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07/03/25(日) 舞い上がったサル
07/03/17(土) フューチャー・イズ・ワイルド
07/02/24(土) うつうつひでお日記
07/02/19(月) ロリータ
07/02/06(火) 夢百景:ところどころ力士が降るでしょう
07/01/23(火) バラバラ2
07/01/11(木) バラバラ
07/01/06(土) 純愛時代
07/01/03(水) 江戸の春を偲ぶ
07/01/01(月) あけましておめでとうございます

2007/03/25(日)舞い上がったサル

Amazonデズモンド・モリス『舞い上がったサル 』(中村保男 訳/ダイヤモンド社)読了。

私たちが動物であるはずがないという間違った考えが生まれてしまった。傑作絵画を描き、大聖堂を建立し、交響曲を作曲できるのなら、なぜその人間を他の動物と比較できるのか。何か間違いがあるにちがいない。私は神々か宇宙人のよってこの地上に降ろされた存在なのであって(略)他の動物と似た姿をさせられているのだが、本当は生物界の外に存在しているのだ、と信じこむようになってしまった

「裸の猿」を書いたときに私が訂正してやろうとしたのは、まさにこの間違った考えだった。(本書第6章246頁)

「人間は堕ちた天使ではなく舞い上がったサルである」というコピーは秀逸だが、キリスト教圏の人間には辛辣でも、日本人にはあまりインパクトはないような気がする。私たちは自分たちが天使だなんてだいそれたことは普通考えない。

『裸の猿』でモリスは、人間の女の膨らんだ乳房は直立して見えなくなったお尻のコピーだと主張した。内側の粘膜が露出した人間独特の唇もこれまた直立して見えなくなった陰唇のコピー。どちらも性的誘惑信号ですね。私の大好きな仮説であります。

その他、人類にはカワウソのように水中生活時代があったとか、刺激的で大胆な仮説満載で、ずいぶん評判にもなったが、当然のように攻撃も激烈だったようだ。

しかし、めげない著者は、都市生活者を動物園の動物との類似で論じた『人間動物園』や人間の行動を動物学の目で見た『マンウォッチング』『ベビーウォッチング』のシリーズを次々と書いた。いずれも面白い。

本書は著者の過去の著者の集大成的内容だ。各章も「狩りをする猿」「人間動物園」「身体言語」などほとんどが過去の著書に対応している。

魂や生死の問題を扱った「不滅の遺伝子」の章が目新しいかなという程度で、過去の著作を読んでいればあえて読むほどのことはない。逆にこれ一冊でモリスの著作の概要がわかるので、これだけ買うのもいいかもしれないが、やはり面白さは『裸の猿』の方が上だ。

ネットの書評ではモリスはどうもトンデモ扱いされているようなのが、愛読者としてはちょっと不満である。キリスト教徒やそうでなくても人間が動物とは違うと思いたがる人々の神経を逆なでするようなところが不評を買うのだろう。そのへんは同門の『利己的遺伝子』のリャード・ドーキンスと同じだ。(モリスは絵描きとしてもプロでドーキンスの本の表紙や挿絵も描いているらしい)

読めばわかるがモリスの説は面白いだけでなく、説得性にも富んでいる。論理的でもある。さすがにドーキンスほど緻密ではなく、ところどころ飛躍するところもあるが、ごまかしているわけではないので面白さは減じない。

ただ、人間の習慣や伝統を論じているところでは、無意識に人間一般というよりヨーロッパ人を基準にしているところが目につくのが日本人としては気になる。モリスは文化人類学者にはない動物学者の目で人間を見ることで新鮮な発見をしたことは間違いないが、文化人類学者でないゆえの落とし穴もあったということだろう。

最近、忙しくて絵や映画を見に行ったり絵を描いたりできないので、ストレス解消は本買うぐらいしかない。ここ2ヶ月の主な(忘れてるのもありそうなので)購入本と読了本。

遠藤寛子『算法少女』(ちくま文庫)、グレッグ・イーガン『ひとりっ子』(ハヤカワSF文庫)、芦原すなお『わが身世にふる、じじわかし』(創元推理文庫)以上読了。
 以下未読、谷崎潤一郎『乱菊物語』(中公文庫)、スタニスワフ・レム『虚数』(国書刊行会)、筒井康隆『恐怖』『ヘル』(文春文庫)、『敵』(新潮文庫)、サマセット・モーム『劇場』(新潮文庫)。


