『日中経済協会会報』1989.11------38-46

統計分析を経済政策に反映させた経済学界の長老・薛暮橋

薛暮橋は現代中国を代表する経済学者といって差し支えない。文革期に「反動的学術権威第一号」として攻撃されたことは有名だが、その活動歴の長さ、人脈の大きさ、ベストセラー六五〇万部の記録、監獄大学出身という経歴、これらのどれ一つをとっても怪物性を示すに十分である。私自身はこれまで、その理論的一貫性のゆえに従兄弟の孫冶方を高く評価し( たとえば『日中経済協会会報』●●年●月号) 、その分だけ薛暮橋を冷たく見てきたが、中国経済そして経済学界への影響力の大きさという点では、薛暮橋を避けて通ることはできない。

天安門事件以後の北京の冬のなかで、多くの改革派が沈黙しているが、さすがにこの大家ともなると、無傷であるらしく、国慶節直前の『経済日報』[107 ]に興味深いものを書いている(邦訳●●頁)。

大家だけに、その経歴を紹介したものも[16][17][18]の三種類ある。探せばほかにもいろいろある。たとえば『中華人民共和国資料手冊』などである。ここでは最も詳しいプロフィールを描いている[17]呉凱泰の記述に依拠しながら、彼の足跡をたどってみよう。

薛暮橋の本名は薛雨林である。一九〇四年一〇月二五日、江蘇省無錫県の小さな町──礼社鎮に生まれた。無錫は二〇世紀前半に「小上海」と呼ばれるほど経済の発展した町であり、その土壌のゆえに薛暮橋や孫冶方のような経済学者たちが輩出した。

薛暮橋の祖先は無錫県の名望家だが、彼の父親の代に破産してしまった。彼の父は学校を経営したり、商業に従事したりしたが、負債が累々となり、ついに首吊り自殺の悲劇に見舞われた。家が零落したので、薛暮橋は初級師範学校を三年まで学んだだけで休学した。生活のために鉄道に就職し、「練習生」となった。一九二六年には杭州筧橋駅の駅長になった。二二歳のときである。

当時は国内革命戦争(いわゆる北伐)がピークであり、鉄道労働者の運動は革命運動のなかで中心の一つであった。北伐軍が杭州に入る前夜、薛暮橋は全国総工会代表と連絡がとれ、一九二七年には上海・杭州・寧波鉄路工会籌備委員会に参加した。労働組合が成立するや彼は常務委員、組織部長に選ばれ、中共杭州地区委員会工人部長を担当した。上海・杭州・寧波鉄路工会は北伐軍の進軍と上海労働者の武装闘争のなかで大きな役割を果たした。まもなく蒋介石の四・一二クーデタが発生し、彼は工会のその他の常務委員とともに逮捕され、杭州市の「陸軍監獄」に投獄された。

同獄の張秋人(浙江省委員会書記、処刑)の意見にしたがって、薛暮橋は三年の獄中生活のなかで、レーニン『国家と革命』、河上肇『経済学大綱』『資本主義経済思想史』『世界史綱』などのほか、エスペラント語と英語を学習した。薛暮橋の多くの知識は監獄で学んだものである。

一九三〇年末、薛暮橋は満期で釈放された。彼は郷里に帰り、小学校の教員となった。ついで陳翰笙〔一八九七〜 〕の指導する中国農村経済調査研究の仕事に参加した。陳翰笙は一九二九年から蔡元培の求めに応じて中央研究院社会科学研究所を主宰していた。当時中国社会の性質の問題、とりわけ中国農民の土地問題が理論界の注目の的であり、マルクス主義者とトロツキー派との間で先鋭な論争が行われていた。論争の焦点は、中国社会は半植民地・半封建社会であるのか、それともすでに資本主義社会であるのか? 反帝反封建の民主革命は継続すべきかやめるべきか? であった。中国共産党は新民主主義革命を堅持し、主な勢力を農村に移し、農民を指導して土地革命を行った。しかし社会にはさまざまな改良主義そして解消主義(原文=取消主義)の謬論が氾濫していた。

陳翰笙は社会科学研究所という合法的な陣地を利用して多くの青年を組織し、農村経済調査を行った。薛暮橋、孫冶方は相次いでこの工作に参加した。薛暮橋は調査した資料に基づいて処女作「江南農村衰弱の縮図」を書いて、帝国主義の侵略と封建的搾取によってもたらされた農村衰弱の事実を描き、『新創造』に発表した。まもなく日本の『改造』がこれを翻訳した。

一九三三年初め、社会科学研究所は国民党当局の圧力のために解散を余儀なくされた。彼らは中国農村経済研究会を組織して、工作を続けた。まもなく薛暮橋は陳翰笙の紹介で広西省立師範専科学校の教師となった。この際に仕事の必要上、薛雨林を薛暮橋と改めたのであった。

