3 林彪事件の衝撃──「親密な戦友」の陰謀
林彪の功績
文化大革命のなかでも、最もドラマチックなのは、林彪の躍進と墜死事件であろう。六九年四月の第九回党大会では毛沢東の後継者としての地位を約束され、毛沢東の親密な戦友と讃えられたが、七一年九月には毛沢東暗殺に失敗し、ソ連に逃亡を図り、モンゴル領内で墜死するという奇怪な事件を引き起こしているのであるから、興味をそそられないわけにはいかない。
林彪(一九〇七年〜一九七一年九月一三日)は、北伐戦争(一九二六〜二七年)と南昌蜂起(二七年八月一日)を経て、最初のゲリラ根拠地である井岡山(江西省西部の山岳地帯)に立て籠もった。三五年夏以来の江西省を中心とするゲリラ地区から陝西省北部への二万五〇〇〇華里の大長征に参加し、延安時代には紅軍大学、抗日軍政大学の指導者として幹部養成に貢献した。日中戦争期には平型関戦役(三七年九月二五日)の勝利にも功績があった。遼瀋戦役(四八年九月〜一一月)、平津戦役(四八年一二月〜四九年一月)の主要指揮員の一人でもあった。その後第四野戦軍を指揮して南下し、武漢を解放し、広東、広西に到り、一九五〇年に海南島を解放した──これが中国革命のなかでの林彪の功績である。革命活動の初期から毛沢東のもとで働いたために、重要な役割を与えられたわけである。
林彪批判の真偽
林彪の墜死以後、毛沢東暗殺を図った逆賊として、徹底的な林彪批判が展開された。その際の林彪の罪状は、彼の参加したほとんどすべての戦役について、林彪の功績が小さなものだと矮小化しようとするものであった。それらはそれなりになんらかの事実を踏まえたものであったことは、確かだが、およそ牽強付会が甚だしく、説得性を欠く批判であったといえよう。
墜死事件後十数年を経ると、行き過ぎた批判への軌道修正が行われるようになった。たとえばある論文(于南「林彪集団の興亡・初探」)は、前述のような林彪批判を斥け、次のように再評価して注目された。総じていえば、民主革命期(四九年革命のこと)の林彪は、林彪グループのその他のメンバーも含めて、功績が誤りよりも大きかった。つまり林彪は文革初期に一部の者が誇張した姿とも、事件以後の批判論文が非難した姿とも異なっているのであり、林彪の功罪は実事求是のやり方で解釈すべきである、と。
出世術、クーデタ術を研究
さて林彪が建国において貢献したことは述べたが、戦闘中に重傷を負った。モスクワに送られ治療したが完治しなかった。そこで建国以後、林彪はずっと病気療養していた。一九五三年一〇月、高崗(一九〇五〜五四、国家副主席、国家計画委員会主席)が杭州で療養する林彪を訪ね、中央の人選名簿、軍の第八回党大会代表名簿などの相談をもちかけた。林彪の妻葉群も林彪に代わって高崗を訪ねた。この行動が中央から批判された後、林彪の野心はしぼんだという。しかし一九五九年夏廬山会議で彭徳懐が国防部長を解任され、林彪が後を襲うようになるや、政治的野心が頭を擡げてきたといわれる。一九六〇年から六四年にかけて、内外の歴史書、各王朝の演義、軍閥混戦の資料などを少なからず読み、曽国藩、袁世凱、張作霖などを研究した。要するに、出世術、クーデタ術を研究したのであろうか。
一九六六年五月一八日、林彪は政治局拡大会議でクーデタ問題を大いに論じている。たとえば一九六〇年以来六年間に世界で毎年平均一一回のクーデタが発生した、と述べ、また中国歴代王朝から蒋介石までの政変を一気にまくしたてている(クーデタ講話は『林彪事件原始文件彙編』所収)。
一九六〇年以後、林彪は四つの第一、三八作風、政治の突出、政治はその他の一切を撃つことができる、活きた思想をつかむ、四つの立派な中隊などの毛沢東思想活用運動をつぎつぎに提起して、毛沢東から賞賛された。
毛沢東が大躍進の責任を自己批判せざるをえなかった一九六二年一月の七千人大会では、毛沢東を支持してこう発言している。「この数年の誤りと困難は毛主席の誤りではなく、逆に多くの事柄を毛主席の指示通りに行わなかったことによってもたらされたものである」。大躍進・人民公社政策の失敗によって四面楚歌に陥っていた毛沢東にとって有力な援軍となったはずである。こうして林彪は毛沢東が個人崇拝を最も必要としたときに、巧みにそれを行って毛沢東の信頼を固めたわけである。