2007/03/17(土)フューチャー・イズ・ワイルド

Amazonドゥーガル・ディクソン、ジョン・アダムス『フューチャー・イズ・ワイルド』(松井孝典監修/土屋晶子訳/ダイヤモンド社)読了。

冴えた着想、しかもめっぽう面白いこの未来の博物誌(アニマル・プラネット・チャンネルの最近の七回シリーズの手引き書でもある)で、地質学者であり古生物学者のディクソンと、自然史テレビスペシャルのプロデューサー、アダムスは、今から2億年後の地球にはどんな生命が生きているのかに思いを馳せる。

惑星進化についてコンピュータを使った約110ものイラストを駆使し、著者たちは、地球全体に広がる超大陸(パンゲアIIと呼ばれる)いっぱいに、青い大きな空飛ぶ翼竜や、発光性のサメ、象の体とイカの触腕と「スター・ウォーズ」のジャバ・ザ・ハットの顔を繋ぎ合わせたような森に住む巨大なイカなどを描き出す。(AMAZONの商品説明より)

えー、上の説明通りの本です。出て来る空想生物の姿と設定が楽しい。

しかし、かつてのドゥーガル・ディクソン本『アフター・マン』や『新恐竜』は大型本だったのに、本書は四六判の普通のハードカバーになってしまった。文字は多いが画期的なことが書いてあるわけではなく、肝心の絵が小さくなってしまったのが残念だ。

前記2冊も大型本は絶版で、今は本書と同じ版元から小さくなって出てるようだ。これから手にいれようという人は古書店で旧版の大型本をさがすことを強くお勧めする。迫力が段違いなのだ。

絵そのものもいかにもコンピュータ・グラフィックな3Dになってしまい、個性がなくなってしまった。『アフター・マン』『新恐竜』のディズ・ウォリスのイラストの方がずっと迫力があって好きだったなあ。

*

megasquid本書に登場する体重8トンの陸棲巨大イカ「メガスクイド」

*

スタンフォード大生物学教授だというパルンビという人が本書の序文を書いているのだが、読んでいて次の部分に違和感を感じてひっかかってしまった。

2億年間。地球の歴史から見ればほんのまばたきほどの短い年月のあいだに、これほど多くのまったく新しい生物が進化して栄えるようになるとは、いったい誰が想像できただろうか。

言いたいことはわかるが、2億年は本当に「地球の歴史から見ればほんのまばたき」なのだろうか。

地球の誕生から約50億年、これからどのくらい存在するかわからないが太陽の恒星としての寿命を考えるとあと50億年がいいとこだろう。よって地球の寿命は100億年。人間の寿命を100年とするとちょうど一億倍だ。すると地球にとっての2億年は、人間の寿命に換算すると2年になる。

どう考えても「ほんのまばたき」ではない。46歳から48歳までならたいした変化はないが、12歳と14歳と16歳ではずいぶん違う。地球にとっても2億年は決して短い期間ではあるまい。

つまらないことにイチャモンをつけているようだが、科学解説書がおおげさな比喩を使うのは、素人を馬鹿にしていることに他ならないと思うのだ。

たとえば、この分野の大先輩アイザック・アシモフなら、こういういいかげんな比喩の使い方はしなかったろう。むしろ2億年が地球にとってどのくらいにあたるのか、面白おかしく、しかも興味深い考察をして読者に楽しい一章を提供してくれたに違いない(例:『空想自然科学入門』の「まあその辺の大きさだ」の章)。それがプロというものだ。


2007/02/24(土)うつうつひでお日記

Amazon吾妻ひでお『うつうつひでお日記』(角川書店)読了。

吾妻ひでおが描く事件なし、波乱なし、妄想ありの日々の記録。『失踪日記』の吾妻ひでおが、仕事もせずに読書とうつとお笑い&格闘技番組に明け暮れた、どん底の2004年7月〜2005年2月までの日常を、淡々と綴ったプライベート日記。心にしみます! (AMAZONの商品説明より)

ある日の著者の行動はこうだ。

以上は本書の中の適当なページを抜粋したものだが、なに、他の日もほぼ全く変わらない。仕事の内容が「失踪日記」に変わったり、仕事が全然なくなってこの日記を描くだけが仕事?の時期があったり、たまに編集者に会ったりするくらいの変化しかない。その他、強いていえば、アシスタントやファンから物をもらったりすることが嬉しそうに特筆されている。

よくある作家日記のように、作家仲間や有名人が登場するわけでもないし、グルメな有名店にいくわけでもない。創作のアイデアの断片が描かれているわけでもない。要するに有名人の日記というよりも市井の一般人の日記、例えば(インタビューで著者自身が意識していたと言っているが)山田風太郎の『戦中派不戦日記』などに近い。読書量が半端ないのも似ている。