広西省立師範専科学校は一九三二年に創立されたが、当時桂系では反蒋介石ムードが強く、進歩的ポーズをとり、人心を籠絡しようとしていた。一九三三年に楊東〔クサカンムリに純〕が校長となったが、彼は李大の学生であり、初期の中共党員であった。彼は合法的身分を利用して朱克清、薛暮橋らを招いたのであった。薛暮橋はクラス主任〔原文=班主任〕を担当し、政治経済学と中国農村経済問題を講義し、また学生をつれて農村調査にでかけた。『広西農村経済調査』はこうして書かれた。一九三四年に楊東〔クサカンムリに純〕が校長を辞退し、朱克清、薛暮橋らも追放された。

一九三四年夏、中国農村経済研究会の主なメンバーは陳翰笙の呼びかけで上海に集まり、『中国農村』月刊の出版を決定した。同時に中国経済情報社と新知書店も創立した。ここに結集した革命青年たちは「読書会」「左翼文化総同盟」の指導下に工作し学習することになった。彼らは『中国農村』『中国経済情報』『中華日報』の副刊などを主な陣地として活動した。

『中国農村』は薛暮橋主編、対外的には孫暁村、呉覚農、馮和法が代表となった。『中国農村』の多くの文章は『中国農村社会性質論戦』として新知書店から出版され、少なからぬ影響を読者に与えた。『中国農村』はまた梁漱溟を代表とする「郷村建設」運動を改良主義として批判し、『中国郷村建設批判』を新知書店から出版した。『中国農村』はまた当時の上海で最も著名な一〇種近くの抗日救国の出版物として活躍した。一九四二年の整風運動に際して薛暮橋は経験を総括して劉少奇に手紙を書いた。劉少奇は彼らの工作と戦略を高く評価した(『中国農村論文選』人民出版社、八三年所収)。当時の薛暮橋の論文としては「中国の農村経済をいかに研究するか」「中国農業の生産関係の検討」「郷村工作の理論と実践」などがある。これらをまとめて薛暮橋は『中国農村経済常識』(三七年一月、新知書店)を出版した(半年後に邦訳『支那農村経済概論』が出た。八〇年三月に中国語復刻版刊行『旧中国的農村経済』)。同時に姉妹編『農村経済的基本知識』も新知書店から出版した。

一九三八年一〇月、薛暮橋は新四軍軍部の所在地皖南〔サンズイに経〕県に移った。彼は軍部教導総隊の訓練処副処長になり、政治教育工作を二年間主宰した。一九四一年国民党は皖南事変を起こした。事変の二カ月前非戦闘人員三〇〇〇余人は蘇北塩城県の新四軍新軍部に移ったが、薛暮橋は第二グループのリーダーとして北へ行った。蘇北では抗日軍政大学五分校、抗日軍政大学華中総分校の訓練部長を務めた。講義のために彼は『中国革命の基本問題』『政治経済学』の二冊の教材を書いた。後者はまもなく上海と香港で公開発行された。

一九四二年冬国民党の掃討のため、軍部は学校の一時停止を決定した。薛暮橋は数十名の知識人幹部とともに、延安へ向かった。しかし薛暮橋は中共山東分局書記朱瑞と羅栄桓の求めにより、一九四七年までの五年間を山東解放区にとどまった。この間に山東戦時工作委員会(省政府)委員、山東分局政策研究室主任、省工商局局長、省政府秘書長、実業庁長などを歴任した。一九四七年春、中央は華北各解放区財経工作会議を開いた。薛暮橋は華東解放区代表団団長として、山東解放区の経済工作を紹介した。これが『抗日戦争時期和解放戦争時期山東解放区的経済工作』(一九七九年人民出版社簡約版、一九八四年山東人民出版社増訂版)である。

一九四七年下期に中央は華北各解放区財経聯合弁事処をもうけ、董必武が主任となり、四解放区から副主任を一人ずつ出した。薛暮橋は副主任兼秘書長を務めた。この組織は四八年に中央財経部に改組された。四九年二月北京が解放されると、薛暮橋は軍とともに入城し、新中国の誕生を迎えた。

一九四九年夏、中央財経部は中央財経委員会(政務院成立後は政務院財経委員会)に改組され、陳雲主任のもとで薛暮橋は秘書長として留任し、私営企業局局長の職務を兼任した。一九四九年から五〇年初めにかけて、値上がりのうねりが四つの波として押し寄せた。このため中央財経委員会にはたくさんの仕事があった。一九五〇年三月、決定的な措置として全国財経工作を統一し、財政赤字をなくし、通貨膨張と物価値上がりを収束させた。薛暮橋は秘書長および企業局長として大奮闘した結果、病いを得て、一九五一年春入院した。半年の治療を経て、健康を回復したが、秘書長の工作はムリだったので、辞職した。その後、一九五二年に国家計画委員会と国家統計局が成立するにともない、国家計画委員会委員、副主任、国家統計局局長に就任した。

