注1・・・
百姓は、政治に対しては『偉い金持ちが、賄賂をやりとりして、悪さすること』というイメージしかない。『派閥』や『官僚』というコトバをとかくマイナス・悪のイメージで使うが、なぜ悪いかどういう意味かまるで考えていない


 政治家やら官僚、それに政治、政党、派閥というものに対しては、随分上記のようなイメージだけで捉えている人間がいる気がする。あくまで「多い気がするだけ」なのかも知れないが、本気で上記のようなイメージを「真実」だと確信している人間にはわりと出会う。
 無論、何事にも悪い面はあるし、問題もある。悪さしている政治家や不正をする役人というのはいつの時代も間違いなく存在するし、現行の官僚制度がセクショナリズムや形式主義によって行政を硬直化させている面がないわけではない。だが、それは社会全体を構成する事象のごく一部に過ぎない(悪さする政治家・官僚の「比率」の話ではない。政治家や官僚の「機能」に関する話である。念のため)。
 政治家や官僚が、実際に何をしているのか、どういう機能・役割を果たしているのか。
 そこに於いて、問題点とされることはどういう意味があるのか。
 何故悪く、またどうあるのが適切か。
 そしてある面に於ける問題が、全体を否定することに何故つながるのか。
 いったい社会をどうしたいのか、どうなって欲しいのか。


 何にも把握していないし、大して考えていない。
 ただ生活しているだけでは情報はあまり入らず、そして調べてみても、政治や行政のことは煩雑でわかりにくい。だから、安直な「偉い奴が悪さしている」というイメージに飛びつき、それ以上考えないわけである。大衆というのは、安直なステレオタイプを求め、また信じたがるものだ。ここでいう「偉い」というのは自分自身がカネも権力も大したないことから生ずる、アイロニーであろう。まあ、基本姿勢として政治家や官僚をバカにしたいのならば、それはそれで結構。だが、オルタナティブ(代替案・代替策)なき批判に意味はない。
 「政治家とか偉い人が、賄賂とかとって悪いことしているから、日本がよくならない」。どこでもよく聞くつぶやきである。そしてこれを「真実」だと思っている人間も少なくない。だが、こういうコトバを吐く人間は、何故「賄賂とか悪いこと」のせいで日本社会がよくならないのか、「賄賂とか悪いこと」がなくなると日本はよくなるのか、そもそも「よくない日本社会」とは何か、まったく考えていない。どういう政策が、どういう立法が、今の社会を形作ってきたのか、そしてこれからはどのような方法で日本を「望む方向(これもかなり曖昧)」とやらに向かわせるのか、まったく考えることができない。現状を的確に認識し、あるいは現状を変革ないし維持する方策を考える技術がないから、魔術的思考に陥る。


 いつでも社会には問題も不満もある。無論、それは改善していく必要があるのだが、万人が納得するようなドラスティックな解決なんて、あるわけがない。錯綜する利害、相容れない「求める目標」、これを調整しつつも、政治家は支持する人々(圧力団体とか利益集団と呼ばれる)の望む方向へと政策を進めていく。このプロセスは緩慢な上に見えにくく、そして(目に見える形で)ドラスティックに社会を変えることは少ない。
 なかなか社会が「変わらない」ことに不満を抱く人々は、「政治家が悪い」「派閥が悪い」「賄賂を取るから」「学歴社会で、奴らは高学歴だから、おかしい人間しかいないんだ」「金持ちだから経済のことなど、どうでもいいんだ」などと、自分にわかりやすい理由を探す。つまりは、物事がうまくいかないのは、「政治家が悪い人間だから、おかしい人間だから」と個人個人の人格のみに理由を当てはめる。煩雑な構造やシステムを把握し考えるよりも、個々人の人間に、それも人格に全ての原因を求めるのが一番簡単だからだ。
 もっとも、他者の人格を想起することは簡単なようで、とてつもなく難しいことである。実際何をしているのか知りもしない「政治家」や「官僚」を一括りにして、その「全般」の人格をとやかく言うこと自体ナンセンスなのだが。


 例え、政治家や官僚という人間全般が「悪い人間だ」とか「おかしい人間だ」と仮定したところで、全体と一部の錯誤は否めない。「悪い人間」や「おかしい人間」が政治家をやるということと、実際にどういう政策を立法を行うか、ということにまるで関連性がない。どこの社会でも、物事が決まり動くのはプロセスというのは、複数の人間同士のせめぎ合いだ。政治や行政も然り。1人の人間が全てを決定する国(独裁国家や専制王政でもあり得ないが)ならばともかく、そこに於いて「わるい人間だ(人格)」「汚職などの不正を行う(事象の1つ)」ということにすべての問題の原因を回帰するなど、まさに全体と一部との錯誤。
 社会を、定義はさておき「よい方向」とやらに向かわせたいのならば、ごく一部のことだけに目を向けるのをやめ、この複雑怪奇なる世の中を見続け考え続ける必要がある。簡単なステレオタイプによって思考停止することは、自らが主体者であることを放棄することだ。例えば「政治家なんてどれも一緒だから、誰がなっても同じ」という発想。


 例え政治家がどれも大したことのない人間であったとしても、どの政党も大した政策を掲げていなかったとしても、どの議員が当選し、どの党どの派閥がどの程度の勢力を持ち、どの利益集団が影響力を持つかによって、社会は生活はけっこう違ってくる。出来る法律によって、施行される政策によって、どれだけ世の中変わって来ることか。そうしたことはなかなか目に見えず、わかりにくく、その動きは緩慢だ。だが、そうした面倒なことに目を向けず、社会の不満や不安の原因をイメージとステレオタイプのみによって論ずることは危険だ。社会を「よい方向」とやらへ向かわせることに対して、自ら目をつぶることと同義だからである。
 しかし、アホな人々は信じたいのだろう。「政治家はおかしい人間、悪い人間。『だから』社会がよくない」と、短絡的に。こういう人間は、なかなか短絡的なイメージから脱して、物事を考えるようにはならないので、話すと非常に疲れる。
 棒術部でも、「政治」を否定し、ただ個々人の感情や人格、1つ1つの事象を、個別にしか見られない人間が、自分のイメージと感情だけに従って行動してどんな結果を出してきたことか。何も生み出してはいない。少なくとも、後にまで残るものは何一つ残していない。


 余談だが、 「百姓」というコトバがここでは侮蔑的に使われているが、別に農業従事者をバカにしているわけではない。これは政治学を志す者同士が、あえて階級差別的なコトバをレトリック的に使っているだけである。

参考までに、社会科学に於ける「官僚制」と、大衆にとっての「官僚制」