そこかしこになんの脈絡もなく著者お得意の美少女のイラストは入ってはいるが(書き忘れたが、著者は散歩の途中での女子高生観察は怠らない)、そんな内容だから、吾妻ファンでもない人に薦められるか、と言えば、躊躇せざるをえない。

「ロリータ」の次が吾妻ひでおでは信じてくれる人は少ないだろうが、私は美少女イラストには興味はない。それでも本書はまったりのんびり楽しく読むことができた。だらだら加減が波長があうのだろう。軽かったとはいえ私も鬱症状の経験があるので、つらいことも明るくのほほんと描く著者の距離感がなんとも心地よくもある。

失踪日記』のときも書いたが、この人は絵がうまい。大ゴマを使わずほとんどのコマに全身を入れる。毎日ほぼ同じ場所の散歩の場面でも毎度違う背景を律義にさらりと描きこむ。それに元アル中と現うつ病というわりに、全然絵に荒れが見られない。一日2頁しか描けないと悲鳴は挙げているが、線が乱れたり書き流したりしていない。「仕事はイヤだ」と言いながら「息抜きは紙に絵を描くこと」なんだから、まあ、そういう人なんでしょう。感服。


2007/02/19(月)ロリータ

Amazonウラジーミル ナボコフ『ロリータ 』(大久保康雄訳/新潮文庫)読了。

ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。…」世界文学の最高傑作と呼ばれながら、ここまで誤解多き作品も数少ない。中年男の少女への倒錯した恋を描く恋愛小説であると同時に、ミステリでありロード・ノヴェルであり、今も論争が続く文学的謎を孕む至高の存在でもある。多様な読みを可能とする「真の古典」の、ときに爆笑を、ときに涙を誘う。(AMAZONの商品説明より)

リンク先は話題の若島正の新訳だが、あえて旧訳をアマゾンマーケットプレイスでゲットした。

格調高いばかりの文学作品かと思っていたが、意外と笑える。ストーリーテリングもうまくてなかなか読ませる。ラストにはアクションまであるサービスぶりだ。

ヒロインの本名はドロレス・ヘイズ。「ロリータ」は愛称だ。

いわゆるロリータ的存在を指す言葉は本書では「ニンフェット」 だ。主人公の小児性欲者ハンバートに言わせると、ニンフェットの資格があるのは8歳から14歳までらしい。

ハンバート氏と出会ったときのロリータは12歳。それから約2年間、二人は一緒にすごすのだが、ハンバートはいつもロリータの機嫌をとることに汲々としているのに、15歳位になったらどうやって捨てようか考えているのが、せこいというかずるいというか、笑ってしまう。

かように、この変態中年男ハンバート氏の愛情は戯画的にグロテスクに描かれている。それでも、というかグロテスクであるゆえにか、一種美的(不思議と性的ではない)感興を覚えるのがナボコフの文章の魔術的なところだ。

といって、一方的にハンバート氏の心理ばかりを追いかけているわけではない。

淫蕩な小娘に見えるロリータが実は何を感じていたのか何を考えていたのか何を失っていたのかが、後半になって見えてくるのがミステリー的に面白く、かつ切ない。

現代でロリータを読むとき、「ロリコン」という社会現象をはなれて読むのはなかなかに難しい。それでもそんなしょうもないことは、できうるかぎり頭からとっぱらって読むにしくはない。それだけの価値はある面白い小説です。


2007/02/06(火)夢百景:ところどころ力士が降るでしょう

夢の中ではデフォルトで空が飛べる私だ。BS2で『2001年宇宙の旅』を見たあとの昨夜の夢では、当然のように体は無重力状態だった。

どこかの旅館の一室、卓には鍋料理が出されている。仲居さんが鍋用の木製のしゃもじを私に手渡す。

そのしゃもじを自分の尻にあてがうと、途端に体が宙に浮き上がる。天井にぶつかりそうになるのを欄間や柱を足で蹴ってなんとか阻止する。しゃもじを離せばよさそうなものだが、勢い良く落ちそうでこわくてできない。

天井を蹴った勢いで、窓から外へ飛び出してしまう。そこは4、5階はありそうな高さだった。あわてて目の前の杉の大木にしがみつく。しゃもじは手放してしまったようで、もう体が宙に浮く感じはない。