薛暮橋は第一代の国家統計局局長(任期は一九五二〜五八年)として、全国統計機構の整備のために大活躍した。彼はこう述べた。「統計工作は計画工作の基礎である。もし正確な統計数字がなければ、正確な経済計画を制定することは不可能であり、計画の完成情況をタイムリーに検査することも不可能である」。数年の努力を経て、中央から地方に至るまで、基層企業に至るまで統計機構が整備され、数万の新中国第一代の統計工作者が養成された。

当時はソ連の統計制度を借用したが、これについて彼は、ソ連の制度をそのまま持ち込むべきではない。煩瑣な統計報告は単純化すべきだと主張した。また定期統計類も乱発するのではなく、これらと重点調査、サンプル調査、典型調査を併用するよう主張した。国家統計局が統計資料の収集だけでなく、分析も行うべきか否かについては議論があったが、薛暮橋は分析の任務も担うべしとした。これは中国の国家統計局のよき伝統となった。 一九五八年に中央に財経小組が成立した。薛暮橋は統計局を離れ、中央財経小組弁公室勤務となり、国家経済委員会副主任も兼ねた。当時は大躍進期であり、中国共産党内は極左路線で支配されていたが、薛暮橋もその影響を受けた論文を書いた。これについては『社会主義経済理論問題』[六]の前書きでこう自己批判している。「私の多くの文章も、当時の時代思潮の影響を受けないわけにはいかなかった。……読者が批判的態度で研究されるよう希望したい」。

一九五九年の廬山会議の前夜、彼は数人の同志とともに「一年来の大躍進から経験教訓を吸収する」(内部報告)を書いて、主な欠点として七カ条の意見を提起した。1)速度のみを重視すべきではない。比例を重視すべきである。2)多く速く〔原文=多快〕のみを重視して、立派にムダなく〔原文=好省〕を重視していない。3)主観的需要のみを重視して、客観的可能性を重視していない。4)重点突出のみを重視して、全面的に配慮していない。5)人間の主観能動性のみを重視して、経済発展の客観的法則を重視しない、などである。これらの意見の詳細は未公表であるから、不明であるが、後の「反右傾闘争」の際に、批判されたことからすると、率直な問題提起であったと推測される。

一九六〇年末、大躍進が挫折し、国民経済は調整を余儀なくされた。李富春の指導のもとで、薛暮橋は国民経済調整の建議の起草に参加した。周恩来はこれを高く評価して、修正補充して「調整、強固、充実、提高」の八字方針にまとめ、全国で執行させた。調整期の五年間、薛暮橋は中央財経小組の秘書として、政策文件の起草に参加した。

一九六一年中央の指導的同志〔呉凱泰がなぜ実名を挙げないのか不明。劉少奇か〕が薛暮橋に物価問題を研究するよう指示して、翌六二年に国家物価委員会主任に任命した。一九六二年から六五年まで彼は物価安定工作に従事した。一九六二年に開かれた全国第一次物価工作会議で、彼は物価工作農業任務は第一に安定、第二に調整であると強調した。第二次全国物価会議(六四年初め)までには国民経済は好転していたので、彼は「安定を主とする」段階から「安定と調整を並行させる」段階へ転換を示唆した。六四年末に第三次全国物価会議が開かれたが、ここでは物価安定を踏まえて、物価調整の任務を提起している。薛暮橋の指導のもとで、国家物価委員会は第三次五カ年計画期の全面的物価調整構想を策定したが、文化大革命の発生により、物価調整工作は中断した。

建国から文革までの一八年間に、薛暮橋は経済工作の指導的役割を果たすなかで、たくさんの論文を書いた。共著『中国国民経済の社会主義的改造』[五]は五六年冬から五七年初めに書かれ、五九年六月人民出版社かさ出版された。

『社会主義経済理論問題』[六]は七九年四月に人民出版社から出版されたが、建国から文化大革命までの十数篇の論文と二篇の「内部発言」を収めたものである。これらの論文は、中国の所有制の社会主義的改造、計画経済、商品生産、価値法則、価格政策、労働に応じた分配などを扱っている。「論文で提起された観点は、今日の基準で評価すれば、不足のところが少なくないし、若干の誤りさえある。しかし当時は、かなりの程度、わが国の多数の経済学者の共通の見解を反映したもので、一定の代表性がある。そこで、わが国の経済学界の“主流派”経済思想の発展過程をある程度まで反映している」とは呉凱泰の評価[17]である。