腹心で固めたセクト
林彪の権力への道の第二戦略は、セクト作りであった。林彪は元来第四野戦軍の指導者として、一つの派閥をもっていたわけだが、軍事委員会を牛耳るようになってから、林彪派の形成を意識的に行った。「双一」(すなわち紅一方面軍、紅一軍団)にかつて属したことがメンバーの条件であった。「双一」こそが後の第四野戦軍の源流である。黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作、いずれもその資格を備えていた。
林彪の第三戦略は、異分子の排除である。一九五九年に軍事委員会を牛耳るようになってまもなく、総政治部主任譚政を解任した。元総政治部主任羅栄恒(一九〇二年〜六三年一二月)は林彪のやり方を毛沢東思想の俗流化と批判していたために、文革期に羅栄恒未亡人林月琴を迫害している。国防部長になった一九五九年以来、五〜六年で腹心の配置に成功している。まず邱会作を総後勤部部長、党委員会第一書記とし、六二年には海軍の指導強化の名目で李作鵬を海軍常務副司令員にした。六五年には空軍司令員劉亜楼の死去に乗じて呉法憲を任命している。
このように腹心で固め始めた林彪にとって、軍の指導権を奪取する上で、直接的障害は羅瑞卿であった。彼は軍事委員会秘書長、総参謀長、副総理、中央書記処書記、国防部副部長、国防工業弁公室主任の六つの要職を兼ねていた。
羅瑞卿を解任
羅瑞卿は元来は林彪の部下であった。延安時代に林彪が紅軍大学、抗日軍政大学で校長を務めた際には、羅瑞卿は教育長、副校長を務めている。一九五九年の廬山会議の際には、羅瑞卿を総参謀長に提案したのは林彪自身であったことも注目してよい。
林彪・羅瑞卿の関係は当初の一、二年はまずまずであったが、羅瑞卿はまもなく林彪とソリが合わなくなった。両者の破局がやってきた。しかもそれは大きな悲劇の序幕でもあった。
一九六五年一一月末、林彪は毛沢東宛に手紙を書き、報告するとともに葉群を派遣して羅瑞卿関係の資料について口頭で報告させた。葉群は杭州で毛沢東に対して六、七時間報告した。六五年一二月八〜一五日、上海で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。葉群はここで三回発言し、羅瑞卿の罪状を暴露した。会議が始まって三日後、羅瑞卿のもとに飛行機の出迎えがあり、上海に着くやいなや隔離された。会議が終わるや羅瑞卿の軍における職務が解任された。
一九六六年三月四日〜八日、北京で羅瑞卿批判の会議が開かれた。同時に「羅瑞卿の誤りについての報告」が起草され、一九六六年五月、政治局拡大会議で承認された。この間三月一八日に羅瑞卿は飛び下り自殺を図り、重傷を負っている。
林彪事件以後、七二年に羅瑞卿は治療のために出獄を許され、七三年一月に正式釈放された。七三年一二月二一日、毛沢東はある会議で自己批判し、「林彪の一面的な話を信じて、羅瑞卿を誤って粛清した。彼を名誉回復しなければならない」と述べた。羅瑞卿は七七年一一期中央委員に選ばれ、軍事委員会秘書長に任命された。七八年八月三日病逝したが、八〇年五月に名誉回復した。
羅瑞卿の最大の罪状は、葉群の説明によると個人主義が野心家の地歩にまで達して、国防部長の地位を林彪から奪おうとしたことである。その証拠として挙げたのは劉亜楼(元空軍司令)の証言であり、死人に口なし、反駁のしようのない証拠であった。
党内の敵を摘発
羅瑞卿の粛清は林彪派にとっていかなる意味をもったであろうか。第一に林彪の権力獲得にとって直接的障害が排除された。軍内の掌握に有利となったばかりでなく、羅瑞卿の黒幕追及の名において、他の指導者たちにも脅しをかけることができるようになった。上海会議の際に葉群は羅瑞卿が賀竜と密接であったとして、軍事委員会副主席である賀竜を自己批判させようとした。羅瑞卿は公安部で他年工作していたので、同部の副部長、司局長、省市レベルの公安局長も連座する者が少なくなかった。要するに、羅瑞卿粛清を一つの突破口として、奇襲攻撃により、党内の敵を粛清するモデルを作ったことになる。