見回すとそこは鬱蒼とした杉の林の中で、他の木の枝にも昔の友人が登っている。新参者の私を見ているようだ。

家に帰りたくなって、枝から一気に飛び降りる。

軽く十数メートルはある高さだが、ふわりと心地よく着地する。

着地点は相撲の土俵の上。場所は林の中ではなく、国技館のような建物の中に変わっている。天井は上を見ても見えないくらい高い。

はるか上方から相撲取りが飛び降りてきた。

横綱朝青龍だ。見事な着地をぴたりと決めて、満足そうに笑うと土俵下に下りてきた。私の姿は目に入らないようだ。

朝青龍は腕組みして上を見上げる。ライバルたちが飛び降りてくるのを見守って(にらみつけて)いるのだ。

他の力士は着地が決まらず、前や後ろに転がったり、つんのめっったりして土俵の外に飛び出てしまう。

どうも今場所も朝青龍の優勝のようだ。

2007/01/23(火)バラバラ2

先週発売した週刊誌あたりで、バラバラ事件の「識者」による分析もほぼでそろった感じだ。

私のような一般読者には、殺人に至る動機はともかく、なぜバラバラにしたのか、バラバラにすることができたのかが一番不可解な点である。

推理作家いわく「現代の若い人は自分に相対する社会という感覚が欠如しているがゆえに『殺人者である自分』と『日常生活の自分』を無意識に住み分けている(から平気でバラバラにできた)

評論家いわく「日本は一度つまづくと簡単にリセットできない社会。上流のプライドを保てない恐怖が、人生をリセットするためバラバラ殺人をひきおこした

精神科医いわく「現代人は小泉元首相のような白黒はっきりしたわかりやすさを求めている。極端な合理性の追求によって精神活動から常識や分別を分離させた人間は簡単に猟奇的な犯罪を起こすようになる

どれが誰とは書かないが、なんとも空疎な言葉の羅列ばかりで説得性のないことおびただしい。私のような馬鹿でもなにか違うのではないか思うばかりで、一つとして納得できるような説明はない。そんなことで殺人はともかく、肉親や配偶者の肉体を自分の手でバラバラにできるわけがないではないか。

そんな中で唯一これかもと思えたのは、週刊文春の林真理子氏のエッセイであった。正直、彼女のエッセイは肌合いが合わないのだが、時々これは鋭いと思う文章に出会うことがある。
林女史は(主に夫殺しについて)こう書いている。

ひょっとするとこの妻、人を殺したり切り刻んだりすることの好きな人じゃないか。(略)これだけの苦痛(DV)を与えられたのだから、相手にも制裁を加えられるべきだと考えるプライドの高い、そして人を殺すことにも興味がある人間ではないのか。

さすがに作家である。事件を社会一般に拡げて薄めたりせず、殺人者個人の個性に凝縮して考えている。いや、感じている。

考えてみれば、昔からバラバラ殺人もあったし肉親殺しもあった。現代人がどうたらこうたらなどという皮相的な話ではなく、おおげさなようだが人間存在に根ざした問題だと思ってしまった次第であります。

2007/01/11(木)バラバラ

飢饉の村の少年の家に一夜の宿を借りた武蔵は、夜中に刃物を研ぐ音に目を覚ます。何をしているかと怪しむ武蔵を、臆病だなと笑う少年はこの刀で人間を切れるかと尋ねる。腕にもよるが誰を斬るのか問われた少年は、父だと答える。獣でもしない所業ととがめる武蔵に少年は一言。だって切らなくちゃ一人ではお墓まで運べないもの。

〜吉川英治『宮本武蔵』の一挿話〜

なんなんでしょうね。このバラバラ殺人の多さは。
エリート夫婦のDV夫殺し(12月16日)
3浪兄の妹殺し(1月5日)
矢作川の土手に切断遺体(1月11日)

発見されたばかりの最後の事件をのぞいて、どちらも暴力団でも外国人でもない、経済的に恵まれた一般人が犯人なのがより猟奇的に思われ、マスコミが大騒ぎなのもむべなるかな。

冷酷な人、残忍な人が増えた、とも思えない。結局、バラバラ事件の増加は住環境の変化ではないかとふと思う。昔なら死体を丸ごと埋められるような庭を持つ家は少なくなかったが、今は少々金持ちでも家はマンション。死体を埋めることなどできやしない。まして焼却炉など個人で持つ人はすくないだろう。

気軽にたき火をしたり死体を埋められる空き地も減ってしまった。車で捨てに行くにしても、集合住宅なら駐車場まで死体をまるごと運ぶのは人目につきやすく非常に危険だろう。