「経済学界の主流派」という表現は、薛暮橋の役割の評価としてまことに適切なコメントであると思われる。

一九五三年、中国の第一次五カ年計画が始まった頃から国営経済だけが計画的比例的発展の法則の支配を受ける。国家計画はその他の経済セクターには及ばず、小商品生産は価値法則の支配を受ける。私営資本主義工商業は価値法則と剰余価値の法則の支配を受けるとする解釈が広く行われた。これはスターリンの『ソ連における社会主義の経済的諸問題』のテーゼを中国に適用しようとしたものである。

これに対して薛暮橋は「農産物の生産に対しても国家は価格政策を通じて計画的調節を行い、価値法則を利用して小商品生産を国家計画の軌道に入れることができる」とした。また資本主義工商業に対しても、国家は加工発注、代理販売、価格の正確な掌握によって資本家に合理的利潤を与えることなどによって、国家計画の要求にしたがって、生産と経営を要求できるとしていた([20]「価値法則の中国経済における作用」『社会主義経済的理論問題』一二〜一九頁)。これはスターリンのテーゼを踏まえつつ、いくらか価値法則の適用範囲を拡大しようとしたものであろう。

一九五七年に全国でソ連流の計画管理体制が実行されるや、薛暮橋は通説に与するようになったが、計画経済のなかでも価値法則が重要な役割を果たす、計画管理には価値法則を利用しなければならないという点は堅持していた。この点では薛暮橋は従兄弟の孫冶方と同じ立場であったごとくである。

曰く「社会主義国家が計画価格を制定するときには、商品の価格を価値にあわせるほかに、全国的かつ長期にわたる需給状況を考慮し、価値法則の役割を適当に利用しなければならない。国家はある種の農産物の買付け価格を高くしたり、安くしたりして農産物の生産と買付け数量に影響を与えることができる。国営企業の生産する商品に対しても、時には価格を適当に調整して増産節約の目的を達成することができる」と([32]「価値法則とわれわれの価格政策」『社会主義経済理論問題』所収)。

一九六六年に文化大革命が発生するや、薛暮橋は「中国のフルシチョフの経済顧問」「経済学界の反動的学術権威第一号」「修正主義統計学の元祖」などと批判され、牛小屋のようなところに「隔離審査」された。この間に彼は二〇年代の獄中生活と同じく、『資本論』『マルクス・エンゲルス選集』『レーニン選集』『毛沢東選集』などを読んだ。実は一九五六年に党中央宣伝部は薛暮橋に対して『政治経済学教科書(社会主義篇)』を書くよう依頼していたが、六八年以来の牛小屋と幹部学校のなかでようやく時間を見出し、第二稿まで書いた。七二年に幹部学校を終り、北京にもどってから七六年までの八年間に六回稿を改めたが、満足できるまでに至らなかった。「当時、私は社会主義経済問題に対するスターリンの若干の形而学思想の束縛から脱却できず、極左の観点の影響を受けていたうえに、林彪、江青反革命集団の妨害を受けて、タブーが多すぎたために、終始完成できなかった」と述懐している。

「四人組」粉砕直後の二年間、薛暮橋は国家計画委員会経済研究所顧問のポストを与えられただけであった。まだ完全復帰するに至らなかった。その後、国家計画委員会顧問と同経済研究所所長となった。

一九七八年初めに、薛暮橋は国家計画委員会経済研究所が農業問題を研究の重点とするよう提起して、過去二〇年間の食糧生産の伸びと人口の伸びが等しいこと、都市人口の膨張のために、大多数の農民の口糧が依然不足していると分析し、「大寨に学ぶ」方式では農業問題を解決できないと指摘している。

真理の基準論争に際しては、五八年以来の正負の経験教訓を総括するよう提起し、国家計画委員会経済研究所に対してそれを呼びかけた。しかし経済研究所の同志は躊躇していたので、小平同志に手紙を書いて、大躍進のタブー扱いを解禁するよう訴えた。

一九七九年三月には「実践の経験に基づいて二〇数年の経済工作を回顧する」(未公表)という「内部文件」を書いて、大躍進の誤りを批判した。これを胡耀邦に送ったところ、胡耀邦は中央党校の理論雑誌『思想動態』に発表した。

一九七八年末に、一一期三中全会が開かれたことを喜んで、薛暮橋は理論務虚会(一九七九年四月)で自己の意見を明確に述べ、さらに『中国社会主義経済問題研究』[七]を書いて、中国三〇年来の経験を総括した。これは数人の同志の協力を得て、三カ月で書き上げたもので、かねての『政治経済学教科書』執筆の宿願を果たしたものである。しかし教科書とは違って、理論の整合性を求めることはせず、ひたすら中国の経験の総括に努めたものである。これは当初五万冊印刷さたが、評判がよかったので、人民出版社は三〇〇万冊増刷した。省レベルの増刷を加えると六五〇万冊に達する。たいへんなベストセラーである。このほか英、日、フランス、ドイツ、セルビア語版も出た。八一年の再版に続いて、八二年に大改定が行われ、八三年一二月の改定では改定部分が三分の二に及ぶほどの大改定となった([17]「伝略」二五六頁)。これを薛暮橋の代表作と見てよいと思われる。老大家として書き、しかもそれがミリオン・セラーとなったのであるから。

