)。
ここから明らかなように、「部隊の番号、作戦行動」などは、一般に機密扱いである。したがって解放軍あるいは中国当局の公表資料では、これらの記述はすべて某集団軍、某師団、某連隊、某大隊、某中隊といったように「某」でおきかえられている。しかし、これらの某、某部隊の記録では、武力鎮圧の舞台裏の真実がほとんどみえてこない。そこで公表資料からふせられた某の意味を推定する作業が不可欠である。むろんその試みには一定の限界があるが、しかし、痕跡をたどることによって鎮圧の真相の骨格程度は把握できるはずである。
天安門事件およびそのごの東欧ソ連の激動をみるうえで「情報」の役割は決定的に大きかった。政変劇の陰の主役は情報であり、東欧では情報が独裁権力をたおしたといっても過言ではない。しかし、情報にはまた少なからず「虚報」がふくまれている。ここでは天安門事件の武力鎮圧について情報の虚実を腑わけし、真相をえぐりだしたい。
三八軍に対する学生側の説得活動
通常北京市内の警備は、武警部隊と北京衛戌区部隊によっておこなわれている。では三八軍が最初に動員されたのはいつか。これについては四月二二日説と二五日説と二つの情報がある。長らく胡耀邦の身辺にあった旁旁(筆名)の記録『胡耀邦之死』は、こう記録している。四月二二日午前三時、三八軍の二コ師団の将兵が時間通りに天安門広場に到着した。今日彼らは衛戌区の三コ師団とともに、天安門広場と北京のその他の主要地区の戒厳任務を担当する。毛沢東から「万歳軍」と賞賛された三八軍は、かつて朝鮮戦争で困難な戦いを戦ったことがある。この数日、北京の学生たちが頻々と騒ぎをおこし、警備力が明らかに不足していた。そこで保定に駐屯しているこの虎の子部隊を学生に対処する切札とした(注2)。
ここで三八軍(三八集団軍)について、若干説明しておく。三八軍は林彪が司令員をつとめていた第四野戦軍の虎の子部隊である。とりわけ文化大革命の開始を決定した八期一一中全会(六六年八月)の直前に北京市内に動員された事実はよく知られている。毛沢東は林彪系のこの部隊を動員することによって初めてクーデタの危険をなくし、文革を推進できた(注3)。しかし、この段階では武装警察部隊も三八軍も丸腰の出動であり、威圧や説得の行動に限定していた。武装警察北京総隊、中央警衛団による人民大会堂、中南海警備などがこれに先だっておこなわれていたことはいうまでもない。最初に動員された三八軍に対して学生たちは活発に説得活動をおこなった。その効果もあって生まれた三八軍の消極姿勢あるいは抗命問題について、香港『明報』はつぎのように報じた。「ある学生指導者が昨日〔八九年五月一五日〕昼に天安門広場の放送でこうのべた。四月二七日に入城し学生デモの隊列を阻止するよう命ぜられた解放軍三八軍は、最近中央の命令を執行することを再度、拒絶している。『軍長から兵士にいたるまですべて入城を拒否している』。このニュースは学生を大きく鼓舞している」(注4)。
38軍軍長の抗命問題
五月一七日の戒厳令決定前後に38軍軍長の「抗命」問題が発生した。N・クリストフは、つぎの伝聞を報じた。38軍の司令員は徐海東の息子であったが、彼は四月二七日の出動のさいの学生との小ぜりあいにこりて、もはや再度出動することを拒否した。徐〔勤先〕将軍は38軍の指揮を放棄し、入院した(注5)。
この問題についての最も詳しい情報は「北京軍区のある軍人」署名の「38軍徐軍長の解任経過を記す」と題したビラだ。八九年三月末のある日、38軍徐軍長は新兵に対する手榴弾投擲訓練に立会い、骨折し、北京軍区の陸軍総医院に入院した。四月初めから五月中旬までの四〇数日、徐軍長は医院のテレビで学生運動の発展、ハンストなどをつぶさにみた。五月中旬のある日、38軍軍長は突然北京軍区司令部によびだされ、司令員周衣冰、政治委員劉振華から小平署名の軍事委員会命令書を手わたされた。命令には38軍がすみやかに北京に進撃し、動乱を制止せよとあった。徐軍長は杖をひいて駐屯地〔保定〕へもどり、各級指揮官をあつめて「戦前緊急動員」をおこない、命令はつたえたが、自らは「病のために指揮不可能」として、再び陸軍総医院にはいった。これをきいて楊尚昆が激怒し、北京市朝陽区にある陸軍総医院に自ら署名した軍長解任の命令書をもった保安要員を派遣するとともにただちに身柄を軍事法廷に送検した(注6)。
三八軍軍長の抗命事件はまたたく間に三八軍全体にひろまり、天安門広場の自主放送は五月一五日昼の段階ですでに軍長の入城拒否を放送している(注7)。
戒厳令の目的