第二に、呉法憲、李作鵬、邱会作らは羅瑞卿粛清を通じて、それぞれの任務を分担し、林彪派の核心としてより結合を深めていった。第三に林彪は党内に潜む野心家を摘発することによって、毛沢東に忠実な戦友、学生としてのイメージを固めることになった。
一九六六年五月、政治局拡大会議が開かれた。林彪は五月一八日クーデタについて大いに語り、彭真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆らがクーデタをやろうとしているとし、彼らを摘発することが修正主義者による奪権を防ぐことになると力説した。羅瑞卿が軍権を握り、彭真(北京市市長)はいくつかの権力を握り、文化思想戦線の指揮官は陸定一(中央宣伝部部長)であり、機密、情報、連絡担当が楊尚昆(中央弁公庁主任)である。文武相結合して、反革命クーデタをやろうとしていると林彪は述べた。この四人は文革初期に四家店として集中的に攻撃されたが、彼らは文革を発動するうえで直接的障害となっていた四つの部門の代表であった。
毛沢東はこのクーデタ講話について、懸念をこう書いている。
彼〔林彪〕の提起の仕方については、どうしても不安を感じている。彼らの本意を忖度すれば、“鬼を打つために、鍾馗の力を借りる”ではなかろうか。
生まれて初めて、意に反して他人の意見に同意し、林彪の五・一八講話の発出に同意した(「江青に宛てた手紙」六六年七月八日)。
林彪が毛沢東の権威を利用して、自らの権威を高めようとしているのを知りながら、毛沢東もまた林彪を利用して、自らの鬼を打とうとしていたのであろう。
林彪昇進の背景
一九六六年八月一日〜一二日、八期一一中全会が開かれ、林彪は唯一の党副主席、毛沢東の後継者の地位を確保した。ナンバー6からナンバー2への昇格である。このような急激な昇進が可能であった背景としては、つぎの事情がある。
第一に文化大革命を進めようとした毛沢東が林彪の軍事力を必要としたことである。第二に、林彪は十大元帥の一人として軍功があるばかりでなく、毛沢東に対する個人崇拝の演出者として、政治的資本も手に入れていた。第三に選挙前の政治局常務委員七名のうち、劉少奇、Deng Xiaoping は路線の誤りのゆえに批判されており、朱徳は老齢であった。毛沢東は周恩来、陳雲に対しては、その穏健路線が不満であった。林彪は当時五九歳の若さであり、後継者として有利な条件を備えていた。
林彪は文革の推進者として毛沢東によって抜擢された以上、毛沢東の期待に応えなければならない。それはまた自らの野心を満たすことでもあった。六六年八月八日、林彪は中央文革小組を接見して、天地を覆さなければならない。ブルジョア階級もプロレタリア階級も眠れないほどの騒ぎとしなければならないと述べた。八月一三日には中央工作会議でこう述べた。今回は一群の者を罷めさせ、一群の者を昇格させ、一群の者はそのままとする。組織上、全面的な調整をしなければならない。この二つの発言が、いわば林彪の施政方針演説であった。
一九六六年八月中旬、林彪は葉群を通じて、劉少奇誣告の資料を雷英夫(解放軍総参謀部作戦部副部長)に書かせた。林彪はこれを江青を通じて毛沢東に届けた。八期一一中全会およびその後の会議で林彪は幾度も劉少奇、Deng Xiaoping を名指し批判した。一九六八年九月二九日、林彪は劉少奇専案組の「罪状審査報告」にコメントを書いて、劉少奇には五毒が備わっており、罪状は鉄のごとく硬い。出色の専案工作を指導した江青同志に敬意を表すると述べた。
造反派と実権派の激しい対立
林彪と江青が結託して集中的に老幹部を粛清しようとしたのは一九六七年春から八期一二中全会にかけてである。六七年一月、上海で一月革命が起こると、その反動として二月逆流(実権派側から見れば、二月抗争)事件が起こった。続いて五・一三武闘と七・二〇武漢事件が起こった。