一九七九年六月、国務院財経委員会が経済体制改革研究小組を成立させると、彼はこれに参加した。八〇年五月、国務院に経済体制改革弁公室が設けられると、彼は顧問となった。同年七月、趙紫陽のシンクタンク国務院経済研究中心が成立するや総幹事となった。八二年に国家経済体制改革委員会が改組されたとき、顧問となった(主任趙紫陽総理兼任)。八五年初めに国務院経済研究中心、技術経済研究中心、価格研究中心が改組されて国務院経済技術社会発展研究中心となったとき、薛暮橋はすでに八〇歳を超えていたが、名誉総幹事となった。彼はさらに全国人民代表大会代表、同常務委員も務めている。

薛暮橋は中国共産党とともに歩み、党員経済学者として一貫して重要なポストを歴任してきたが、経済学者としての彼の功績を評価する際に、どこで評価すべきであろうか。国家統計局の初代局長として、統計制度の整備に努力したことがその一つである。もう一つはこれらの統計数字をの分析を通じて、経済政策を論じる作風を打ち立てたことではないだろうか。この意味では、官庁エコノミストの代表格である。彼は経済の現実を重んじたので、時に理論的にスジの通らない主張も少なくなかったが(それゆえ私がかつて過少評価していたことは冒頭に書いたが)、複雑な中国の現実のなかで、インフレ対策、価格政策などに取り組むには、理論的整合性よりも、現実性が必要だった。薛暮橋はまさに監獄大学で、革命運動の実践のなかで経済学を学んだだけあって、現実を見つめる鋭い視点をもっていた。それが彼の魅力であろう。

薛暮橋の著作および関連著作

[一]『中国農村経済常識』上海新知書店、一九三七年

[二]『農村経済的基本知識』上海新知書店、一九三七年

[三]『政治経済学(通俗本)』上海新知書店、一九四〇年

[四]『思想方法論和学習方法』新華書店、一九四六年(日本語訳あり)

[五]『中国国民経済的社会主義改造』蘇星、林子力と共著、人民出版社、一九五九年(日本語訳あり)

[六]薛暮橋『社会主義経済理論問題』人民出版社、一九七九年四月

[七]薛暮橋『中国社会主義経済問題研究』人民出版社、一九七九年一二月

[八]汪海波「現実的意義をもつ経済の著作──薛暮橋の新著『中国社会主義経済問題研究』を紹介する」『人民日報』一九八〇年二月二一日

[九]蘇星、呉凱泰、余学本、何建章共著『介紹《中国社会主義経済問題研究》』北京三聯書店、一九八三年六月

10]『当前我国経済若干問題』人民出版社、一九八〇年一〇月

11]『我国国民経済的調整和改革』一九八二年一一月

12]『抗日戦争時期和解放戦争時期山東解放区的経済工作』山東人民出版社、一九八四年

13]『中国農村論文選』人民出版社、一九八三年

14]『薛暮橋経済論文選』人民出版社、一九八四年、内部発行(未見、『中国当代経済学家伝略』二六六頁による)

