ただの、コトバさえ満足に出来ない東洋人

 アメリカに3つある時間区分で、ここの時間を何と呼ぶのかは知らないが、米南西部の時間で2015時。やっと自分の部屋を確保できた。これこそ、メリケンに於ける自分の依拠する空間だ!空港に着いてからここに至るまで、正直自分の弱さを書きたくはないが、とっとと日本に帰りたかった。国際企業や中央官庁なんぞに入らなくてもいい、日本の片田舎の小さな職場で、日本の枠内で籠もっていたいとさえ、一瞬思ったほどである。ホームシックとやらとは違う。郷里に恋いこがれるのではなく、現在自分が居る空間、すなわち自分自身が居るメリケンに、そしてメリケンに居る自分自身に違和感を覚えていたのである。


 JAL026便がラスベガス・マッカラン空港に着いたその瞬間、いや、入国審査や税関を抜けた瞬間から、私はただの、コトバさえ満足に出来ない東洋人に成り下がった。自己が周囲にとって異質な存在であるとの念を禁じ得なかった。
 **社のディキシー大グループは、関東(6人)・関西(4人)・中部(2人)から3グループ。我々関東グループは、真っ先にマッカラン空港に着いた。現地時間で1000時ぐらいだったと記憶している。そしてディキシー大のスタッフと合流して簡単な挨拶をかわし、自分たちのトランクをスタッフの車に積み込んでからは、他のグループが到着するまでの3時間、空港で自由時間となった。


 3時間・・・長かった。現地スタッフはもちろんアメリカ人で、日本語なんぞまったくできない。だが、彼らは外国人の受け入れで下手な英語に慣れており、また非ネイティブの私とも辛抱強く会話をしてくれた。それはよかったが、彼らも忙しいようで、すぐにどこかへ行ってしまった。さて、どうしたものか。
 さすがは、博打の街ラスベガス。空港内にさえ、スロットマシーンなどのギャンブルマシンが並んでいる。州法によって21歳以上は博打を出来るとの表示。つまり22歳の私は、博打が出来る。この程度の書き言葉ならば、問題なく理解できる。そういう意味に於いては、かつて偏差値70だった私の英語読解力も役に立つ。1回25¢からの安い博打に興じて少し勝ったりもしたが、最終的には10$負けた。
 だが、3時間も博打なんぞしていたら、持参してきた800$を全部スってしまうのが関の山である。10$程度で博打はやめておいたが、そこからが長かった。あちこち歩いて、空港内の売店街で商品や食い物を見て回ったが・・・ヒマでした。このヒマな時間で、飲み物ひとつ買うのにもシステムがわからず、コトバも通じず、難儀したものであった。このときは、困惑しっぱなしであった。で、結局同じ関東グループの日本人と、ベンチにて日本語で会話にふけっていたものであった。これではアメリカまで来た意味がないとはわかっていながら・・・。血ヘドを吐く思いで捻出したカネで、日本人同士で話しふけるしかないことが情けなかった。


 やっと他の2グループと合流し、そして車で移動開始。フォードの大型ワゴンに、日本人12人全員が詰め込み、現地スタッフのトロイが運転。他のスタッフは、乗用車で別行動らしい。
 車から見るアメリカの景色。ネヴァダ州の景色。最初は、日本の地方都市を走っている気分であった。しかし、遠くに見える岩山、赤い砂、左ハンドルで右側通行、路肩にブロックもなにもない道路・・・そして何もかもが雑。街そのものが、雑なのだ。片側3車線らしき道路は、そもそも車線という概念が存在しているのかあやしいという代物。どこを走っているのか、運転も粗雑。そして、それを許す道路なのだ。それらのことが、ここは日本ではないことを物語っていた。
 街を抜けると、もう日本だという感覚は消し飛んだ。赤い砂漠と、赤い岩山。あまりに巨大だ。そこを抜ける道路も、車も、あまりにも小さい。車がゴミのようだ。凄まじい風景だが、写真はとらなかった。写真を撮っても、私が感じたこの凄さは写るまい。そして、景色を撮ることよりも、自分がその景色と写っているのを撮ることにこそ、価値がある。


 やがて、ディキシー大に到着。グラウンドでアメフトをやる学生を見る。
 大学のある教室に入り、ここでホストファミリーと対面タイム。私が世話になる家のMrs.■■は、3人のガキを連れていた。あらかじめもらっていた書類によると、ガキは乳児1人のはずだが、残り2人は姉妹のものらしい。ここでの挨拶はうまくいった。握手なんぞして、Mrs.■■の車に乗り込む。
 車の中では、なんとかたどたどしい英語で、景色なんぞ話題に会話をしたが、彼女はいきなり公園に車を止めた。ここでパーティーをやっているそうな。車を止めたとき、彼女は車から降りるとどうか聞いてきた。空港で結局何も出来なかったことを遺憾に思っていた私は、車を降りて、パーティーの場に同行することに。
 公園のど真ん中で、バーベキューなんぞやるパーティー。白人ばっか。デブとか、脚や腕に炎のような墨入ってるのとかいたが、平和な風景が繰り広げられていた。ここに一人たたずむ私。最初は挨拶なんぞしたが、自分が何者なのか説明できなかった。口詰まる私に、メリケン人連中はそれ以上関心を持たなかった。ここでの時間も長かった。


 そうしてやっと、Mrs.■■はパーティーの場に預かっていた子供2人を置いて、自分の子供だけ連れて車に戻った。公園から少し走って、やっと世話になる家に着く。部屋の説明を受けて、そしてやっと自分の部屋にてくつろぎ、日記など書いている次第である。
 私の隣の部屋は、先に留学している韓国人らしいが、どんな奴なのかな。彼は今いなかった。そして、ホストファミリーの旦那は仕事で留守。Mrs.■■とガキしかしなかった。さて、どうしたものか。


 ちなみに、アメリカで初めて使ったカネはギャンブル。
 そしてはじめて買ったモノは、592mlで99¢のドクターペッパーであった。安いし、量がある。メリケン人に肥満が多いというのがわかるわけね。


 ところで、今日言いたくて言えなかった表現を。
Kushiro is usually fogy.
「釧路は霧が多い」
 こんな簡単な文も出てこないとは。まあ、一つ一つ勉強して、口から出るようにするしかないだろう。


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