五・一三武闘とは、一九六七年五月一三日夜、軍の両派が北京展覧館劇場での上演問題をめぐって武闘した事件である。この事件を経て、造反派系と実権派系の対立が表面化した。これに先立つ四月下旬、周恩来は部隊の文芸団体を接見した際に、両派が合同して上演されたい、さもなければ観劇に行かない、として、両派の聯合を促進しようとした。五月初め、延安文芸座談会における講話発表二五周年を記念して、造反派系文芸団体も実権派文芸団体も、それぞれ上演を準備していた。実権派系は造反派系が上演を強行するなら、会場を襲撃するといきまいていた。他方造反派系は呉法憲や李作鵬の支持を根拠に予定通り上演し、これを攻撃した実権派系との間で武闘が起こり、数十人が負傷した。
蕭華(解放軍総政治部主任)は、解放軍の顔に泥を塗ったと造反派を非難したが、造反派は逆に蕭華をつるし上げた。事件後、林彪、葉群、江青は蕭華を非難した。五月一四日、葉群は林彪を代表して造反派系負傷者を慰問したが、これには関鋒、呉法憲、李作鵬、王宏坤が同行した。この武闘を通じて、軍内における造反派と実権派の対立が明確になった。造反派は総政治部を閻魔殿として攻撃するようになった。
実権派の抵抗−−武漢事件
こうして総政治部が機能マヒに陥った。七月一七日呉法憲(組長)、葉群、邱会作、張秀川からなる軍事委員会看守小組が成立した。これは時には軍事委員会四人小組あるいは軍事委員会弁事組とも呼ばれた。中央文革小組の「ポン頭会」(ポン頭会とは、正式の会議ではなく、その場に居合わせた者が相談し合う非公式の会議のこと)に出席するようになった。駐北京部隊の文革の指導権は、彼らの手中に入った。林彪グループはかくて、五・一三武闘を通じて海軍、空軍、総政治部の指導権を掌握したのである。九月下旬、楊成武が帰京すると、彼が軍事委員会弁事組組長となり、呉法憲は副組長、メンバーは葉群、邱会作、李作鵬となった。
こうして江青ら“四人組”が中央文革小組を操り、造反派を決起させ、林彪はまた軍内で着実にそのグループによる指導権を確立しつつあった。まさにこうした時に、中央文革小組や林彪グループのやり方に対する公然たる反抗が起こった。武漢の大衆組織である百万雄師が、中央文革小組から派遣されてきた王力を監禁してまった。百万雄師は実権派を支持しており、しかも武漢軍区の司令員陳再道もこれを支持していた。
実は監禁されたのは、王力だけではなかった。毛沢東もまた宿舎の東湖賓館を百万雄師に包囲されて身動きできなくなっていたのであった。周恩来の調停で事なきを得たが、林彪は東海艦隊を率いて、揚子江を溯るなど、一時は内戦の危機に直面したのであった。毛沢東はこれを契機として、文革の収拾を考慮し、造反各派の大連合を呼びかけることになる。
林彪グループの形成
この武漢事件(六七年七月二〇日)直後の七月二五日、天安門広場で百万人大会が開かれ、王力、謝富治の帰還を歓迎し、陳再道を非難した。林彪は六七年八月九日の講話で、武漢事件のような混乱は四つの状況からなると説いた。1)好い人が悪人と闘争する、2)悪人が悪人と闘争する(林彪によれば、これは間接的に利用できる勢力である)、3)悪人が好い人と闘争する(北京軍区、海軍、空軍、総参謀部、総後勤部のケース)、4)好い人が好い人を闘争する、の四つである。
邱会作(総後勤部)、李作鵬、王宏坤、張秀川(海軍)は林彪のお墨つきで窮地を脱することができた。八月九日講話以後、呉法憲、邱会作、李作鵬、王宏坤、張秀川らが好い人と断定され、彼らを攻撃する側が悪人のレッテルを貼られることになった。こうして林彪グループの形成が大衆的に明らかにされた。
楊成武事件
六八年三月二四日、人民大会堂で林彪が長い講話を行い、余立金を叛徒して逮捕し、楊成武総参謀長代理を解任し、傅崇碧北京衛戌区司令員を解任した。いわゆる楊成武事件である。楊成武は二月逆流以後も、林彪の指示を無視して、中央文件を葉剣英に配付していた。九月下旬、毛沢東が南方を視察して語った大連合の談話も葉剣英に語った。また軍事委員会弁事組は軍事委員会(葉剣英は副主席である)に対して責任を負うものだと明言した。これに対して林彪は、二月逆流の巻き返しを図るものと断罪した。