15]『薛暮橋統計論文集』中国統計出版社、一九八六年一〇月

16]邱健「薛暮橋──勇んで探索し創造した人」『中国当代社会科学家(第一輯)』書目文献出版社、一九八二年五月

17]呉凱泰「求実と謹厳のマルクス主義経済学者──薛暮橋伝略」『中国当代経済学家伝略(一)』『経済日報』主編、遼寧人民出版社、一九八六年五月

18]「薛暮橋」『当代中国経済学家録』劉志南、張建民主編、広東人民出版社、一九八八年七月所収

19]*「三年来の中国経済戦線での偉大な勝利」『学習』五二年七期

20]*「価値法則の中国経済における作用」『学習』五三年九期

21]*「計画経済と価値法則を再論する」『計画経済』五七年二期

22]*「社会主義生産関係の内部矛盾」『学習』五七年九期

23]*「国家建設と人民生活の統一的安排」『学習』五八年三期

24]*「社会主義経済の高速度発展と比例発展」『人民日報』五九年一月七日

25]*「社会主義制度下の商品生産と価値法則──経済理論討論会上海会議での発言」五九年四月一四日

26]*「客観的経済法則と人間の主観能動性」『前線』五九年五期

27]*「わが国国民経済の社会主義的改造」『人民日報』五九年九月一七日

28]*「社会主義経済をいかに認識するか」『新建設』五九年一〇期

29]*「社会主義社会の労働に応じた分配」『人民日報』五九年一〇月二三日

30]*「社会主義経済理論における若干の重要問題」『政治経済学研参資料』六〇年七六期

31]*「社会主義の経済計算について」『紅旗』六一年二三期

32]*「価値法則とわれわれの価格政策」『紅旗』六三年七〜八期

33]*「われわれの理論研究工作水準を高めよう──《実践論》の感想」『大公報』六四年六月一九日

34]*「物価安定とわれわれの貨幣制度」『経済研究』六五年五期

35]*「社会主義社会の商品」『新建設』六五年六期

以上*印は『社会主義経済理論問題』[六]所収。

36]‡「わが国の社会主義革命と社会主義建設」

37]‡「生産手段所有制の社会主義改造」

38]‡「二種類の生産手段公有制(全人民所有制、集団所有制)」

39]‡「社会主義社会の労働に応じた分配制度」

40]‡「社会主義制度下の商品と貨幣」

41]‡「価値法則とわが国の価格政策」

42]‡「社会主義経済の計画管理」

43]‡「社会主義国家の経済管理体制」

44]‡「国民経済の社会主義現代化」

45]‡「階級闘争と人民内部の矛盾」

46]‡「社会主義経済発展の客観的法則の研究と運用」

以上‡印は『中国社会主義経済問題研究』[七]所収

47]†「経済工作は経済発展法則を掌握すべし」国家経済委員会企業管理研究班での報告、七九年三月一四日

48]†「国民経済の総合バランス」中央党校における報告、七九年七月一一日

49「刻苦創業三〇年」『紅旗』七九年一〇期

50]†「経済工作のいくつかの問題」遼寧幹部大会での報告、七九年一一月二七日

51]†「中国式現代化の道のいくつかの問題について」北京市委員会党校での報告、七九年七月

52]†「価値法則を利用して経済建設事業に服務させる」商業部、供銷合作総社報告会での講話、七八年一〇月一九日

53]†「社隊企業の問題について」

54]†「労働賃金問題を語る」全国賃金制度改革座談会での講話、七九年三月二四日

55]†「都市労働就業問題についてのいくつかの意見」『北京日報』七九年七月一八日[56]†「国民経済調整においては生産の道を広く求めよ」『人民日報』八〇年二月八日[57]†「工商行政管理の直面する新情況と新任務」全国工商行政管理局長会議での講話摘要、八〇年三月一五日

58]†「物価調整と物価管理体制の改革について」八〇年七月五日

59]†「生産の情勢はよいのに、なぜ財政赤字になるのか」『人民日報』八〇年九月二日

60]†「経済体制改革の問題についての探求」『経済研究』八〇年六期

61]†「経済体制改革についての若干の意見」『人民日報』八〇年六月一〇日

62]†「経済構造と経済体制の改革」『紅旗』八〇年一四期

63]†「計画調節と市場調節」『経済管理』八〇年一〇期(『紅旗』八一年一期に再論あり)