軍令違反問題について、楊尚昆は五月二四日の軍事委員会緊急拡大会議でこうのべている。「もどったら党委員会を開き、みなにはっきりと説明されたい。軍隊は連隊級幹部までつたえよ。連隊級幹部が非常に重要だ」「軍隊では命令を執行しなければ、軍法会議にかける」(注8)。
これは事後の情報だが、香港『サウスチャイナ・モーニングポスト』は解放軍の鎮圧拒否問題についてこうつたえた(注9)。
総政治部主任楊白冰が八九年一二月初めにおこなった講話が、現在党内レベルで回覧されている。これによれば、四〜六月の民主化運動鎮圧のさいに師団レベル以上の幹部二一名、連隊・大隊レベル幹部三六名、中隊レベル幹部五四名が「著しく軍紀律に違反し」、兵士一四〇〇名が武器をすてて戦線を逃亡した。約一五〇〇名が軍令に違反したわけである。かりに動員された部隊数が一五万とすれば一%であり、三〇万とすれば〇・五%に当たる。ここで師団レベル以上の幹部とは、軍レベルの軍長、副軍長、政治委員、副政治委員、参謀長、師団レベルの師団長、副師団長、政治委員、副政治委員、参謀長などであるが、それが二一名というのは、かなりの消極姿勢あるいは抵抗勢力とみてよい。抗命事件は戒厳部隊だけではないし、三八軍軍長だけでもない。党中枢においても発生していた。一説によると、中央機関勤務者のなかでデモに参加した者約一万名、署名者約二〇〇〇名、カンパをだした者約二〇〇〇名にのぼる。このうち一八〇名は局長レベル以上の高級幹部であった(注10)。
これらの事実は、総書記趙紫陽を中心とした柔軟路線を支持し、戒厳令による強圧作戦に反対する勢力の大きさをしめしている。
五月一七日の政治局常務委員会決定をふまえて、党中央軍事委員会が戒厳令布告の方針を各軍区に通告したのは、一八〜一九日である。すなわちまず一八日に外出兵士の原隊復帰、待命を命じて、一九日に北京近郊へむけての出発を命じた(注11)。おそらく小平は北京西郊西山の軍事施設にこもり、鎮圧の行方を見守ったものと推定してよい。
動員された部隊数と動員数
中国側公表資料は軍名を基本的に削除しているが、わずかな削除ミスから確認できるのは、済南軍区の54軍、北京軍区の63軍(注12)および38軍、27軍(注13)だけである。
『解放軍報』など公表資料から以下の表記を確認できる。河北省駐屯軍四コ軍、山西省駐屯軍一コ軍、北京衛戌区、天津警備区(以上、北京軍区)、遼寧省駐屯軍二コ軍、黒竜江省駐屯軍一コ軍(以上、瀋陽軍)、河南省駐屯軍二コ軍(済南軍区)、江蘇省駐屯軍一コ軍(南京軍区)、湖北省駐屯空挺軍(広州軍)。計一二コ軍プラス二部隊である。ここから駐屯地をキーワードにして軍名を推測すれば、今回の戒厳令を執行すべく動員された部隊は北京周辺の瀋陽軍区や済南軍区にかぎらず、南京軍区や広州軍区所属の部隊まで動員したことがわかる。これについては1)責任を分散させるための政治的要請。2)軍隊の忠誠心欠如をうたがい、各部隊を相互に牽制するために、故意に各地の部隊を出動させたもの、とする二つの見方がおこなわれている。戒厳令布告直後に到着したのは、38軍(保定)、27軍(石家荘)などだ。これらは五月一九日夜一〇時ごろから続々と五松周辺に結集しはじめた。
38軍VS27軍抗争の幻影
喧伝された38軍、27軍の衝突問題については、『北京周報』がこう解説した。「27軍の駐屯地と38軍の駐屯地はあまり遠くはなれておらず、両軍の関係はきわめてよい。このたび北京に入城して戒厳任務を遂行するにあたり、両軍とも軍令を厳守し、時間どおりに進撃した。天安門広場の整理は、この部隊が共同で実施した。反革命暴乱平定で初歩的勝利をおさめたのちこの二部隊はまた共同で北京中心部の戒厳任務にあたり、他の部隊とともに首都の正常な秩序の急速な回復を保証した」(注14)。
では、なぜ38軍、27軍対立説がながれたのか。いくつかの理由がある。38軍が出動を躊躇していた五月末までの段階で、市内の重点警護目標を警護していたのは27軍であり、ここから学生たちは38軍は学生に同情的、27軍は保守派側の道具にすぎないとする構図を作りあげた。そして切なる期待をもって、38軍の全軍的抗命を幻想した。この幻想にもとづいて六・四鎮圧を解釈したものに六月五日夜七時づけの北京大学伝単、「大屠殺の下手人27軍」と題したガリ版刷りのビラがある(注15)。
ビラの作者は西線からの部隊が第一梯隊=27軍、第二梯隊=28軍、第三梯隊=38軍からなると認識していたごとくである。実際には最も激しく発砲した第一梯隊は38軍なのであった。