他方、江青が楊成武を嫌った理由として挙げられているのは、上海や北京から報告されていた江青関係の資料(江青は三〇年代に女優であった当時の離婚問題をめぐる証拠を湮滅させるために、たいへん熱心であった)を楊成武が握りつぶしていたというものである。江青はこれを知って大いに怒り、林彪を証人にしたてて、自ら焼却させた。
いずれにせよ、この楊成武事件を経て、軍事委員会副主席たちの指導権はいっそう弱まった。たとえば葉剣英は「傅崇碧の黒幕」と非難されて、活動を封じ込められた。徐向前、聶栄臻らの立場も同じであった。
権力掌握へ驀進
六八年三月二五日、軍事委員会弁事組が改組され、黄永勝が組長、呉法憲副組長、メンバーは葉群、邱会作、李作鵬となった。四月一日、呉法憲は軍内の重要文件を今後は陳毅、徐向前、聶栄臻、葉剣英、劉伯承に配付しないと言明した。情報を絶たれることは政治活動からの排除を意味するこというまでもない。中国のように、マスコミなき社会においてはとりわけそうである。四月六日黄永勝は今後軍委常務委員会は権力を行使せず、軍事委員会弁事組がこれに代わると言明した。葉剣英らはかくて中級幹部並みになり、県レベル・連隊レベルの文件しか読めなくなった。
軍委副主席グループは指導権を奪われたが、軍内や大衆の間で依然、声望をもっている。そこで六八年一〇月の八期一二中全会ではふたたび二月逆流批判が繰り返された。譚震林はすでに叛徒とされて、一二中全会への出席を拒まれていた。陳毅、葉剣英、李富春、李先念、徐向前、聶栄臻ら六人は出席したが、それぞれ別の小組に配置され、つるし上げられた。このほか谷牧、余秋里も名指し批判された。一二中全会以後、軍事委員会弁事組は「二月逆流反党集団の軍内における活動大事記」五〇カ条をまとめ、一一月一九日、印刷して林彪、康生に届けた。これは一二中全会での実権派批判がまだ不徹底であり、第九回党大会でさらに批判しなければならないとする認識に基づいていた。
林彪派の指導体制
一九六九年四月、北京で第九回党大会が開かれた。八期の中央委員および候補のうち、九期中央委員として留任したのは五三人にすぎず、八期中央委員一九五人の二七%にすぎなかった。一一中全会で選ばれた政治局委員のうち陳雲、陳毅、李富春、徐向前、聶栄臻らは政治局を追われ、ヒラの中央委員に格下げされた。劉少奇、Deng Xiaoping 、彭真、彭徳懐、賀竜、ウランフ、張聞天、陸定一、薄一波、譚震林、李井泉、陶鋳、宋仁窮ら一三人は、中央委員になれないのはむろんのこと、大会にさえ出席できず、隔離審査の立場に置かれていた。九期一中全会で選ばれた二一名の政治局委員のうち、一二名はのちに林彪、江青グループとして処分された。
第九回党大会は林彪グループにとって勢力拡大のピークであった。羅瑞卿、賀竜の粛清に始まり、二月逆流で軍事委員会副主席たちの活動を封じ込めることによって、林彪は軍内を基本的に掌握した。党のレベルでは唯一の副主席として、腹心を政治局と中央委員会に多数配置できた。ここまで来ると、軍隊だけでなく、党、政府、地方レベルのなかにも、林彪グループにすり寄る者が増えてきた。大義名分の点では、林彪の後継者としての地位は、第九回党大会で採択された党規約のなかにまで書き込まれた。
こうして林彪グループは、軍隊を直接掌握するほかに、軍事委員会弁事組を通じて、そして軍事管制体制を通じて、中共中央と国務院の一部部門、一部の省レベル権力を掌握した。これに対して、江青を初めとする中央文革小組系は政治局には張春橋、姚文元、汪東興(毛沢東のボデイ・ガード、のち党副主席)を送り込んだものの、国務院や軍内にはいかなるポストも持たず、中央文革小組はもはや中共中央、国務院、中央軍事委員会と連名で通達を出すような地位を失った。江青グループがセクトとして、活動しうるようになったのは、一九七〇年一一月に中央組織宣伝組が成立して以来であり、これによって江青は再び合法的な活動の陣地を獲得したのであった。
国家主席をめぐって