以上†印は『当前我国経済若干問題』[10]所収

64]§「経済構造と経済体制の改革・再論」中央党校での報告、八〇年一二月

65]§「国民経済を調整し、総合バランスをはかれ」国民経済総合バランス理論問題討論会での講話、八一年一月一四日

66]§「当面の経済情勢に対する若干の見方」中央直属機関幹部への書面報告、八一年三月

67]§「調整と改革の関係をいかに正しく処理するか」全国工業管理体制改革座談会での講話、八一年三月

68]§「現段階の国民経済の調整」中央党校での報告、八一年六月一九日

69]§「経済管理体制改革にはいくつかの問題を解決する必要あり」八一年一一月

70]§「計画経済と市場調節の関係について」八二年三月

71]§「調整の任務を完成し、国民経済の根本的好転を勝ちとろう」国家経済委員会、全国総工会第一三期企業管理研究班での報告、八二年三月

72]§「経済管理体制改革の理論問題についての討論」経済管理体制改革理論問題討論への動員報告会での講話、八二年五月四日

73]§「価格学会は物価騰落の客観的法則を真剣に研究せよ」中国価格学会成立大会での講話、八〇年一二月二三日

74]§「銀行工作に対する若干の意見」中国人民銀行全国分行行長会議での講話、八一年一月

75]§「マクロ経済から見ていかに経済効果を向上させるか」経済効果理論問題討論会での書面発言、八一年三月

76]§「社会主義経済制度の優越性を論ず」八一年七月

77]§「農業経済学の科学的水準を向上させよ」全国農業経済教学研討会での書面発言、八一年八月

78]§「マクロ経済から見ていかに経済核算を強化するか」八一年九月

79]§「実際から出発して、流通領域の経済効率を高めることを深く研究せよ」中国商業経済学会成立大会での書面発言、八二年五月三〇日

80]§「中国経済発展の新たな趨勢」香港《中国経済発展新趨勢》討論会での講話、八〇年一〇月八日

81]§「香港《中国経済発展新趨勢》討論会での総括発言」八〇年一〇月九日

82]§「投資を圧縮して、需給不一致を解決できるのはなぜか」杭州世界経済討論会で『世界経済導報』と香港『経済導報』の記者に答える、八一年三月

83]§「中国の目前の経済情況」東京朝日ホールでの講話、八一年五月八日

84]§「中国経済の最近の動向」箱根中日経済知識交流会での発言、八一年五月一〇日[85]§「計画経済と市場調節」中日経済知識交流会第二次年会での発言、八二年五月三日

以上§印のものは『我国国民経済的調整和改革』[11]所収。

86]♯「大規模経済建設に呼応し、科学的統計制度を樹立しよう」第二期全国統計工作会議での総括報告、五二年一二月

87]♯「国家統計局の二大任務」国家統計局機関全体人員大会での報告、五三年四月一〇日

88]♯「数量を減らし、質を高め、重点を掌握し、穏歩前進しよう」大区、個別省市統計局長座談会での発言、五三年五月一八〜二四日

89]♯「統計報告書式の原則、方法、審査制度を整頓せよ」中央財経、文教、政法部門、人民団体統計報告書式整頓会議での講話、五三年九月一二日

90]♯「農業統計工作報告要綱」全国農業統計工作会議での講話、五三年一〇月一七日[91]♯「私営工商業統計工作の任務と調査方法」私営工商業統計工作会議での講話、五三年一一月九日

92]♯「統計工作は重点を掌握し、穏歩前進すべきである」第三期全国統計工作会議での報告、五四年二月

93]♯「統計資料の質を大いに向上させよ」第四期全国統計工作会議での報告、五五年二月

94]♯「総合統計工作への意見」第一次全国総合統計工作会議での報告、五五年四月

95]♯「全国私営商業および飲食業センサスの必要性と基本的やり方」全国私営商業および飲食業センサス工作会議での総括報告、五五年七月二一日

96]♯「今後の統計工作における若干の重要問題に対する意見」一五省市統計局長座談会での講話、五五年九月

97]♯「統計工作の三つの側面」第五期全国統計工作会議での報告、五六年二月

98]♯「基本建設の統計工作をいかに強化し改善するか」全国第一次基本建設工作会議での発言、五六年三月

99]♯「目前の経済情勢と統計工作」国家統計局機関全体幹部大会における報告、五七年二月一六日

100 ♯「購買力と商品のバランス問題」国家計画委員会副主任、国家統計局局長としての購買力計算方法研究会議での報告、五七年六月

101 ♯「農業統計工作を大いに改善すべし」全国農業統計工作座談会での報告、五七年一〇月

102 ♯「第一次五カ年計画期のわが国統計工作の初歩的経験と今後の任務」第六期全国統計工作会議での報告、五九年九月

103 ♯「統計理論におけるいくつかの重要問題」中国人民大学統計系における報告、五九年

104 ♯「世界各国統計工作の新成果をわが国の統計工作に応用せよ」中国統計学会名誉会長に当選後、第一期理事会第二次常務理事会議での講話、八〇年二月五日

105 ♯「われわれの統計工作をよりいっそう向上させよ」《中国統計年鑑》出版に際して、『統計月刊』のために書いた評論、八三年二月

105 ♯「わが国の統計工作は新たな発展段階に入る──《統計法》の施行を賀して」八四年二月

106 ♯「工業センサスを必ず立派にやろう」全国工業センサス会議での講話、八五年一〇月一六日

以上♯印のものは『薛暮橋統計論文集』[14]所収。

107 「刻苦創業の40年」『経済日報』1989年9 月29日

109 薛暮橋『我国物価和貨幣問題研究』紅旗雑誌社刊

薛暮橋『改革与理論上的突破』一九八八年一〇月、人民出版社( 以下の1 〜26を所収)

[一]マルクス主義という科学を不断に前進させよ(原載は『人民日報』八七年三月二〇日)

[二]中国的特色をもつ社会主義の建設において必須の道(原載は『経済日報』八七年三月五日)

[三]マルクス主義の史的唯物論を用いて中国的特色をもつ社会主義を研究しよう(原載は『瞭望』八七年一一期

[四]教条主義の動脈硬化モデルを破壊しよう(原載は『人民日報』八七年一二月七日)[五]計画経済と商品経済、計画調節と市場調節(原載は『改革』八八年一期) 

[六]計画工作は商品交換と価値法則を基礎として樹立せよ(原載は『経済研究』八八年三期)

