注2・・・
『官僚主義的な』
これも、いったいどのような意味のコトバかまったく認識されず、ただマイナス・イメージのコトバとして何かを否定するときに使われる。こうしたコトバの使い方は、いわば呪文のようなものである。唱えれば、それだけで相手を、もしくは相手の言を否定できると考えているのだろう。大衆が使う「官僚主義的」というコトバは、政治や行政の視点から見ると、まったく違った、かなり煩雑な概念なのだが、そんなことはまったく考えもしないらしい。
私の棒術部生活に於いて、もっとも印象的だった「官僚主義的」との言を下に記す。
<某日、某所に於いて、「開放」と「閉鎖」についての会議>に対する意見書「『閉鎖』と『解放』」から抜粋引用。
甲「**の人間が稽古だけではなく、部の内部行事であるミーティングに参加するという『前例』を作るは避けたい」
乙「『前例』という考え方は、あまりにも官僚主義的に過ぎる」
丙「『前例』という考え方をしていると、何もできない」
ここに於いては、「前例」というコトバについての意味が大きく誤解されていた。
「前例」とは、「誰も為したことのないことをやると、失敗したときの責任が問われる」場面に於いて使われる言葉である。この場合は、我々が**の人間をミーティングに迎える「前例」ではなく、**の人間が我々のミーティングに参加する「前例」である。ここに於いての主体者は「客」であって、我々ではない。乙と丙は、その点を完全に勘違いしている。
今はまだ「遠慮」のある**の人間が、このとき部の深いところまで首を突っ込ませていたら、その「遠慮」が失われて、当然のように部のミーティングに参加するようになるのではないか、という問題なのだ。いや、乙と丙は、ただ「前例」というコトバの語感だけでものを言っていたのであろう。それにしても、「官僚主義的」とは異なコトバを。意味わかって使っているのか。「前例」や「官僚」というコトバは、本来何を意味するコトバか考えることもなく、単にマイナス・イメージとしてしか捉えられないらしい。
丁「**の人もせっかく来てくれてるんだしぃ、一緒にミーティングとかもやった方が・・・」
ふざけんなバカ。「情」、それも低級の、そして自分個人にしか通用しない感情で、組織の在り方を左右する決定を考えるな。「客」の問題は、30人といる我々の貴重な学生生活の在り方を、かなり大きく左右する問題だ。そして、「情」でしかモノを見られない、モノを言えないアホめ、くたばれ!
誰とは言わないが、「開放」の美名を信じ、耳に聞こえのいい「情」でモノを言う人間が棒術部に存在している限り、私はこの問題について警鐘を鳴らし続ける。
この上記の意見書では、外部から中央大学棒術部で稽古をしたいという人を招いたときの問題を扱っている。
稽古はさておき、ここでいうミーティングとは、新入生をどのように、何のために勧誘かについて話し合い、新勧に向けて部員の結束と認識を固めるための会議であった。このような中大棒術部という学生サークルとしての問題に、学生でも部員でもない一介の稽古人である客を関与させていいわけはない。学生サークルは学生によって運営・維持されるものである。たとえ外部からの干渉・介入によって、何らかの利益をえることがあろうとも、それは学生サークルであることの意義と尊厳を放棄し、それを侵害されることと同義。
人生に於いてたかが4年しかない大学生活の、少なくない部分となる棒術部。ここに於いて、外部の人間への接待や気遣いなどに翻弄されて、人生の貴重な瞬間を浪費することは認めない。また、学生による自主・自立・自律を、内臓に手を突っ込まれるかのような形の介入によって、損なうなどというのは学生サークルの自己否定、自殺も同然である。
客を呼ぶことを全面否定するつもりはない。たまには外部の人間と交流することもよかろう。だが、基本的に学生サークルは学生のため、学生の学生生活のためにある。それを忘れて、「部の姿勢としては開放が大切だ」「身内だけで内に籠もらず、他と交流しよう」などという美名を掲げて、いつでも誰でも勝手に頻繁に来て、組織の中枢部にも介入し、そのためにサークルの目的が失われるようなことは決して認めない。
この当時は、棒術部公式サイトに於いて「某大学のある武道部(もちろん名指し)に対する批判」を書き立てる書き込み者が頻繁に出入りしていた。それに対して、「その書き込み者をうちの稽古に呼ぼう」などという正気とは思えない提案までされていた。
この書き込み者は、ネットの世界ではどこにでもいる頭のおかしい人間の1人であるかも知れないし、あるいは「某大学のある武道部」をドロップアウトしただけの弱者か社会不適合者なだけかもしれないし、素性もどんな人間なのかもまったくわからない。そんなわけのわからない人間の信憑性のかけらもない書き込みに対して、「だって、かわいそうじゃないか」などと言って、自分たちの稽古場に迎え入れようと考える。
そこまでに、当時の棒術部には合理を忘れ、闇雲に「絶対開放論」を進めようとする動きがあったのである。こうした「絶対開放論者」との戦いに於いて、私は少なくない働きをし、それこそ政治的な手段を駆使し、わけのわからない「絶対開放」への動きを粉砕することができた。そして今、そうした愚かな部員は卒業していなくなったので、もうこんなバカな話が為されることはないだろう。
この「開放」を巡る戦いの象徴が、開放論者が唱えた「官僚主義的だ」という呪文なのである。
参考までに、社会科学に於ける「官僚制」と、大衆にとっての「官僚制」