林彪グループと江青グループとは、文革を収拾し、第九回党大会を開く上では、結託したが、大会前後から仲間割れが生じ、九期二中全会(七〇年八月)までには鋭く対立するに至った。この間の経緯は『林彪秘書回想録』に詳しい。表向きの論争テーマは憲法改正問題である。憲法のなかに毛沢東が天才的に、創造的に、全面的に、マルクス主義を発展させたとする三つの形容句をつけるか否か、国家主席を設けるかどうかなどがポイントであった。前者は毛沢東を天才としてもち上げることによって、その後継者としての林彪自身の地位をもち上げる作戦であり、後者は林彪が国家主席という名の元首となることによって、後継者としての地位を固めようとするものであった。
七〇年八月二三日午後、二中全会が開幕した。林彪は冒頭、毛沢東天才論をぶち、翌二四日林彪講話の録音の学習が行われた。二四日午後、陳伯達、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作はそれぞれ華北、西南、中南、西北の各小組(分科会)に出席し、天才論を支持するとともに、三つの形容句に反対するもの(江青グループ)を攻撃した。なかでも華北組の会議における陳伯達の発言は煽動的であり、ここでは国家主席を断固として設けることが決議された。二四日夜一〇時過ぎ、「華北組二号簡報」が編集され、組長李雪峰が目を通したのち、二五日朝印刷配付された。これを読んで各組とも華北組に倣う動きが出たことについて、毛沢東は廬山を爆破し、地球の動きを停止させるがごとき勢い、と形容した。二五日午前、江青は張春橋、姚文元を率いて毛沢東に会った。毛沢東は二五日午後、各組組長の参加する政治局常務委員会拡大会議を開き、林彪講話の討論の停止と二中全会の休会を提起した。華北組二号簡報は回収された。
八月三一日、毛沢東は「私のわずかな意見」を書いて、陳伯達を名指し批判した。九月一日夜政治局拡大会議が開かれ、私のわずかな意見が伝達され、陳伯達が批判されたが、この会議を主宰したのは皮肉なことに林彪であった。九月一日以後、各組で私のわずかな意見が学習され、陳伯達が批判され、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作の誤りも批判された。九月六日二中全会が終わった。こうして林彪の陰謀と野心に気づいた後、毛沢東は周恩来と協力して、林彪グループ批判に着手した。こうして二中全会を契機として、林彪グループの勢力が削減され始めたことは、江青グループの勢力を増大させることになった。
警戒を深める毛沢東
では九期二中全会の争いのポイントは何であったのか。毛沢東はのちに、五人の(政治局)常務委員のうち、三人が騙されたと語ったが、これは林彪、陳伯達が毛沢東、周恩来、康生を騙したという意味である。林彪は国家主席を設けるという合法的な手段で後継者としての地位を固めようとしたが、これが阻まれるや、毛沢東から林彪への権力の平和的移行を断念し、クーデタを追求するようになった。一九七一年二月、林彪グループは「五七一工程紀要」の作成に着手した。毛沢東が林彪への危惧を感じたのは、江青への手紙によれば、六七年夏のことだが、いまや林彪への不信は動かしがたいものとなり、その勢力を削減する措置を講じ始めた。
七一年八、九月、毛沢東は南方を巡視した。彼は五大軍区、一〇省市の責任者と話をし、林彪とそのグループを名指し批判した。八月末に南昌に着くや、それまでは林彪にすり寄っていた程世清(江西省革命委員会主任、江西軍区政治委員)から葉群や林立果の異様な行動を報告され、警戒を深めた。九月八日深夜杭州では専用列車を急遽紹興まで運行させ、そこに停止させた。九月一〇日、杭州から上海に向かった。しかし、下車はせず、一一日、突然北京へ向かった。一二日午後、豊台に停車し、北京軍区と北京市責任者と話をして、夕刻北京駅から中南海に戻った。林彪の謀殺計画を察知し、ウラをかいて行動したものであろう。