[七]生産手段の公有制の発展と変化(原載は八六年一月執筆)

[八]わが国生産手段の所有制の変化(原載は『経済研究』八七年二期)

[九]社会主義国有財産を真剣に管理せよ(原載は『経済日報』八七年一〇月二四日)

10]わが国経済体制改革の回顧と展望(原載は『経済日報』八六年一月二五日)

11]経済的方法を用いてマクロ・コントロールを強化せよ(原載は『論宏観経済管理』)

12]伝統を受け継ぎ、穏歩前進しよう(原載は『中国経済年鑑一九八六』の序文)

13]商品交換を促進し、市場の役割を拡大せよ(原載は『物資管理』八六年一期)

14]金融事業を発展し改革せよ(原載は『金融研究』八五年一一期)

15]国民経済のマクロ・コントロールにおける銀行の役割(原載は『金融時報』八七年五月八日)

16]わが国の六年来の物価と人民生活の変化(原載は『人民日報』八五年一二月一六日)

17]物価の構造的調整とインフレ(八五年価格学会総会における書面発言)

18]物価の宣伝工作の重要性(原載は『人民日報』八七年五月一一日)

19]消費者の利益を断固として保護せよ(八六年五月陝西省消費者協会成立大会の講話)

20]中国はいかに社会主義の道を歩むか(原載は『紅旗』八七年一一期)

21]『中国社会主義経済問題研究』改訂版日本語訳への跋(原載は『経済研究』八六年一〇期)

22]九年来の改革と理論上の突破(高尚全『九年来的中国経済体制改革』の序文)

23]偉大なマルクス主義劉少奇同志を思う(八七年一二月)

24]周恩来同志の経済指導思想(八七年一二月)

25]『陳雲文選』第二巻を読んだ体得(原載は『紅旗』八四年一五期)

26]『陳雲文選』第三巻を読む(原載は『紅旗』八六年一三期)

文献の追加です。書名だけは前に( 終りの方に) 挙げてありますが、書棚を探したら現物が出てきましたので、よろしくお願いします。先日の追加部分の前に挿入して下さい。

薛暮橋『按照客観経済規律管理経済』人民出版社(一九八六年一月)所収の論文

[一]客観的経済法則に基づいて経済を管理しよう(一九八三年八月初稿)

[二]わが国の社会主義経済建設の回顧と展望(原載は『紅旗』八四年一八期)

[三]二〇年で四倍増は可能である(原載は『人民日報』八三年一月一〇日)

[四]目前のわが国の経済情勢の分析と展望(原載は『人民日報』八三年六月三日)

[五]回顧と展望(原載は『中国経済年鑑一九八四』の序文)

[六]近年の工業成長率の実績が計画を上回る原因(八五年一月七日、九省市経済研究センター座談会での発言)

[七]断固として、慎重に初戦を戦い、必勝に努めよ(原載は『中国経済年鑑一九八五』の序文)

[八]経済体制改革問題に対するいくつかの意見(八二年六月)

[九]紡織品価格調整についての意見(八二年一〇月三日、価格調整問題会議での発言)

10]計画管理体制改革の新課題(原載は『管理世界』八五年一期)

11]物価と人民生活をいかに扱うか(原載は『理論月刊』八四年七期)

12]価格調整と価格改革の管理体制についての意見(八四年八月)

13]学習を強化し、経済体制改革の新情勢を迎えよ(原載は『人民日報』八四年一〇月八日)

14]現代化経済には現代化した金融体系が必要(原載は『経済工作通訊』八五年六期)

15]物価についてのいくつかの問題(原載は『人民日報』八五年一月二八日)

16]一九七九年以来の物価の安定と調整問題(原載は『経済研究』八五年六期)

17]より活性化し、マクロ管理も強化せよ(八五年六月九日、中国計画学会第二次理事会での講話)

18]都市で多角的形態で就業させる問題を語る(原載は『青年就業与労働』八三年四期)

19]中国農村発展研究センター第三次理事会での講話(八四年二月)

20]山東省経済・社会発展戦略研究委員会第一次会議での講話(八四年八月)

21]上海経済振興の戦略方針(原載は『解放日報』八四年九月)

22]無錫市経済発展戦略諮問会議での発言(八五年四月)

23]農村の商品経済発展の新情勢(原載は『無錫日報』八五年四月)

24]合作事業をいかに発展させるか(原載は『中国合作経済報』八五年五月一〇日)

25]蘇南見聞雑記(原載は『経済日報』八五年九月七日)

26]東部と西部地区の経済技術協業を発展させよ(八五年八月、中国西部地区経済発展討論会での書面発言)

27]孫冶方同志の価値法則論(原載は『経済研究』八三年一〇期)

28]私はどのように貨幣と物価の問題を研究したか(『財貿経済』八五年四期)