清岡卓行 『初冬の中国で」 のいたましい暇庇
敬愛する詩人清岡卓行が 『初冬の中国で』(青土社、 一九八四年九月刊) と題する新詩集において試みた手法 についてこう語っている。
----- この手法とは、 作品のりアリティのために、
中国語の単語または語句を原音のルビつきで適宜に、 ただし最小限に挿入するやりかたである/中国語の挿入において、 単語がキーワードに近く用いられている詩が三編あり、
単語または語句が雰囲気を助勢する効果物のように用いられている詩が六編ある/私は自分のことながら、おやおやこの人は中国にちょっとのめりこんているぞと思った(『朝日新聞』
八四年一○月一五日)。
―――中国語の単語が原音のルビつきでキーワードに近く用いられている三編の詩では、
その単語が題名そのものにも、 あるいは題名の一部にもなっている/こうなると、詩にこの原語 〔「窰洞 (ヤオトン)」を指す〕 を原音で用いるよりほかはない/ここでも、
京劇の長い伝統に敬意を表し、稽古場とはいえ舞台の実感に執するかぎ り、令羽子 (リンツ) という原語を原音で用いるよりほかはないと思われたのであった(同紙、一○月一
六日)。
―――和語と日本語化した漢語で織りなされるのが原則である日本の現代詩において、ふつうの日本人になじみのない中国語の単語や語句を原音のルビつきで挿入すると、
それが仏語や英語などほかの外国語にはない”新鮮な懐かしさ”とでもいった魅力を示すことがありうることはすぐ想像できよう(同紙、 一○月一七日)。
日本語と中国語のビミョーなところでいつも悩まされている私は早速この詩集にとびついた。最高級の芳醇なブランデーに酔うがごとく時を忘れて読み進んだのだが、
九七頁に至って、勤務先の某食堂の水のごとき茶を飲まされた感じになった。
――――鸚鵡含愁思という杜甫の起句に「インウーハンチョゥシー」とルビがふられ、―――聡明憶別離という承句に「コンミンィーピエリー」とルビがふられていたのである。
「鸚鵡含愁思」 は詩人が天壇の回音壁で「片言の中国語で言ってみた」 五言であり、 「聡明憶別離」は「電話の声のようにではなく、 風のように伝わってきた」「ふしぎな音波」
である。だからこそなんともムザンなのだ。詩人はそのとき「恍惚となった」 由だが、 私はここで恍惚からさめた。
中国語の「思」は「シー」ではなく「スー」ですよ、 この単純きわまりない、 児戯にも等しい教学工作こそ私の職業だが、わが学生諸君は容易にそれをのみこんで下さらない。二年生になっても相変わらずスーをシーにまちがえる学生をつかまえて、大声で怒鳴りちらし、自己嫌悪に陥り、ショーチューを飲むのが私の生活である。
「スー」を「シー」にまちがえるのはなぜか。日本で行われている圧倒的多数の教科書が中国で定められたローマ字表記(ピンインという)をもちいるからだ。
この場合 「思」 はsiとルビがふられる。 シ−はxiである。
ヨソの学生のことは知らぬが、わが学生諸君に関するかぎり、英語を学ぶのが精一杯であって、第二外国語をやる知的キャパシティはほとんどないよりに見受けられる。
そういう学生(率直にいえば英語もロクロクできぬ学生ということ)に対して、英語と似るがごとく、 似ざるがごときピンインは百害あって一利なしだ、 と私は確信している(と書きたいところだが、浅学非才の身を反省し、ここで声を小さくする)。
中国人がまず耳から音をおぼえ、 そのあとで音を整理し、 思い出す手段としてピンインをもちいるのはきわめて有効であろう。
同じことは、 まず耳から音をおぼえる、英語を知らぬ日本人中国語学習者についても、 あてはまる。事はローマ字にトコトン慣れている欧米人にもあてはまるかもしれぬ。
しかし、わが教室ではオーラル・アプローチには限界があり、学生は共通一次のおかげで英語に汚染されており、最後に最も遺憾なことだが私は教育意欲をほとんど失いかけている。
話をもとに戻そう。大詩人の意欲作において、 「思」 が 「シ−」 となり、 「聡明」
が 「ツォンミン」 でなく「コンミン」 となりはてたのは、 ローマ字si congming を英語風に読みちがえたとしか考えられない。画竜点睛を欠くこのミスのなかに、1.平均的日本人(学生、編集者、
校正者)にとってのビンインの難点、2.「中国にちょっとのめりこんでいる」 ほどの高級知識人の中国語理解の限界を感じて淋しくなった次第である。 (初出『蒼蒼』第三号、
八五年一月一日発行)