林彪グループは上、中、下、三つの対策を検討した。上策は毛沢東を旅行途中で謀殺したあと、林彪が党規約にしたがって合法的に権力を奪取するものである。中策は謀殺計画が失敗した場合、黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作らと広州に逃れ、割拠するものである。下策は以上の両策が失敗した場合、外国に逃れるものである。
毛沢東暗殺計画
一九七一年九月五日、林彪、葉群は毛沢東が彼らの陰謀を察知したことに気づき、毛沢東謀殺を決定した。九月八日、林彪は武装クーデタの「手令」を下している。しかし、毛沢東は九月一二日夕刻無事に北京に戻り、謀殺計画の失敗は明らかになった。一二日林彪は翌日広州に飛ぶべく飛行機八機を準備させようとした。一二日夜トライデント機256号は秘密裡に山海関空港に移され、北戴河で静養していた林彪、葉群、林立果が翌一三日、広州へ飛ぶ予定であった。
これらの秘密は林彪の娘林立衡によって、周恩来に通報されたことになっている。すなわち九月一二日夜一〇時過ぎ、林彪の娘林立衡からの通報は北戴河8341部隊を通じて周恩来のもとに届いた。周恩来は256号機を北京に戻すよう指示するとともに、追及を始めた。これを知った林彪は一三日午前零時三二分、山海関空港で強行離陸し、ソ連に飛ぶ途中モンゴル共和国のウンデルハンで墜落した。
九月一二日の経過はこう描かれている。林立果、劉沛豊は北京から256機を山海関空港に飛ばし、九時過ぎに北戴河の林彪の住まいに着いた。一〇時過ぎに翌朝出発することを決定した。林立衡は林立果から広州へ飛ぶことを知らされ、これを密告した。8341部隊からの通報を受けて、周恩来は呉法憲、李作鵬に256の情況を調べさせ、周恩来、黄永勝、呉法憲、李作鵬四人の連名の批示がなければ、同機の離陸を許さぬと指示した。夜一一時半頃、林彪はボデイガードの秘書に対して、大連へ飛ぶと電話させた。一一時五〇分頃、葉群、林立果、劉沛豊は打ち合わせをしたのち、一二時近く北戴河九六号の住まいを出発した。
8341部隊はこれを知って、道路を塞いだ。ボデイガードの秘書は大連ではなくソ連に飛ぶことを知って、林彪の車から飛び下りた。このとき左の肘を打たれたが、彼も二発発砲した。8341部隊も林彪の車めがけて発砲したが、防弾ガラスに弾き返された。車は零時二〇分、空港に着いて、三二分に強行離陸した。
モンゴルで墜落死
林彪の車が8341部隊の制止を振り切って空港へ向かったとき、周恩来は人民大会堂から中南海へ行って毛沢東に報告した。まもなく二五六専用機は離陸し、まず二九〇度をめざし北京に向かったが、すぐ三一〇度に向きを変えて西北を目指した。これは北京──イルクーツク航路である。周恩来は華北地区のレーダー基地に監視を命ずるとともに、全国に対して飛行禁止令を出した。午前一時半ころ、呉法憲が電話で飛行機は国境を出るが、妨害すべきかどうか指示を求めてきた。周恩来が毛沢東の指示を仰ぐと毛沢東曰く「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ。どうしようもない。行くにまかせよ」。一時五五分、二五六専用機はモンゴル共和国内に進入し、レーダーから消えた。一三日午前二時半ごろ、ヘンティ省イデルメグ県ベィルフ鉱区南一〇キロの地点に墜落した。
九月一四日朝八時半、モンゴル政府外交部は中国大使許文益を呼び、中国機がモンゴルに進入して墜落したことに対して口頭で抗議した。一五日、許文益ら中国大使館関係者は墜落現場を訪れ、大量の写真を写すとともに、北京に報告した。九つの遺体は一六日現地に埋葬された。
九つの遺体は林彪、葉群、林立果、劉沛豊、パイロット潘景寅、そして林彪の自動車運転手、専用機の整備要員三名であった。副パイロット、ナビゲーター、通信士は搭乗していなかった。このため、燃料切れの情況のもとで、平地に着陸しようとして失敗し、爆発したものと推定した。機内で格闘した形跡は見られなかった。
林彪事件の処分