であるからにして、バラバラにして運ぶしかない、ということになるのではないか、と愚考する次第。

2007/01/06(土)純愛時代

Amazon大平健『純愛時代』(岩波新書)読了。

愛は純粋なもの…であるべきなのだろうか? メール恋愛にはまった青年や外国人労働者と恋におちたOL,ピュアな恋のイメージにとらわれるフーゾク嬢など,過剰なまでに潔癖な“純粋さ”を求めて現実のなかで傷つき心を病んでいった若者たち.彼らを通して脆く崩れやすい現代人の心の姿を描き出す.(AMAZONの商品説明より)

愛の物語ではあっても、同時に心の病の物語でもある。歯の浮くような恋愛論や斜めに構えた人生論などを読まされる心配はない。かといって精神医学専門用語一杯の無味乾燥な心理の図解でもない。人(患者)をじっくり見ながらさらりと描いたスケッチというのが、一番近い印象だろうか。

顔をなくした女』でも書いたが、この著者の紹介する臨床例はやたら面白い。そのまま映画やTVドラマになりそうな話ばかりだ。読んでるうちにこれが精神病患者の話だということをつい忘れてしまう。

そう、これは治療過程の記録なのだ。だからネットで見かけた「著者の分析や考察をもっと多く深く読みたかった」「純愛を求めるから心を病んだのか? まで踏み込んで欲しかった」なんていう感想はちょっと的外れということになる。

著者の臨床医としての分析や考察は治療のための手段であって、分析そのものが目的ではない。治療のために逆効果と思えば、患者との発病因についての会話は中止して日常生活についての質問に切り替えたりする。投薬だけで病状が寛解すればそこで治療を終了させてもいいのだ。フロイト流のコンプレックスの分析などは治療に絶対必要なものではなく、ときに悪影響を及ぼしたりもするようだ。

しかし、著者は(全ての例ではないが)患者の状態がすっかり良くなった頃に、発病の状況(原因ではない)を明らかにしようと試みる。すでに治療はほぼ終了なのに、なぜなのか。著者は次にように書いている。

一般に患者というのは、たとえ病状が良くなっても、いや、良くなればなるほど自分が精神に変調をきたしたという事実に不安を覚えるようになる。(略)発病状況が充分に理解できるようになれば、その不安は大幅に軽減し、患者は回復後の生活に目を振り向けることができるようになるのだ。

なんにしても挿話は面白い。特にパソコン通信で出逢った若者と人妻の物語は、シチュエーションはありきたりのようで、意外性に富み「電車男」よりリアルでかつロマンチックだ。

著者の文章のうまさかもしれないが、その他の登場人物のいずれも、透明で繊細で、病人なのに痛々しさより軽やかさを感じられて、不謹慎ながら少し羨ましくなってしまったのでありました。

桐野夏生『ローズガーデン』『魂萌え(上下)』(講談社文庫)、ウラジミール・ナボコフ『ロリータ』(大久保康雄訳/新潮文庫)、浦沢直樹『PLUTO(4)』、諸星大二郎『スノウホワイト グリムのような物語』、吾妻ひでお『ときめきアリス〜定本』購入。


2007/01/03(水)江戸の春を偲ぶ

今年の東京国立博物館の『博物館に初もうで』はもう一つ面白くなさそうなので、江戸東京博物館に正月気分を味わいに行く。

「北斎展-風景画の世界」はたいしたことはなかったが「徳川家茂とその時代」展が以外と面白い。黒船来航時に孝明天皇が将軍家茂に宛た手紙などは、国情騒然たる緊迫感が伝わってくる。

お二方とも本気で日本国の行く末を案じていたのだなあと粛然とする思いでしたが、140年後のわれわれとしては、なるようになって色々あってこうなりました、としか言いようがありません。


2007/01/01(月)あけましておめでとうございます

本年もよろしくお願いします。

配色を暖色系の冬バージョンに変更しました。変化していない人はお手数ですがブラウザの更新ボタンをクリックしてください。

ひさしぶりの更新が年賀状になってしまいました。やはり絵を描いてるのは楽しいですな。これをきっかけにまた描きはじめられるといいなあと思いつつ、初日の出を待ちます。(嘘です、とっとと寝ます)

*

大晦日は毎年友人が蕎麦を届けてくれる。今年のその蕎麦をすすりながら、K-1を見ていたのだが、だんだんアホらしくなって消してしまった。

いつのまにか家族が紅白を見はじめる。私は年賀状など描きながら、歌の合間の司会の仲間由紀恵嬢の登場シーンのみ見に隣の部屋をのぞく。

夏川りみだけはしっかり見て聴いた。

さて、三が日は特に予定がない。年末に録りだめたポワロとミス・マープルでもゆっくり見るとしよう。


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