九月二四日、黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作が停職となり、拘禁された。一〇月三日軍事委員会弁事組が廃止され、軍事委員会弁公会議が成立し、葉剣英が主宰することになった。同日中央は中央専案組を成立させ、林彪事件を徹底的に究明することとした。
事件の伝達情況はつぎのごとくであった。まず、九月一八日、中共中央は各大軍区、各省市、軍隊、中央各部門に対して文件を発出し、高級幹部に対して、林彪事件の概要を伝えたが、林彪についての記述、写真、映画などは暫時動かさないことも指示した。
ついで九月二八日、中央は林彪事件の伝達範囲の拡大を通知した。一〇月六日、一〇月中旬に伝達範囲を支部書記レベル、軍隊の中隊レベル幹部まで拡大することを決定した。一〇月二四日、全国の広範な大衆に伝達するが、新聞に掲載せず、放送せず、大字報やスローガンとして書かないよう指示した。一二月一一日、七二年一月一三日、七月二日、中央専案組のまとめた「林彪反党集団の反革命クーデタを粉砕した闘争」についての三つの資料をそれぞれ発出した。
一九七三年八月、第一〇回党大会の際に林彪、黄永勝、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会 作、陳伯達の党除名を決定し、公開批判を開始した。八一年一月下旬、最高人民法院特別法廷は黄永勝一八年、呉法憲一七年、李作鵬一七年、邱会作一六年、江騰蛟一八年の懲役を判決した。
「五七一工程紀要」の真偽
ここでいささか個人的な感想を書いておきたい。私は林彪事件をシンガポールで知った。そのころ、旧知の台湾の作家故呉濁流が観光旅行に来たので、雑談した。彼によれば林彪は反革命家による暗殺を逃れるために「隠姓埋名」したにすぎないとのことだった。七二年に香港大学で私は林彪事件の「真相なるもの」を知らされた。私はいくつもの疑問を抱きながら、文革の破産を感じ始めた。林彪派のクーデタ計画書といわれる「五七一工程紀要」は、毛沢東独裁をこう批判していた。「彼〔毛沢東〕は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である」と。そして毛沢東の説く社会主義をこう非難していた。「彼らの社会主義とは、実質的には社会フアシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」。
私は「五七一工程紀要」をデッチ上げと感じ、事件そのものもほとんど信じられなかった。その後、数年して『現代中国の歴史』を書いたころには、中国当局の発表を基本的に真実と判断するに至っていたが、このことを真に納得したのは、八八年秋に中共中央文献研究室を訪ねて専門家と討論し、かつ文献研究室の内部刊行物たる『党的文献』八八年一期所収の三篇の記録を読んでからである。この間の経緯は、拙稿「林彪の生と死」『中国現代史プリズム』に書いたので、繰り返さない。
アヘン中毒者の命運
ただ一言だけつけ加えたい。事件当時の林彪は六四歳、毛沢東は七八歳であった。一四歳も若い後継者が権力の継承を待てなかったのはなぜか、である。金春明『“文化大革命”論析』は、林彪の健康問題から奪権を急いだと説明している。張雲生『林彪秘書回想録』もむろん健康問題に少なからず言及している。しかし林彪の健康問題について決定的な事実を指摘しているのは、厳家其、高皋夫妻の『中国文革十年史』である(香港版は上巻二五五頁以下、大陸版は二五一頁以下)。
林彪は戦傷を癒すために、「吸毒」(モルヒネ注射)の習慣があった。毛沢東はかねてこの事実を知っており、五〇年代に曹操の詩「亀雖寿」を書き贈り、戒めとするよう忠告していた。
しかし、林彪秘書の記録によると、悪習はやまず、たとえば七〇年五月二〇日、天安門広場の百万人集会で毛沢東声明を林彪が代読したが、これはパレスチナをパキスタンと読み誤るなどシドロモドロであった。これは当時は睡眠薬を過度に服用したためと説明されたが、実はモルヒネが切れたためではないかと示唆されている。
毛沢東の親密な戦友にして後継者がアヘン中毒であったという事実は、やはりわれわれに衝撃を与えないわけにはいかないであろう。